行商人
まだ昼にはずいぶんと間があるというのに、村の入り口に近い宿の裏庭に止められた荷馬車には、すでに半分以上の木箱が積み上げられていた。
荷台のそばで、四十くらいの痩せた男――行商人のラグナスが、手慣れた様子で木箱を持ち上げては荷台へ載せている。
男が木箱をドンと置くたびに、木の継ぎ目から、白っぽい灰色の細かい粉がぱっと煙のようにこぼれ落ち、朝の光の中に舞った。
そこから何歩も離れているミオのところまで、風に乗ってその粉の匂いが流れてくる。ほんの少し息を吸い込んだだけで、喉の奥がちりちりといがらっぽくなり、ミオは慌てて自分の袖で口と鼻を覆った。
それなのに、粉の真ん中にいるラグナスは、咳ひとつしない。顔色ひとつ変えず、まるでただの小麦粉でも扱っているかのように、淡々と荷積みを続けている。
「……あ、あの、娘さん」
裏庭の隅にある薪置き場の陰から、宿の主人がおどおどした様子で手招きをしてきた。
ミオが近づくと、宿の主人はミオと目を合わせないようにしながら、申し訳なさそうに小声で言った。
「す、すまない。うちの客が村に病を運んできたのかと不安になってな……ついさっき、朝飯を出しに行った時に、お前さんが病のことであの骨の話を聞きたがっていると、ラグナスに口を滑らせちまったんだ」
自分の宿から毒が出たと思われたくなくて、早く白黒つけようと余計なことを言ったらしい。
「そうしたらあいつ、昼に発つと言っておったのに、飯も食わずにいきなり荷を積み始めおって……あいつは北から月に一度、魔物の骨を運んでくるんだが、そういや昔は北の古い鉱山にいたという噂がある。坑夫が妙な病で倒れて、今は誰も掘っておらん死に山だそうだ……」
ミオが薪置き場の陰からもう一度荷馬車の方を見ると、ちょうどラグナスがこちらを振り返ったところだった。
痩せた頬に、感情の読めない窪んだ目。
「――荷には触るなよ、娘」
ラグナスは低く、それだけを言うと、すぐに興味を失ったように背を向け、馬の革帯を締め始めた。
◇
ミオは薪置き場の陰で、宙の画面に素早く指を走らせた。
行商人が、こちらの動きに気づいて昼を待たずに村を出ようとしていること。木箱から灰色の粉がこぼれていて、離れていても喉がいがらっぽくなるのに、あの男は咳ひとつしないこと。北の閉鎖された鉱山にいたという噂があること。
すぐに、恒一からの文字が飛び込んでくる。
『ミオ、粉も有害かもしれない。そこから近づかないほうがいい』
『鉱山から出た粉なら、重金属が混じってるかもしれない。相手は手慣れているみたいだし、ひとりで関わるのは危なすぎる。もうすぐ学者が来るんだろう? 学者が来るまで、そこで待って』
ミオは、宙に浮かぶその文字をじっと見つめた。
夜明け前、工房の地下へ降りようとした時に『行かないで』と言われた時は、従った。自分まで倒れたら調べる人がいなくなるという理由をつけて、引き返すことができた。あの時はまだ、地下の甕も裏の穴も、そこから逃げたりはしなかったからだ。
けれど、今は違う。
今ここで学者が来る昼まで大人しく待っていたら、あの荷馬車は村を出て行ってしまう。一番の元凶を知っているはずのあの男も、木箱の中身も、すべて遠い北のどこかへ消えてしまうのだ。
ミオは、画面に向かって上げかけた自分の右手を、ゆっくりと下ろした。
返事は、書かない。
恒一はきっと、もっと強い言葉でミオを止めるだけだろう。そして、そこまで強く止められたら、ミオはきっとまた、その優しさに甘えて従ってしまう。
何をどうするかを決めるのは、この村の空気を吸い、あの男の子の軽い体や、枯れた草を自分の目で見たミオ自身だ。
ミオは宙に浮かぶ画面からすっと目を離し、裏庭の地面を見た。
ラグナスが馬の首筋を叩いている荷馬車のすぐ後ろ――まだ荷台に上げられていない、縄のかかっていない木箱が一つだけ、地面にぽつんと残されている。
ミオは左の袖で口と鼻を強く覆い直すと、返事を待つ画面を置き去りにして、その木箱へと向かって静かに足を踏み出した。
ミオの足が向かったのは、木箱そのものではなかった。
その足元――乾いた土の上にさらさらとこぼれ落ちている粉だ。
