第9章 半分この星屑
パチン、と入り口のスイッチが切られ、教室から白い蛍光灯の光が消え去った。
一瞬の暗闇のあと、床の真ん中で回り続ける投影機のレンズから放たれた光が、頭上にある幾重もの透ける薄い布をふわりと浮かび上がらせる。
深いエメラルドグリーンから群青色へ、そして淡いラベンダー色へと溶け合う光のカーテン。
昼間、たくさんの来場者たちが見上げていたのと同じオーロラが、今は誰もいなくなった教室で、私と蒼の二人だけを包み込むように揺れていた。
聞こえるのは、投影機のファンが回るかすかな風切り音と、自分の胸の奥で少しずつ速くなっていく心臓の鼓動だけだ。
蒼が、ドアの前からゆっくりと歩いて戻ってくる。
光のカーテンの真下で、彼のつま先が止まった。
手を少し伸ばせばすぐに届いてしまう距離。頭上で揺れる緑と青の光が、彼の黒髪と長いまつげが作る影を、水彩画みたいに柔らかく染め上げていた。
いざこうして二人きりで向かい合うと、頭の中で繰り返していたはずの言葉が、急に熱を持って喉の奥に張り付いてしまった。
あとはもう、私が一歩踏み出して、この胸の真ん中にある気持ちを声にするだけなのに。
スカートの裾を握りしめた指先が、緊張でわずかに震える。
深く息を吸い込んで、「あのね、蒼くん」と唇を開きかけた瞬間だった。
「――俺から、先に言っていいか」
静かな教室の空気を震わせて、蒼の低く落ち着いた声が先に落ちた。
驚いて顔を上げると、蒼はどこか覚悟を決めたような真っ直ぐな瞳で私を見下ろしていた。
私が小さく頷くと、蒼は一度だけ視線を足元に落とし、拳をきゅっと握りしめてから、もう一度私の目を見つめた。
「……廊下で唯がプリントを落とした日。唯は、あの日から俺と話すようになったと思ってるかもしれないけど」
「……え?」
「ほんとは、もっとずっと前からだった。今年の春、同じクラスになったときから、俺はずっと、あの席から唯のことを見てた」
思いがけない言葉に、私の目が丸くなる。
窓際の一番後ろの席で、いつも静かに文庫本を読んでいるだけだと思っていた彼。あの日プリントを拾ってもらうまで、クラスメイトになんて興味がない人なのだとばかり思っていたのに。
「俺は誰かと群れたり、うまく笑ったりするのが得意じゃなくて、一人でいることが多かった。でも、唯はいつだって教室の真ん中で、誰に頼まれた仕事でも嫌な顔ひとつしないで引き受けて、太陽みたいに明るく笑ってた」
蒼の声が、オーロラの光の中で静かに響く。
「最初は、ただ眩しいなと思って見てるだけだった。……だけど、しばらくしてから気づいたんだ。唯が、友達と別れて一人きりになった瞬間や、誰も見ていない窓辺でふと足を止めたときだけ、今にも空気の中に溶けて消えてしまいそうなほど、心細そうで、寂しそうな横顔をすることに」
「……っ」
胸の奥を、柔らかい指先で直接触れられたみたいだった。
咲にだって、母にだって気づかれないように笑顔で隠していたはずの私の姿を、彼はずっと前から見抜いていたのだ。
「理由なんて分からなかった。でも、放課後の並木道を初めて二人で歩いたとき、『蒼くんのそばにいると安心する』って唯が笑っただろ」
蒼が、ほんの半歩だけ私の方へと近づいた。
「俺は、あの言葉が、生まれてから言われたどんな言葉よりも嬉しかったんだ。俺が横に立つだけで唯の心細そうな顔が消えるなら、もう遠くから見てるだけなんて無理だと思った。……他の誰がどう思うかより、俺は、唯に笑っていてほしい。唯が一人でいるのが怖いなら、俺がずっと隣にいる」
蒼は言葉を切り、ごくりと喉を鳴らしてから、私の瞳の奥を射抜くように見つめて言った。
「――好きだ、唯。誰よりも、きみのことが好きだ」
天井で揺れるエメラルドグリーンの光が、彼の黒い瞳の中でキラキラと反射している。
耳の奥で、彼の『好きだ』という低い声が、何度も温かい波紋になって広がっていく。
胸の真ん中が熱すぎて、苦しくて、それなのに生まれて初めて味わうような幸福感で満たされて、息がうまくできない。
いつの間にか、私の目からは熱い涙の粒がポロポロとあふれ出して、頬を伝ってこぼれ落ちていた。
