第8章 お祭りのあと
午後四時を告げる校内放送のチャイムが、熱気に包まれていた校舎の隅々まで染み渡るように鳴り響いた。
『――以上をもちまして、今年度の文化祭の全プログラムを終了いたします。生徒の皆さんは、各クラスで簡単な片付けを行ったあと、速やかに下校してください』
アナウンスが終わると、廊下を埋め尽くしていたお客さんたちの波が、潮が引くみたいに昇降口の方へと動き始めた。
私たちの教室でも最後の投影が終わり、出ていくお客さんたちをクラスメイトと声を揃えて見送った。
小さな女の子を連れたお母さんが、入り口に立つ私の前で足を止め、目尻に浮かんだ涙を指先でそっと拭った。
「とっても綺麗な光をありがとうね。……どうか素敵な夜を過ごしてね」
「はい! ありがとうございます、気をつけてお帰りくださいね!」
私が笑顔で手を振ると、女の子もお母さんに連れられながら、角を曲がるまで何度も振り返ってくれた。
すべてのお客さんが帰り、廊下のざわめきが遠ざかっていく。
全員が教室へ戻ってくると、誰からともなく「ふうっ……」と大きなため息が漏れ、そのまま床の上にぺたんと座り込んだ。
「おつかれさまーっ! みんな、最後までやり切ったね!」
学級委員の男子が声を上げると、暗い教室の中に温かな拍手が広がった。
「すごかったよな、朝から最終回まで一度も客足が途切れなかったぞ!」
「みんな感動してくれてたよね。紺野くんのレンズと、唯たちの布のおかげだよ!」
賞賛の声が集まり、機材ブースの横に立っていた蒼が、少し居心地悪そうに視線を逸らす。私は、「みんなが毎日手伝ってくれたからだよ、ありがとう!」と笑い返した。
しばらく健闘を称え合ったあと、学級委員が立ち上がって、少し迷うように天井を見上げた。
「えーっと……どうする? この天井の布とか暗幕、今から全部外すか?」
その言葉に、教室中の視線が一斉に頭上へと向けられた。
まだ電源が入ったままの投影機から放たれた光が、オーロラを静かに揺らしている。この二週間、私たちが放課後の時間をすべて注ぎ込んで作り上げた優しい空だ。
「……ねえ、このままにしておかない?」
ぽつりと言ったのは、床に座って膝を抱えていた美羽だった。
「だってさ、こんなに綺麗にできたのに。どうせもう、この教室で勉強することなんて……あ、いや、月曜日の朝に片付ければ、それでいいじゃん」
美羽の言葉に、周りの男子も女子も、誰ひとり反対しなかった。
「そうだな。今から外すのも危ないし、このまま残しておこうぜ」
「うん。このオーロラ、もう少しだけ点けたままにしておきたいもん」
満場一致でそう決まり、私たちは後ろに重ねてあった机と椅子だけを、静かに元の場所へと並べ直した。
不思議だったのは、自分の机を戻し終えたみんなが、まるで大切な宝物にでも触れるみたいに、傷だらけの木の天板を手のひらでそっと撫でていたことだ。黒い暗幕も天井を覆う光のカーテンも、すべてそのままの姿で残された。
*
机を戻し終えたあと、模擬店からもらってきたジュースとお菓子を教卓に並べて、ささやかな打ち上げが始まった。
乾杯、と紙コップを合わせる音が、オーロラの光が揺れる薄暗い教室に響く。
いつもならお祭りのあとの教室なんて、バカ騒ぎしたり記念写真を撮ったりするはずなのに。
やっぱり今日も、誰もスマホを取り出そうとはせず、仲のいいグループごとに寄り添って静かに言葉を交わしていた。
私が自分の机の横でジュースを飲んでいると、美羽と香織が並んで歩いてきた。
「唯、装飾チーフ、ほんとにお疲れ様。唯が真ん中にいてくれたおかげで、最後まで楽しく準備できたよ」
「私なんか頼りないチーフだったのに。二人が綺麗に布を縫ってくれたおかげだよ」
私が笑うと、美羽は少し目を潤ませて、私の左手を両手でぎゅっと握りしめた。
「ううん、唯のおかげだよ。……ここ最近さ、私、ほんとはちょっと怖くて、家で一人で泣いちゃいそうな日もあったんだ」
美羽が、かすかに震える声で言った。
「でもさ、この教室に入ると、唯がいつだって『おはよう!』って笑ってくれて。『文化祭が終わったら映画行こうね』って、当たり前みたいに先の話をしてくれたから……私、今日までずっと、普通の高校生のままでいられたの。ほんとに、ありがとうね」
どうして美羽がそんなことを言うのか分からなかったけれど、私は「もう、泣き虫だなあ!」と明るく笑い飛ばした。
「映画だって、来週ほんとに行くってば! 約束したでしょ? ね、香織!」
私が隣の香織へ顔を向けたときだった。
ずっと俯いていた香織は、私の笑顔を見た瞬間、うまく笑い返すことができずに下唇をきゅっと強く噛みしめた。
