腐れ骨
「バルドさん。昼に学者さんが来ても、ご主人が壺の事故だけで話を終わらせてしまったら、村の人はこれからもあの水を飲み続けることになります。ご主人が省いた工程って何ですか? 本当のことを教えてください」
バルドは唇を噛み、ちらりとエドガーの顔を見た。エドガーもすでに笑顔を消し、険しい目でバルドを見つめている。
やがてバルドは、観念したように大きく息を吐き、ミオではなく村長のエドガーに向かって口を開いた。
「……村長。昔はな、砕いた骨を薬で溶かしたあと、その液に『石灰の薬』を混ぜてたんだ。そうすると、骨の中にあった悪い毒が、どろどろの泥になって底に沈む。だから上澄みだけを汲み取って、底に溜まった毒の泥は、樽に詰めて町の専門の業者に金を払って引き取らせてたんだよ」
ミオの頭の中で、さっき主人が言った言葉が蘇った。
『泡が収まりますから、その澄んだ上澄みだけを汲み取って』――主人は確かにそう言った。
上澄みがあるなら、当然、底に残るものがあるはずなのだ。
「だが主人は、あの安い腐れ骨に替えた時、石灰の薬もやめて、町の業者も断っちまった。業者に払う金が惜しいからってな。……じゃあ、甕の底に残ったどろどろの泥をどうしたと思う?」
バルドの声が震えた。
「裏の穴に捨てろと命じたんだ。ただの色水と一緒に流せば分からねえってな。……俺も、辞める前に二度ばかり、言われてあの穴へ運んだよ」
がたり、と音を立てて、エドガーが木の椅子に崩れ落ちるように腰を下ろした。
毒を集めた泥を、何の処置もせずに、工房の裏の穴へそのまま捨てていた。
「そ、そんな馬鹿な……しかし、地面に捨てたところで、分厚い土が濾して、綺麗にするはずじゃ……」
エドガーが、昨夜ミオに向かって言ったのと同じ言葉を、今度はすがるような弱々しい声で呟き、途中で口を閉ざした。
「村長さん。わたし、今朝あの穴を見てきました」
ミオは静かに言った。
「穴の周りの草が、縁から何歩も茶色く枯れ果てていました。そしてあの穴から村の井戸までは、石を投げれば届くほどしか離れていません」
エドガーの顔から、完全に血の気が引いた。
自分が村の利益のために工房をかばい、「土が綺麗にする」と決めつけて拾われ子の言葉を退けていた間も、毒が井戸に染み出し、村中の人間がそれを飲んでいたとしたら。
「……わしが、間違っておったのか。お前が昨夜、井戸を塞げと言ってくれなければ……」
老人が頭を抱えて呻く横で、ミオは袖の陰で画面に指を走らせ、今の話を恒一に送った。
『重金属や強い薬品は、土ぐらいじゃ分解されない。雨や排水と一緒に地面に染み込んで、そのまま地下水に乗って広がる。井戸までその距離なら、混じっていてもおかしくないと思う』
これで繋がった。
ミオは顔を上げ、エドガーに言った。
「昼に学者さんが来たら、あの裏の穴の底の泥と、工房にある黒い骨の二つを必ず見てもらいましょう。……村長さん、あの黒い骨を運んでくる行商人というのは、どこの誰ですか?」
「え? ああ、あれは北から月に一度やってくるラグナスという男だ。確か昨日の夕方に村へ入って……今朝もまだ、村の宿におるはずだぞ」
まだ村にいる。
「なら、その人にも話を聞かないといけませんね」
「……うむ、そうだな。わしはすぐに行って、学者様が着くまで誰もあの裏の穴に触れぬよう、若い者を見張りに立たせてくる!」
エドガーは自責の念を振り払うように立ち上がると、足早に酒場を出ていった。
◇
しかし、酒場でのバルドの話が工房の主人の耳に入るのは、ミオたちが思っていたよりもずっと早かったらしい。
ミオが酒場を出て工房の裏手へと向かうと、そこにはすでにエドガーと主人、そして騒ぎを聞きつけた大勢の村人たちが集まり、不穏な空気を作っていた。
「学者様が昼に着く! それまで、この穴の底の泥には誰も指一本触れるな!」
エドガーが声を張り上げると、穴の前に立ち塞がった太った主人が、鼻で笑って言い返した。
「待つのは結構ですがね、村長! 染物屋の裏の穴に色のついた泥が溜まっているなんざ、どこの町でも当たり前のことですよ! そんなものより、うちの職人が壺を割ったのと同じ頃に、わざわざ井戸に何かを入れた奴を調べるのが先でしょうが!」
主人の太い指が、びしりと人垣の端にいるミオを指差した。
「そこの拾われ子です! 昨日の夜、みんなが寝静まった頃に、井戸のそばで鍋を炊き、貴重な塩を勝手に持ち出し、挙げ句の果てに虚空に向かって気味の悪い手つきで宙を掻き回していたのを、ここにいる何人もが見ておるのですぞ!」
ざわっ、と村人たちの間に動揺が走った。
