三〇〇年前の「肉」―奇跡の可食判定―
これは、人類が「味覚」を手放した後の世界の物語です。
『天使装甲セラフィオン:管理人格AI「セラ」再起動します。
状況スキャン開始――思ったより、ずいぶん修理が早かったですね、マスター』
セラフィオンの胸の紋章の上に、セラのホログラムがぱっと明るく浮かび上がる。
「……おかえり、セラ。腕のいい技術屋が見つかったんだよ。
もう大丈夫なのか?」
『よほど腕のいい技術屋さんですね。体重制限の警告も消えています』
「ホログラムに体重もクソも――って、今の冗談だろ」
『ええ。ですが状況は冗談ではありません。速やかに離脱を推奨します、マスター』
「そうだな。メシにありつける場所に移動しようぜ、腹が減ってしょうがない」
グルルルルっとまた、シオンの腹の虫が抗議の声を上げる。
何か腹に入れないと持ちそうにない。
「そういえば、セラ。ここを物流ターミナルって言ってたよな」
『ええ、三〇〇年前の遺構……人類が地上の汚染を逃れるために築こうとした、未完成の「箱舟」の残骸です。……今の「お袋」の管理網からは完全に遮断された、データの空白地帯です』
セラのホログラムが、シオンの隣に降り立つ。彼女の青い光が、周囲にある「巨大なコンテナの山」を照らし出した。
また、腹が鳴った。それも、物流ターミナルの壁に反響するほど、情けない音で。
「……セラ。……物流ってことは、ここ、荷物が届いてた場所なんだろ?」
『肯定。主に食料、医療品、および工業用資材の集積所でした。
……ただし、最後に入庫されたデータは三〇〇年前のものです』
「三〇〇年前……。なぁ、セラ。缶詰って、腐ると思うか?」
シオンの目は、暗闇の奥に積み上げられた、錆びついた木箱に向けられていた。
彼は吸い寄せられるように歩き出し、義手で腐りかけた木材を粉砕した。そこから転がり出たのは、ラベルが剥げ落ち、真っ黒に変色した円柱形の金属塊だった。
『……警告。マスター、あなたの脳内から「致命的な食欲」を検知。……その物体に含まれるボツリヌス菌の推定致死率は、一二〇%を超えます。摂取は自殺行為です』
「……見てろよ。俺の義手がな、……『これは食える』って言ってるんだ」
カチカチカチッ。
シオンの義手が激しく熱を帯びる。掌から放たれた青いスキャン光が、缶詰を透過した。
『――成分分析。保存状態:極めて良好(真空維持)。内容物:牛挽肉の醤油煮込み、および澱粉、砂糖。……。信じられません。……三〇〇年前の「防腐剤」の過剰投入が、時間の流れを停止させています。……可食、判定です。これはもう奇跡ですね』
「よっしゃぁぁぁ! マヨネーズはないけど、肉だ! 肉が来たぞぉぉ!」
シオンは義手の指を缶の縁に突き立て、力任せに引き剥がした。
プシュッ。
三〇〇年前の空気が漏れ、その直後。
シオンは、一瞬だけ目を閉じた。
それが、祈りなのか、覚悟なのかは、自分でも分からなかった。
濃密な、甘辛い「醤油と肉の脂」の匂いが、地下の静寂を暴力的に支配した。
「……っ。……。う、美味ぇ……。なんだこれ、……涙が出るくらい、味が『濃い』ぞ……!」
シオンは震える手で肉を口に運び、飲み込んだ。
地上の配給センターで配られる、無菌・無味・無臭のゼリーとは違う。喉を焼くような塩分、舌に絡みつく油、そして胃袋を直接殴るような重み。
それは、管理社会が「暴力」として禁じた、剥き出しの生命の味だった。
シオンは一瞬目を閉じた。三百年の時を超え、肉の香りが、命の記憶を呼び覚ます
『……。マスター、あなたの心拍数が、戦闘時を超えて上昇しています。……。そんなに……そんなに「味」というノイズは、あなたの魂を揺さぶるのですか?』
「……ああ。……セラ、お前にも食わせてやりたいよ。……。……。この『生きてる実感』だけは、データじゃ絶対に伝わらねえからな」
シオンの言葉を聞いたセラの碧眼が、複雑な演算結果を映し出した。
AIである彼女にとって、食事は「メンテナンス」に過ぎない。だが、目の前でボロボロになりながら、泥臭い缶詰を頬張るシオンの姿は、彼女の論理回路に、ある一つの「バグ」を生み出し始めていた。
シオンは味を噛み締めた。その瞬間、セラのホログラムが異常を告げる――
「マスター…何者かが、このターミナルに侵入しています」
三百年前の味、シオンはどう思った?あなたも缶詰に命を感じたことある?