オーロラの青い光の中で、香織の瞳から、ぽろりと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「……ごめんね、唯」
「え……? 香織?」
「私、唯みたいに強くないから……っ、唯がそんなふうに笑ってくれるたび、苦しくて……っ。唯に、黙ってることばっかりで、ほんとにごめん……っ!」
香織が両手で顔を覆い、肩を震わせてしゃくり上げた。
黙っていること、という言葉に胸の奥が小さく跳ねる。
けれど、私が聞き返すよりも早く、美羽がハッとして香織の肩を抱き、「ちょ、ちょっと香織! 唯に借りてた漫画にジュースこぼしちゃったこと、今言わなくていいって言ったじゃん!」と、少し上ずった声で割り込んだ。
「えっ……? 漫画?」
「そうそう! 唯が大事にしてた本を汚しちゃったって、ずっと気にしてたのよ! ほら香織、もう家の人が待ってる時間でしょ!」
香織は顔を押さえたまま、何も言えずに何度も小さく頷いた。美羽はそんな香織の腕を引いて、「じゃあね唯、またね!」と早足で教室を出ていった。
なんだ、漫画のことだったのか。真面目な香織らしいなと思っていると、他のクラスメイトたちも一人、また一人と帰りの支度を始めた。
普段はあまり話す機会がなかったおとなしい女子までが、私の机の前で足を止めて、「唯ちゃん、いつも教室を明るくしてくれてありがとう。同じクラスになれて、ほんとによかった」と深く頭を下げていく。
「唯、お疲れ! 楽しかったよ、じゃあな!」
と手を振って出ていく男子もいれば、私が「また月曜日にね!」と声をかけた途端、ハッとしたように顔を背け、目を見られないまま「……おう、またな!」と逃げるように飛び出していく男子もいた。
引き戸の向こうの廊下で、誰かが堪えきれずに鼻をすする音が聞こえた気がしたけれど、私は出ていく背中に向かって、最後まで「また来週ね!」と笑顔で手を振り続けた。
*
やがて教室に残っているのは、私と、蒼、そして咲の三人だけになった。
「……ふうっ。みんな、帰っちゃったね」
私が教室を見渡していると、カバンを肩に掛けた咲が、靴の音を響かせながら私の正面へと歩いてきた。
オーロラの光の下で、咲は立ち止まり、私の顔をまっすぐに見つめた。
「唯。……最高のプラネタリウムだったね」
「うん! 咲が真っ先に賛成してくれて、毎日手伝ってくれたおかげだよ。ありがとう、咲」
私が微笑みかけると、咲は茶化したりせず、自分の唇をきゅっと強く結んだ。
彼女の大きな瞳に、見る間に透明な涙が盛り上がっていく。
「……咲?」
名前を呼ぶよりも早く、咲が一歩前へ飛び出し、私の体を力いっぱい抱きしめた。
「っ、わあ……!? ちょっと咲、どうしたの急に……!」
背中に回された咲の両腕が、息が詰まるほど強く私を引き寄せる。
耳元で、声を押し殺してしゃくり上げる音が聞こえ、制服の肩が彼女の熱い涙でじんわりと濡れていった。
「……ごめんね、唯っ……! 私、さっきの香織のこと言えないや……っ。最後まで絶対泣かないで、笑ってバイバイしようって決めてたのに、やっぱり、無理だった……!」
「咲……? なんで、咲までそんなに泣いてるの……?」
「だってさあ……! 唯と過ごした時間が、あんまり楽しくて、終わっちゃうのが寂しくなっちゃったんだもん!」
咲は私の背中に回した腕に、子どもみたいに必死な力を込めた。
「小学生のとき、唯が病院から戻ってきたあの日……っ、どんなときも笑うだけの女の子に変わっちゃったあんたを見て、私が一番近くで守ってあげるって決めてたのに……っ! なのに、助けられてたのは私のほうだった! 唯が隣で笑っててくれたから、私の毎日、ほんとに最高に楽しかったんだよ! 私の一番の親友になってくれて、本当にありがとうね、唯……っ!」
泣きじゃくる親友の声に、私の胸の奥までじんわりと熱くなった。
咲は昔から情に厚くて、行事が終わったあとに泣き出してしまうところがある。今日のお祭りが大成功して、張り詰めていた糸が切れちゃったんだ。
私は微笑むと、自分の両腕を回して、咲の背中をぎゅっと抱きしめ返した。
「……もう、大げさだよ、咲ったら。そんな一生のお別れみたいに泣かないでよ。また月曜日になったら、この教室で会うじゃん。来週も、来月も、おばあちゃんになっても、ずっと一番の親友でしょ?」
私が背中を優しく叩きながら、そう言って笑うと。
肩に顔を埋めていた咲はハッと息を呑み、私の背中に回した指先に、もう一度だけ泣き崩れそうなほど強い力を込めた。