口元を覆った袖の陰で、宙に浮かぶ画面がせわしなく光っているのが分かる。新しい文字が次々と打ち込まれているのだろう。だが、ミオはそちらに視線を動かさなかった。見てしまえば、そこには間違いなくミオの足を止める言葉が並んでいる。そしてそれを読んでしまえば、ミオはきっと立ち止まってしまう。幼い頃から、理屈を並べて諭す恒一に、ミオは一度だって言い勝てたためしがないのだから。
だから見ない。ただの意地であり、都合の良い耳塞ぎだということは自分でも分かっていた。
ミオは木箱のすぐ脇で膝を折り、手に持っていた木の椀――朝方、工房の主人に突きつけて払いのけられた椀の縁を、地面の粉へと滑らせた。
「おい、娘! 触るなと言ったはずだぞ!」
頭上から、鋭く掠れた怒鳴り声が落ちてきた。
最後の木箱を抱え上げたラグナスが、ぎょっとしたように目を見開いてこちらを見下ろしている。ミオは咄嗟に椀を胸元へ引き寄せ、肩をすくめた。
しかし、ラグナスは手を出してこなかった。
抱えた木箱で両手が塞がっていたせいもある。だがそれ以上に、しゃがみ込んだミオの視線が、自分の腕の中にある木箱の横腹――そこに黒々と捺された焼き印にぴたりと止まったことに気づいたからだ。
『黒岩山 第三坑道』。
擦れて端が欠けてはいるが、十分に読める文字だった。
「……俺は、買って運んでいるだけだ」
ミオがまだ何も尋ねていないというのに、ラグナスは早口にそう言った。
まるで言い訳を並べる子供のような、あるいは自分自身に言い聞かせるような響きがそこにはあった。
「坑道に幾年も転がっていた魔物の骨を、買い取って運んでいるだけだ。いいか、ただの古い骨だぞ? そんな転がっていただけの骨で、人が病むわけがないだろうが」
ミオは黙って立ち上がると、椀の中の灰色の粉をこぼさないよう注意しながら、ラグナスの顔を見上げた。
聞き覚えのある話し方だった。夜明けに工房の裏の穴を見た時、あの主人もまったく同じように、聞かれてもいない壺の話を自分から持ち出してきたのだ。人は後ろめたいことがある時ほど、聞かれる前に答えを並べてしまうものらしい。
「黒岩山って、宿のご主人が言っていた北の鉱山ですよね。坑夫の人たちが病に倒れて、閉じられたっていう」
「……それがどうした。山が閉じたのと、俺が運んでいる骨は関係ない」
「なら、昼まで残ってください」
ミオは一歩も引かずに言った。相手を追い詰めたいわけではない。ただ、ここで荷車が出発しては、学者に見せる荷物が無くなってしまう。
「昼になれば、町から学者様が来ます。すでに工房の職人が一人、有害な泥を井戸近くに捨てていたことを白状しました。あなたがこのまま荷を積んで村を出て行けば、工房の主人はきっと『毒を持ち込んだのは染物工房への荷を運んだ商人だ』とあなた一人に罪をなすりつけます。次に矢面に立つのは、あなたです」
ラグナスの頬が、ぴくりと引きつった。
「ですが、昼まで残って、その骨をどこで誰から買ったのか学者様に話してくれれば、あなたは協力者になります。そうでしょう?」
損得で言えば、残った方が良いに決まっている。少なくとも、後ろ暗いことがないのなら。
しかし、ラグナスは忌々しげに顔を歪め、抱えていた木箱を荷台へと乱暴に押し込んだ。
「知らんね。俺はもう二度とこの村には来ない。来なければ済む話だ」
やはりダメか、とミオは唇を噛む。これ以上強く押せば、今すぐ馬の尻を叩いて出て行ってしまうだろう。よそ者の拾われ子に、行商人を無理やり引き留める力などあるはずもない。
荷台の木箱に縄をかけ始めたラグナスの背中を見つめながら、ミオがどうしたものかと考えあぐねていた、その時だった。
「……おい、娘」
縄を引く手を止めないまま、ラグナスが低く押し殺した声で尋ねてきた。
「この村の病人は、熱を出しているか? うわごとを言うような、高い熱を出す者はいるのか?」
唐突な問いだった。ミオは少しばかり目を瞬かせ、それから正直に首を横に振った。
「いえ、熱は出ていません。吐いて、下して……それと、工房で働いていた人は、手足がしびれると言っていました」
ぴたり、とラグナスの手が止まった。
