軍人がドラゴンに遭遇するとどうなるのか
「失礼する…。」
イルシュが浴室の扉を開けると、中から湯気が溢れ出し、彼女の眼鏡は一瞬にして曇った。
分かり切った事ではあったが苛ついて舌打ちをすると、先客の二人の少女が驚いて振り向いた。
だがそれを無視して上目遣いで風呂の中を見回すと、イルシュの顔色がみるみると落胆の極みに変わっていった。
「湯船ねーじゃん…。」
そう。彼女は勝手に湯船に入れると思っていたのだ。
「いやまあ、こんな田舎にあるなんて思ってなかったけどさ…。は~、久しぶりに肩まで入りたかったのに…。」
なんとも身勝手な愚痴を垂れ流すイルシュ。
そもそも彼女が配属されている防衛都市、ミナレバにすら湯船がある風呂屋は無いのに、何をか況やである。
「…あの…何を言ってらっしゃるのですか?」
「…さあ?よく分かんない。知らない人だし。」
突然入って来て一人で文句を言っている見慣れぬ異邦人に、先客の少女二人がヒソヒソと話し合っている。
帝国軍人に対してなんと失礼な口の利き方か、と苛つくイルシュ。
その時、ふと彼女は気が付いた。今、自分は裸である、と。
もちろん先ほど自分で脱いだのだし、ここは風呂なので裸なのは当然である。
だが今の彼女は身分を誇示する服は無く、帝国軍人である事は口で言うしかない。
そしてこの少女たちに軍曹である事を誇ろうとしても、自分は裸である。
そう思うとにわかに不安になったイルシュは
「ま、まあ、たまにはゆっくり蒸し風呂を楽しみますわ!」
と、不思議な言葉づかいで愛想笑いを浮かべながら掛湯に向かう。
すると体を洗い終えた少女の一人が立ち上がり、濡れた髪をかき上げて後ろにまとめて水気を払った。
洗い場にたった一つしかないランプに照らされて浮かび上がった彼女を、眼鏡の端から覗いたイルシュは言葉を失った。
「なっ…」
(なんだよそれ…。完璧かよ…。勝てねーじゃん…。)
イルシュは辛うじて言葉を飲み込んだ。それは相手に聞かせたくないと言うよりは、口に出してしまった事で負けを認めたと思われたくない、という気持ちの方が強かった。
もちろん当の少女は相手にすらしていないのであるが。
少女たちが浴堂に入るのを見届けると、イルシュは体を流し始めた。
(変な入り方…。)
二人の少女の浴堂の入り方を見ながら彼女はそう思った。この村の風習なのか?とも思ったが、そんな変な風習に付き合う気はない。
タオルを取ると自己主張の強すぎる胸が露わになるが、今ならば誰に気を使うことなく洗う事が出来る。
一通り流すと彼女も気後れしながら浴堂に入った。中は暗闇とは言え、あの少女がいるのだ。
お互いに見られないのが幸いだとは思いつつ、低い鴨居をくぐった。
中に入ると熱い湯気が彼女を包む。その熱で彼女の緊張も解けていく。
先客の二人の少女は何も話さなかった。もっともイルシュも話す気は無かったので、ただたた沈黙の時間が流れていく。
しかしそんな女風呂はお構いなしに、隣の男風呂からは男たちのバカ騒ぎが聞こえてくる。
その下らない話を聞き流しつつ彼女は眼を閉じる。
時折、少女たちがクスクスと笑ったり、呆れてため息をついたりする。
(…なんかいいな…この感覚…。)
イルシュは少し心が和んだ。
(なんか普通の女の子っぽい…。)
彼女は生まれた時から軍人の家庭で育ち、軍隊に入ってからも窮屈な生活を送っていた。
女性軍人がいるとは言えども、比率で言えば一割程度でありいわゆる普通の女の子たちの集まりではなかった。
子供の頃から心の片隅で普通の女の子の人生に憧れていた彼女は、今こうしている事が普通の女の子になったような気分がするのだ。
束の間の女の子を堪能すると、イルシュは先客を残して浴堂を出た。
熱いのが苦手という理由もあるし、軍隊方式に馴染んだ彼女は長風呂に少し罪悪感があったからだ。
たっぷりと汗をかいた肌を綺麗に洗い流したところで、先客の少女二人が浴堂から出てくる気配があり、イルシュは慌てて洗い場を出た。
脱衣所に出ると涼しい空気が彼女の肌を撫でる。
「ああ…気持ちいい…。」
ひと時の涼と堪能すると彼女は新しい服に袖を通した。
汗ばんでいない下着とシャツが風呂上がりの火照った彼女の肌を撫でる。
「あのむさ苦しい詰所で男まみれの生活よりはマシだな。」
じゃんけんに負けて一人で偵察に出されて正解だったかもな…とイルシュは思った。
濡れた髪のために帽子は被らなかったが、しっかりと軍服に身を包んだ彼女は颯爽と脱衣所を出る。
彼女は失念していたのだ。
それはあまりにも平和な村の様子のせいだ。
彼女の仕事はドラゴンの偵察である。
村の様子を見て彼女はドラゴンはいないものだと思い込んでいた。
まさかドラゴンが村に馴染んでいるとは思いもよらなかったのだ。
脱衣所の暖簾をくぐると、目の前にドラゴンがいた。
小さなイルシュからすれば見上げるような大きなドラゴンが。
首にタオルをかけて。
「あぎょ…!!」
謎の声が出かかった刹那、彼女は両手で自分の口を塞いだ。
(くぁwせdrfgtyふじこ…!!)
