一説
『そこに行手をさえぎって清流が一条漣をたてて岸辺に生えた草々を左手へなびかせて流れていた。この流れに比べると現世の水はいかに清らかな水でもまだなにか混ぜ物が含まれているような気がする、この水にはさほど一点の曇りも見当たらなかった。』
「新曲 煉獄編」より——
………
……
…
矢車菊の咲き誇る、湖の滸の木陰の下で、ナイアスはお腹に一冊の本を乗せて横たわっていた。
木漏れ日に目を細めて、ラララ、と気持ちよさそうに讃歌を歌っている。
サァ、と風が吹き、それと共にさくり、さくり、と足音が近づいてきた。
「全く、貴女は毎度毎度絵になるけれど」
「今回は楽器になろうっていうの?」
横たわるナイアスの頭の側に立ち、覗き込むようにしながらセクアナは挨拶がわりにいちゃもんをつける。
「……確かに歌は身体を楽器として使う方法だけど」
だからといって何故に楽器扱いされるのかとナイアス。
「とりあえずセクアナ、一ついい?」
さておき、さっきから気になっている事を一つ指摘したかった。
「? なによ」
「さっきからパンツ見えてる」
寝ている相手の枕元にスカートで立ってはそれは見えるだろう。
サッ、とナイアスの顔に赤みが差してすぐにスカートを抑えながら五歩程下がった。
その様をみてナイアスは、クスクスと鈴を転がすように笑った。
「可愛い」
「私の方が年上なのに〜、生意気」
揶揄うように笑うナイアスに、セクアナは悔しさを滲ませる。
「貴女こそ! そんな綺麗な声で歌われると同じ女でもちょっとドキっとしちゃうじゃない!」
「そ、そう? ありがとう?」
ちょっと揶揄っただけなのに、返す刀で何故か褒められてナイアスは少し困惑した。
そこで二人は暫し沈黙する。サァ、と二人の間を風が吹き抜けていった。
「今日は」
ふ、とナイアスが口を開いた。
「ここにいると……テミス達が近くに感じられるの」
彼女が歌っていたのは、讃歌であり、鎮魂歌であったのかも知れない。
「貴女がそれを言うと、真に迫って聞こえるわね」
ナイアスの神秘的な美貌も、何処か超然とした雰囲気も、どちらもこの世の理を超越しそうなモノがあるとセクアナは感じる。
また別の面で言えば、縁起が悪い。テミス達には申し訳ないが、佳人薄命というしナイアスが彼女達を近く感じると言うと、嫌な想像をしてしまう。
「多分勘違いだよ」
しかし、ナイアス自身があっさりそう言った。
「ここにはテミス達はいないの?」
セクアナは何となしに問う。
「いるって感じる私も、いないって感じる私も生きているから。生きている人間の理屈では死んだ人の事は答えられないよ」
「……そんなに遠いんだ、死んだ人達は」
「……うん、遠すぎて交わらないよ、此岸と彼岸は」
寝ていたナイアスは上体を起こして、遠い湖面を見やる。
「それでも」
でも、とナイアスは言う。
「生きている私達は、死んだ人達がいないという事が納得できない。やっぱりこちらに在るように考えている」
人は、死者を思い墓の前で手を合わせる。慰霊碑に鎮魂を祈る。
おかしな話だ、死者は存在していない。故に手を合わせる相手が居ない。鎮める魂が既に実在していないのにそれを祈る。人はあり得ない事をしている。
「だから、死んでしまった人たちも、生きている私達が彼女達を想えば、その事でこの世に存在しているんだと思う」
実在しない死した人の魂も、それに祈れば、祈るという行為で祈られる対象としての魂が存在してくる。
実在しないという事は存在しないという事ではないのだ。
「よくわからないわ」
そうセクアナは答えて、続ける。
「死んだ人の魂は何処にいったのかな?」
「あるべき所に還ったのだと思う」
「この湖の底で神様と共にいるのかしら?」
いや、とナイアスは首を振る。
「きっともっと広くて、深い。海の底で眠っているんだと思う」
「……あれからもうすぐ二年ね」
あぁ、そうだ。今年もまたこの季節がやってきた。