「……っ、うん……! そうだよね、また月曜日になったら、すぐ会えるよね……! 約束だよ……最後まで、いつもの唯のままでいてくれて、ほんとにありがとう……!」
咲は体を離すと、袖口でゴシゴシと涙を拭い、いつもの太陽みたいな笑顔を無理やり作ってみせた。
そして、窓際で静かに見守っていた蒼の方へと視線を送り、わざとらしくポンと手を打った。
「――あっ、いけない! お父さんとお母さんが、家でごちそう作って待ってるんだった! ほら、最後の片付けは、唯と紺野くんの二人でやるって決まりでしょ!?」
咲はカバンを抱え直すと、私の背中を蒼のいる方へ向かって優しく押し出した。
自分の涙を引っ込めてまで、私と蒼のために二人きりの時間を作ろうとしてくれていることが痛いほど伝わってくる。
「……ありがとう、咲」
「いいってことよ! ほら、昨日の約束、ちゃんと果たしてきなよ!」
咲は後ろ向きに引き戸を開け、廊下へ出る直前に立ち止まり、蒼の目をまっすぐに見つめた。
「紺野くん! 私の世界で一番大事な親友の事、ぜーったいに、最後まで頼んだからね!」
窓際に立つ蒼が、咲の目をしっかりと見返し、言葉の代わりに一度だけ深く頷いた。
それを見た咲は、安心したようにふっと目元を緩めて、私に向かって大きく手を振った。
「じゃあね唯、バイバーイ! 大好きだよーっ!」
パタン、と引き戸が閉まる。
扉のすぐ向こうで、一瞬だけ誰かが立ち止まって深く息を吐くような気配がして、それから廊下を駆けていく咲の元気な足音が階段を降りていき、やがて遠い昇降口の向こうへと吸い込まれて消えていった。
*
誰もいなくなった。
さっきまでみんなの声で満たされていた教室に、深くて静かな夜の気配が降りてくる。
蛍光灯は入り口側の一列だけが点いていて、残りの空間は、投影機が映し出すオーロラの揺らめきだけに包まれていた。
私は机の横に立ったまま、少しずつ速くなり始めた自分の心臓の音を聞いていた。
昨日の夕方、この同じ光の下で交わした「本番が終わったあと」の時間が、今、ここに来ていた。
あとはただ、窓際に立つ彼のところへ歩いていって、胸の奥にある言葉を伝えるだけだ。
緊張で熱くなった指先を握りしめながら、私はふと、後ろの窓を覆っていた暗幕の端が十センチほどめくれ上がっているのに気がついた。
何気なく、その隙間から外の景色に目を向ける。
窓の外は夕暮れの茜色がすっかり消え、深い夜のとばりが降りていた。
時計を見れば、まだ午後六時を少し回ったくらいだ。いつもなら、買い物から帰る車やモノレールの走行音で、街中が賑わっている時間帯のはずだった。
それなのに。
隙間から見下ろした夜の街並みは、精巧なジオラマの模型みたいにしんと静まり返っていた。
大通りを走る車のヘッドライトが、ひとつもない。
電車の音も音楽も聞こえず、街路樹の葉っぱもピクリとも揺れずに静止している。
ただ、住宅街の窓にだけオレンジ色の明かりがぽつりぽつりと灯っていて、校舎のさらに深い地下から、『ゴォォォォン……』という重たくて低い機械の振動音だけが、靴底を通してかすかに伝わってきていた。
「……あれ、外、なんだかすごく静かだね。車が一台も走ってないや」
私が暗幕の端に指をかけて呟いたときだった。
静かな足音がすぐ後ろで止まり、視界を遮るように横からすっと白いシャツの腕が伸びてきた。
蒼が、めくれ上がっていた暗幕の端を掴み、パサリと元の位置へと引き下ろしたのだ。
静まり返った夜の街並みが隠され、私の視界は再び、天井で揺れる温かい緑の光だけへと戻された。
「……今夜は九時からフィナーレのイベントがあるんだろ? だから大通りも通行止めにして、みんな家で待ってるんだよ」
すぐ隣から、低くて落ち着いた蒼の声が降ってくる。
暗幕から離れた彼の右手がそのまま降りてきて、私の左手の甲にそっと触れた瞬間、外の静けさに感じていた心細さはすっと溶けて消えた。
「そっか! 今朝、お母さんもそう言ってたんだった!」
私が顔を上げて笑うと、蒼は静かに頷き、入り口側でまだ点いていた蛍光灯を見上げた。
「……片付け、もういいのか?」
「う、うん。机は全部戻したし、あとはもう……」
蒼は入り口の壁にあるスイッチへと歩いていき、パチン、と最後の蛍光灯を消した。
教室の中から、白い照明が完全に消える。
残されたのは、投影機のレンズから放たれたオーロラの光だけだった。
暗い海底みたいになった教室の真ん中へ、蒼がゆっくりと歩いて戻ってくる。
光のカーテンの真下で、私と蒼は、お互いの呼吸が聞こえるくらいの距離で向かい合って立った。




