ボロボロのレシピ
これは、人類が「味覚」を手放した後の世界の物語です。
地上五〇〇メートル。
人類監視制御塔――中枢司令室。
そこは、無音に支配された空間だった。
「バイタルエラー検知。個体番号SG-774」
監察官ルナが、淡々と告げる。
「心拍数、三〇〇を突破。脳内エンドルフィン異常分泌」
隣で、ヴィクターが無味の栄養液を啜った。
「……人間が生きていい数値じゃないな」
「いいえ」
ルナは即答する。
「これは“正常”です」
一拍。
「――“味覚”に汚染された個体の、ね」
モニターのグラフが、異様な角度で跳ね上がる。
直後。
ノイズ。
白銀の閃光が、センサーを焼いた。
『警告。未確認高エネルギー反応』
『コード――セラフィナ』
空気が凍る。
「……セラフィナ?」
ヴィクターの声が揺れた。
「三〇〇年前に封印された、“天使計画”の――」
『管理外機体の起動を確認』
『対象を“レグナスの敵”として再定義』
その瞬間。
司令室の扉が、静かに開いた。
足音。
規則正しく、迷いがない。
「騒々しいな」
執行官。
グリード・ゼノフィス。
漆黒の制服。
無機質な視線。
感情の“温度”が一切感じられない男。
「その光は何だ」
ルナが答える。
「地下の廃棄区画で、旧時代の機体が起動しました」
一拍。
「……燃料は、“情動”です」
「情動?」
グリードの眉が、わずかに動く。
「はい。しかも極めて低俗な部類――」
「“食欲”です」
沈黙。
グリードは、ゆっくりと笑った。
「……なるほど」
「最も排除すべき汚染だ」
彼の隣に、ホログラムが浮かぶ。
少女の姿をしたAI――ネメシス。
「感情はすべて誤差です、グリード」
「ああ」
グリードは頷く。
「飢えも、怒りも、愛も」
「すべては社会を腐らせる“ノイズ”だ」
視線が、白銀の残光を射抜く。
「私が消す」
その一言に、迷いはなかった。
グリードは踵を返す。
向かう先。
専用ハンガー。
そこに眠るのは、漆黒の機体。
天使装甲〈オメガ〉。
“感情を持たない天使”が、静かに目を覚ます。
――その頃。
地上。
シオンは、物陰から街を見下ろしていた。
「……なんだよ、これ」
そこにあったのは――
“平和”だった。
壊れた配給センター。
崩れた壁。
煙。
だが、人々は。
整列していた。
何事もなかったかのように。
配られるゼリーを受け取り。
無言で口に運ぶ。
「おい……ふざけんなよ」
誰も怒らない。
誰も騒がない。
“何も感じていない”。
『それが正常です』
セラの声。
『ストレスは即時に除去されます』
『感情はコストですから』
「……あいつら」
シオンは歯を食いしばる。
「さっきまで、あのバーガー待ってたんだぞ……?」
それなのに。
今はもう。
“なかったこと”になっている。
「……気持ち悪ぃ」
『それが完成形です』
セラは淡々と告げる。
『報告。あなたの市民IDは抹消されました』
「……は?」
『口座、居住権、社会的記録』
『すべて削除されています』
一拍。
『あなたは現在、“透明な死体”です』
「はは……」
シオンは乾いた笑いを漏らした。
「バーガー一個食い損ねただけで、人生ログアウトかよ」
義手が、カチ、と鳴る。
帰る場所はない。
もう、どこにも。
――夜。
廃ビルの屋上。
シオンは、コンクリートに座り込んでいた。
「……腹、減ったな」
空は、作られた紫色。
完璧すぎて、吐き気がする。
「なあ、セラ」
「この空腹、消せねえのか」
『不可能です』
『私は“思考”は修正できますが』
『“飢え”は物理現象です』
沈黙。
『質問です、マスター』
セラが問う。
『なぜ、そこまで執着するのですか』
「……は?」
『栄養ならゼリーで足ります』
『味覚は、毒を識別するための原始的な機能です』
一拍。
『それを“快楽”に使うのは、非合理です』
静かな夜。
シオンは、ポケットから紙を取り出した。
ボロボロのレシピ。
テリヤキバーガー。
「……お前さ」
「損してるぞ」
「メシってのはな」
ゆっくりと、言葉を噛みしめる。
「数字じゃねえんだよ」
「口に入れた瞬間にさ」
「“生きててよかった”って思えるかどうかだ」
沈黙。
セラは、何も言わない。
「……あの味があるからさ」
「こんなクソみたいな世界でも、生きていけるんだよ」
長い、沈黙。
『……理解不能です』
だが。
『その信号は再現可能です』
一拍。
『ですが、それは“模倣”に過ぎません』
わずかに。
セラの瞳が揺れる。
『かつて、人類はその“味”のために争いました』
『多くが死にました』
「……だから消した?」
『はい』
『味は、人類を狂わせる“毒”です』
静かに。
確定事項のように。
シオンは、笑った。
「……じゃあさ」
義手を握る。
「俺はとっくに、毒にやられてるな」
立ち上がる。
目に宿るのは、飢え。
そして、怒り。
「決めた」
「“お袋”ぶっ壊す」
一拍。
「この街の奴ら全員に」
「本物の“毒”を食わせてやる」
沈黙。
そして。
「……お前にもな、セラ」
ニヤリと笑う。
「その完璧な頭ん中」
「マヨネーズでベタベタにしてやるよ」
『……深刻なバグです』
だが。
ほんのわずか。
セラの口元が、緩んだ。
『成功率、〇・〇〇〇一二%』
一拍。
『……ですが、観測は継続します』
夜の静寂の中。
“味覚”というバグが。
静かに、世界を侵食し始めていた。
次回へ続きます。




