四節
村の外れの小川。奥には木々が立ち並び、細い水の流れの中には緑が生い茂る。
初夏の晴れ間に爽やかな風が吹いて、川のせせらぎが涼しげな空気を醸していた。
川の周りの草花の中に、三十センチ程の高さの茎に蒼い花がつく矢車菊が群生して、緑の中に深い青が混じっていた。
アイテルはそれをぼんやり眺めていた。この時期だと村のあちこちで見られる花だが、ナイアスがこの花が好きだったな。と彼は思った。
じっと見ていると不思議な花だ、シンプルな形に見える花だが、その実、一つ一つの花びらは変わった形でそれが、複雑に重なり合っている。
どこまでも深みのある蒼だが、暗く沈んでいるわけではなく、この深みを保ったままむしろ透き通るように冴えてみえる。奇妙で美しい青色だ。
「綺麗でしょう? その花」
噂をすれば影。などと言うが、ちょうど考えていた本人の声が後ろからかかった。
アイテルは答えずに、手折ってしまわないように矢車菊の一本を摘んで眺めていた。
「アイテル」
聞こえていないのかと、ナイアスは呼びかける。彼は彼女に名を呼ばれるのが好きだった。
涼しげで、氷の様に硬く澄んだ綺麗な声が好きだった。
「あぁ」
そこでやっと気づいた、という体でアイテルは振り向いた。もっともお見通しかも知れないが。ナイアスの超然とした雰囲気と静謐な眼は何かこちらの事を全部見通されているように感じさせる何かがある。
「ダメだよ、手折ったら」
「そんな事はしないさ」
摘んでいた一本を手放していった。
「花が綺麗だからと、手折って自分のものにした途端に、なんだか酷くつまらないものに感じてしまう。あれが嫌なんだ」
「それに、すぐに萎れちゃうしね。地面に根を下ろして決して自分のものではないから、お花は何よりも綺麗だよね」
いつものように片手に本を提げたナイアスとアイテルはそう話す。
「しかし、確かに綺麗な青だよな。これ、矢車菊の別名、なんて言ったっけ?」
「コーンフラワーだよ。この青は自然界の青色の中でも最も完全な青と言われているの」
「青は藍より出でて藍よりも青し。でもその青よりなお青いのがコーンフラワーブルー」
「最も青い青がこれか」
「そう。青い宝石というとサファイアが一番有名だけど、最高級のサファイアの事を矢車菊の青というの」
よほどこの花が好きなのか、普段は言葉が多すぎもしなければ足りなくもないナイアスがいつになく饒舌だった。
「サファイアか、見た事はないが……やはり金で手に入る石の青より、こっちの青の方が上等に見えるな」
アイテルの意見に、ナイアスも頷く。
「私はその花に水の匂いを感じるの。海の香り」
「水……というには青が深すぎないか? 確か、なんだっけ? もっと海に似た宝石があるって以前聞いた気がするが」
「アクアマリン?」
「そう、それだ」
ナイアスの答えにアイテルは頷く。名前自体が海の水であるその宝石は、ナイアスの瞳に似て、薄い透明感のある水色で、まさに海水をそのまま凝固させたような石だ。海の浅瀬にでも落としたら完全に海水に色が溶けて見つからなくなってしまうだろう。
「確かに海の色ならそっちだと皆思うよ。でも私のイメージする海はこっち」
もちろん実際に見たことないけど、とそう言って矢車菊を愛でるナイアス。
「海は広いだけじゃなくて凄く深いから、きっと海の真ん中で水面から沈んだ少し深い所はコーンフラワーブルー……何処か透き通った紺碧なんじゃないかって思うの」
そう何処か遠くを見るような、何処にも焦点があっていないような眼で語るナイアスに、アイテルは苦笑する。
「イメージしにくいが……ナイアスは昔から想像力豊かだよな」
「ただの空想癖だよ」
クスリと笑って小川へと歩み寄りながら、自嘲するようにナイアスは言った。
「セクアナが夢想主義で、アイテルが現実主義なら、私はただの空想主義」
「私が一番地に足が付いてないかもね」
「確かにナイアスは、何を考えているか分からない所があるな」
ナイアスの自己分析に、アイテルは忖度なく私見を言う。
「わぁ、ひゃっこい」
小川の流れにぱしゃりと手を差し入れ、水の冷たさに目を細めてナイアスは言った。
「大海原の真ん中で、トプンと沈んでいったら、きっとその色はそんな蒼」
そして歌うようにそう続けた。
空想主義か、それも面白いんじゃないかとアイテルは思った。
要は程度の問題だ。自分が地に足を付けているのなら、ナイアスは天に一番近い所にいる。セクアナがその二つを繋ぐ中間点。
ナイアスが余人には考えもつかないモノを考え出して、セクアナが空想を材料に夢に溢れるものを選び出し、そして自分がそれを形にする。
そんな風に三人で何かを成し遂げる。幸福なこの時にそんな未来を描いてもいいのではないか
靴を脱いで、浅い川に入って水の流れに素足をひたして小さく笑うナイアスを眺めながらそう思う。
アイテルから見て、セクアナは何処か何を考えているのか分からない所がある。
いつも穏やかに微笑して、表情があまり動かない。大きく笑う事もなければ、悲しむ事もなく、怒る事もない。
