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学者

 昼の鐘が鳴る頃、染物工房の裏手には、朝よりもさらに多くの村人が集まっていた。


 歩くのに時間がかかるグレンは、ミオを一足先に行かせた。言いつけを破って歩き回っているミオを見て、エドガーは眉をひそめたが、すでに学者が到着していたため、その場で叱りつけるようなことはしなかった。


 穴の縁にしゃがみ込んでいる壮年の男――町から来た学者、セリウス・ヴァンは、旅塵のついた外套の裾も気にせず、じっと枯れた草と黒ずんだ土を見つめていた。


 穴の土には指一本触れず、ただ鼻先を近づけてわずかに匂いを嗅ぐと、セリウスは静かに立ち上がった。


「……間違いなく、魔物の骨を薬で処理した際に出る泥ですね。それも、かなりたちの悪い毒を含んでいる。村長殿、この穴には決して人を近づけてはなりません。工房の地下室も同様です。風を入れるまでは、誰も入れてはならない」


 落ち着いた、よく通る声だった。ざわめく村人たちを制するように片手を上げると、セリウスは言葉を継いだ。


「ただし、捨てられた泥が、土を通って井戸にまで届いたかどうかは断定できません。土の深さや水脈の向きを調べなければ、確かなことは言えないのです」


 見た物しか言わない。学者としては至極まっとうな、誠実な答えだ。


 だが、その慎重な言葉を、待っていましたとばかりにすくい上げた者がいた。


「ほ、ほら見ろ! やっぱりうちの泥が井戸に入ったとは限らないんじゃないか!」


 工房の主人が、ここぞとばかりに大声を張り上げた。穴の泥のことがバレた以上、なんとかして井戸の毒だけでも別の誰かのせいにしなければ、自分の工房は完全に潰れてしまう。主人は血走った目でミオを睨みつけ、村人たちに向かって腕を振り回した。


「学者様、聞いてください! 井戸に毒を入れたのは、そこの拾われ子なんです! こいつは昨夜、夜中に勝手によその家から鍋を借りて井戸の水をいじくり回し、砂を入れた妙な桶を作ったり、病人に薬じゃなくて塩を飲ませたり、意識のないうちの職人を乱暴に転がしたりしていたんです! おまけに、誰もいない暗がりで、一人で気味の悪い手つきで宙を掻き回していたのを見た者が何人もいる! 呪いか毒の調合に決まっています!」


 主人が並べ立てたのは、どれ一つとっても嘘ではない、昨夜ミオが実際にやったことばかりだった。


 それだけに、村人たちの目線が、再び不気味なものを見るようにミオへと集まる。


「見ろ、今も袖の中で指を動かしておるぞ!」


 主人の言葉に、ミオはぴくりと肩を揺らし、袖の中で無意識に動きかけていた指を固く握り締めた。


 今ここで恒一に助けを求めれば、それこそ主人の言う通りになってしまう。ミオは唇を引き結び、一人でその視線の矢面に立った。


◇


 重い沈黙が落ちる中、口を開いたのはセリウスだった。


「……鍋で水を沸かし、砂の桶を通し、吐き続ける病人に塩水を少しずつ与え、意識のない者を横向きにして寝かせた。その娘がやったというのは、それで全部ですか?」

「え? ええ、そうですが……」


 勢い込んでいた主人が、拍子抜けしたように言葉を詰まらせる。セリウスは呆れたように小さく息を吐くと、ミオの方へ向き直った。


「それは呪いなどではありません。町の熟練の医者が、毒や激しい下痢の病人を扱う時に行う、ごく普通の手当です」


 村人たちの間から、戸惑いの声が漏れる。


「実はここへ来る前、町の医者のところへ立ち寄って話を聞いてきました。昨夜、この村から意識のない女性の職人が運ばれてきたそうですね。もし仰向けのまま馬車に揺られていたら、吐いた物が喉に詰まって、町に着く前に窒息して死んでいたでしょう。横向きにして口の中をかき出すよう教えた娘のおかげで命が繋がったのだと、医者は感心して、その娘に一度会いたいと言っていましたよ」


