二節
ナイアスは水中を漂っていた。
——いや、正確には沈んでいた。というべきだったろう。
周囲は薄い蒼色、アクアマリンの明るくて薄い水の色をしていた。
コポコポ、と周囲に水泡が浮かび、ナイアスは徐々に沈んでいく。
水深が深くなるにつれて水の色は沈み、深みのある矢車菊の蒼に変わっていく。水中で遠くを見据えようとしても蒼が深く沈み、見通せなかった。
やがて更に蒼が深くなり、藍色に沈んでいく。光が乏しく水の色が深い為に少ししか周りは見通せない。
そうして、やがて一条の光も届かない深さにもう完全に周囲は漆黒になった。まるで墨の中を沈んでいるように。恐らくは沈んでいるのだろうが、真っ暗な水中を揺蕩っているとどちらが右か左か、上か下かももう分からない。
昏い昏い水の底の底まで沈んでいく。いっそ泡となって水に溶けてしまえたら。そんな事をふとナイアスは思った——
——ふっ、とした浮遊感からナイアスはベッドから目を覚ました。
妙に生々しく、かつ非現実な夢を見ていたらしい。夢の中では沈んでいったのに、浮遊感で目覚めたので脳が混乱している。
身体を起こす。少し早く起きてしまったらしく、まだ夜明け前で部屋は暗かった。
手探りでベッドサイドの水差しをとり、コップに水を注いで飲んだ。ふ、と一息つく。
中途半端な時間故に寝直す気にもなれずに、ナイアスは起き出す。音を立てないように家を出た。
外に出ると、一つ深く呼吸をする。初夏とはいえ夜明け直前の空気は冷たく澄んでいた。空は少し明るくなって藍色をしており、東の空はより明るい青をしていた。
天空と大海。対極的な二つに関わらず、その色彩はどうして似通っているのだろう。
それから段々と空は明るくなっていき、青色から赤みがさしていく。
やがて、眩い曙光と共に日が登ってきた。
「綺麗……」
赤みがかったオレンジ色の光に見惚れてナイアスは呟く。何度沈もうとも、幾度も登る太陽は原初的な神秘を感じさせる。
一日はここから始まる。昨日の日の入りで夜が訪れ、そこからまた再生。終わりと始まりの円環。
ナイアスはふと思い出す。外の世界において最もポピュラーな宗教の聖典にはこんな記述ががあるらしい。神が光あれと言った。すると光があった。
最初にあったのは虚無。そこに神が光を差した。光が存在する事により駆逐された虚無は夜となった。
それこそ曙光に良く似ている。世界は幾度も存在と虚無を繰り返す。
日が昇るにつれて眩い曙光に目を焼かれそうで、ナイアスは自室に戻った。まだ養親が起き出すには早い時間だ。
少し読書で時間を潰し、養親が起きる時間が近くなった所で朝食の支度に台所へ向かう。
「おやナイアスちゃん、今朝は早いね。おはよう」
「おはようございます。ちょっと早くに目が覚めてしまいまして」
調理をしていると養母が起き出してきたので、挨拶を交わす。
「おはよう、ナイアス」
「おはようございますおじさん。朝ごはん出来てますよ」
丁度朝食の支度が終わったタイミングで養父も起きてきた。
顔を洗ってきた養父と養母と食卓について、手を合わせると、皆で朝食を食べ始める。
七年前の飢饉が嘘のように豊かになったものだ。朝から主食に副菜に、暖かいスープまで揃えてお腹いっぱいになるまで食べられる。
食べつつ、三人で何気ない事を話しながら笑い合う。ナイアスの養親はとても優しくて気立の良い人だった。
この二人は若い頃結婚したが、どうやら不妊体質らしく——村の医療技術では、どちらに問題があるのかを検査する事は不可能だったが——子供は出来なかった。
しかし、他の夫婦が次々と子供を持つ中で、彼らは二人での生活を満喫していた。自らは得られない子供。欲しくなかったといえば嘘になるだろうが、手に入らないものに心を灼かれて不幸になるほど、この夫婦は心が貧しくはなかった。
妻は夫を、夫は妻を存分に愛し、二人でも幸福であった。
七年前の飢饉。夫婦は飢餓の日々を乗り切った。しかし、飢饉で家族を失い天涯孤独の身となったものも多数でた。村人達はそういった者達に手を差し伸べて助け合った。