「……っ、わ、唯!? ご、ごめん、俺、なんか嫌なこと言ったか……!?」
私が急に泣き出したのを見て、あんなに真剣な顔で告白していた蒼が、一気に余裕をなくして慌てふためいた。両手を宙に浮かせて、オロオロと私の顔を覗き込んでくる。
その慌てぶりが、いつもの彼らしくなくて、たまらなく愛おしくて、私は涙をこぼしながら「ふふっ」と声を上げて笑ってしまった。
「ち、違うの……っ、嫌なんかじゃ、全然ないよ……っ!」
私は両手の甲で涙を拭いながら、首をぶんぶんと横に振った。
「だって、私が今から言おうと思ってたこと、蒼くんが先に全部言ってくれちゃうから……嬉しすぎて涙が出ちゃっただけだよ……!」
しゃくり上げながらそう言うと、蒼はホッとしたように大きく息を吐いた。
私は、まだ少し震えている声に力を込めて、一歩前へ踏み出した。
「あのね、蒼くん。私、小学生の頃にお父さんがいなくなっちゃってから、楽しい時間が急に終わっちゃうことや、一人でいることが、ずっと怖かったの。だから、誰かの役に立って『ありがとう』って言ってもらうことで、その怖さを見ないふりしてた」
涙で滲む視界の中で、蒼が静かに頷いて聞いてくれている。
「でもね、蒼くんの隣だけは、違ったの。私が無理に喋らなくても、誰かのために何かを頑張らなくても、蒼くんが黙って同じ歩幅で隣にいてくれるだけで、世界がちっとも怖くなかった。私が、ただの私のままで普通に息ができたの」
もう一度、熱い雫が頬を伝う。けれど、私は目を逸らさずに彼を見上げて笑った。
「私に、一番優しい場所をくれてありがとう。……私も、蒼くんが大好き。他の誰よりも、蒼くんのことが好きです」
言い切った瞬間、胸の奥のつっかえがすべて取れて、澄み切った空気だけが体の中を駆け巡った。
私の言葉を最後まで聞き終えた蒼は、眩しすぎる光を受けたみたいに、ほんの少しだけ目を細めた。
そして、彼の右手がゆっくりと持ち上がり、その長い指先が、私の頬を伝う涙の筋を優しい力でそっと拭い取ってくれた。
ただ私という人間に触れるためだけの、純粋で甘い熱を持った指先。
「……泣き虫だな、唯は」
「蒼くんが、泣かせたんじゃん……」
私が涙声で言い返すと、蒼は頬から離した右手を、そのまま私の左手のひらへと滑らせた。
そして、少し冷えていた私の小さな手を、彼の広くて温かい手のひらですっぽりと包み込むように握りしめた。
「……っ」
紙越しでも、シャツの袖口越しでもない。
初めて、素肌のまま、手のひらと手のひらがぴったりと重なり合う。
彼の指が私の指の隙間にゆっくりと絡みつき、確かめるように力が込められた。
そこから流れ込んでくる確かな体温と鼓動のリズムだけで、私の世界は、指先の端から頭のてっぺんまで彼の温もりで満たされてしまったみたいだった。
「……これで、私たち、今日から恋人なんだよね?」
繋がれた手を見つめたまま尋ねると、蒼は耳たぶを少しだけ赤くして、「……ああ。そうだな」と頷いた。
「やったあ……! じゃあさ、もう一緒に帰る口実とか探さなくても、毎日当たり前に一緒に帰れるんだよね!」
嬉しさが次々と湧き上がってきて、私の口からは、これまで遠慮して飲み込んでいた「これから先のやりたいこと」がせきを切ったみたいに溢れ出した。
「ねえ、蒼くん! 来週の土曜日さ、モールの映画館に二人で映画観に行こうよ! その前に、またあのおじいさんの洋菓子店に行って、違う焼き菓子も買ってみよう! それから、来月のテストの前には、図書館で一緒に勉強しよう!」
私は繋がれたままの蒼の手を小さく揺らしながら、目を輝かせて見上げた。
「あとね、十二月になって夜空に雪が舞うようになったら、お揃いのマフラーを買いに行って、帰り道にこうやって手をつないだまま、蒼くんのポケットに私の手も一緒に入れて歩いてみたいな。それでね、来年の春になって三年生になっても、また絶対同じクラスになって、来年の文化祭ではもっと綺麗な――」
そこまで一気に喋り続けたところで、私の言葉はふと止まった。