常に口元に微笑みを浮かべている。そして時折、眼には憂いが灯る。喜怒哀楽の内、緩やかな哀と楽しか見せない。
きっと生きている事の幸福を楽しんでいるのだろう。そして、生きてしまった事の不幸を哀しんでいるのだろう。
五年前の飢饉で家族を全て失ってしまったナイアス。孤独なナイアス。
決してナイアスは一人ではない。家族を亡くした後に養親になってくれた心優しき村人。親友のセクアナ、アイテル。仲間がいる。
だが、亡くした家族の穴は埋まらない。何故ならそれは、かけがえのない人だったからだ。かけがえのないという事は別の何ものかでは代替が効かない故にかけがえがないのだ。
テミスはナイアス達三人と親しいが、ナイアスは特に歳上の相手としては彼女に懐いている。
奇しくもテミスも元々父親が早世しており、そして残る母親も飢饉で亡くしてしまい両親ともいない娘であった。同じ孤独を持つもの同士の親近感があるのかも知れない。
その時、アイテルは近づいてくる人物に目を止めた。
「ん? セクアナ」
「だーかーらー、貴女は今度はこんな小川で水遊びなんかして」
「一体何度絵になれば気が済むのよ!」
「いや、だからそういうつもりじゃなくて……」
現れるや否や、またピッと指差しながら言うセクアナに、やはり困ったように笑ってナイアスはいう。
「でも最近は私思うの。ナイアスは分かってて自分から絵になっているんじゃないかって」
「……言いがかり」
そんな事言われても本人からは、自分がどう見えるかなんて分からないのだから、狙って出来るわけもない。
「実は俺もそうじゃないかと少し思っていた」
「ちっ、違うよ!?」
まさか二人からそんな事思われていたとは青天の霹靂で、ナイアスは素で狼狽した。
「まぁ、それは別にいいとして」
「なら言わないでよ」
あっさり話を変えるセクアナに、冷静に突っ込む。
「目の保養にはなるしな」
「っ、ならいいけど」
アイテルの感想に突っ込みかけて、別に悪い事ではないか、と飲み込む。
「それで、何かあったのか?」
「何かも何も、人の未来の展望をこき下ろしてくれたのは貴方じゃない?」
アイテルの疑問にセクアナはピッと指を向けて言った。
「ダメな所は批判はしたが……別にこき下ろしたつもりはないぞ?」
「そう、確かに貴方の批判は悔しいけど的を射ていたわ」
アイテルの反論に、然りと答える。
「つまり、改善すると?」
「そうよ、貴方の言う通り、口だけでは実現はしないわ。なら動かなきゃ」
「異論はないな」
「だから、いちいち偉そうなのよ貴方は」
でも、アイテルは決して間違えない。鼻につく所はあれど、セクアナから見て、アイテルという男は、歳下なのに憎たらしいくらい冷静で、常に正しい判断を行える、落ち着いてかっこいい男だった。
「だから、とにかく聞いて調べてみましょう。今までこの村から外の世界へと出ていった人について」
「……例はあるようだしな。長老方の誰かなら知っているか」
セクアナの提案に、そう一考して答える。まずは前例を調べてみるのはベターか、そして分からない事は人に聞くと言うのも、当たり前過ぎるがベターだ。
「ナイアスはどう思う?」
「ねぇ見て、アイテル。お魚いたよ」
「聞いて」
セクアナから意見を求められたナイアスは、話に全く興味がなかったのか、川の中に見えた魚影に夢中になっていた。この娘は自分の興味の持てない事はあっさり意識から切り離してしまう所がある。
「えっ、何?」
お魚食べられるかもよ? などとのたまいつつ、ナイアスは聞き返した。
「とりあえずこの村の外に出て行った先輩方について長老方の誰かに聞いてみようと思うの」
「うん、いいんじゃないかな?」
あ、一応同意してるけど生返事だこの子。そうセクアナは思った。やっぱり外の世界にはあまり興味が抱けないらしい。
「じゃあ、お魚と戯れてないで上がって。話を聞きにいくわよ」
「私も?」
「当たり前でしょう。前も言ったけど、村から出ずにどうやって海を見に行くの?」
「ん、まぁそうだね」
その通りではあるし、別にセクアナの夢を否定する気もないので、付き合おうと思いナイアスは川上上がり足を拭く。
「ほら、アイテルも」
「俺もか?」
「当たり前。元はと言えば貴方が焚き付けたんじゃない」
「以前言ったが、俺も別に出ていくつもりもないんだがなぁ」
「いいから行くのよ!」
「わっ!」
「っと」
セクアナは有無を言わさずに二人の手を取って進み始めた。
「二人とも極端なのよ! 私より歳下なのにそんなに老成しちゃって」
「夢をみるの! 今が幸せだからって欲張っちゃ駄目だなんて事はないの。幸福な今、瞬間こそ夢を見るのよ!」
そう足る事を知らずに幸福な夢を見続け、進むセクアナは二人にとっても眩しかった。
アイテルは内心苦笑する。この三人で何かを成し遂げる。そんな未来を思い描いたが、それは結局村の外に飛び出す事から始まるのか、と。
「なら、長老方の誰に聞くかだな。なるべく話しやすくて、口も軽い。そして村の事を良く知っている人だ」
アイテルはそう言って、条件に一番合う人の元へ向かう事を提案した——