ナイアスもそのうちの一人である。両親を失った孤独な少女。神秘的な美しさと憂を帯びた彼女に夫婦は手を差し伸べた。
今まで自分達は充分に幸福であった。故に幸せになるべき少女を孤独なままにしないと、自分たちの幸福を分け与えようと。
血の繋がりはなくとも、家族として共に幸せになろうと。
共に暮らしてみるとナイアスは、良く出来た娘であった。率先して家の事を手伝う良く働く娘であった。
故に少し夫婦は心配していた。両親を亡くしながら、自分達に甘える事もあまりなく孤高の気丈さを見せるナイアス。夫婦から見ればまだ子供なのに、その年齢に相応しからぬ雰囲気を持っている。
もう少し甘えてほしい。そう思っているのだが。
食事を終えて、食器の片付けを行うナイアスを眺めながら養母は苦い笑いが浮かぶ。何だか逆にこちらが甘えっぱなしではないか。
「さて、畑にいってくるか」
腰を軽く叩きながら養父はそう言って立ち上がった。
「手伝いますよ」
手を布巾で拭いながら台所から出てきたナイアスがそう申し出る。
「いや、今日は大して仕事は多くないから大丈夫だよ」
すっ、と一つ養父は妻と目配せすると言った。
「そうですか」
手伝いを断られて手持ち無沙汰になってしまったナイアスは、それならば掃除でもするかと思い直す。
「あぁ、ナイアスちゃん。今日は家の事は私がやっておくから、私も今日は暇でね」
「えっ、そうなんですか」
しかし、それも先んじて養母にそう言われてしまう。最も家の中のナイアスの管理は行き届いていて、洗濯に軽い掃除くらいしかやる事はないが。
「ナイアスも今日一日くらいのんびりしたらどうだい?」
俺たちも今日は大してやる事がないんだし、とそう養父は言った。最もこの村の時間はのんびり流れていて、一日中忙しなく働くという事など殆どない。
「ありがとうございます。そうします」
「じゃあ俺は行ってくるよ」
そう言って家をでる養父をいってらっしゃいと言って見送る。こうなると本当にやる事はなくなってしまったのでどうしようかと考える。
やはり本を読むのがベター、というより他に暇を潰せる趣味もないナイアスは選択もなかったが、今手元にある本は先程読み終わってしまった所だった。
一旦部屋に戻り、読み終えた本を取った。
「図書館に行ってきます」
「いってらっしゃい」
ナイアスは養母にそう伝えて、見送られて家を出た。
外は涼やかな風が吹き、過ごしやすい気候だった。朝焼けが綺麗だった空は、今は青く澄んでおり、雲は薄く疎に広がっている。陽光は穏やかだった。
気持ちの良い日だった。空には薄い雲に混じって一条の飛行機雲が細長く空を登るように伸びていた。
龍が空に登っていくようだ。そんな事をナイアスは歩きつつ思う。以前良く読んだ神話には龍は良くあるモチーフだからそんな事を連想したのだろうか。
図書館は、まだ早い時間という事もあってナイアスの他に誰もいなかった。そもそもいつも人がひっきりなしに出入りしている程の施設ではないのだが。
持ってきていた本を返して、さて何を読もうかと吟味する。読書というのはこの時間のワクワク感がある意味一番の醍醐味かも知れない。
普段は専門的な難書を好み、あまり文学の類は読まないナイアス。読書好きというと文学好きとイコールのように考えられがちなのでナイアスは少し珍しいタイプかも知れないが、その日は趣向を変えて珍しく戯曲などを読んでみる事にした。
借りていく本を記帳して、ナイアスは図書館を後にした。
………
……
…
ナイアスのお気に入りの村外れの小川沿いの木立。
「ねぇセクアナ、暇なの?」
「うん、今日は何にもする事ない」
木陰に座ったナイアスの懐に入って背中で寄りかかって抱っこされているような体制でセクアナは答えた。ナイアスは寄りかかったセクアナの背中越しに片手で本を開いて読んでいる。ちなみにもう片腕はセクアナに半ば強制されて彼女のお腹に回されて抱いている。
やる事がなくなって本を読みにきたナイアスだったが、奇しくも一日の予定がなかったセクアナに捕まって何故か甘えられていた。本当にどちらが年上か分からない。
