井戸水
村の真ん中にある井戸の周りには、幾つもの灯りが集まり、大人たちの低く押し殺した声が重なっていた。
ここ最近、この小さな村には原因の分からない病が広がっている。
医者と呼べるような人間はこの村にはおらず、効く薬も無い。あるのは長年この村で病人を診てきた老薬師の煎じる苦い草の汁だけだ。その薬師が昨日、井戸の水が怪しいのではないかと言い出したため、こうして大人たちが井戸の前で額を寄せ合っているというわけだ。
「……澄んでおる」
村長のエドガーが、汲み上げたばかりの桶の水を灯りにかざし、自分に言い聞かせるような声で呟いた。
確かに、揺れる火影に照らされた水には濁りひとつ無い。泥が混じっているわけでもなければ、変な臭いが立ち昇っているわけでもない。
この村の人間にとって、水が良いか悪いかは、見た目が澄んでいるか、臭わないか、その二つで決まる。澄んでいる水は綺麗な水だ。エドガーがそう信じたいのも無理はない。この村の暮らしはすべて、この井戸ひとつにぶら下がっているのだから。
そんな大人たちの輪から少し離れた場所――病人をまとめて寝かせている家の外の暗がりで、ミオはひとり立たされていた。
手伝いがあるからそこで待っていろ、と言われたまま、もうずいぶんと時間が経っている。
もっとも、本当に手伝わせる気があるのかどうかは怪しいところだ。
三年前に村外れの麦畑で倒れているところを拾われ、以来、粉挽き小屋の隅を借りて寝起きしているミオは、どこの誰とも知れない娘――村の人間が言うところの「拾われ子」である。怪しい水を扱う場に、素性の知れないよそ者を近づけたくないという空気が、大人たちの背中からはっきりと滲んでいた。
もっとも、そうやって爪弾きにされること自体は、この三年ですっかり慣れっこになっていた。
拾われたばかりの頃のミオには、この村の言葉も、暮らしの決まりも、何ひとつ分からなかった。いきなり説明書の無いゲームの中に放り込まれたようなものだ。だからミオは、分からないものに出くわすたび、自分の手で触って確かめることにした。
粉挽き小屋の巨大な水車がどういう仕掛けで石臼を回しているのか気になって、床下に潜り込んで歯車の噛み合わせを覗き込み、粉まみれになって小屋の主人に怒鳴られたことがある。それでも懲りずに次の日には裏側から回り込み、「あそこの木枠に獣の脂を塗れば、きしむ音が止まって軽く回りますよ」と指差してみせた。森で拾った見たことのない赤い実を、毒かどうかも分からないまま舌の先でちょんと舐めてみて、丸一日舌が痺れて水も飲めなくなったこともある。そんな調子で、大人の仕事場でも構わず首を突っ込み、仕組みが分かるとつい「こうすればいいのに」と口に出してしまうものだから、村の大人たちからは「妙な知恵ばかり回る生意気なガキ」と煙たがられてきた。
けれど、ミオにしてみれば、せっかく人生の続きを生きられるというのに、寝床の藁の上で膝を抱えて泣いていたって、腹が減るだけなのだ。手のひらにできたマメの硬さも、冬の水の刺すような冷たさも、全部この世界のルールを知るための手がかりだった。そうやって、一つずつできることを増やしていくのは、案外、悪くなかった。
ミオは冷えた夜の空気の中で、自分の胸の前――何もない空間をじっと見つめた。
そこには、夕方の鐘が鳴った頃からずっと、淡く光る四角いものが浮かんでいる。
周囲にいる村の人間には、それはまったく見えていないらしい。すぐ横を通り過ぎた男も、桶を運んでいった女も、ミオの目の前にある光には一瞥もくれなかった。
今日で、ちょうど三年になる。
あの真っ白な場所で、神様だと名乗った何かに「三年後からお前のエピソードが始まる。その時、力が開花する」と言われてから、きっちり三年だ。
ミオの指先が、かすかに震える。
この四角い画面の中に指で文字を書いて送れば、届くはずだ。
あの日、十四歳で、雨の交差点に飛び出して車に撥ねられて死んだミオが、別世界の誰かも分からない魔王を倒せと無茶を言われ、代わりに一つだけやるという特別な力の中から選んだ、たった一つの繋がり。
あの真っ白な部屋で、神様だと名乗る何かは、城を吹き飛ばす魔法だの、どんな傷も治す光だの、いかにも物語の勇者が欲しがりそうな力をいくつも並べてみせた。
けれど、ミオはそのどれにも手を伸ばさなかった。どんなに強い武器や魔法をもらったところで、見たこともない世界で、敵がどこにいて何が弱点なのかも分からなければ、きっとどこかで手詰まりになる。難しいゲームで行き詰まった時、最後に頼りになるのは力任せの攻撃ではなく、世界の仕組みを解き明かす「攻略情報」だということを、ミオはよく知っていた。