目の前で私の手を握りしめている蒼の顔が、オーロラの青い光の中で、今にも泣き崩れてしまいそうなほど苦しげに歪んでいたからだ。
「……蒼くん?」
彼の長いまつげが細かく震え、強く噛みしめられた唇の端が痛々しいほど引き結ばれている。
どうして、そんな顔をするんだろう。
不安になって私が言葉を飲み込んだ、次の瞬間だった。
蒼が、繋いでいた手を強く引き寄せ、そのまま私の体を両腕の中へと力いっぱい抱きしめた。
「――っ、あ……」
これまで彼に支えられたどのときよりも、ずっと強い力だった。
まるで、少しでも腕の力を緩めたら、私の体が風になって消えてしまうのを必死に食い止めようとしているみたいな、息が詰まるほど切実で、すがりつくような抱擁。
彼の顎が私の右肩に深く埋められ、耳元で、声を押し殺して荒く息を吐く音が聞こえた。
「……っ、ああ……そうだな……」
私の肩口に顔を埋めたまま、蒼が、喉の奥から絞り出すようなかすれた声で呟いた。
「来週、映画に行こう。あのおじいさんの店にも、また行こう。……冬になったら、マフラーを買いに行って、毎日、手をつないで帰ろう。来年の春も、その次の年も、ずっと……」
彼の広い背中が、私の腕の中でわずかに震えている気がした。
どうして彼がこんなにも強く、何かに必死に抗うみたいに私を抱きしめているのか、本当の理由は分からなかった。
けれど、彼の胸元から伝わってくる激しい心臓の音の中に、嘘なんて一ミリもないことだけは分かった。彼は本当に、心の底から、私と一緒に未来を生きたいと願ってくれているのだ。
だから私も、背中に回された彼のシャツの布地をぎゅっと握りしめ、彼の胸に自分の頬をそっと預けた。
「……うん。約束だよ、蒼くん。ずっと、一緒にいようね」
「……ああ。ずっと、一緒だ。何があっても、絶対に唯を一人にはしない」
長い時間、私たちはオーロラの光が降り注ぐ教室の真ん中で、お互いの体温を確かめ合うように抱きしめ合っていた。
*
やがて、蒼がゆっくりと腕の力を緩め、すっかり穏やかさを取り戻した瞳で私の顔を見た。
「……ごめん、ちょっと強く抱きしめすぎた。苦しかっただろ」
「ううん、全然! すごく温かかったよ」
私が顔を赤くして笑うと、ふと、机の横に置いてあった通学カバンが目に入った。
「――あっ、そうだ! 待ってて、蒼くん!」
私は繋いでいた右手は離さないまま、左手を伸ばしてカバンを引き寄せた。
そして、内ポケットから、白いリボンが結ばれたままの『洋菓子 ステラ』の小さな透明の袋を取り出した。
「……それ」
蒼が目を丸くして、私の手の中の袋を見つめる。
袋の底には、星型のクッキーが、たった一枚だけ残ってキラキラと光っていた。
「ふふ、残りは『特別な時』が来たら食べるって言ったでしょ?」
私は繋がれていない方の指先と口を使って、器用に白いリボンをほどいた。
「二枚目はね、昨日の夜、今日ちゃんと気持ちを伝えられますようにって、おまじないで食べちゃったの。……それで、この最後の三枚目は、もし蒼くんも同じ気持ちになってくれたら、絶対にこのオーロラの下で二人で食べようって決めてたんだ」
袋から最後の一枚になった小さな青い星を取り出すと、暗い教室の中に、焦がしバターとバニラの甘くて優しい香りがふわっと広がった。
「でも、一枚しかないだろ。唯が全部食べなよ」
「だめーっ! 今日という『特別な時』は、蒼くんと二人で迎えたんだもん。半分こしなきゃ意味ないよ!」
私は一度だけ繋いでいた手から指を離すと、小さな星型のクッキーを両手の指先で持ち、真ん中から、パキッ、と綺麗に二つに割った。
銀色のアラザンが数粒、手のひらの上にこぼれる。
私は、少し大きい方の欠片を、蒼の口元へとそっと差し出した。
「はい、蒼くん。半分こ」
蒼は、私の指先に摘ままれた青い星の欠片と、私の顔を交互に見つめた。
彼の瞳の奥に、またしても泣き出してしまいそうなほど深い愛おしさが揺れる。
彼は「……ありがとう」と小さく呟くと、手から摘まむのではなく、少しだけ身を屈めて、私の指先から直接その星の欠片をそっと唇で咥えて受け取った。
「……っ!」
彼の温かい唇が指先にほんの一瞬だけ触れて、私の顔はもう一度耳まで真っ赤に沸騰した。
