終章 たくさんの明日
『うん……おやすみなさい、蒼くん……』
俺の胸に背中を預けたまま、きみの唇から羽毛みたいに軽い吐息がこぼれた。
繋いでいた手のひらから力がゆっくりと抜けていき、頭から掛けたブレザーの襟元で、きみの規則正しい寝息が静かに鳴り始める。
窓の外では、役目を終えて開いたドームの天井の隙間から、毒々しいほど鮮やかなオーロラの光と、外の世界の猛烈な吹雪が音もなく降り注いでいた。十二月の演出で使われる優しい雪じゃない。今まで一度も本当の冬を知らなかったこの街が、見る間に白い雪の下へと埋もれていく。
換気口から流れ込み続ける、甘い香り。
かつて幼いきみが見つけてくれた小さな奇跡が、今、最後の夜を迎えたこの街の全員を、一ミリの苦しみも恐怖もない穏やかな夢の続きへと送り出している。
俺は壁に背中を預けて座ったまま、腕の中で眠るきみの体が冷えてしまわないように、自分の両腕に優しく力を込めた。
きみの柔らかい髪から、さっき二人で半分こして食べた、あの星屑のクッキーの甘い匂いがかすかに漂ってくる。
「……おやすみ、唯」
返事のない静かな教室で、俺はきみのつむじに顎をそっと乗せ、緑の光に照らし出された窓の外の街並みを見つめた。
この最後のドーム都市が、今年の秋で稼働を終える――じいちゃんが遺した古い資料と、役所に勤める親からの話で俺がそれを知ったのは、二ヶ月前のことだった。
来年の春も、大人になる未来も、もうどこにもない。文化祭の日、土曜日の午後九時をもってすべてが止まる。
それを知ったあの日、俺の目に見えていた世界からはすべての色が消えた。
誰かと笑うことも、何かを欲しいと願うことも全部が空っぽで無意味に思えて、俺はいつも窓際の一番後ろの席で、ただ静かに終わりの日が来るのだけを待っていた。天井に映し出された偽物の青い空を見上げながら、心の中ではとっくに呼吸を止めていたんだ。
うちの両親から、同じクラスにいるきみの話を聞いたのもその頃だった。
壊れかけた心を守るために受けた処置と、『ずっと笑っているいい子でいたい』という痛々しい祈りが結びついて起きた、奇跡みたいな副作用。
過酷な現実を見聞きしたとき、きみの脳はそれを無意識に拒絶して、すべてを『穏やかで優しい日常の続き』へと書き換えて認識してしまうのだと。
この街の中で、きみだけは、世界の終わりを知らないまま、最後の日まで昨日と同じように笑うことができる少女だった。
きみのお母さんも、罪悪感に押し潰されそうになって泣いていたクラスのあいつらも、親友の咲も。
誰もが、自分の命が終わることなんかより、きみのそのガラス細工みたいに繊細で尊い心が、最後の瞬間まで守られることだけを祈っていただろう。
だって、誰もが明日を失って立ち尽くしている中で、きみだけが『文化祭が終わったら、みんなで映画に行こうよ』『また月曜日にね』と、本気で未来を信じて笑ってくれたから。
きみが教室の真ん中で無邪気に語る「来週の約束」や「来年の話」は、俺たち全員にとって、決して来ないはずだった『未来』そのものだったんだよ。
きみがいつも通りに笑ってくれるだけで、俺たちは「ああ、俺たちはまだ普通の高校生として青春の真ん中にいるんだ」と信じることができた。
守られていたのはきみなんかじゃない。きみのその笑顔に、みんなが、最後の最後まで救われていたんだ。
だけど――きみを目で追っていた俺だけは、もうひとつ別のことに気づいていた。
きみが、友達と別れて一人きりになった瞬間や、休日のモールで立ち止まったときだけ、今にも消えてしまいそうなほど心細そうで、怯えたような顔をしていたことを。
頭の中の優しいお守りが、どれだけ悲しい景色や言葉を遠ざけてくれても、きみの直感までは誤魔化しきれなかったんだ。
街から少しずつ人の気配や音が消え、世界が閉じようとしている冷たい気配を、きみの肌だけはずっと前から感じ取って震えていた。怖い理由が分からないからこそ、広すぎる世界の静けさに、きみはたった一人で怯えていたんだ。
あの日、放課後の並木道を初めて二人で歩いた夕暮れ。
きみが耳まで真っ赤にして、俺のそばにいると安心すると笑ってくれた、あの瞬間。