二年前の初夏。その日、曙光と共にテミスはこの湖に身を沈めた。
「今年で最後、だね」
飢饉の終息を願った七年の制約は今年で最後。
飢饉は解決し、村は穏やかな日々を取り戻したが、本当の意味ではまだ終わってはいなかったのだ。
毎年、この季節になると村の娘達は震えていた。自分が選ばれるのではないか、と。
それも、今年で終わる。
「そうね。やっと穏やかで安らげる日々が戻ってくる」
セクアナも頷いた。
ナイアスは立ち上がり、湖面に手を合わせて神へと、六人の魂への感謝を捧げた。セクアナもそれに倣って感謝の祈りを捧げる。
ナイアスは祈りつつ、閉じていた瞳を開き、側のセクアナを横目で見た。
瞠目して祈る彼女の合わせた手は、小さく震えていた。
「戻ろうか」
ナイアスは本を拾い上げて、言うと歩き出した。
二人で談笑しつつ村まで戻ってくると、一つの畑で野良仕事をしている人達が目に入った。ありふれた光景だったが、壮年の男性と共に仕事をしている若者に二人とも気がついた。
「アイテルだ」
「え? あ、ホントだ」
二人がそう言い合うと同時に顔を上げたアイテルもまた二人に気がついたようだった。彼は一緒に仕事をしていた男性に何か声をかけると、水路で手を清めて畑から出て二人に歩み寄ってきた。
「今日は畑仕事? 珍しいわね」
「家の手伝う事があんまりなかったからな。おじさんの所が人手がないからちょっと手伝っていたのさ」
挨拶もそこそこに、セクアナとアイテルはそう言葉を交わす。野良仕事でアイテルの頬は土で軽く汚れていた。
二年前よりアイテルは少し逞しくなった印象を受ける。それは身体付きといった面だけでなく、物腰や精神面。元々年齢の割には落ち着いた少年だったが、益々大抵の事では動じない強心臓になっていた。
「二人は今日も暇そうだな」
「暇な訳ないじゃない。私も午前中はお母さんの手伝いしてたし、ナイアスもさっきまで楽器の仕事に忙しかったのよ!」
「楽器……?」
はて、ナイアスが楽器の奏者だったという記憶はないが。とアイテルは首を傾げる。
「歌ってただけだよ。いや、ただのハミングだけどね」
「そう! ナイアスは歌うのに忙しかったのよ」
「あぁ……」
そう。とアイテルは何ともリアクション仕切れずに薄い反応を返す。
「ところで畑仕事はもういいの?」
「あぁ、一段落は済んだからな」
ナイアスは聞きながら、ハンカチを出してアイテルの頬の汚れを拭った。アイテルもそれに答えつつ礼を言う。
「ねぇ、ナイアス。ここ」
そう言ってセクアナは道端での花を指す。
「何処にでも咲くな。この季節は」
それを見てアイテルはそう漏らす。確かに矢車菊は殆ど雑草のようにこの時期は何処にでも見られる。
「綺麗……」
「そうか……またこの時期だな」
アイテルも自覚していた。今年は、神との制約の最後の年。七年前の飢饉から端をなす悲劇の終わりの年だと。
「なぁ、セクアナ。あれから二年だ、喪に服するのも、もういいだろう」
そうアイテルは口を開く。今年の最後の人身御供をもってしてテミスが逝ってから二年になる。
「今年もまた、あの旅人が来る」
テミスが逝った年に、あの旅人は村の中と外の世界を繋ぐ唯一の接点だと判明していた。だが外の世界に憧れたセクアナは未だ旅人に話を聞けないでいた。
「そう、ね。あれから、テミスを連れ去っていったあの人の話なんか聞きたくないと思ってたの」
「心情としては理解出来るがな……」
何といったものかとアイテルは頭を掻いた。
「別にあの人がテミスを奪ったんじゃないよ。旅人さんは旅人としての役目を、テミスはテミスの役目をそれぞれ果たしただけだよ」
アイテルが言いたかった続きをナイアスは代弁した。
「人身御供の儀が終わったら、あの人はまたいつ村に訪れるかわからないからな」
あるいはもう二度と訪れないという可能性もゼロではない。
「本気で外の世界へ出る事を考えるなら、今年あの人と話してみるべきだろう」
