坑夫
グレンの家は、村の畑が途切れ、雑木林が始まるすぐ手前にぽつんと建っていた。
手入れのされていない庭を抜け、ミオが扉を叩くと、中から何かを引きずるような重い足音が近づいてきた。ぎいと細く開いた扉の隙間から、無精髭を生やした四十代半ばほどの男が、険しい目でこちらを睨みつける。片手には、使い込まれた太い木の杖が握られていた。
「……粉挽き小屋の娘だな。何の用だ」
村はずれに住んでいても、村に一人しかいない拾われ子の顔くらいは知っているらしい。ミオは村長の名前を出すよりも先に、両手で抱えていた木の椀を、その目の前にそっと差し出した。
「これを見てもらいたくて来ました。黒岩山の第三坑道から運ばれてきた、黒い骨の粉です」
グレンの目が、椀の中の灰色の粉に落ちた。
ただの砂や灰にも見えるそれを見た瞬間、男の顔色が変わった。扉の隙間からでも分かるほど、その額に青筋が浮かぶ。
「この骨が、ひと月前から村の染物工房に運ばれていました。工房はそれを薬で溶かし、出た泥を井戸のすぐそばの穴に捨てていました。そして昨夜、井戸の水面に、油みたいな虹色の膜が浮いているのが見つかったんです」
ガタン、と大きな音がして扉が引き開けられた。
「馬鹿な!」
杖を突くのも忘れたかのように一歩踏み出したグレンが、ミオの手から椀をひったくるようにして覗き込んだ。だが、すぐに鼻先を近づけるのを止め、忌々しそうに顔を背ける。
「なんであれが外に出ている!? 第三坑道は領主のお触れで封じられたはずだぞ!」
「行商人が運んできたんです。それで今、村でたくさんの人が倒れています。吐いて、手足がしびれて……工房の女の人は、特に重篤な状態でした」
グレンは奥歯を噛み締めるようにして黙り込んだ。椀を持つ大きな手が、かすかに震えている。
やがて男は荒い息を吐くと、顎で家の中を示した。
「……入れ。ただし、先に言っておくぞ。もしお前や村の連中が、調べるとか言ってあの坑道に入るつもりなら、今すぐやめろ。あそこは人が入っていい場所じゃない」
薄暗い家の中は、乾いた薪と薬草の匂いがした。
グレンは悪い方の足を庇いながら木の椅子に深く腰を下ろすと、ミオに背を向けるようにして暖炉の灰を見つめたまま、ぽつりぽつりと話し始めた。
第三坑道は、掘れば掘るほど下へと降りていく、長い下り坂の坑道だったという。
異変に気づいたのは、ずいぶん深くまで掘り進んだ頃だった。坂の途中で、魔物の骨が山のように転がっている場所に行き当たったのだ。それも、ただの骨ではない。大きな熊のような獣も、小さな狐のような獣も、同じ場所で折り重なるようにして倒れていた。牙や爪で争った跡はどこにもなく、まるで眠るようにしてそのまま骨になっていたという。
坑夫たちは気味悪がったが、そのさらに奥には静かな地底の湖が広がっており、水脈に当たったのだと最初は喜んだ。そして湖のほとりをさらに掘り進めた先で、ツルハシが硬いものに当たった。
自然の岩盤ではなかった。四角く切り出された石が隙間なく積み上げられた、古い壁だった。石と石の継ぎ目には、見たこともない黒い樹脂のようなものがびっしりと塗り込められていた。
「俺たちは止めようと言ったんだ。あんな地の底に人の手で作った壁があるなんて、どう考えてもまともじゃない。だが、町から来ていた監督官が聞かなかった。向こうに古い遺跡か宝があるに違いないと言って、無理やり壁を崩させたんだ」
グレンの声が、そこで一段と低くなった。
石をいくつか外し、壁に穴が開いた瞬間だった。向こう側の真っ暗な空洞から、生温かい風がぶわっと吹き出してきたという。
「ひどい匂いだった。腐った卵と、焦げた金属を混ぜたような、鼻の奥が焼けるような匂いだ。風はすぐに止んだから、その日はそのまま引き揚げた。だが翌朝、様子を見に行くと、地底の湖の水位がずいぶん下がっていてな……その水面に、べったりと虹色の膜が広がっていたんだ」
