染物工房
二軒目の家は、村の外れに近い小さな家だった。
ここには、一人暮らしの女の職人が寝かされており、隣に住む男が付き添って看病をしていた。
「おう、来てくれたか! お前が作った水で子どもが持ち直したと聞いた。この人にも早く飲ませてやってくれ!」
男がすがるような目で道を開ける。
ミオは頷き、椀に塩水を汲んで寝床のそばへ寄った。
だが、匙を女の口元へ運びかけたところで、ミオの手がぴたりと止まった。
寝床に仰向けになっている女は、目を半開きにしたまま、ピクリとも動かない。名を呼んでも睫毛ひとつ揺れず、さっきの男の子のように喉が水を欲しがって動く気配がまるで無いのだ。
そのまま口に水を入れたらどうなるか。なんだかひどく嫌な予感がして、ミオは匙を引き、すぐに画面に文字を書いた。
返事をしない。目も開いていないし、喉が動かない。飲ませてもいいか。
『待て、飲ませるな! 意識が無い人間に無理に水を流し込んだら、誤嚥して窒息するぞ!』
ひやりとした文字が、一瞬で浮かび上がった。
もしさっきの成功に気を良くして、同じように匙を傾けていたら、自分の手でこの人の息の根を止めていたところだった。ミオの背中を冷たい汗が伝う。
『息はしてるか? 口の周りに吐いたものは残ってないか? 喉から変な音はしてないか?』
ミオは女に顔を近づけた。
口の端に、黄色く濁った吐瀉物がこびりついている。そして、浅い息をするたびに、喉の奥で「ごろごろ」と水気が絡むような不気味な音が鳴っていた。
「おじさん、手を貸してください! この人の体を、横向きに寝かせます!」
「え? お、おう!」
恒一から続けて届いた指示の通り、ミオは男と二人で女の体をゆっくりと横向きにし、顎を少し前に出して息の通り道を作った。それから綺麗な布を指に巻き、口の中に残っていた吐瀉物を丁寧にかき出していく。
ごろごろと鳴っていた喉の音がすっと消え、女の胸が、少しだけ深く上下し始めた。
「……一体、いつからこんな状態なんですか?」
布を洗いながらミオが尋ねると、男は額の汗を拭って答えた。
「昨日の夜、染物工房から帰ってきた時からだ。顔色が真っ青で、夜通し吐き続けてよ……明け方には、呼んでも返事をしなくなった」
ミオは眉を寄せた。
おかしい。井戸の水を飲んだ他の村人たちは、何日もかけて少しずつ腹を下したり吐いたりしている。それなのに、この女だけ、昨日の夜に工房から帰ってきて、たった一晩で意識を失うほど悪くなっているのだ。
井戸の水だけでは、説明がつかない。
「この人、ここでは治せません。すぐに荷馬車を出して、町の医者のところへ運んでください」
「ま、町までか? 今からでも半日はかかるぞ」
「ここに寝かせておいたら死んでしまいます!」
ミオの強い口調に、男は顔を青くして頷き、表へ飛び出していった。
間もなく、家の前に荷馬車が引き出されてくる。藁を厚く敷いた荷台に女を乗せる時も、ミオは「絶対に仰向けにしないで、ずっと横向きのままにしてください。もしまた吐きそうになったら、すぐに指で口の中を拭って、喉を詰まらせないように」と、何度も男に言い含めた。
男は「分かった、分かった」と頷きながら、荷台が揺れても女が落ちないように縄を締め上げていく。その手を動かしながら、男がふと思い出したように呟いた。
「……そういやこの人、昨日の昼過ぎに、工房の地下で『骨を溶かす薬』の壺を割っちまったと零してたな。こぼれた薬を片付けるのに、ずいぶん長いこと地下にいたらしいが……それも何か関係あるのかね」
縄を結び終えた男は、そのまま手綱を握り、明け始めたばかりの暗い街道へと馬車を走らせていった。
◇
夜明け前の薄闇の中、ミオは染物工房の裏手へと回り込んでいた。
東の空がわずかに白み始め、地面の様子がぼんやりと浮かび上がっている。
工房の裏壁のすぐ下に、大人の腰ほどの深さの穴が掘られていた。村人が言っていた、色のついた汁を捨てる穴だ。
ミオは穴の縁にしゃがみ込み、息を呑んだ。
穴の中には、どす黒く濁った泥水が溜まっている。そして、その穴の縁から外に向かって数歩分の地面だけ、雑草がまるで火で炙られたように茶色く縮れて枯れ果てていた。
そこから顔を上げれば、すぐそこに村の井戸の石組みが見える。子どもが石を投げても届くような距離だ。
さらに工房の壁際を見れば、地下へと降りる狭い石段があり、古い木の扉が閉まっていた。あの扉の向こうで、昨日、女職人が壺を割ったのだ。
ミオは宙の画面に指を走らせた。穴の周りの草が枯れていること。すぐ横に地下へ降りる石段があるから、中を見に行ってみること。
すると、今までになく速く、強い調子の文字が飛び込んできた。
