第10章 空がほどける夜に
壁に掛けられた時計の秒針が、静かな教室の空気を刻みながら、一番上の『12』へとゆっくりと重なった。
午後九時ちょうど。
その瞬間だった。
校舎の床のずっと深い地下で、さっきまでかすかに響いていた重たい振動音が、大きなオルゴールのぜんまいが巻き切れて止まったみたいに、フッ、と完全に途絶えた。
音の消えた世界が、耳の奥をツンと引っ張るような深い無音に沈み込む。
そして、すぐその直後だった。
ジジッ、と小さな音を立てて、教室の真ん中に置かれていた投影機の光が一度だけ強く瞬き、そのままパッと消えた。
冷却ファンの風切り音も、ゆっくりと回転を落として止まる。
頭上で揺れていたグリーンと群青色、淡いラベンダー色のオーロラのカーテンが、最初からそこには何もなかったかのように深い暗闇の中へと消えていった。
「……あっ」
私は蒼の左肩に頭を乗せたまま、思わず小さく声を上げた。
二重の黒い暗幕で覆われた教室の中は、一筋の光もない完全な闇に包まれている。
いつもなら、こんなふうに突然明かりが消えてしまったら、暗い宇宙にひとりぼっちで放り出されたみたいな恐怖にすくみ上がっていたはずだ。
けれど、不思議なくらい今の私は落ち着いていた。
暗闇の中でも、私の左手は机の上で蒼の温かい右手にしっかりと握りしめられていて、頬の下には彼の肩の確かな厚みがある。
彼と繋がっているこの手のひらの温度がある限り、世界がどれだけ暗くなっても、私は絶対に迷子になったりしない。
「……びっくりしたあ。急に消えちゃったね」
私は目を瞬かせながら、彼の肩から少し頭を起こして言った。
「もう夜の九時だもんね。見回りの先生か用務員のおじさんが、誰も残ってないと思ってブレーカーを落としちゃったんだよ。……それとも、街中のお祭りで電気を使いすぎちゃったのかな」
私がくすっと笑ってそう言うと、隣に座る蒼は、すぐには返事をしなかった。
静寂の中で制服の布地が擦れる音がして、私の左手を握っている彼の指先に、ぎゅっと強い力が込められた。
痛いくらいに強く、けれど決して私を傷つけない切実な力強さ。
彼のポケットの中から、古い懐中時計が刻む『チク、タク、チク、タク』という秒針の音だけが、驚くほど鮮明に聞こえてくる。
「……唯」
数秒の沈黙のあと、暗闇のすぐ近くから、蒼の静かな声が届いた。
「……外、見てみるか」
「え? 外?」
「ああ。……今朝、唯のお母さんが言ってたんだろ。夜の九時から、感謝祭のグランドフィナーレのライトアップがあるって」
「あっ、そっか! そういえば、お母さんそんなこと言ってた!」
私はパッと顔を上げた。
夕方、大通りから車が消えて街中が静まり返っていたのも、みんながそのフィナーレを待っていたからなのだ。
「見たい! ここからでも見えるかな?」
「ああ。この窓からが、一番よく見えるよ」
蒼は、私の左手を握ったまま静かに立ち上がった。
私も彼の手に引かれるようにして立ち上がり、教室の一番後ろにある大きな窓の前へと歩み寄った。
目の前には、外の光を通さない分厚い黒の暗幕が垂れ下がっている。
蒼が、繋いでいない方の左手を伸ばし、暗幕の端を強く掴んだ。
「……開けるよ」
「うんっ」
シャッ、とカーテンレールを金具が滑る音が響き、蒼が暗幕を左右へと大きく引き開けた。
四角いガラス窓の向こうに、夜の街並みが姿を現す。
けれど、そこに広がっていた景色を見た瞬間、私の口から出かかった歓声は喉の奥でぴたりと止まった。
暗い。
フィナーレのライトアップどころか、窓の下に広がる街並みからは、住宅街の明かりも、大通りの街灯も、遠くのモールのネオンも、文字通り「すべて」が消え失せていたのだ。
まるで街全体が深い海の底へ沈んでしまったみたいに、どこまでも続く黒い影の連なり。
「……あれ……? 街の電気も、ぜんぶ消えちゃってるよ……?」
私がガラス窓に近づいて首を傾げた、まさにそのときだった。
『……パチッ……ブツッ……』
はるか頭上。
黒い街並みを見下ろすように広がっていた「いつもの均一な夜空」の高いところで、古いテレビの電源が切れるような乾いたノイズが鳴った。
ひとつだけではない。
東の空の端から、西の空の端まで、何百、何千という数の『パチッ、パチッ、パチッ』という音が、ドミノ倒しみたいに次々と夜空を駆け抜けていく。
