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塩のひとつまみ

 炊事場のかまどには、いつでも湯が沸かせるように火種が残されている。


 ミオは薪をくべ、大鍋に井戸の水を汲み入れて火にかけた。さらにその横で、底に小さな穴の開いた古い木桶に、洗った布を何重にも敷き、煮沸した川砂と小石を詰めていく。


「おい、夜更けに何を勝手にやっておるのだ」


 訝しげな声をかけてきたのは、井戸のそばから戻ってきたエドガーだった。その後ろから、数人の村人が覗き込むように集まってくる。


「井戸水から毒を抜いているんです」


 ミオは手を止めずに答えた。


 鍋の湯がぐらぐらと煮立ち、白い湯気が立ち昇る。その上に、冷たい水で濡らした布を乗せた木の蓋を斜めに渡すと、蓋の裏を伝った透明な露が、ぽたり、ぽたりと下の椀に落ち始めた。


 まさしく、恒一の教えてくれた通りのことが、ミオの手の中で起きている。遠く離れた別の世界にいる恒一の言葉が、こうして形になって目の前の椀に溜まっていく。それだけで、冷え切っていた指先に血が通うような心強さがあった。


 だが、いかんせん遅い。


 ぽたり、ぽたりと落ちる雫は、子どもの口を湿らせるくらいにはなっても、寝込んでいる病人全員に行き渡らせるには到底足りない。


 一方で、砂と布を通した木桶の下からは、ちょろちょろと途切れずに水が落ちていた。それを別の鍋で受け、もう一度火にかける。


「ほう……そうやって砂を通すと、ずいぶん澄むものだな」


 エドガーが感心したように髭を撫でた。もともと濁ってはいないのだが、布と砂を通したことで、灯りの下でいっそう透き通って見える。


「よし、これなら飲ませられよう。お前たち、この沸かした方の湯を冷まして、奥の連中に――」

「待ってください!」


 桶に手をかけたエドガーの前に、ミオは思わず立ち塞がった。


「なんだ、お前が綺麗にした水であろうが」


 エドガーが眉をひそめる。


 確かにミオが濾した水だ。だが、ミオには引っかかっていることがあった。


 恒一は、最初に「蒸留」と書いた。手間がかかり、ほんの少ししか採れないと分かっていながら、わざわざそちらを「確か」であると、先に挙げたのだ。


 ということは、砂と布で濾して沸かすやり方では、どうしても取れない悪いものがあるということに他ならない。


 もし元の井戸の水に、その「濾しても沸かしても取れないもの」が入っていたら、この澄んだ水を病人に飲ませることはできない。


「……まだ危ないかもしれません」

「馬鹿を言え。これだけ澄んでおるし、煮立ててもおるのだぞ。どこが悪いと言うのだ」


 エドガーの言葉はもっともだった。この村の常識では、澄んでいて、しかも煮立てた水ほど確かなものなど無いのだから。


 なぜ危ないのか。それを説明しようにも、ミオには「恒一が湯気の方を先に書いたから」以外の根拠が無い。そして、目の前の見えない画面で幼なじみと文字をやり取りしているなどと言おうものなら、それこそ頭がおかしくなったと思われるだけだ。


「見た目では、分からないものが混じっていることがあるんです」

「それをなぜお前が知っておる」


 じろりとエドガーの目が細められる。ミオは唇を湿らせ、用意していた言葉を口にした。


「……昔、そういう話を聞いたことがあって」


 拾われる前の記憶が曖昧だということにしているミオが使える、たった一つの言い逃れだ。


 案の定、エドガーは鼻を鳴らし、信じられないという顔をする。だが、ミオが鍋の前から一歩も退かないのを見て、忌々しげに舌打ちをした、その時だった。


◇


「おい、村長! ちょっとこれを見てくれ!」


 井戸の縁を松明で照らしていた若い男が、裏返った声を上げた。


 ミオもエドガーたちの後ろから井戸を覗き込む。暗い水面に松明の火が近づけられると、そこに、うっすらと虹色に光るぎらついた膜が浮いているのが見えた。


 ミオは息を呑み、すぐに袖の陰で宙の画面に指を走らせた。水面に虹色の膜が浮いている、と。


 もちろん、村人の目には、ミオが暗い井戸の横で、何もない虚空に向かってぶつぶつと指を動かしているようにしか見えない。


「……おい、あいつ何をやってるんだ」


 松明を持っていた男が、ぎょっとした顔で一歩後ろへ下がった。そばにいた女が、無言で自分の子どもの肩を掴み、自分の背中の後ろへと引き寄せる。


 気味の悪いものを見る目。よそ者に対する、冷たく張り詰めた警戒。


 ミオは背中に刺さるその視線に耐えながら、画面に浮かんだ恒一の返事を読んだ。


『虹色の膜なら、油か、重金属が溶け出してる時にできる膜かもしれない。ミオ、重金属が混じっているなら、いくら煮沸しても消えないぞ』


 やっぱりだ。


 ミオの背筋がひやりと冷たくなる。煮ても消えない毒。砂で濾しただけの鍋の水をそのまま配っていたら、取り返しのつかないことになっていた。


 いや、それだけではない。


 ミオはかまどの鍋からぽたりと落ちている、蓋の露を見た。湯気だけを集めた水なら、金属は混じらないはずだ。けれど、さっき鍋の湯が激しく煮立った時、泡が弾けてしぶきが蓋の裏に飛んでいた。もしあのしぶきが混じっていたら、この露でさえ、本当に安全だと言い切れるだろうか。