「私も、いただきます」
照れ隠しに、私は手元に残ったもう半分の星を口へと放り込んだ。
サクッ、と軽やかな音がして、口の中いっぱいに素朴で温かいバターと砂糖の甘さがほろほろと広がっていく。
一人で食べた一枚目も、ドキドキしながら食べた二枚目もおいしかったけれど、想いが通じ合ったばかりの蒼と分け合って食べるこの「半分この三枚目」は、胸の奥が溶けてしまいそうなほど甘くて、幸せな味がした。
「……おいしいね、蒼くん」
私が口の端についた砂糖の粉を拭いながら笑うと、蒼もこれまでで一番柔らかい笑顔で頷いた。
「……ああ。世界で一番、おいしいよ」
*
クッキーを食べ終えたあと、私たちは教室の一番後ろの窓際――いつも蒼が座っていたあの席へと歩いていった。
二人分の椅子を隣同士にぴったりと並べ、机の上に腕を乗せるようにして腰を下ろす。
時計の針は午後七時を回り、やがて八時へと近づいていく。
普通なら見回りの先生に怒られてしまう時間なのに、今日の校舎はどこまでも静かで、邪魔をしに来る人は誰もいなかった。
それどころか、時間が経つにつれて、黒い暗幕の向こう側にある街全体から生活の音がすうっと消えていき、まるでこの小さな教室が、広い宇宙の真ん中にぽつんと浮かぶ二人だけの箱舟になったみたいな静けさに包まれていく。
けれど、そんな深すぎるほどの静寂の中で、私たちは頭上のオーロラを見上げたり、繋がれたお互いの指先を眺めたりしながら、他愛のない話をたくさんして笑い合った。
春の席替えのとき、蒼が本当は私の近くの席になりたくて、くじ引きをすごく緊張しながら引いていたという話。
私がプリントを運ぶときに毎回顎の上まで積んでしまうから、蒼がいつもヒヤヒヤしながら見ていたという話。
おじいちゃんの古い懐中時計が昨日ついに直って、今も蒼のポケットの中で正確な音を刻んでいるという話。
途中で一度だけ、蒼がふと壁の時計へと視線を向け、残り少ない何かを確かめるみたいに目を細めたことがあった。
けれど、私が「どうしたの?」と見上げると、彼はすぐに何でもないように微笑んで、繋いでいる私の指先に、まるでこれから先の一生分の時間をそこに閉じ込めるみたいに、ぎゅっと優しく力を込め直してくれた。
何を話しても楽しくて、寄せ合った肩と繋いだ手のひらから、彼の真っ直ぐな体温が絶え間なく流れ込んでくる。
午後八時半を過ぎたころ、早起きをして一日中走り回り、さっき思いっきり泣いた疲れが出たのか、私のまぶたが少しずつ重たくなってきた。
「……ふあ……っ、ごめん、ちょっとだけあくび出ちゃった……」
「朝からずっと立ちっぱなしだったからな。……少し、寄りかかってていいよ」
蒼が自分の左肩を、私のほうへとそっと寄せてくれる。
私は甘えるように、彼の制服の肩へと頭をコテンと乗せ、机の上で自分の腕を枕にするようにして顔を横に向けた。
すぐ鼻先に、彼の白いシャツの襟元と、規則正しく上下する胸がある。
耳を澄ますと、校舎の深い地下で鳴り続けていた低い振動音がいつの間にか少しずつゆっくりになり、代わりに、蒼のポケットの中で鳴っている懐中時計の『チク、タク、チク、タク』という優しい音と彼の穏やかな心音だけが、子守唄みたいに心地よく響いていた。
「……ねえ、蒼くん」
私は重たいまぶたを半分だけ開けて、すぐ近くにある彼の横顔を見上げた。
「私ね、今日という日が、生まれてから一番幸せな日だったよ。……明日も、明後日も、こんなふうに蒼くんと手をつないでいられるなんて、なんだか夢みたい」
蒼は、自分の肩に乗った私の頭へ空いている右手をそっと乗せ、私の髪を優しく、何度も撫でてくれた。
「……ああ。俺も、今日が一番幸せだよ。……唯、俺と出会ってくれて、ありがとう」
「ふふ、なにそれ、また大げさだなあ。これからも毎日会うのに……」
彼の指先が髪を梳く感触があまりにも気持ちよくて、私の意識は、温かい羽毛の中に沈み込むみたいにふわふわとまどろみ始めていた。
壁に掛けられた教室の時計の針が、ゆっくりと、午後九時ちょうどを指し示そうとしていた。




