湯気の中で ~風呂 完結編~
ジャルバの無遠慮な呼びかけが湯気に吸いこまれる。
しかしすぐに何事も無かったように静寂が訪れ、再び湯気の立つ音とお湯の流れる音だけになった。
ジャルバを見ればニヤニヤと笑っている。
キルトランスが壁の向こうを再度見ると、先ほどの湯気の中に人影がいるのが先ほどよりははっきりと見えた。
しかしその二人の人影は全く動かない。ジャルバの言葉からその人影がアリアとレッタなのだろうとは推測できるが…。
実はこの浴堂は効率よく湯気を使うために、男女の間仕切りの壁は途中までしかなく、部屋の上部では湯気を共有する方式になっているのだ。
そのためにお互いの部屋の声はほぼ筒抜けになる。
しかしその間仕切りの壁は高く、普通の人間では向こうは見ることは出来ない。そして頑張って壁の向こうに顔を出せたとしても、そこにあるのは湯気と闇だけなので何も見えない。
しかし普通の身長でもなければ、人間でもないキルトランスでは、壁の向こうを普通に見る事ができる上に、闇の中でもそれなりに見えてしまうのだった。
「おーい。レッタちゃんよぉ~。アリアちゃんもぉ~。」
タオルで顔を拭きながらジャルバが再び声を出す。
その声に反応して湯気の中の人影が少しだけ動いた。
「冷たくしないで返事してくれよ~。」
実は女性側の浴堂には、村の女たちだけの暗黙の決まりごとがある。
浴堂にいる間は声を出さない、という決まりだ。
一つは下世話な噂話を男たちに聞かれないようにするという自衛のためであり、もう一つは今、誰が浴堂に入っているかを男たちに声でバレないようにするためであった。
もちろん、男たちだってそんな事は百も承知である。
もし村で人気の娘が入っていると分かろうものなら、若い男たちはなんとかして壁の向こうを覗こうとしたり口説こうとしたりと、日夜しょうもない努力をするのであった。
それを村の女たちみんなで防ごうとする、ある意味では田舎特有の牧歌的な男女の攻防がそこでは繰り広げられている。
少女たちもその慣習に倣い沈黙を守っていた。
しかし運悪く、浴堂にいるのは戦いの達人ジャルバ団長であった。
彼ともなれば壁の向こうではあるものの、たった数メートルしか離れていない人の気配を感じるなど造作もない事であった。
だから彼はアリアとレッタの二人が隣にいる事を分かっていて声をかけている。
そしてタチの悪い事に、ジャルバは何か用事があって声をかけたわけではない。うら若き少女たちが恥ずかしがるのを分かっていてからかっているだけだ。
もっとも、キルトランスのように目視ができる人がいてはどうしようもないのだが。
しばらく壁の向こうを見ていると少しずつ湯気が薄くなり人影が見えるようになった。そしてその二人の人影ははたしてアリアとレッタであった。
キルトランスは初めての人間の女の裸をまじまじと観察してみた。もちろんそれは純粋な好奇心である。
見れば二人は外見からの印象も違ったように、体つきにも違いがあった。
まずアリアが髪を下ろしているのを見るのは初めてで、それだけでもかなり印象が変わる事が分かった。
ふり返ってジャルバと見比べると少女たちの体は小さく丸みを帯びており、ドラゴンニュートからすればまるで別の種族のように異なっていた。
視線を下げれば胸のふくらみが目に入る。
ドラゴンニュート族は母乳で育てる種族ではないので雌に乳房は無い。それゆえにその二人の胸のふくらみはキルトランスには奇異なものに感じた。
見比べるとレッタのそれは大きく、アリアのそれは小さかった。そして振り返ってジャルバを見ると、彼のそれも大きく盛り上がっていた。
だがジャルバのそれは鍛え抜かれた大胸筋であり、レッタの乳房と比べるのがおかしいのだが、キルトランスにそんな違いが分かるはずもない。
ただ、筋肉の付き方がキルトランスに近いために、これが男と女の差なのかもしれないと判断したが。
例によってキルトランスの観察に任せておくと、あまりにもピンポイントかつ、ピントのずれている観察を繰り返すので、少々要約させていただく。
アリアは全体的に少し幼く感じられる小さな肩幅に尻、そして大きさこそ控えめだが形の良い乳房に細い手足である。
しかし手足の筋肉はしっかりとあり、それは日常生活で彼女の体が普通の人よりも酷使されている事の表れでもある。