 ミオは顔を上げ、井戸を覗き込んでいるエドガーに声を張り上げた。


「村長さん! この井戸に蓋をして、誰も汲めないようにしてください! 病人の飲み水は、北の丘の泉から汲んできて、それを沸かして使いましょう!」


 北の丘の上には、この井戸が掘られる前に村が使っていた古い泉がある。行くのに手間も時間もかかるが、この井戸とは場所が離れている。


「な、何を言い出す! 夜道に丘まで水汲みに行けと言うのか!」

「この井戸の水は、煮ても消えない悪いものが入っているかもしれません!」

「まだそんなことを言うか、お前は!」


 エドガーが怒鳴り返した時、後ろにいた村人の一人が、ぽつりと口を挟んだ。


「……なあ、村長。虹色の水といえばよ、染物工房が、裏の穴に色のついた妙な汁を捨ててるのを何度か見たぞ。あれが染みたんじゃねえのか」


 井戸から石を投げれば届くほどの距離に、半年ほど前にできた染物工房がある。


 しかし、エドガーは即座に首を横に振った。


「馬鹿を言うな。工房が村にどれだけ金を落としておると思っておる。それに、地面に流した水なんぞ、さっきこの娘が砂で水を濾したのと同じで、分厚い土が勝手に綺麗にするわい」


 ミオは言葉を失った。


 違う。さっき自分がやった砂濾しを、逆に言い訳に使われてしまった。砂や土を通せば、目に見える泥やゴミは取れるだろう。だが、今しがた恒一が教えてくれたような「水に溶けた金属の毒」は、砂を通したくらいで消えるのだろうか。


 消えないからこそ、井戸の水面にまで膜が浮いているのではないか。


 そう言い返したかった。けれど、「なぜ土で消えないと分かるのか」と問い返されたら、ミオには答える言葉が無い。


 ただ、虹色の膜を気味悪がった村人たちの空気にも押されたのだろう、エドガーは渋々といった顔で「……ええい、今夜だけだぞ。若い者は手分けして北の泉へ走れ!」と命じた。


 ミオは胸を撫で下ろすこともできず、ただ暗い井戸の底を見下ろすしかなかった。


◇


 北の泉から汲んできた水が沸かされ、ようやく冷めた頃、ミオはそれを木桶に入れて病人の寝かされている家へと入った。


 むっとする熱気と、酸っぱい吐瀉物の臭いが鼻をつく。


 部屋の奥では、七つばかりの男の子が藁の寝床の上でぐったりと横たわっていた。その枕元で、白髪の老薬師が、黒い薬草の煎じ汁を木の椀に入れて男の子の口へ押し込んでいる。


「ほれ、飲め。腹の中の悪いものを、全部吐き出してしまわねば治らんぞ」


 男の子が苦しげに咽せ、飲んだばかりの黒い汁を、黄色い胃液と一緒に吐き出す。そのたびに、小さな肩がびくりと跳ね、力が抜けたように寝床へ沈んでいく。


 そばに座り込んだ母親が、男の子の細い手を握り締めながら、声を殺して泣いていた。


 ミオは戸口の柱の陰に立ち、見えない画面に向かって急いで指を動かした。


 薬師が毒を出すために薬草で吐かせていること。男の子が水を飲んでもすぐ吐き、吐くたびにぐったりしていくこと。


 すぐに恒一からの文字が返ってくる。


『それ以上吐かせたら危ない。毒より先に脱水で死ぬぞ。その子の唇や口の中、乾いてないか? 泣いてる時に涙は出てるか? 目はくぼんでないか? おしっこはいつから出てない?』


 立て続けの問いに、ミオは男の子の顔をじっと見た。


 唇はかさかさに乾いて皮がめくれている。目は落ち窪み、苦しそうに顔を歪めて泣き声を上げているのに、目尻には涙ひとつ浮かんでいない。


「……あの子、小水はいつから出ていませんか?」


 ミオが小さく尋ねると、母親が顔を上げ、しゃくり上げながら「昼から、一度も……」と答えた。


 それをそのまま書き送る。


『かなり危ない状態だ。いいか、一度にたくさん飲ませると胃が驚いてまた吐く。沸かして人肌に冷ました水に、塩をほんの少しだけ混ぜて、匙に一杯ずつ、時間を空けてゆっくり口に含ませるんだ。砂糖があればいいけど、無ければ塩だけでもいい』