 先ほどまでおどろおどろしい呪いの儀式のように語られていたミオの行動が、外から来た学者の口を通した途端、鮮やかな医術の手順に塗り替わっていく。


 男の子の母親が、やっぱり、というように胸を撫で下ろすのが見えた。だが、追い詰められた主人はまだ食い下がった。


「し、しかし学者様! じゃあ、夜中に宙に向かって手を振っていたというのは何なんです!? あれはどう説明がつくんですか!」


 セリウスの視線が、ミオの垂らした袖元へと落ちた。


 しばしの間、観察するようにミオを見つめていたセリウスは、やがて短く首を振った。


「……それは知りませんね。私にも分かりません」


 見た物と知っていることしか言わない学者は、そこでもやはり、分からないことは分からないと答えた。


 その一言で、村人たちの目が再び揺れた。医術のことは分かっても、あの気味の悪い手つきだけは説明がつかない。やはり何か得体の知れない力を使っているのではないか。そんな疑いが、完全に消えずに燻り続けている。


 待っていてはダメだ。グレンはまだ来ない。ミオは一歩前へ出ると、自分の声でセリウスに呼びかけた。


「学者様。穴の泥だけでは分からないのなら、井戸の蓋を開けて、水面を見てください。そこに浮いている虹色のを見てもらいたいんです」


 セリウスがわずかに眉を動かし、エドガーを見た。エドガーが頷いて若い衆に目配せすると、井戸を塞いでいた重い木の板がずらされ、暗い水面が昼の光の下に晒された。


 セリウスが井戸の縁に歩み寄り、中を覗き込んだ、ちょうどその時だった。


 コツ、コツ、と乾いた杖の音が、静まり返った広場に響いた。


 集まった村人たちの群れが、道を空けるように左右へ割れる。そこを、悪い足を引きずりながら歩いてきたグレンの姿に、何人もの村人が「グレン……?」「あいつがなぜこんなところへ」と驚きの声を上げた。


 グレンは誰の顔も見ず、まっすぐに井戸の縁へと歩み寄ると、セリウスの隣から暗い水面を覗き込んだ。


 そして、短く吐き出した。


「……これだ。第三坑道の奥、地底の湖に浮いていたのと、まったく同じもんだ」


 ざわっ、と村人たちの間に今日一番の動揺が広がった。


 グレンは井戸の縁に杖を突き立て、ぐるりと村人たちを見渡した。ふだん人と関わろうとしない男が放つ、低く張り詰めた声だった。


「今の村の病なら、俺が知っている! 俺がいた黒岩山の第三坑道で、仲間を失った時の病と寸分違わねえ! そこの工房で使っていた黒い骨は、あの封じられた坑道から持ち出されたもんだ!」


 グレンはそこで言葉を切ると、すぐ横に立つ小柄なミオを顎でしゃくった。


「いいか、俺たちが坑道で虹色の膜を見たのは、この娘が麦畑で拾われるよりもずっと前の話だ! 昨日今日、小娘が鍋で何かを煮て井戸に投げ込んだくらいで、あんな膜ができるわけがねえだろうが!」


 よそ者のミオの言葉ではなく、外から来た学者の理屈でもなく、同じ村に暮らす男が自分の目で見た事実として突きつけた言葉は、何よりも重く村人たちの胸に落ちた。


 セリウスが、深く頷いてその後を引き取った。


「……黒岩山の第三坑道。領主様のお触れで封じられた山ですね。なるほど、お触れにあった坑夫の症状とも一致します。坑道の湖に浮いていたのと同じ膜が井戸に浮き、すぐ隣の工房ではその坑道の骨を溶かして、毒の泥を穴に捨てていた。……これだけ揃えば、もはや疑う余地はありません。井戸の毒は工房の泥から染み出したもので、そこの娘に作れるような物ではない」


 そしてエドガーが、最後の一押しをするように一歩前へ出た。


「その黒い骨を運んできた行商人の荷車は、先ほど南の橋で留め置いた。木箱にはすべて『黒岩山 第三坑道』の焼き印がある! さらに、元職人のバルドが、主人の言いつけで毒の泥を沈める手間を省き、そのまま裏の穴に捨てていたと白状した!」


 エドガーは、顔を真っ青にして立ち尽くす工房の主人を一瞥し、それから村人たちに向かって腹の底から声を響かせた。


「――皆の者、聞いたな! 今日ただいまより、染物工房は完全に差し止めとする!」


 朝の広場ではミオから距離を取っていた村の男たちが、今度は蜘蛛の子を散らすように、工房の主人の周りからさっと後ろへ下がった。


 グレンはさらに、坑道でしゃがみ込んでいた者が死に、立っていた者が助かった話をセリウスに伝えた。それを聞いたセリウスが、ゆっくりと工房の主人へ振り返る。


「……主人。一昨日、地下室で壺を割ったという女の職人は、床を拭くためにどれほどの間、そこでしゃがみ込んでいましたか?」


 主人は口をぱくぱくと開閉させたが、その喉からはもう、どんな言い訳の声も出てこなかった。ただ膝から崩れ落ち、乾いた土の上に座り込む。


 ミオを取り巻いていた重苦しい疑いの空気は、それで綺麗さっぱりと晴れたはずだった。


 ただ一つ――『なぜ夜中に宙へ向かって手を振っていたのか』という問いにだけは、学者も、村長も、グレンも答えを出せないまま。セリウスの思案するような視線が、ほんの一瞬だけ、ミオの袖元をかすめていった。