それと同時に、いつも決められた場所で規則正しく光っていた白い星々と、滑らかな紺色の夜空が、真四角のタイルが一枚ずつ剥がれ落ちるみたいに、端から順番にパタ、パタ、と消えていったのだ。
「……え……?」
四角く消えた夜空の裏側から現れたのは、雲でも、風でもなかった。
それは、街全体を鳥かごのようにすっぽりと覆い尽くしている、果てしなく広い「鉄の格子の天井」と、何重にも張り巡らされた分厚いガラスの屋根だった。
私が生まれたときからずっと「本物の空」だと信じて見上げていたあの完璧な青空も、水曜日の深夜だけに降る優しい雨も、すべては、この街を覆う巨大なドームの天井に映し出されていた映像だったのだ。
そして今、そのドームの天井のあちこちで、『ギシィィィッ……!』とあの日聞いたのと同じ重たい軋み音が響き渡り、分厚い外装パネルの継ぎ目が、まるで花びらがほどけるみたいにゆっくりと外側へと開いていく。
剥がれ落ちた天井の隙間から、これまで一度も見たことがない「ドームの外の世界」が、むき出しになって姿を現した。
そこには、底知れないほど深くて冷たい、闇があった。
そして、その漆黒の夜空を端から端まで埋め尽くすようにして、緑と紫、そして燃えるような茜色の「本物のオーロラ」が、音のない光の嵐となって凄まじい勢いで渦巻いていたのだ。
「――っ、あ……」
あまりにも果てしなくて、あまりにも圧倒的な、外の世界の空。
あの黒焦げの写真集の中で見た通りの、いや、写真なんかとは比べものにならないほど生々しくて、ちっぽけな街ごと一瞬で呑み込んでしまいそうな、美しすぎて恐ろしい光の奔流。
天井の隙間から差し込んだその強い光が、真っ暗だった街並みと、窓辺に立つ私たちの顔を、蒼白く照らし出す。
その光景を目の当たりにした瞬間。
頭蓋骨の奥が、氷の刃で突かれたみたいに激しく軋んだ。
視界がぐらりと揺れ、繋いでいない方の指先がガタガタと震え始める。
あれは、お祭りなんかじゃない。この街を守っていた天井が壊れて、すべてが終わろうとしている――頭の中の優しい靄が吹き飛ばされそうになり、本能がそう叫びかけた、その瞬間。
隣に立っていた蒼が、一歩後ろから私の体を、彼の広い胸の中へとすっぽりと抱きすくめた。
「……っ」
背中全体に、彼の確かな体温がぴたりと重なる。
そして、後ろから回された彼の大きくて温かい両手が、震えかけた私の両頬から耳の上にかけてを、冷たい風と嫌な音をすべて遮断するみたいに、そっと、けれど隙間なく優しく包み込んだ。
ピタリ、と。
彼の温かい手のひらで両耳を覆われた瞬間、頭の奥で鳴り響いていた鋭い軋みが、嘘のようにすっと消え去った。
「……怖くないよ、唯」
耳を覆う彼の手のひらを通して、そして背中に密着した彼の胸の奥から直接響いてくるみたいに、蒼の低くて穏やかな声が、私の心の中へとじんわりと染み渡っていく。
「ほら、見てごらん。……俺たちがこの教室で作ったオーロラが、街中の空いっぱいに広がったみたいだ。……唯がずっと笑ってくれたから、最後に空が、唯の見たがってた本物のオーロラを見せてくれたんだよ」
蒼の優しい声と、私を包み込む温もり。
それに守られた瞬間、ずっと笑っていたいと願ったあの日から頭の中にあった霧が、これまでで一番温かく、一番柔らかい光を放って視界を包み込んだ。
震えも、恐怖も、すべてが春の陽だまりの中へと溶けていく。
私の瞳に映る景色が、音もなく、世界で一番優しい色へと塗り替えられていった。
「……あ……ほんとだ……」
私の口から、震えの消えた、澄み切った吐息がこぼれた。
窓の外を見上げると、もうそこには、怖い鉄の天井なんて見えなかった。
ただ、今まで少しだけ狭かった空の枠がゆっくりと取り外されて、ずっと私が見たいと憧れていた「本物のオーロラ」が、夜空いっぱいに揺れているだけだった。
緑色の光の柱が幾重にも重なり、その間を、優しいラベンダー色とピンク色の光の帯が、まるで絹のカーテンみたいにひらひらと舞い降りてくる。
写真集で見たときみたいな、冷たくて怖い光じゃなかった。
だって、私の後ろには蒼がいて、私をこんなに温かく抱きしめてくれているのだから。今、空で揺れている大きな光は、私たちがこの教室で一生懸命作ったあの温かいオーロラの続きに決まっている。今朝、お母さんが言っていた「夜九時からのグランドフィナーレ」って、こんなにすごいサプライズのことだったんだ。
「……すごい……綺麗だよ、蒼くん……!」