「確かに、今年を逃すべきではないね」
そう二人は口々に言った。
「まぁ、今年が終われば、この村も完全に平穏になる。この村で平和に一生暮らせる。もう外の世界へ出る熱意が冷めたなら、それでもいいだろうが」
人の気持ちは不変ではない。好きだったものや夢への熱量も時間によって冷める事はよくある。
この村で、それなりに満ち足りた日々を送ればいい。とアイテル。この村が好きな彼としてはそれも英断だろうと思った。
「うん、その通りね。よし決めた!」
そして、セクアナは決心した。
「最後の儀が終わったら、旅人さんと話してみるわ。そして将来外の世界へ出たいって相談してみる」
「……そうか。でもなんで終わった後なんだ?」
セクアナの宣言に問い返す。確かに件の旅人は自分の仕事を終えても少し村に滞在するから終わった後でも問題はないが。
「だって、最後の人身御供は私かも知れないしね。話を聞いても外を出る前に死んじゃう事になったら元もこもこないじゃない」
「……それはそうだが、後ろ向きな考えだな」
最後の最後で役目が回ってくるという低い確率を考慮するとは、不都合な現実からは目を背けがちなセクアナとしては、らしくないと言えばらしくない。
「いや、私ってよりにもよって——って時に当たりを引く所あるから」
最後の最後で来ちゃうかも。とセクアナは言った。
「考え過ぎだよ。可能性は皆同じなんだから」
ナイアスが軽くフォローする。そういう時に限って、と思い込んでしまうのは人間誰しもある事だろう、マーフィーの法則なんてものもあるくらいだ。実際はただの心理的バイアスなのだが。
実際、軽い調子で言っているが事が最後なだけにこそセクアナは怖がっているのだとナイアスは理解していた。さっきも湖で合わせた手が震えていたのはそういう事だろう。
「でも、ナイアスもアイテルも分かっていると思うけど、人間死んじゃう時は自然と呆気なく死んじゃうじゃない?」
そう、セクアナは言う。
「七年前の飢饉から、今まで。身の回りで何人も死んじゃったし、テミスも逝っちゃった」
だから、と続けた。
「もし、自分の番がいつ来ても悔いは残したくないと思って生きてきたつもり。私は臆病だからナイアスと違って死ぬのは怖いけど」
そう、それでも。
「テミスのように、最後の時に生まれてきて良かったって言えるように生きたいの」
確かに、セクアナは臆病なのかも知れない。でも彼女の在り方は眩しかった。
「そうだね、ならやっぱり話してみるべきだね」
悔いを残さず生きるというなら。そうナイアスは言う。
「私も今年の役目かも知れないしね」
「二人して寂しい事を言うなよ」
苦い笑みを浮かべてアイテルは言う。役目が回ってくる事のない彼にあるのは、彼女らに残されていってしまう可能性だけだ。
「そうよ!貴女も私と一緒に旅人さんとお話するんだから!」
「え? 私は別にいなくても……」
「海を見に行くんでしょう!一緒に」
「既定路線になっちゃっているの? それ」
やっぱり海以外の外の世界自体にはあまり興味は持てないナイアスだが、すっかり一緒に行く事になってしまっている。
「さぁ、今年は大事な年になるわよー!」
そう言ってセクアナは力強く歩き出した。アイテルもそれに続く。
七年前から、自分は居ても居なくても同じ。どちらにせよ皆は変わらない。そんな風に在りたかったのにな。そうナイアスは思った。
「中々思ったようには上手くいかないなぁ」
——ねぇ、テミス。
そう独言ると、ナイアスは二人の後を追った——
………
……
…
ナイアスは帰宅すると、干していた洗濯物を取り込んで畳み、軽い掃除をする。やる事もなくなり空いた時間に暫し本を開いて読んだ。
やがて夕刻になり、そろそろ食事の支度をしようと立ち上がり台所に向かう。調理している間に養父と養母が次々と帰宅してきたので、ナイアスは手を動かしつつ挨拶を交わした。
「ご飯出来ましたよ」
