第99話
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死んだ人間が、生きている人間に危害を加える事はない。
この世で、死者が出来る事など何もないのだ。
自然であり、当然である。
しかし、とベルクリス・ゴルマーは思う。
この死者は今、何かをしている、と。
下手をすれば、自分に危害を加えかねない、と。
「あんた今……何を、してるんだ? なあ……ガイラム・グラーク侯爵閣下……」
問いかけても、答えてもらえるはずはなかった。
当たり前である。相手は、死んだ人間なのだ。
死者は、生者と話す事が出来ない。
死せる者には、生ける者に、何かを伝える事すら出来ないのだ。
だが、今。
ベルクリスの視界の中、その屍は、無言で語りかけてくる。命じてくる。
近付くな、と。立ち去れ、と。
ヴェルジア地方、ゲンペスト城。
その地下で、ベルクリスは今、悪役令嬢シェルミーネ・グラークの父祖たる人物と対面を果たしていた。
いや。相手は、こちらを向いてくれていない。対面とは言えないだろう。
錆びた甲冑に包まれた、白骨死体。
片膝をつき、朽ちた剣を石畳に突き立てている。
ガイラム・グラーク侯爵。
およそ百年前、ここヴェルジア地方の領主であった人物。
当時は、力ある貴族が他者から領地を奪い取り、それをヴィスガルド国王に事後承認させる事が可能な時代であったらしい。
それを今この時代にやろうとして失敗したのが、ベルクリスの父ボーゼル・ゴルマーである。
百年前の梟雄ガイラム・グラークは成功し、当時の領主グスター・エンドルム侯爵から、このヴェルジア地方を奪い取った。
そして、ここゲンペスト城にて怪死を遂げた。
今、この広大なる地下空間の中央で白骨化し、石畳に剣を突き刺している。
死してなお、地中に潜む何かと戦っているように見えた。
ゲンペスト城は現在、ヴェルジア地方領主メレス・ライアット侯爵によって、領民の立ち入りが禁止されている。
少し前に城内で、大規模な崩落事故が起こったという。
確かに、この広大な地下空間には、かつて天井そして上階の床だったのであろう瓦礫が散乱している。
それら瓦礫はしかし、まるで中央に鎮座するガイラム・グラーク侯爵の屍を、避けて落下したかのようであった。
先日ベルクリスは、賊徒討伐の帰り道で、このゲンペスト城を見かけた。
旧領主エンドルム家の残党、を自称する者たちが賊徒と化し、民衆を脅かしていたのだ。
領主メレスは、討伐軍を派遣した。
領主の食客ベルクリスは、それに同行し、賊徒を大いに殺戮した。
その帰りに、この曰くありげな古城の近くを通り、興味を抱いたのだ。
何があっても自己責任という事で、メレス侯爵はベルクリスに、ゲンペスト城への立ち入りを許可してくれた。
「お前ら、ここで……ど派手な殺し合いを、やらかしたらしいな? シェルミーネ・グラーク……それにルチア」
この場にいない者たちに、ベルクリスは語りかけてみた。
「楽しそうだな……ふん。あたしも、ここにいれば良かった」
花嫁選びの祭典の後、ルチア・バルファドールは行方知れずとなった。
ベルクリスが故郷レナム地方へ戻り、父ボーゼルの叛乱に参加していた頃。
旧帝国貴族バルファドール家で、凄惨な殺人事件が起こった。
一族のほぼ全員が、皆殺しの目に遭ったという。
令嬢ルチアただ一人だけ死体が確認されておらず、現在に至るまで行方不明・生死不明であると言うが、ベルクリスにしてみれば笑うしかない話であった。
「お前、実家の連中が気に入らないとか言ってたもんな。皆殺しにしてやる、なんて言ってたもんなぁ……本当に、やっちまったのか。お見事」
ベルクリスは、一人で拍手をした。
「で、何やかやあって……お前、こんな所まで流れて来て、くそったれ悪役令嬢と殺し合いか。おっと、こんな所なんて言ってごめんよ。ガイラム侯爵殿」
錆の塊となった長剣を床に突き刺したまま、大柄な白骨死体は当然ながら何も応えない。
ただ無言で、命じてくるだけだ。
近付くな、と。立ち去れ、と。
あるはずのない死者の命令が、ベルクリスの前進を阻んでいる。
剛力令嬢などとも呼ばれる豊麗な巨体が、一歩も進めなくなっていた。
左右には行ける、後ろにも下がれる。
ガイラム侯の屍に近付く事だけが、出来ない。
反撃などするはずのない白骨死体に向かって、鎖鉄球を振るう事も出来なかった。
「……わかった、わかったよ。あんた今、何かやってる最中なんだよな、ガイラム侯爵閣下。邪魔して、申し訳なかった」
ベルクリスは屍に背を向け、歩き出した。
ガイラム・グラークは百年前にヴェルジア地方を侵略征服した際、領主グスター・エンドルム侯爵とその一族に対しては、徹底的な皆殺しを決行したという。
グスター侯本人は、ここゲンペスト城における攻防戦で敗死。
エンドルム家の血縁者は、女性や赤ん坊に至るまで殺し尽くされた。