私は自分の両手を持ち上げて、頬と耳を包んでいる蒼の大きな手の甲にそっと重ねた。
「ほんとに、本物のオーロラだ……。私、生きてるうちにこんな綺麗な空が見られるなんて、思ってなかった……」
「……ああ。ほんとに、綺麗だな」
私の頭のすぐ上で、蒼の声が、少しだけ涙を含んだみたいに柔らかく震えて響いた。
そのとき、ほどけた空の高いところから、オーロラの幻想的な光に照らされて、何か白いものが無数にひらひらと舞い落ちてくるのが見えた。
「見て、蒼くん……雪だよ」
毎年十二月にならないと降らないはずの白い雪が、今夜のフィナーレのために、少しだけ早く夜空から舞い降りてきてくれたみたいだ。
音もなく降り注ぐ無数の雪片が、一年中ずっと同じ緑色だった街路樹の葉や、灯りの消えた家の屋根を、真っ白な砂糖菓子みたいに静かに染め上げていく。
教室の換気口や窓の隙間から、すうっと冷たい夜の空気が流れ込んできた。
けれど、その冷気と一緒に、部屋の中いっぱいにたまらなく甘くて優しい香りが広がっていく。さっき二人で半分こして食べた星屑のクッキーにそっくりな、焦がしバターとバニラ、そして春の花畑を混ぜ合わせたみたいな穏やかな香りだった。
その甘い空気を深く吸い込んだ途端、心地よい疲れが、温かい波みたいに頭の上からつま先までをゆっくりと浸していった。
教室の空気が急速に冷えてきているはずなのに、不思議と寒いとは少しも感じない。
それでも、私の指先がかすかに冷たくなり始めたのに気づいたのか、蒼は一度だけ腕を緩めると、自分のブレザーを脱ぎ、私の頭から肩まですっぽりと覆うように羽織らせてくれた。
彼の体温がたっぷりと染み込んだ、大きめのブレザー。
そして彼は、窓際の床にゆっくりと腰を下ろし、壁に背中を預けると、ブレザーごと私の体を深く引き寄せて、ゆりかごみたいに優しく抱きしめてくれた。
「……蒼くん、寒くない?」
私が彼の胸に背中を預けたまま、少しトロンとしてきた声で尋ねると、蒼はブレザーの上から両腕を回し、私の冷えかけた指先を温かい両手でぎゅっと包み込んだ。
「全然寒くないよ。こうやって唯を抱きしめてると、すごく温かいから」
窓の外では、ほどけた空の向こう側で、オーロラと白い雪がどこまでも静かに舞い続けている。
その光が窓から差し込んで、私たちの足元に柔らかな緑の絨毯を作っていた。
甘いバニラの香りを吸い込むたびに、まぶたが羽毛布団を掛けられたみたいにどんどん重たくなっていく。
痛みも、苦しさも、怖いことも、何ひとつない。
ただ、大好きな人の腕のゆりかごの中で、一番気持ちのいい眠りの淵へとゆっくりと落ちていくような安心感だけがそこにはあった。
「……ねえ、蒼くん……なんか私、すっごく眠くなってきちゃった……」
私は彼の胸元に後頭部を預け、重たいまぶたを半分だけ開けて、彼の指先を握り返した。
「こんなところで寝ちゃったら、また風邪ひいちゃうかな……」
「大丈夫だよ、唯。俺がこうして、ずっと温めてるから。……何も心配しないで、ゆっくり眠っていいよ」
蒼の片手が、ブレザーの襟元から覗く私の前髪をそっと撫で、そのまま目元へと優しく触れる。
彼の胸から聞こえる穏やかな心音と、ポケットの中の懐中時計が刻む『チク、タク』という音が、私の意識を優しい夢の中へと誘っていく。
ああ、明日が来るのが、こんなにも楽しみな夜は生まれて初めてだ。
目が覚めたら、さっそく蒼くんとお揃いのマフラーを買いに行って、雪の積もった街を歩こう。家に帰ってお母さんに今日のオーロラの話をして、月曜日になったらこの教室で咲や美羽たちに会って、放課後には恋人として、蒼と手をつないで並木道を帰るのだ。
「……ねえ、蒼くん」
ほとんど閉じかけた視界の中で、彼の優しい横顔を見上げて、私は最後の力を振り絞るように、幸せいっぱいに微笑んだ。
「私ね、今、世界中で一番幸せだよ。……明日も、また一緒に帰ろうね」
私の言葉を聞いて、蒼の瞳から、透明な雫がひとすじこぼれ落ち、私の頬へと温かく落ちた気がした。
けれど、私の耳に届いた彼の声は、どこまでも穏やかで、笑顔の形をしていた。
「……ああ。約束だ。……また明日な、唯。おやすみ」
「うん……おやすみなさい、蒼くん……」
繋いだ手のひらの確かな熱と、甘い星屑の香りに包まれながら。
私は、明日の朝、目が覚めたときに一番最初に彼に言う「おはよう」の言葉を思い浮かべたまま、深く、深く、どこまでも温かい眠りの中へと静かに沈んでいった。