「あとちょっと暑いんだけど」
「私、元々体温高いみたいね」
過ごし易い気候であるが、こうもひっつかれると少し暑苦しいと文句を言うナイアスに、しれっと答えて心地良さげにしている。実際ナイアスに伝わってくる彼女の熱量は高めである。
懐に収まったセクアナからは、ローズに似た、しかし甘くフレッシュなニュアンスのゼラニウムの香気がした。彼女は自分の前で開かれたナイアスの読む戯曲を最初は共に読んでいたが、あまり好みに合わず早々に飽きてしまったようだ。
たまに甘えてくるんだよなぁ。と諦めてお腹を撫でてあげながら、ナイアスは本を読み進める。やはりこの手の本はスラスラ読めてしまうというか、良く言えば読みやすく、悪く言えば読み応えがない。ある意味片手間にセクアナの相手をしつつくらいが丁度良い。
「ナイアスは手が冷たいねぇ」
「そうなの? 自分ではよくわからないけど」
むにむにとお腹に回された手に触りつつセクアナは言った。セクアナの手が暖かいから殊更そう感じるというのもあるだろうが、ナイアスの手はひんやりしていた。
何処か人間離れした美しさのあるナイアスらしく、低めの体温だった。
「ねぇ、ナイアス」
「ん?」
「やっぱり私、ばかだって呆れられてるのかな?」
「誰に?」
「アイテル」
あぁ。とナイアスはなるほどと本に目を落としながら頷く。
「私の方が年上なのに……具体性のない事ばかり言って、ナイアスやアイテルの方が地に足ついているのは分かるし」
「アイテルはともかく私はどうかなぁ……?」
大して現実的でもないし。と自分では思うナイアス。
「やっぱりアイテルは現実的で冷静で凄いと思うし。私、結構当たりの強い事言われる事もあるし、やっぱり呆れられているのかなぁって思うの」
「そんな事ないと思うよ」
「そうかしら?」
ナイアスの腕の中で少し不安そうにセクアナは問い返す。
「確かにアイテルは現実主義だし、きつい事もいうけど、夢を否定している訳じゃないし、むしろセクアナに期待しているから言っているんだよ」
「そう、なのかな?」
「そうだよ。外の世界を見たいなんて夢を叶えられるのはセクアナだけだって、以前アイテルは言ってたよ」
「自分一人では自信がないけどね。ナイアスやアイテルが手助けしてくれて初めてなんとかなるかもって気がするわ」
セクアナのこういう面は悪く言えば依存的で、下手すれば自分一人では何も出来ない人間になってしまいかねない。
「出来る事なら手は貸すよ。アイテルだってそうだよ」
「ん……でも、アイテルも外の世界にあんまり興味なさそうだし……本当は三人で外の世界を見てみたかったんだけどな」
「まず一人でも夢は成し遂げるって気概をつけて欲しいからアイテルは一歩引いているんだと思うよ」
でも、とナイアスは続ける。
「アイテルや他の皆の助けを借りるのは別に悪い事じゃないと私は思うんだ。程度の問題だよ」
自分一人では何もできない依存的な人間に夢を叶える事は出来ない。しかし、仲間の力を借りずに自分一人だけでは為せる事にも限界はあるのも事実。
だから、とナイアスは言った。
「本当に夢が叶った時。アイテルはセクアナを一人ぼっちで行かせるつもりはないんじゃないかなぁ」
「そうかな?」
「そうだよ」
「そうかぁ」
ナイアスの腕の中でセクアナは一つ溜息を吐いた。
「だったら、いいな」
そう言って、セクアナは何処か寂しげに優しく微笑した。
「本当の夢はやっぱり。ナイアスとアイテルと三人で広い世界を見る事だったから」
「ナイアスはやっぱり今も外の世界は興味ない?」
セクアナの問いかけに、暫し沈黙し戯曲を読み進めてナイアスは口を開いた。
「最近は、セクアナとアイテルと三人で、一緒に海を眺める。そんな夢を見る事があるよ」
「そうなのね」
ナイアスの言葉にセクアナはへらりと心底嬉しそうに笑みを浮かべて応じた。
そんな夢を見る事くらい許されるよね。
そんな事を思い、軽く腕の中のセクアナを掻き抱き空を仰ぐ。
——あぁ、最後の人身御供が決定されるのは、もうすぐか。