視覚での不測の事態対応が可能な人と違い、アリアは常に何かが起こった時のために筋肉に力を無意識に込めてしまっている。その結果が彼女の筋肉にも表れているのだ。
一方、レッタはその豊かな乳房とお尻のおかげで腰がとても細く感じる。そして山岳を駆ける鹿を連想させる引き締まった脚は、先日の夜の疾走が決して不可能ではないと理解できるものであった。
見ればキルトランスの治癒のおかげで彼女の体には一つの傷跡も残っていない。
分かりやすく言えば、レッタは非常に女性らしい扇情的な肉体をしている。それは村の若い男たちの視線を集めてやまない美貌ではあるのだが、当のレッタがまったくそれに興味を示さないので宝の持ち腐れである。
そしてアリアもレッタとは異なる美少女であり、そのあどけなさは庇護欲をそそる可愛らしいものであった。もっともアリアもまた自分の容姿を見ることは出来ないという宝の持ち腐れなのだ。
もっとも彼女がレッタのような体つきであれば、人生が大きく変わっていたのかもしれない。
人間の男と女はまるで別の種族のようだな…とキルトランスは思った。
キルトランスがある意味では失礼なほどに冷静に少女の裸を観察している間も、ジャルバは下世話なからかいを続けている。
もっともジャルバのそれに余裕を感じられるのは、彼が既婚者であり六人の子供の父である事と、その中の二人の娘がアリアたちと年齢が近いからである。彼からしたら娘をからかっているようなものだからだ。
この時代、子供が五人以上いる家庭は珍しくもなく、アリアやレッタのように一人娘という家庭の方が稀有であった。
しかしさすがに痺れを切らしたレッタが低い声で牽制する。
「団長さん…いい加減にしないと、そろそろ娘さんに言うよ?」
「はい。すみませんでした。黙ります。」
その言葉でジャルバは笑いながら口を閉じた。
彼くらいの歳になると奥さんよりも、娘に嫌われる方がよっぽど堪える。奥さんに報告すると言うよりも効果がある事をレッタは知っていた。
さすがにいる事がばれていると観念した二人は諦めたように話し出した。
「あの…キルトランス様、いらっしゃいますか?」
「ああ、いる。」
アリアの顔は声の方向だけでキルトランスの声の方向を正確に捉えていた。
「お風呂はどうですか?」
「なかなかに心地よい場所だな。」
「そうですか、それは良かったです。」
そう言って微笑むアリア。その笑顔を恨めしそうに見るレッタ。
「ここにいるとドラゴン界を思い出す。」
「ほう。」
ジャルバがその言葉に興味を示した。
「さすがにここまで熱くはないが、湿った空気が懐かしい。」
こちらに来てまだ日も浅いのにもかかわらず、キルトランスはすでにドラゴン界が懐かしく思えていた。
無為に過ごせば平気で一年をのらりくらりと生きてしまうドラゴンたちにとって、このたった数日の密度は下手をすれば五年分ほどの内容の濃さであったからだ。
キルトランスはその場で魔世界の話を少しみんなに話して聞かせた。その未知の世界の話に三人は聞き入った。
「…面白そうですね。私もいつかキルトランス様の生まれた世界に行ってみたいです。」
微笑みながら、少しだけ悲しそうにアリアは言った。なぜなら行っても見ることは出来ないからだ。
「どうだろうな…人間が魔世界に行くのは難しいと思うが…。」
空気を読まずに事実を述べるキルトランス。レッタは小さくため息をついてアリアの肩を持った。
「アリア、大丈夫?もう出ようか。」
「はい…今日は少し長居しちゃいましたね。」
そう言って二人は浴堂を後にした。ジャルバとキルトランスもまた洗い場に戻った。
そして一つ分かった事がある。
キルトランスの皮膚は鱗で覆われており、体を擦るとタオルの方がボロボロになってしまう事。
そして垢が出ることはなく、浴堂に入る事に大して意味はなかったこと。
キルトランスは脱皮するので風呂に入る必要はなかったのだ。
ある程度の時間が経てば、人間で言う過度の日焼けをした後に皮がめくれるように、皮膚をはがすことができるのがドラゴン族である。
それでも体に着いた埃は落とせるし、何よりも薄暗い場所で暖かい湿気を全身に浴びることが何よりも気持ち良かったキルトランスは、風呂というものをたいそう気に入った。
この日からキルトランスはアリアたちを引き連れて、足繁く風呂屋に通う事になった。