そして何より――目の前にずらりと並んだ力の中に『元の世界の誰かひとりと文字で話せる』という一行を見つけた瞬間、ミオの頭には、図書室の窓際で分厚い本をめくっていた幼なじみの横顔しか浮かばなかったのだ。もう一度、恒一と話がしたい。わたしが知らないことを何でも知っていた恒一と繋がっていられるなら、どんな知らない世界に放り出されても、きっとどうにかなる。そう思って、迷わずそれを選んだ。
けれど、いざ画面が開いてから、ミオは一文字も書けずにいた。
本当に届くのだろうかという疑いもある。だが、それ以上に怖かったのだ。
もし届いたとして、向こうでどれだけの時間が流れているのかも分からない。もうすっかり忘れられていたらどうしよう。あるいは、あの時ミオが勝手に飛び出して死んだことを、今も怒られていたら、責められたらと思うと、指がすくんで動かなかった。
その時、背後の家の薄い板戸の向こうから、子どもが激しくえずき、吐き戻す音が聞こえてきた。
母親の悲鳴に近い声と、背中をさする音。
ミオは唇を強く噛み締め、震える右手の人差し指を、宙に浮かぶ四角い画面へと伸ばした。
◇
何もない空間を、指先でなぞる。
すると不思議なことに、指が通った跡にすうっと光の線が残り、文字になった。
何から書けばいいのか分からない。名乗ったところで、死んだ人間から急に文字が届けば、悪質な悪戯か気味の悪い怪奇現象だと思われるに決まっている。
だからミオは、まず二人しか知らないはずのことを書いた。
小学校の裏山、折れた楠の根元に、拾ったトタン板を並べて作った秘密基地のこと。そこに埋めたままにした、錆びたクッキーの缶のこと。
それから、今自分がいる場所のことを繋げる。
事故で死んだあと、白い部屋で神様みたいな何かに会ったこと。魔王を倒せと言われて、力を一つだけやると言われたこと。今日で三年が経ち、いま十七歳になっていること。
指を動かしながら、胸の奥がひどく痛んだ。
魔法でも、どんな敵も一撃で倒せる剣でもなく、こんな力を選んでしまった。もしあの時、病気や毒をたちまち消せるようなすごい魔法を頼んでいたら、今この家の中で苦しんでいるあの子を、すぐに助けられたのではないか。自分の勝手な心細さで選んでしまった力が、ただの自己満足だったのではないかと、今さらになって怖くなる。
それをそのまま、最後に小さく書き添えた。
この村で井戸の水が疑われる病気が広がっていて、子どもが吐いていること。自分には魔法も薬も無いこと。わたしにもできる、水をきれいにする方法は無いかということ。
「会いたかった」という五文字は、書かなかった。それを書いてしまえば、返事が来なかった時に、自分が本当にひとりぼっちだと突きつけられる気がしたからだ。
画面の隅にある、送るための印に指を触れる。
文字がふっと消え、四角い画面の中が元の空っぽに戻った。
夜の風が、粉挽き小屋の方から乾いた麦の匂いを運んでくる。
井戸の周りでは、エドガーがまだ何か言っている。家の中では、また子どもが泣き出した。
ミオは息を詰め、瞬きもせずに宙の画面を見つめ続けた。
一拍。二拍。
何も起きない。
やっぱり駄目だったのか。神様なんて言っていたのは自分の死に際の幻で、この画面も、疲れ果てた頭が見せている夢なのかもしれない。そう思って指先を下ろしかけた、その時だった。
◇
画面の中に、ぽつり、と文字が浮かんだ。
『本当に、ミオなのか』
その返信を見た瞬間、ミオの喉の奥がきゅうっと鳴り、視界が熱く滲んだ。
どうして生きているのかとも、なぜそんな馬鹿な力を選んだのかとも責めない。昔から、図書室の隅で本ばかり読んでいて、ミオが突拍子もないことを言い出しても、まずはそのまま受け止めてくれた幼なじみの恒一の文面だ。
続けて、文字が次々と浮かび上がってくる。
『井戸の水か。今のそっちにある道具で、火と鍋は使えるか?』
ミオは慌てて袖で目元を拭い、宙に指を走らせた。鍋も火も、すぐそこの炊事場にある。砂や布もあると書き送る。
『なら、一番確かなのは蒸留だ。鍋で水を沸かして、少しずらした蓋の裏に付いた雫を別の器に受ける。ただ、これだと少ししか採れない』
『急いで量が要るなら、ろ過。よく洗って煮沸した小石と砂と、綺麗に洗った布を何枚も重ねた樽に水を通す。そのあと必ず強く沸騰させて冷ますこと。そっちの水、見た目や臭いはどうなってる?』
ミオは浮かんだ文字を何度も読み返した。
本当に信じてくれたのか、今どうしているのか、聞きたいことは山ほどあった。けれど、家の中からまた苦しげな咳き込みが聞こえてくる。
今は、それどころではない。
ミオは画面の文字を胸に刻み込むと、くるりと踵を返し、家の脇にある炊事場へと駆け出した。