背を向けたままの男が、革の手袋をはめた左手を、右手で強くこするのが見えた。まるで、そこにこびりついた見えない汚れを落とそうとするかのような、妙に神経質なしぐさだった。
ラグナスはそれきり、何も言わなかった。
無言のまま縄を固く結び終えると、ミオの方を一度も振り返ることなく御者台へとよじ登り、手綱を振るった。軋む音を立てて荷車が動き出し、宿の裏庭から表の道へと出て行く。
後に残されたミオの手には、灰色の粉がうっすらと溜まった木の椀と、『黒岩山 第三坑道』という名前、そして聞かなくてもいいはずの症状を自分から尋ねてきた男の引きつった横顔だけが残っていた。
◇
荷車の轍の音が遠ざかってから、ミオはようやく顔を覆っていた袖を下ろし、宙に浮かぶ画面へと視線を戻した。
そこには、ミオが目を逸らしていた間の言葉が、縦にいくつも並んでいた。
『ミオ』
『返事して』
『ねえ、ミオ』
『お願いだから、黙って行かないで。こっちには何も見えないんだ』
最後の行を読んだ瞬間、ミオの胸の奥がずきりと痛んだ。
怒られると思っていた。危ないことをするな、なぜ言うことを聞かなかったのだと、理屈を並べて叱られるのだとばかり思っていたのだ。
だが、そこにあったのは、いきなり返事が途絶えることへの恐怖。当然だ。ミオはそうやって恒一の前から突然いなくなったのだから。さよならも言わずに死んでしまった日のことを、二人はこれまで一度も会話していない。書かなくても、その傷がどこにあるかは互いに分かっていた。
ミオは椀を片手に持ち替え、震える指先で宙の文字欄をなぞった。
『ごめん。木箱が全部積まれそうだったから、こぼれた粉だけでもと思ってサンプルを取った。木箱には黒岩山、第三坑道って焼き印があったよ』
一度切って、ミオは続けた。
『黙って動いたのは悪かったと思う。でも、待っていたら証拠が無くなるところだった。次からは、動く前に必ずチャットを送るよ。絶対、黙って消えたりはしないよ』
少しの間を置いて、文字が浮かぶ。
『……うん。分かった。それならいい。無事でよかった』
本当にほっとしたような短い文面に、ミオも小さく息を吐き出す。それからすぐに、いつもの恒一らしい文字が続けて現れた。
『その荷車、まだ近くにいる? もし止められるなら、車輪に棒を噛ませるか、馬の綱をどこかに縛りつければ時間稼ぎくらいはできるかもしれない』
なるほど、とミオは思う。確かにそれなら、女の力でも荷車を足止めできるだろう。
だが、ミオは首を横に振って指を動かした。
『それはできない。さっき工房の裏で、井戸に毒を入れたのは私だって言われたばかりなの。いま私があの人の荷車に手を出しているところを見られたら、井戸の次は荷車に悪さをしているって言われる』
恒一のいる場所からは、この村の人間がどんな目でミオを見ているかまでは見えない。粉挽き小屋の隅で寝起きしている素性も知れない拾われ子が、ひとたび疑いの目を向けられた時、どれほど簡単に悪者にされるか。それを知っているのは、この村で三年間暮らしてきたミオだけだ。
『そっか……。ごめん、そこまで考えてなかった。村の人を動かすしかないね』
『うん。村長さんのところに行ってみる』
「――おい、ミオ」
画面を消そうとしたところで、薪置き場の陰から宿の主人がバツの悪そうな顔を出した。先ほどからずっと、離れたところで様子を窺っていたらしい。ミオが宙に指を動かしていたのは袖の陰でうまく隠れていたようだが、主人は気まずそうに頭を掻きながら近づいてきた。
「さっきは、わしが余計なことを喋ったせいで悪かったな。あの荷車なら、今は南の橋へ向かっとるはずだ」
「南の橋、ですか?」
「ああ。あそこは荷車が通るたびに通行料を取る決まりでな、村の若い衆が二人、見張りに立っておる。通行料の帳面は村長のエドガーが預かっとるから、村長の言いつけなら、橋で荷車を留めるくらいは訳ないはずだ」
思わぬ助け舟だった。自分の客が病を運んだのではないかと疑い、不用意に突っついて逃げられるきっかけを作ってしまったことを、この主人なりに悔やんでいるのだろう。
「ありがとうございます!」