声にならぬ押し殺した悲鳴が少しだけ漏れた。
意地でも悲鳴を押し殺したのは、彼女の女としての矜持なのか、ラクメヴィア帝国軍人としての体面なのかは分からない。
それでも瞬時に口を閉じた精神力には感服するほかない。
番頭の方を向いていたドラゴンが声に気が付いてゆっくりと顔を彼女の方に向けた。
世界最強の魔物が彼女の姿を見止めた。
足がガクガクと壊れたように震え、彼女はその場に糸の切れた操り人形のように崩れた。
それでも口を押え続けて声ならぬ悲鳴を上げる。
口を押える手の肘も激しく痙攣し、その異様は見る者に恐怖すら与えた。
彼女の肺にある全ての空気を絞り出して悲鳴は止まる。それでも喉は何かを吐き続けた。
先ほどまで上気していた顔は土気色と言えるほどまでに青ざめ、極限まで見開かれた眼が少しずつ上を向く。眼球上転だ。
「あ~あ~、大丈夫かね?」
「…おやっさん。この人間は?」
「ああ、さっき入った帝国軍人さんだよ。」
薄れゆく意識の中、ドラゴンが何かを言っているが、彼女の耳はそれを言葉として認識しなかった。
次の瞬間、彼女は自分を窒息させていた手を気合いで引きはがす。
極限まで収縮していた肺が空気を求めて暴れる。
笛のように喉を鳴らして息を吸うと
「んんっがあっ!!」
と気合い一発、上転しかけた眼球を戻した。その気迫たるや、ドラゴンですら驚嘆したであろう。
この小さな体のどこに、そこまでの力と気合いがあったのか、と思うほどの精神力で彼女は辛うじて失神を食い止めた。
そして涙でぐしゃぐしゃになった瞳でドラゴンを睨みつけた。
荒い呼吸を繰り返して彼女の顔色が徐々に回復してくる。それと共に聴力も回復し、少しずつ目の前の異形の魔物を現実のものとして認識しはじめた。
「これ、大丈夫なのか?」
さすがに心配になったキルトランスが指を指しながら番頭に尋ねる。
「どうかねえ。お前さんを初めて見てびっくりしたんだろうよ。」
そう言ってカラカラと笑う。
「おうおう、どうしたよ?!なんだ今の変な声は!!」
キルトランスの背後から、上半身裸のジャルバが飛び出してくる。
徐々にイルシュの脳が活動を始めて、現在の状況を確認しだした。
「ちょ!今の声なに?!」
イルシュの背後で乱暴に暖簾が開き、レッタが顔を覗かせた。
そして即座に足元に座り込んだ女性軍人と、どうしたものかと立ち尽くしているキルトランスを交互に見て
「あ、あ~…やっちゃったか…。」
と頭を抱えた。
「先に言ってあげてればよかった…。」
ため息交じりに溢すが、覆水盆に返らず。
先ほどの浴堂でレッタが一言だけでも彼女に言ってあげれば、この惨状は防げたかもしれないのだ。
「ヒュー!」
「おいおい、レッタちゃん!」
ジャルバは口笛を吹き、番頭のおやっさんは慌てて叫ぶ。
飛び出したレッタは下着姿であり、暖簾の隙間から豊かな胸の谷間と、むき出しの脚が艶めかしく覗いている。
「うわぁ!」
珍しくレッタが大声を上げて暖簾の奥に飛びのいた。
「ああ…油断した…。よりによってキルトランスに見られるとは…。」
レッタの後悔の怨嗟に満ちた声が暖簾の奥から漏れる。
「ど、どうしたのですか?!レッタ、大丈夫?!」
さらに奥からアリアの心配そうな声が聞こえてきた。
ジャルバはニヤニヤと笑いながら「しばらく見ないうちに立派に成長したな。」と腕組みをしながら一人肯いている。
番頭のおやっさんは仕事上こういう事は慣れており、ただ苦笑するだけであった。
そしてキルトランス本人は(いや、この前全部見たのだが…)と思ったが口に出さなかったのは正しい判断であった。
その時、遠くから叫び声が聞こえてきた。
「団長!ジャルバ団長~!!」
ホートライドが馬を駆ってこちらへ向かってきたのだ。
入口からひょいとジャルバが顔を出すと、ホートライドは疾走しつつも叫ぶ。
「もー!だから仕事中に風呂に入らないでと副団長が言ってるでしょう!」
鬼の形相で駆け寄る彼に悪びれずに頭をかいて笑うジャルバ団長。
「ミナレバから帝国軍の偵察の人が来ました!」
風呂屋の入口に駆け込んできた彼は、叫びながら走る馬から飛び降りてジャルバの前に滑り込む。
はたしてホートライドは目の前に座り込む一人の軍服少女を目の当たりにした。
そして彼もまた膝から倒れ伏した。
「ああ…間に合わなかった…。」
地面に崩れ落ちた男一人、女一人。
上半身裸の筋肉オヤジに湯上りドラゴン。
苦笑いする番頭。
意味不明の惨劇をタタカナルの風が柔らかく撫で抜ける。
その風には少しだけ初夏の香りが含まれていた。