食事の用意が済み、ナイアスは食卓に配膳しつつ養親に呼びかけた。
「ありがとうねぇ」
「それじゃあ頂くか」
家族三人で食卓を囲み、頂きますと手を合わせる。
オートミールの粥を主食、焼き魚と村の特産の魚醤で味付けした野菜炒め。汁物として野菜スープという献立だ。
メインが魚と温野菜なので個人的にナイアスは機嫌が良い。彼女は独特の食感と獣臭さのせいで肉が苦手だった。とは言えあの飢饉を経験しているので食べられないというほど訳ではないが、魚の方が好きだ。
三人でその日にあった事などで談笑しつつ食べる。その中でアイテルとセクアナとの昼の話題も出た。
「セクアナちゃんが、外に向かうのかい」
「うん、そのつもりで考えるらしいです」
「おばさんはどう思いますか?」
ナイアスは養母の意見を伺ってみる。
「私は以前話したっていうお婆様と同じ意見だねぇ」
「無謀だとも思うけど、本気で目指すなら否定はしないし応援もするよ」
ここでいうお婆様とは、二年前にセクアナ達と話を聞いた長老方であろう。
「俺は応援は出来ないな」
しかし、養父は養母や長老方とは意が異なるようだった。
「この村から出た奴らは生死すら分からないのも多いのだろう? そんな危険な所に向かうなんて、むしろ止めたいくらいだ」
それもまた最もであろう。可愛い子には旅をさせろと言うが、いくらなんでも命の保証も出来ない過酷な旅をさせる親がいるだろうか。
「その気持ちも分かるけどねぇ……」
養父も間違っているとも思えない為に、養母もナイアスもそれには何も言えない。
「あの、旅人さんて昔この村にいたそうですけど。二人は面識あったんですか?」
ふと、今まで聞かなかった疑問をナイアスは口にした。養親の年はそれなりにいっており、旅人がまだこの村にいた頃を知っていてもおかしくないと思った。
すると、二人の食事の手が止まった。ナイアスの見たて通りどうやら知っている事があるようだった。
「まさに彼が俺が村の外へと出る事に反対する理由の一つだ」
「……あなた」
重苦しく口を開いた養父に妻は声をあげたが、それ以上止める事は出来なかった。
「お婆様に聞いただろう。彼は人身御供の付き人をするだけではなく、外の世界でも後ろ暗い汚れ仕事をやっているようだ」
「俺たちは彼がこの村にいた頃のまだ幼い頃から知っている」
「どういう人だったんですか?」
ナイアスの問いかけに、燕麦の粥を一匙口にして、嚥下してから答えた。
「セクアナに似て、夢を持ち諦めない男だった。だけどセクアナより無鉄砲で、度胸があった、あるいは恐怖や躊躇いが、なかったというべきか」
「俺の知る彼は気のいい男で、側に居るだけで夢を見させてくれるような器の大きい男だった。感情豊かで良く笑う男だったよ」
だけど、と養父は言った。
「何も恐れる事もなく、夢を叶えにある日村を出た……そして、十年ぶりに戻ってきた彼は、最早昔日の姿とは別人だった」
「……表情はまるで動かないし、自ら口を開く事は殆どない。かつての優しく強い目付きは、昏く落ち窪んで、しかし刃物のように鋭かった」
「可哀想にねぇ。きっとよっぽど外では辛い目にあったんだよ」
養父の話に養母は同情して言った。かつての彼を知っているだけに、一体どんなものを見て、どんな経験をしてら人はあそこまで変われるのかと、そう思った。
「でも、彼に話を聞くのは賛成だ。本気ならば、きっと話してくれるだろう。外にはろくな事はないとも」
「それに事前に聞けば、外でも人並みに生きる方法も教えてくれるかも知れないねぇ」
悲観的な養父の言葉へのフォローのつもりもあるのか、養母もそう言う。
「そうですね、セクアナともまた話してみます」
そうして——旅人に聞いて提示されるのは天国への道か、あるいは地獄への道か?
しかし、ナイアスはこういう言葉を知っていた。曰く——天国へ行く最も有効な方法は、地獄への道を熟知する事である。——