ミオはごくりと唾を飲んだ。昨夜、松明の火に照らして見た、あの井戸の底の景色とまったく同じだ。
「それから幾日もしないうちに、仲間が次々と倒れた。頭が割れるように痛いと泣き叫び、胃の中のものを全部吐き出し、手足がしびれて動けなくなった。そして……壁を崩した連中が、そのまま死んだ」
杖を握るグレンの指が、白くなるほど力を込める。
「領主のところから役人が飛んできて、坑道はすぐに塞がれた。その時、妙な命令が出たんだ。死んだ仲間の着ていた服や使っていたツルハシは、残らず集めて灰になるまで焼け、と。なのに、坑道に転がっていたあの黒い骨だけは、決して焼くな、そのまま坑道に置いて封じろと命じられた」
服は焼くのに、骨は焼くな。おそらく、骨を火にくべれば、またあの毒の煙や匂いが立ち上ることを、役人かその背後にいる誰かは知っていたのだろう。そして焼かれずに残された骨を、誰かが掘り出してラグナスに売り渡し、この村の工房で薬に溶かされたのだ。
◇
「グレンさん。今の話、昼に町から来る学者様と、村の人たちの前で話してもらえませんか」
ミオが身を乗り出して頼むと、しかしグレンは吐き捨てるように鼻を鳴らした。
「断るね」
「どうしてですか! あなたの話があれば、病の原因があの骨だってすぐに分かります!」
「言ったはずだぞ、役人が来たってな。その時、あの監督官が何と言ったと思う? 『鉱山の奥に溜まっていた悪い空気のせいだ、よくある事故だ』と抜かしたんだ。俺が壁のことをいくら言っても、誰も耳なんか貸さなかった」
グレンは自分の動かない片足を、杖の先でコツンと叩いた。
「それに、俺はあの時、坑道の入口近くにいて助かっただけだ。一番奥にいた仲間を見殺しにして、のうのうと生き残った。なんで俺が助かって、あいつらが死んだのか、俺にだって分からねえ。何も説明できない男の昔話を、今さら誰が聞くってんだ」
グレンはそう言うと、もう話は終わりだとでも言うように目を閉じてしまった。
ミオは立ち尽くした。このままグレンが来なければ、昼の話し合いでこの話を伝えるのはミオだけになる。だが、村人たちが拾われ子のまた聞きを信じるはずがない。工房の主人に「またあいつが適当な作り話をしている」と笑われて終わりだ。
グレンを動かすには、この人がずっと抱えている罪悪感という重荷を解いてあげるしかない。
ミオはグレンの閉じた目を見定めると、古い木の机の陰にそっと手を下ろし、指先を動かした。
『今から北の鉱山にいたグレンさんって人のところで聞いた話を書く。すごく大事なことだから、聞いて』
ミオは手早く文字を連ねた。下り坂の坑道。壁を崩した時に吹き出した、腐った卵と焦げた金属みたいな匂い。そして、入口近くにいたグレンさんが助かり、壁を崩していた人たちが亡くなったこと。
書きながら、ミオはふと疑問に思って、グレンに一つだけ尋ねた。
「あの……その時、壁の近くにいた人は、全員亡くなったんですか?」
グレンは目を開けずに、ぶっきらぼうに答えた。
「いや。オルドという仲間が一人だけ、壁のすぐそばにいたのに軽いしびれだけで済んだ。あいつは俺よりずっと長く奥にいたのにな。だから言っただろう、誰が死んで誰が生きるかなんて、ただの運だったんだ」
ミオはその言葉もそのまま文字にして付け加えた。
『奥に長くいたオルドさんって人は軽く済んで、壁を崩していた人が亡くなった。グレンさんは運だって言ってる。ねえ恒一、これって本当に運なの?』
文字が返ってくるまでの間、ミオは自分の心臓の音を聞いていた。
やがて、机の陰の暗い空間に、白い文字がすっと浮かび上がった。
『腐った卵の匂いなら硫化水素かも。だとしたら空気より重いから、低い所に溜まる』
空気より、重い。
『床や溝や、坂の下に溜まる。逆に言えば、同じ場所にいても、顔の位置が高ければ吸う量は少なくて済むはず』