◇


 村人たちが井戸の周りを遠巻きに離れていく中、南の橋へ行かせていた若者が戻ってきて、エドガーに耳打ちをした。


 エドガーは眉をひそめ、ミオとセリウス、そしてグレンにだけ聞こえるように声を落として言った。


「橋で留めた行商人のラグナスが、こう言っておるそうだ。『俺はただ、古い鉱山を調べ回っている連中から骨を買い取っただけだ。相手の名前も雇い主も知らん。封じられた坑道が開いていたのは俺のせいじゃない』とな」

「……開いていた、だと?」


 グレンの声が、地を這うように低くなった。


「領主のお触れで厳重に塞がれたはずの第三坑道を、誰が勝手に開けたってんだ」


 グレンは懐から、あの折りたたまれた古い紙――石積みの壁の模様を写し取った紙を取り出し、セリウスに手渡した。


 それを受け取って広げたセリウスの目が、鋭く細められる。遺跡と魔物の生態を調べている学者の顔つきになっていた。


「……これは、ずいぶん古い時代の封印の紋様ですね。グレン殿の話と合わせると、起きたことの順番はこうなります」


 セリウスは指を折りながら、静かに整理してみせた。


「まず、坑道の坂の途中で魔物が折り重なって死んでいたのは、あなた方が壁を崩すよりもずっと前のことです。次に、坑夫たちが病に倒れたのは、壁を崩して空洞の風と匂いが出てきた後。そしてこの村が病んだのは、その坑道に転がっていた魔物の骨が持ち出されてからです」


 ミオは息を詰めた。つまり、あの魔物たちは、壁が崩されるよりも前に死んでいたのだ。なのに、その骨には毒が染み込んでいた。


「地底の遺跡は、間違いなく人工物でしょう。その壁の向こうに何が封じられていたのかまではわかりませんが」

「壁の向こうなら……」


 グレンが重々しく口を開いた。


「あの時、足場の上から、崩れた穴の向こう側を松明で照らして覗き込んだ奴が一人だけいる。さっき話した、生き残った仲間のオルドだ。あいつは今、隣の村で猟師をしている」

「オルド殿、ですか。ぜひ直接お会いして話を聞きたいところですが……私はまず、この村の穴と地下室の始末を見届けねばなりません」


 セリウスが残念そうに言うと、ミオは迷わず手を挙げた。


「私が行きます。隣の村まで行って、オルドさんに話を聞いてきます」


 グレンが驚いたようにミオを見下ろし、それから「鼻っ柱の強い娘だ」とでも言うように、少しだけ口元を緩めた。


「オルドは気難しい奴だが、俺の名前と、その『毒は低いところに溜まる』って話をしてやれば、きっと口を開くはずだ」


「馬を一頭出そう。若い衆に手綱を取らせるから、日暮れまでには行って戻ってこられるはずだ」


 エドガーの言葉に、ミオは深く頭を下げた。


 広場から少し離れた木陰へ移動し、周りに誰もいないことを確かめてから、ミオはようやく目の前に画面を呼び出した。


 そこには、ミオが工房の裏に着いてからこれまでの間に届いていた文字が、いくつか並んでいた。だが、朝の宿の裏庭の時のように、何度も返事を急かすような言葉はなかった。


 一番最後の行には、ただ短く、こう書かれていた。


『待ってる』


 約束通り、ミオが返事を書けるようになるまで、恒一は何も言わずに画面の向こうで待ち続けてくれていたのだ。


 ミオは微笑み、指先で素早く文字をなぞった。


『お待たせ。グレンさんが来てくれて、私の疑いは晴れたよ。それでね、坑道の壁の向こうを見たオルドさんって人に話を聞くために、今から馬で隣の村へ行ってくる』


 送った直後、すぐに新しい文字がポンと浮かび上がった。


『うん。気をつけて』


 ミオは小さく頷くと、画面を消し、馬が待つ村の入り口へと向かって走り出した。


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