昨夜、ミオから一歩後ずさった若い男が、気まずそうに目を伏せる。子どもを背中に隠した女が、隣の女とひそひそと耳打ちを交わす。
「た、たしかに、何も無い空に指で何か書いてたぞ……」
「呪いでもかけてたんじゃないのか……」
自分が村人を助けようとして必死にやったこと、その全部が、そのまま自分を縛り上げる縄になって返ってくる。
「馬鹿を言うな!」
エドガーが顔を真っ赤にして怒鳴った。
「この娘は昨夜、井戸の水を飲むなと注意したんだ! それに、塩水で男の子を助けたのもこの娘だぞ!」
人垣の中にいたあの男の子の母親が、何か言おうとして一歩前に出かけたが、隣にいた年配の女に強く袖を引かれ、唇を噛んで足を止めた。
「ふん、自分で病の種を蒔いた者が、その治し方を知っていても少しもおかしくはありませんな!」
主人が勝ち誇ったように声を張り上げる。
村人たちの冷たい疑いの目が、一斉にミオひとりに突き刺さる。誰も、素性の知れない拾われ子のために、村一番の金持ちである工房の主人を敵に回そうとはしない。
エドガーでさえ、周囲の村人たちの険しい顔色に押され、「……と、とにかく、学者様が来ればすべて分かる。それまで勝手な推測をするでない!」と叫ぶのが精一杯だった。
ミオは垂らした袖の陰で、震える指を動かした。
すぐに恒一の文字が浮かぶ。
『ミオは何も間違ったことはしてない。落ち着いて待てばいい。証拠は溜まった泥と黒色の骨だ。学者が来れば調べてくれる』
恒一の言葉は正しいが、彼にはこの場の村人たちの目を見ていない。
そして何より、このまま自分が動けなくなってしまったら、学者が着く頃には、宿にいる行商人は黒い骨を荷車に積んで村を出て行ってしまうかもしれないのだ。
◇
言い返しても、拾われ子のミオが工房の主人に勝てるはずがない。ここには恒一のことを説明できる言葉もなければ、自分の素性を証明してくれる親もいない。
ならば、言葉ではなく、行動で持って主人から材料を引き出すしかない。
ミオは黙って炊事場の方へ歩み寄ると、昨夜使った木の椀を一つ手に取り、そのまま見張りの脇を抜けて裏の穴の縁へとしゃがみ込んだ。
そして、穴の中に溜まっているどす黒い上澄みの水を、椀にたっぷりとすくい上げた。
そのまま立ち上がり、主人の真ん前まで歩いていって、両手で椀を突き出す。
「ご主人。この穴に流しているのは、布を洗っただけのただの色水で、毒なんて少しも入っていないんですよね」
ミオの声は、驚くほど静かだった。
「なら、ここでこれを一杯、飲んでみせてください」
その瞬間、ミオの視界の端にある画面に、今までで一番激しい文字が躍った。
『ミオ、駄目だ! 本当に飲んだら死ぬかもしれない』
分かっている。ミオだって、本当に飲ませる気などさらさら無い。
ただ、この主人が「絶対に飲めない」ということを、ここにいる村人全員の目の前で見せつけたかっただけだ。
「なっ……!」
主人の太った顔が、引きつったように固まった。
鼻先にある椀からは、ツンと鼻を刺すような薬品の臭いが立ち昇っている。ただの色水だと言い張った手前、飲めば自分の言葉が証明できるが、その水の中にどれほど恐ろしい泥が沈んでいるかを誰よりも知っているのは、他ならぬこの主人自身なのだ。
ミオは一歩も引かず、椀を差し出し続けた。
長い、息の詰まるような沈黙が落ちる。村人たちの視線が、ミオの手にある椀と、主人の脂汗の浮いた顔とを交互に行き来する。
やがて、主人の手が動いた。
椀を受け取るためではない。バシッ、と乱暴にミオの手を横から払いのけたのだ。
木の椀が地面に転がり、どす黒い水が、すでに枯れ果てた茶色い草の上へとぶちまけられた。
「……っ、に、飲めんからといって、毒とは限らんだろうが! 汚い洗い水を誰が飲むか!」
主人は顔を真っ赤にして怒鳴ったが、その声にはもうさっきまでの威勢は無かった。
周囲の村人たちの目が、すうっとミオから離れ、激しく肩で息をしている主人の方へと移っていく。誰の目にも、今の主人の態度が何を意味しているかは明らかだった。
「……学者様を待て」
エドガーがもう一度、今度はミオではなく、主人の顔をまっすぐに睨み据えて低く言った。
「それまで、お前も工房の物に一切手を触れるなよ。いいな」
主人は唇を震わせたまま、何も言い返せなかった。
もっとも、これでミオへの気味の悪さや疑いがすっかり晴れたわけではない。村人たちはまだ、遠巻きにミオを窺うような目で見ている。
けれど、これでいい。少なくとも、ここで足止めされることはなくなった。
ミオは地面に転がった空の椀を拾い上げると、誰にも何も言わず、行商人のいる宿へと向かって歩き出した。




