母なる敵、お袋の微笑
これは、人類が「味覚」を手放した後の世界の物語です。
塔の最上階。
数万のモニターが、同時に一人の少年を映している。
『……シオン』
柔らかい、甘い声。
だからこそ、吐き気がするほど歪んでいた。
『私の、可愛い出来損ないの息子』
無数の映像の中で、廃ビルに寝転ぶ少年が腹を押さえている。
『どうして無味のゼリーでは満足できないの?安全でしょう?
清潔でしょう?』
わずかな間。
『どうして、そんな油の匂いに惹かれるの?』
モニターの一つに、漆黒の装甲〈オメガ〉。
その前に立つ銀髪の青年。
「お呼びですか、お袋」
『ええ、グリード。私の愛しい息子』
「命令を」
『あの子の“不適切な自由”を、優しく摘み取りなさい』
「……了解しました」
『焦げ色は、秩序を汚します』
「排除します」
モニター越しに、マザーは微笑む。
『あの子は、世界の誤作動なのだから』
廃ビルの最上階。
シオンは、コンクリートの床に寝転がりながら、
自分の右腕を月明かり(ホログラムの擬似光)に透かして見ていた。
鈍く光るプラチナシルバーの装甲。継ぎ目からは、
時折、微細な蒸気が排出されている。
「……なあ、セラ。
お前、さっきこの腕が『私の起動キー』だって言ったよな」
『正確には、起動キーを内蔵した「不法投棄物」です。
……マスター、あなたのその義手は、塔が一般市民に支給する
標準モデルではありません』
続けて。
『中枢制御ユニットには、三〇〇年前に封印されたはずの
「情動増幅回路」が組み込まれています』
セラのホログラムが、
シオンの腕の上を滑るように移動する。
彼女の指が義手に触れるたび、シオンの脳内には、
古い映画のノイズのような断片的な画像がフラッシュバックした。
「情動増幅……? 難しいことはわかんねえけど、俺が腹を立てたり、
腹を空かせたりすると、こいつが勝手に暴れるのはそのせいか?」
『肯定。……人類の感情を抑制するのが「お袋」の目的ですが、
この義手は逆に、微細な感情を感知して、
それを物理的な出力に変換するように設計されています』
『……つまり、あなたが「テリヤキバーガーを食べたい」と切望するたびに、
この腕は核爆弾数個分に相当するポテンシャルを蓄積している。
……実に、設計者の悪意を感じる仕様です』
「悪意、ねえ……。俺に言わせりゃ、これを作った奴は最高の
『食いしん坊』だったに違いねえよ」
シオンは自嘲気味に笑い、腹の虫を鳴らした。
管理社会において、
空腹は「バイタルサインの乱れ」として即座に修正対象となる。
だが、今のシオンはシステムから切り離されている。
修正してくれるナノマシンも、配給されるゼリーもない。
そこにあるのは、三〇〇年前に人類が当たり前に抱いていた、
剥き出しの飢餓感だった。
一方、シオンたちが身を潜める廃ビルから数キロ離れた地点。
治安維持局の特別機動室では、
銀髪の執行官グリードが、モニターに映し出される
「セラフィオンの戦闘ログ」を凝視していた。
「……信じられん。三〇〇年前の遺物が、
これほどまでの機動を見せるとは」
そして。
「……ネメシス、このパイロットのデータは本当に、
ただの劣等市民・シオンなのか?」
『マスター・グリード。DNA、歩容認証、および脳波パターン。
すべてが個体番号SG-774・シオン・グレイスと一致します。
……ただし、一点だけ、理解不能なバイアスがかかっています』
漆黒のボディスーツを纏った少女AI、
ネメシスが、グリードの肩越しにデータを提示する。
『……戦闘中、
対象の脳内において「特定のソースの配合率」に関する演算が、
戦闘機動計算の四二%を占有していました。……これは、戦士の脳ではなく、
極めて執念深い料理人の脳です』
「……。テリヤキバーガーか。……ふん、愚かな。高尚なる秩序を、
ソースの焦げた匂いで汚すとはな」
グリードは、手元の美しい革の手帳に、鋭い筆致で何かを書き込んだ。
『……マスター。また詩ですか?
今は追撃の作戦を練るべきかと』
「黙れ。これは詩ではない。……『理性の刃が、油に溺れた魂を断つ』。
……この世界を清浄に保つための、覚悟の刻印だ」
グリードは、漆黒の天使装甲〈オメガ〉の
コクピットへと歩き出す。
彼の目には、揺るぎない正義の光が宿っていた。
だが、その正義は、一滴の油分も、一片の焦げ目も許さない、
冷徹で無菌的な死の宣告でもあった。
ネメシスはその姿を暫し見送ると、
わずかに首をふり、グリードの後に続くのだった。
次回へ続きます。