ミオは短く礼を言うと、椀の中の粉が風で飛ばないようもう片方の手で蓋をするように押さえ、宿の裏庭から駆け出した。
◇
村長のエドガーの家は、広場から少し入ったところにある。
本来なら工房の裏の穴を見張っていなければならないはずのエドガーだが、今はちょうど、昼に到着する学者を迎えるための書類を探しに家へ戻ってきていたところだった。
「『黒岩山 第三坑道』の焼き印だと……?」
土間に駆け込んできたミオから話を聞くや否や、エドガーの太い眉が険しく寄った。
エドガーは奥の棚から、蝋で封がされた古い羊皮紙の書き付けを取り出して広げた。何年か前に領主の館から回ってきた、お触れの写しだ。
「間違いない。北の黒岩山で坑夫が次々と倒れ、領主様が第三坑道を封じた時のお触れだ。見ろ、ここにも書いてある。『坑道より出でたる石や骨、いかなる物も持ち出すべからず』とな」
エドガーが指差した文字を、ミオも横から覗き込んだ。
そこには、倒れた坑夫たちの病のありさまが短く記されていた。激しい頭痛、嘔吐、手足のしびれ。そして坑道の奥から漂ってきたという、鼻を突く異臭。
ミオの目が、その一行に吸い寄せられた。
書かれていないのだ。『熱』という文字が、どこにも。
さっき宿の裏庭で、ラグナスがなぜあんなにも熱の有無を気にしていたのか、これではっきりと繋がった。あの男は、坑道で起きた病に熱が出ないことを知っていたのだ。もし村の病人が高熱を出していれば、「それなら鉱山の病とは違う、自分の骨のせいではない」と安心できたのだろう。だが、ミオが「熱は出ない、しびれがある」と答えたせいで、自分の運んだ骨が原因だと確信して逃げ出したのだ。
「よし、すぐにお触れを持たせて南の橋へ人を走らせよう。領主様が禁じた坑道の荷となれば、橋の若い衆でも大手を振って留め置ける」
エドガーはすぐに外にいた手伝いの若者を呼びつけ、書き付けを渡して橋へ走らせた。ここまでは実に頼もしい。
だが、若者が出て行くと、エドガーは重いため息をついてミオに向き直った。
「でかしたぞ、ミオ。その椀の粉も、俺が預かっておこう。……だからお前は、昼に学者様が着くまで、もう粉挽き小屋に戻って大人しくしていろ。いいな、工房にも井戸にも、決して近寄るんじゃないぞ」
ミオは椀を差し出しかけた手を止め、エドガーの顔を見上げた。
目の前の老人は、ミオが井戸に毒を入れたなどとはもう少しも思っていない。昨夜からのミオの働きを誰よりも近くで見ていたのだから当然だ。だが、さっき工房の裏で主人がミオを指差した時、エドガーは「違う」とは言えず、「学者が決める」としか言えなかった。
村長という立場は、村の平穏を守るためのものだ。いかに拾われ子が正しくとも、村の暮らしを支える工房の主人と真っ向から対立し、村人たちが騒ぎ出すような真似はできない。エドガーなりにミオを村人の目から隠して守ろうとしているのだろうが、このまま小屋に引っ込んでしまえば、昼の話し合いは工房の主人の言い分ばかりが通ることになる。
「村長さん。工房の主人は、さっきも『飲めないからといって毒とは限らない』と言い張りました。この粉を見せたところで、またのらりくらりと言い逃れるに決まっています。
ミオは椀を引いて言った。
「第三坑道で何が起きたのか、実際に目で見た人はこの村にいませんか?」
エドガーは渋い顔をして口をつぐんだ。言おうか言うまいか迷うように視線を彷徨わせ、やがて観念したようにぼそりと言った。
「……村はずれの林のそばに、グレンという男が住んでおる。前は黒岩山で、坑夫の頭をしておった男だ」
「その人に話を聞けば――」
「無駄だと思うぞ」
エドガーは首を横に振った。
「坑道が閉じた時に、何人もの仲間を亡くしてな。自分も足を悪くして戻ってきてからは、鉱山の話を誰よりも嫌っておる。役人が調べに来た時ですら、ろくに口を開かなかった男だ。お前が行ったところで、追い返されるのがオチだろうよ」
それでも、とミオが食い下がる目を向けると、エドガーはもう一度深く息を吐いた。
「……どうしても行くなら、わしの名前を出せ。ただし、無理強いはするなよ。昼には必ず戻るんだぞ」