『行かないで。絶対に地下には降りるな』
『骨を溶かすような強い酸なら、こぼれた液から有毒ガスが出てるはずだ。狭い地下室にそれが溜まっていたら、扉を開けて息を吸っただけで肺が焼けて倒れるぞ。さっきの女の人も、それを吸ったせいかもしれない』
ミオは石段の前で足を止めた。
いつもなら「どうすればいいか」という方法を冷静に並べる恒一が、何よりも先に「行かないで」と書いた。
自分の身を本気で案じてくれている。その一言に、夜の冷気で強張っていた胸の奥が、じんわりと温かくなる。
本当は、「心配してくれてありがとう」とでも書けばいいのだろう。だが、そんな風に気持ちを書いてしまえば、さっき飲み込んだばかりの「会いたかった」まで一緒に溢れ出てしまいそうだった。
だからミオは、わざとらしく理屈を並べて指を動かした。
わかった。わたしまで倒れたら、調べる人がいなくなるから。地下へは降りないで、あそこを知っている人から話を聞くことにする。
画面の向こうで恒一がどんな顔をしたかは分からない。ただ、短く『うん、そうしてくれ』とだけ返ってきたのを見て、ミオは工房の裏を離れた。
◇
ミオが向かったのは、村長のエドガーの家だった。
戸を叩くと、一睡もしていなかったらしいエドガーが、目の下に濃い隈を作って顔を出した。
ミオが、女職人を町の医者へ運ばせたこと、そして彼女が昨日、工房の地下で骨を溶かす薬の壺を割っていたことを伝えると、さすがのエドガーも顔色を変えた。
井戸の水だけならまだしも、工房の職人が工房から帰った晩に倒れ、町へ運ばれるほどの重体になったとなれば、いかに工房をかばいたい村長といえども見過ごすわけにはいかない。
「……行くぞ。お前もついてこい」
さっきの男の子を塩水で救ったのを見ていたからだろう、エドガーはミオを追い払わず、一緒に工房の表戸を激しく叩いた。
やがて、眠気眼をこすりながら出てきたのは、四十がらみの太った男――この染物工房の主人だった。
主人はエドガーから女職人が倒れたことを聞かされると、一瞬だけぎくりと肩を揺らしたが、すぐに困り果てたような顔を作って二人を土間へ招き入れた。
「いやあ、村長、実は私もそれを心配しておったのですよ」
主人は太った腹を揺らしながら、実に淀みない口調で話し始めた。
この工房では、色を布にしっかりと定着させ、洗っても落ちないようにするために、魔物の骨を使っているのだという。
「魔物の骨を細かく砕いて粉にしましてな、それを地下の甕で『骨を溶かす薬』に浸けるのです。しばらくすると泡が収まりますから、その澄んだ上澄みだけを汲み取って、染め汁に混ぜる。そうすると、どんな鮮やかな色でも布から落ちなくなるのですよ」
主人は身振り手振りを交えて、作業の手順を綺麗に並べてみせた。
(上澄みを汲んで混ぜる、か)
「それで、裏の穴には何を流しておるのだ」
エドガーが険しい声で問うと、主人は大きく手を振った。
「あれは、染め上がった布を洗った後の、ただの色水ですよ。毒などあろうはずがありません。……ただ、あのお女中が倒れたのは、間違いなく昨日の昼過ぎに地下で薬の壺を割ったせいでしょうな。古い壺だったもので、手が滑ったらしいのです。すぐに地下の床を水で洗い流させれば、もう何の心配もありません」
主人の言い分は、筋が通っていた。
古い壺が割れたという不運な事故。それで薬の湯気を吸った職人が倒れた。床を洗えばすべて終わる。
「……ふむ。そういうことなら、地下の始末はしっかり頼むぞ」
早くこの騒ぎを終わらせたいエドガーが、ほっとしたように頷く。ミオも一瞬、あの女職人の件はそういう事故だったのかと納得しかけた。
◇
だが、待てよ、とミオの頭の中で何かが引っかかった。
女職人が倒れた理由は、壺の事故でいいかもしれない。けれど、村の他の病人たちはどうなるのだ。
「ご主人。その壺が割れたのは、いつですか?」
ミオが一歩前に出て尋ねると、主人は「なぜ拾われ子が口を出す」と言わんばかりに眉をひそめたが、エドガーが隣にいるため、渋々答えた。
「……昨日の昼過ぎだと、今言ったばかりだろうが。それがどうした」
夜が明けた今から見れば、一昨日の昼過ぎということになる。
ミオはそのまま、隣のエドガーへと顔を向けた。
「村長さん。この村で最初に同じ病で寝込んだ人は、いつから寝ついていますか?」
「最初か? 最初は確か、外れの羊飼いの爺さんだったな。あれはもう……二十日は前になる」
そう、一昨日の昼に割れた壺のせいで、二十日も前に人が倒れるはずはない。
「……二十日ほど前に、この工房で何か変わったことはありませんでしたか?」
ミオが問いを重ねながら土間の奥へ視線を走らせると、壁際に積まれた麻袋の口から、妙なものが覗いているのが目に入った。