その後、ガイラム侯は怪死を遂げた。
床に剣を突き立てた白骨死体、などという様を、百年後の今も晒している。
エンドルム家の怨念・怨霊に取り殺された、という話になってゆくのは、まあ当然の成り行きであった。
ガイラム・グラークの死因は、今もって不明である。
先日、メレス侯爵が雑談として語っていた事を、ベルクリスは思い出していた。
旧帝国系貴族エンドルム家は、ヴェルジア地方において代々、何かしらの役割を受け継いできたのではないか。
帝国の時代より続く、役割を。
最後の当主グスター・エンドルムは、ガイラム・グラーク侯爵に殺害された。
その際。ヴェルジアの支配権と共に、その古き役割がグラーク家に、あるいはガイラム個人に、受け継がれてしまったのではないか。
そんな話である。
一度だけ、ベルクリスは振り返った。
ガイラム・グラーク侯爵は、もはや何も語る事はない。
今、残されているのは、彼が旧領主エンドルム家を殺し尽くしてヴェルジア地方を奪ったという、血生臭い史実のみである。
「一族、皆殺し……か」
ベルクリスは呟いた。
戦で敗れる。
それはつまり、皆殺しにされるという事だ。
勝者にしてみれば、敗者の血縁など、残しておいたところで後日の厄介事にしかならないのである。
ゴルマー家は敗れ、ベルクリス一人が辛うじて生き残っている。出る所へ出れば、命はない。
バルファドール家は、戦が起こったわけでもないのに皆殺しの目に遭った。
ルチアは、さぞかし気分が良かっただろう、とベルクリスは思う。
「そうだよ……皆殺しに、しちまえば良かったんだ。あんな、ゴルディアック家なんて連中は」
一人の少女の、儚げな笑顔が、脳裏に浮かぶ。
平民娘アイリ・カナンよりも、遥かに弱々しい少女。
「あたしが……フェアリエを、助けてやれば良かった……」
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翅が、広がった。
まさしく、それは羽化の光景であった。
肉質の繭が裂け、そこから細身の何かが姿を現しつつある。
それが、恐らくは魔力なのであろう光を、翅の形に伸ばし広げているのだ。
「私、ね……ひとつ、大変な事に気付いたんだけど……」
光の翅を広げた何かが、声を発している。
「アイリを……殺したのが、どこのどいつ……か、って事……」
肉質の繭から、ぬるりと裸身を脱出させながらだ。
「……ねえ、シェルミーネ・グラーク。あんた……そいつを、捜し回っているんでしょう? で、見つけたとして……よ。どうするわけ? そいつを……」
中身を失った肉繭が、ぐしゃりと潰れた。
中身であったものが、光の翅を広げたまま、その上に腰掛けている。
すらりと形良い両脚を、優雅に組んでいる。
硬く艶やかな、黒い甲殻のブーツに包まれた美脚。
「…………殺す? だけどね、そいつにも……アイリに生きててもらったら困る、切実な理由があったとしたら? 立場が逆なら自分だって、アイリの命を狙わなきゃいけなくなる。そんな理由が」
白銀色の長い髪を、さらりと掻き上げる繊手も、黒い甲殻に覆われている。
鋭利な五指の形に節くれ立った、外骨格。
黒い甲殻質の手足を伸ばした胴体は、白い。
不吉なほどの、肌の白さだった。
人外と化す事で少々、肉感が増したように見える、魅惑的な裸身である。
「そういう理由を作ってる連中もろとも……殺す、かな。私なら」
微笑む美貌には、人間ルチア・バルファドールの面影が、充分に残ってはいる。
こちらを見つめる両の瞳は、しかし多色の光の塊だった。
左右の眼窩に、虹が詰め込まれている。そんな感じだ。
額の辺りからは一対、触角が伸びて揺らめきながら、パリパリと微弱な電光を帯びていた。
「アイリが生きてる限り、自分の生活が脅かされる……自分の、家族とか、支配地の領民とか、そういう連中まで路頭に迷う事になる。だからアイリを殺した、とかだったら?」
「……貴女が何を言っているのか、まるでわかりませんわ。もう少し相手に伝える努力をなさい、ルチア・バルファドール」
虹の瞳を睨み返し、シェルミーネ・グラークは言った。
絶大な魔力が固まって出来た長剣を、ヒュン……ッと振るい構える。
光の軌跡が、空中に残った。
「黒魔法にのめり込んだ魔法令嬢が……のめり込みが過ぎて、いよいよ人間を辞めてしまったと。わかるのは、その程度でしてよ」
「家族だの領民だの、そういう連中まで皆殺しにする……結局さあ、最終的には国そのものを滅ぼす事になるんじゃないのって話をしてるワケよ。あんただって、わかってんでしょ本当は」
ルチアの額から伸びた触角が、雷鳴を発した。
放たれた放電の光が、周囲の地面を打つ。大量の土が、舞い上がる。
「一人か二人しかいない犯人を、ちまちまと捜す事に……ねえ、何か意味があるって言うの? 答えなさいよ悪役令嬢」