ミオの目が大きく見開かれた。
空気より重い毒。水と同じように、低い場所へと流れ落ち、足元に溜まる見えない毒。
ミオは机の下から手を上げ、椅子に座るグレンの姿――その傍らに立てかけられた杖と、床に着いた足元を交互に見た。それから、恒一がくれた知識を、この鉱山で働いていた男が目で見ていたはずの景色へと置き換えて、静かに口を開いた。
「グレンさん。亡くなった方たちは、その時、壁のところでどんな姿勢をしていましたか?」
グレンがうるさそうに片目を開けた。
「姿勢だと? そんなの、決まってるだろう。壁の一番下の石をバールでこじ開けてたんだ。地面に膝を突いて、しゃがみ込んで……」
そこまで言って、グレンの言葉がぴたりと止まった。
ミオは畳みかけるように、もう一つ尋ねた。
「じゃあ、助かったオルドさんという方は?」
「オルドは……あいつは、見上げるような大男でな。あの時は、壁の上の方を調べるために組んだ木の足場に登っていた。休む時も、坑道が狭いからっていつも壁に背中を預けて立ったままで……」
グレンの目が、みるみるうちに見開かれていく。
「そしてグレンさんは、下り坂の坑道の、入口に近い高い段のところに立っていた。違いますか?」
「……待て。なんでだ。なんでそんなことが分かる」
掠れた声を上げるグレンに、ミオは一歩近づいて言った。
「毒ガスは、重いのかもしれません。だから壁から出た後、水のように床の方へ落ちて、低い場所や坂の下に溜まったんです。足元の方に何か見えませんでしたか?」
「低い場所……溝があった!」
グレンが弾かれたように顔を上げた。
「坑道の脇の排水溝の底に、白い霧みたいなものがうっすら溜まっていた! それに、壁を崩した後、足元をちょろちょろ走り回っていた鼠が一匹残らず消えたのに、天井にぶら下がっていた蝙蝠はぴんぴんしていたんだ!」
バラバラだった記憶の欠片が、一つの線で繋がっていく。
しゃがみ込んで一番下の石を外していた者たちが、真っ先に濃い毒を吸い込んだ理由。大男のオルドが足場の上で助かった理由。そして、坂の上の入口近くにいたグレンが生き残った理由。
それは気まぐれな運などではなく、ただ『どの高さで息をしていたか』という、残酷なまでに単純な違いだったのだ。
「娘……お前、それを誰に教わった? そんなこと、調査に来た役人も学者も一言も言わなかったぞ」
食い入るようなグレンの視線に、ミオは少しだけ目を伏せ、いつもの言葉を口にした。
「……昔、そういう話を聞いたことがあって。でも、もしその通りだとしたら、怖いんです」
ミオは顔を上げ、グレンの目をまっすぐに見た。昨日の夜から自分の頭の中にあったもう一つの景色が、今の話とぴたりと重なって背筋を冷たくしていた。
「一昨日、工房の地下室で、女の職人さんが骨を溶かす薬の壺を割りました。その人は昨夜から激しい嘔吐で意識がなくなって、町の医者へ運ばれました。……割れた壺の薬を片付ける時、その人は地下室の床にしゃがみ込んで、長いこと拭いていたはずです」
グレンが息を呑む音がした。
風通しの悪い工房の地下室。その床にこぼれた液体から立ち上った重い毒を、床に這いつくばって拭き取っていた女。坑道の壁の下でしゃがみ込んでいた自分の仲間たちと、まったく同じ姿がグレンの脳裏にも浮かんだのだろう。
グレンはそれ以上何も聞かず、太い杖を掴んで立ち上がった。
悪い足を引きずりながら奥の棚へ向かうと、そこから折りたたまれた一枚の古い紙を取り出し、懐へねじ込む。かつてあの石積みの壁にあった奇妙な模様を、炭で写し取ったものだという。
「グレンさん……」
「行くぞ。小娘がそんな話をしたところで、村の連中は信じやしない」
扉へ向かう元坑夫の背中は、最初にミオを迎えた時よりもずっと大きく見えた。
「あの毒がどうやって人を殺すか、俺が自分の口で言ってやる」