 ミオは自分の足元の木桶を見た。北の泉の水を沸かして冷ましたものだ。


 炊事場の棚から、小さな木の皿に分けた粗塩と、木の匙を持ってくる。恒一の言う分量を、この村の柄杓一杯の水に対し、指先でほんのひと摘みの塩に置き換えて溶かした。


「薬師様。吐かせるのはもう止めて、これを少しずつ飲ませてください」


 ミオが椀と匙を差し出すと、老薬師は深い皺の刻まれた顔を険しく歪めた。


「なんだ、拾われ子。でしゃばるな。腹に毒が入っておるのだ、吐かせて出すのが当たり前であろうが。この村の病人を何十年診てきたと思っておる」


 薬師の声には、長年村の命を預かってきた者の自負と、同時に、自分のやり方で目の前の子がどんどん弱っていくことへの焦りが混じっていた。素性の知れない小娘に、母親の前で自分の間違いを指摘されるなど、到底受け入れられることではないのだろう。


 言い争っても、拾われ子のミオの言葉など通らない。


 だが、ここで引き下がっている間にも、男の子の乾いた唇から息が浅くなっていく。


「あなたを責めたいんじゃないんです。ただ、一度だけ試させてください。匙に一杯だけです」

「ええい、退けと言っておる!」


 薬師が手を振り払おうとした、その時だった。


「……お、お願いします、薬師様!」


 薬師の袖にすがりついたのは、男の子の母親だった。


「この子、吐くたびに……抱き上げるたびに、羽みたいに軽くなっていくんです! もう吐くものなんて何も残ってないんです! お願いですから、一杯だけ、その娘にやらせてください!」


 母親の悲痛な叫びに、薬師の手が止まった。自分の手の中で軽くなっていく我が子の重みほど、母親にとって恐ろしいものはない。


 薬師は苦虫を噛み潰したような顔で、無言のまま半歩だけ後ろへ退いた。


 ミオは小さく頭を下げると、男の子の枕元に膝をついた。


 木の匙に、ほんの少しだけ塩水をすくう。乾ききった男の子の唇に匙の先を当て、傾ける。


 男の子のかすれた喉が、ごく、と小さく動いた。


 ミオはすぐに二杯目を入れず、恒一の言葉通り、じっと息を数えて間を置いた。薬師も母親も、固唾を呑んで男の子の口元を見つめている。


 吐かない。


 しばらく待ってから、もう一杯、匙で唇を湿らせるように流し込む。


 それを何度か繰り返すうちに、男の子の荒かった胸の上下が少しずつ落ち着き、焦点の合っていなかった瞳が、わずかに母親の方へと動いた。


「……かあ、ちゃん」


 かすれた、消え入りそうな声だった。それでも、確かに母親を呼ぶ声だった。


「っ、ああ、ここにおるよ……!」


 母親が顔をくしゃくしゃにして、男の子の小さな手を自分の頬に押し当てる。


 その後ろで、老薬師は何も言わなかった。ただ、ミオの手元にある塩の皿と水桶をじっと見つめ、それから自分のプライドを押し殺すような低い声で言った。


「……塩は、どれだけ入れた」


 村では塩は貴重品だ。無駄にはできないし、入れすぎればかえって毒になることは薬師にも分かるらしい。


「この柄杓一杯に、指の先でほんの少しつまむだけです」

「……そうか」


 薬師は短く頷くと、もうミオを追い出そうとはせず、自分の持っていた椀を水桶に浸し、ミオが言った通りの塩を指先でつまんで落とした。


◇


 その家の病人たちが落ち着くのを待って、ミオは別の病人が寝ている家へと向かうため、外の夜道に出た。


 冷たい夜風が、汗ばんだ額を撫でていく。


 ミオは歩きながら、宙の画面に指を走らせた。

 男の子が吐かずに水を飲めたこと。お母さんを呼んで、返事をしたこと。


 少しして、恒一の文字が浮かぶ。


『ほんとによかった。ミオの方はどうだ? 水も飲んでないし、寝てないんじゃないか? ミオ自身は何ともないか?』


 恒一は、自分のことは何ひとつ書かない。今どこで何をしているのかも、急にこんな連絡が来てどれだけ驚いたかも言わず、ただミオの体ばかりを案じてくる。


 ミオは、男の子の母親が、涙でぐしゃぐしゃになりながら笑っていたことを書いた。それから、それに釣られるようにして、画面の端に文字を書きかけた。


 ずっと会いたかった。そこまで書いて、ミオは文字を消した。

 張ってきた気が緩んで、この夜道の真ん中で座り込んで泣いてしまいそうだった。


 ミオは深く息を吸い込み、「私はまだまだ元気だよ」と書き直して送ると、次の家へと足を早めた。


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