俺の止まっていた心臓が、もう一度激しく音を立てて動き出した。
ああ、そうか、と思った。
俺がまだこの世界で息をしている理由は、これだったんだ、と。
俺が隣に立つだけで、きみがただのきみのままで穏やかに息ができるなら、残りの人生のすべてを使ってやるべきことは、たったひとつしかなかった。
俺が、きみの世界になろう。
最後の瞬間が来るその一秒前まで、きみが一度も冷たい孤独に触れなくて済むように、俺の歩幅で、俺の声で、俺の体温で、きみの周りをすべて埋め尽くして守ってやろう、って。
それからの二週間は、それまでの十六年間の人生を全部合わせたよりも、ずっと鮮やかで、幸福な時間だった。
きみが笑ってくれるから、俺は明日が来ない絶望を忘れて、ただの一人の男の子としてきみに恋をすることができたんだ。
さっき、きみが俺の手を握りしめて語ってくれたたくさんの約束。
来週行く映画館も。冬に買いに行くお揃いのマフラーも。また同じクラスになる来年の春も。
きみが無垢な声で未来を語るたび、俺の胸は、悔しさと愛おしさで張り裂けそうだった。
もしどこかに神様がいるのなら、俺の命なんて今すぐどうなってもいいから、この子が楽しみにしている未来を、どうかこの子にだけは見せてやってくれと、泣き叫びたくなるほど願った。
でも――俺の腕の中で、ただ幸せそうに微笑んで眠りについたきみの寝顔を見下ろしていたら、不思議とその苦しみもすうっと溶けていった。
きみが語ってくれた未来は、決して嘘なんかじゃない。
きみが俺の手を握って、それを本当に楽しみだと信じて笑ってくれた瞬間、そのたくさんの「明日」は、きみと俺の心の中に、誰にも壊せない本物の記憶として確かに存在したんだから。
窓ガラスの向こうでは、吹き荒れる雪がいよいよ激しさを増し、街の輪郭をすべて真っ白に塗り潰していく。
教室の温度が下がっていくにつれて、俺の両手の中で包んでいるきみの小さな指先から、あのトク、トクと脈打っていた温かい熱が、少しずつ、本当に少しずつだけど、遠くへ引く波みたいに薄れていくのが分かった。
規則正しい寝息は続いているのに、きみの頬も、指先も、俺がどれだけ抱きしめても、ゆっくりと白く冷えていく。
「……っ、ごめんな、唯」
誰も聞いていない静かな教室で、俺は冷たくなり始めたきみの両手を自分の胸元へと引き寄せ、震える唇をそっと押し当てた。
「お揃いのマフラーを買いに行こうって約束してたのに……俺の手だけじゃ、きみが冷えていくのを、全部は止められないや」
声に出した途端、こらえていた熱い雫がボロボロと溢れ出して、きみの小さな手の甲を濡らした。
それでも俺は、自分の残っている熱を最後の一滴まで全部きみに分け与えるみたいに、腕の中の小さな体を、ぎゅっと強く抱きしめ直した。
部屋の中の甘い香りが、いっそう濃くなっていく。
俺自身のまぶたも、温かい海の底へゆっくりと沈んでいくみたいに、心地よく重たくなってきた。
寒さも、痛みも、寂しさも、もう感じない。
二人の体温が溶け合って、境界線がゆっくりと消えていくみたいだ。
ポケットの中で、ずっと規則正しく鳴り続けていたじいちゃんの懐中時計の『チク、タク……チク……タク……』という音が、きみの穏やかな寝息に歩調を合わせるみたいに少しずつゆっくりになり――そして、カチリ、と小さな音を立てて、静かに止まった。
時計の針が止まっても、俺たちの時間は、ここで終わりじゃない。
だって、きみは眠る直前に、俺の目を見て約束してくれたじゃないか。明日もまた、一緒に帰ろう、って。
ああ、帰ろう。
あの作り物の青空の下でも、このオーロラが揺れる広い空の下でも、どこだっていい。
きみが目を覚まして「おはよう」と笑う場所があるなら、俺は何度だって、きみの小さな歩幅にぴったりと速度を合わせて、すぐ隣を歩いていくよ。
俺は、腕の中のきみの柔らかい髪に、自分の頬をそっと寄せた。
窓の外で揺れるオーロラの光が、まぶたの裏で、きみと半分こしたあの甘い星屑のクッキーの色へと優しく溶けていく。
ありがとう、唯。
俺の最後の毎日を、世界で一番眩しい青春に変えてくれて。
また明日な、唯。
今度は、最初から手をつないだままで、どこまでも一緒に歩いていこう。