骨だ。それも、白ではなく、黒色した骨が、いくつも無造作に積み上げられている。
ミオの視線に気づいたエドガーが、顎を撫でながら口を開いた。
「……ひと月ほど前から、材料の仕入れ先を替えたと言っておったな。ずいぶん安く入るようになったと喜んでおったが」
その瞬間、主人の太った顔が、みるみるうちに赤黒く染まった。
「な、なんだと言うのです! 黒い骨だろうが何だろうが、砕いて粉にして薬に浸ければ、並の骨と何も変わりません! 商人が安い材料を使って何が悪いのですか!」
主人は唾を飛ばして怒鳴り散らすと、忌々しげにミオを睨みつけた。その目が一度、ミオが癖で袖の中に隠していた右手の指先へと落ちる。
「だいたい、どこの馬の骨とも知れん拾われ子が、人の商売にケチをつけに来おって! 村長、こんな薄気味悪い娘の言うことを真に受けるのですか!」
主人は完全に毛を逆立て、身構えてしまっている。この調子では、この工房の中でこれ以上何を聞いても、怒鳴り返されるだけで本当のことは出てこないだろう。
ミオはすぐに切り替え、逃げるようにエドガーの袖を引いて工房を出た。
「村長さん。この工房を辞めた職人さんはいませんか?」
当事者から聞き出せないなら、関係者に聞くしかない。
「辞めた奴か? ああ、それならバルドだ。あいつも、ひと月ほど前に主人と喧嘩してな、朝から酒場で管を巻いておるだろう」
ひと月前。黒い骨が入り始めた時期と、ぴたりと重なる。ミオは頷き返し、朝の光が差し始めた村の道を、酒場へと向かって歩き出した。
◇
朝の酒場は、昨夜の酒の臭いがまだ澱のように残っていた。
客はほとんどおらず、窓際の隅の席で、無精髭を生やした男がひとり、朝から薄い麦酒の杯を傾けている。元職人のバルドだ。
エドガーが「少し話を聞かせろ」と前に座ると、バルドは警戒したように目を細め、その後ろにいるミオをちらりと見た。
「……なんだ、村長。それに、その娘は確か……井戸の前で何もない宙に向かって、妙なまじないの手つきをしてたと噂になってるガキじゃねえか」
ミオの肩が小さく強張る。もうそんな噂が回っているのか。
ミオは自分の手を後ろに隠しながら、まっすぐにバルドを見た。
「あなたを責めに来たんじゃありません。ただ、染物工房でひと月前に黒い骨を使うようになった詳しい事情を知りたいんです。あの頃に工房にいたあなたなら、それをご存じでしょう」
バルドは杯を置き、バツが悪そうに鼻をこすった。自分がいた頃の工房から毒が出たと思われて、責任を押し付けられるのを恐れているのがありありと分かる。
「……俺は、あの黒い骨が気に入らなくて辞めた口だぜ」
バルドは、自分はあっち側ではないと強調するように、早口で喋り出した。
「いいか、染物で使う骨汁ってのは、色を布に食い込ませて落ちなくするための大事なもんだ。だが、ひと月前に主人が北の行商人から仕入れ始めたあの黒い骨――あれは職人の間じゃ昔から『腐れ骨』って呼ばれててな、質が悪くて毒が混じるから誰も使わねえ代物なんだよ。なのに主人は、新しい製法なら毒は消える、手間のかかる工程を一つ省けると言って聞きゃしねえ。俺はそれが嫌で飛び出したんだ」
やっぱりだ。さっき主人が淀みなく語った作り方には、省かれた「一つの工程」があったのだ。
「その省いた工程というのは、どんな――」
ミオがそこまで踏み込んだところで、バルドは急に口ごもり、視線を泳がせた。自分が辞める前に少しでも関わったことになると、口が重くなるらしい。
その時だった。
◇
酒場の扉が荒々しく開かれ、若い村人が息を切らして駆け込んできた。
「村長! ここにいたか! いま町から早馬が来たぞ!」
エドガーが立ち上がる。
「早馬だと? 明け方に運んだあの女職人がどうかなったのか!」
「一命は取り留めたそうだ! だが、診た町の医者が『これはただの病じゃない、強い毒だ』と疑ってな、骨や毒を見分けられる町の学者先生をすぐに送り出したそうだ! 昼頃にはこの村に着くってよ!」
「おお、そうか! 学者様が来てくださるか!」
エドガーの顔が、ぱっと明るくなった。知識のある町の学者が来てくれれば、この訳の分からない騒ぎもすべて片がつく。そう思って安堵しているのがよく分かった。
だが、ミオの胸には、まだ不安が広がっていた。
この村に着いた学者が、まず誰の話を聞くかといえば、村長と工房の主人だろう。
もし工房の主人が、学者に割れた壺のかけらだけを見せて納得させてしまったらどうなるか。
村の病の原因は闇の中へ消え、気がつけば手遅れになってしまうかもしれない。
それだけは避けなければならなかった。




