第7章 優しい嘘
文化祭当日の朝、私は目覚まし時計が鳴るよりも四十分も早く目が覚めてしまった。
まだ午前六時前だ。昨日の夕方、暗い教室で蒼と交わした約束が胸の奥でずっと跳ね続けていて、とても二度寝なんてできそうになかった。
ベッドから抜け出し、用意しておいた制服に袖を通す。
鏡の前で髪をいつもより丁寧に梳かしてから、紺色のリボンを結んだ。それから、通学カバンの内ポケットを指先で確かめる。そこには、最後の一枚になった『洋菓子 ステラ』の星型クッキーが、白いリボンに結ばれたまま入っている。
よし、と小さく気合を入れて、私はまだ静まり返っている二階の廊下から階段を降りていった。
こんな早い時間なら、お母さんもまだ寝ているかもしれない。そう思いながら階段を降りきる手前まで来たとき、リビングのドアの隙間から、小さく絞られたテレビの音声が漏れてきているのに気がついた。
階段の隙間から覗くと、エプロン姿の母がキッチンの前に立ったまま、壁掛けテレビの画面を食い入るように見つめていた。
映っていたのは、暗い紺色の背景に白い文字だけが並んだ見慣れない画面だった。右上には『市政管理庁・保護者専用連絡チャンネル』という表示が点滅し、低く落ち着いたアナウンサーの声が淡々と響いていた。
『――繰り返します。未成年者への最終告知の有無、および端末における情報遮断モードの維持につきましては、各ご家庭の保護者の判断に委ねられます。なお、本日の午後九時をもって全区画の生命維持システムは最終段階へと移行し、空調網より、開発された緩和睡眠成分の散布が――』
その無機質な言葉を耳にした瞬間。
こめかみの奥が氷の針で刺されたみたいに激しく軋み、視界の端がぐらりと白く歪んだ。
情報遮断。最終段階。生命維持。なんだかすごく怖い言葉が、頭の中の柔らかい膜を突き破って直接響いてくる。
「……お、お母さん……? なに、今のテレビ……っ、なんか、頭が……」
私が額を片手で強く押さえ、荒くなった息を吐きながらリビングへ足を踏み入れると、母の肩がビクッと大きく跳ねた。
母は血の気が引いたような顔でリモコンを掴んでテレビを消すと、すぐさま私のところへ駆け寄ってきた。
「唯っ!? 今、聞いてしまったのね……っ、ちょっと待ってて、今すぐ楽にしてあげるから!」
母は私をダイニングの椅子に座らせると、エプロンのポケットから、市の医療センターの印が入った小さな銀色のケースを震える指先で取り出した。
中から、淡いピンク色をした小さな粒を一粒だけ取り出し、コップの水と一緒に私の口元へと差し出す。
「ほら、唯、これを飲んで。こないだ唯がお熱を出した日に、お母さんが市役所へ行ったでしょう? あのとき、担当の人から、唯のために特別なお薬を預かっておいたの」
「……う、うん……」
母の必死な声に促されるまま、私はその小さな粒を口に含んで水で飲み込んだ。
舌の上で、ほんのりと甘いバニラのような香りが溶けて広がる。
母が私の背中を優しくさすりながら、「大丈夫よ、怖いことなんて何ひとつないのよ」と繰り返してくれる声を聞いているうちに、頭蓋骨の奥で鳴っていた鋭い軋みが、温かいお湯に溶けるみたいにすうっと消えていった。
視界の歪みが消え、張り詰めていた呼吸が穏やかに整っていく。
「……あれ……? ほんとだ、もう痛くないや」
私が目を瞬かせて顔を上げると、母は心の底から安堵したように深く息を吐き、私の前髪をそっと撫でた。
「よかった……。さっきのテレビはね、市役所の大人向けの回覧板チャンネルよ。今夜の九時から、街中で感謝祭のグランドフィナーレのライトアップと甘い香りの演出があるから、夜の消灯時間が変わりますって案内してただけなの」
「そっか、夜九時からフィナーレがあるんだね! 寝ぼけてたから、びっくりしちゃった」
「ええ、そうよ」
「あ、でもねお母さん、さっきスマホ見たらさ、なぜか小学生のときの『あんしんモード』に戻ってて、クラスの連絡網と電話以外は全部開けなくなってたんだよね」
私がスマホを取り出して見せると、母はフライパンの前へ向き直りながら、いつもの明るい声を作って笑って言った。
「ごめんね、昨日の夜中にお母さんが設定したの。今日はお祭りで通信回線がパンクしそうだから、スマホには一時的に制限をかけてくださいってお願いがあったのよ。せっかくの文化祭なんだから、スマホなんか見ないで、目の前にいるお友達の顔だけをしっかり見て過ごしなさい」
今朝の朝食は、私の大好物のフレンチトーストだった。
私が「おいしい!」と頬張るのを、母はティーカップを両手で包み込んだまま、私の姿を目に焼き付けるみたいに愛おしそうに眺めていた。
食事を終えて、玄関で靴を履いていると、母が私の後ろに立った。
「ちょっと待って、唯。後ろ向いてごらんなさい」
振り返ると、母は私の制服の襟元を直し、紺色のリボンの形を指先で綺麗に整えてくれた。それから私の顔をじっくりと見つめて、ふわりと優しく目を細めた。
「もしかして、こないだプリントを届けてくれた男の子と、いいお話でも進んでる?」
「――っ、ええっ!? な、なんでそれ知ってるの!?」
耳まで真っ赤になった私を見て、母はくすっと笑った。
「唯の部屋の机を見たらすぐ分かったわよ。星型のクッキー、自分のお小遣いで買ったにしては大事にしすぎてるもの。……ねえ、唯」
母は私の両肩にそっと手を置くと、少しだけ声を落として言った。
「今日は文化祭のあと、門限なんてぜんぜん気にしなくていいからね」
「えっ、いいの? でも、あんまり遅くなったら、お母さん一人で夕ご飯食べることになっちゃうよ?」
私が迷うように言うと、母は首を横に振った。
「いいのよ。いつもみたいに遠慮して、自分の気持ちを後回しにしちゃダメ。……今夜はね、唯がこの街で一番一緒にいたい人と、一番好きな場所で、心ゆくまでゆっくり過ごしてらっしゃい。それが、お母さんの今日のお願い」
「……ほんとに? じゃあ、今日はちょっとだけ遅くなっちゃうかも!」
私が笑ってドアノブに手をかけ、「いってきます!」と振り向いた、その瞬間だった。
「――あっ、唯、もうひとつだけ」
母が一歩前へ出て、私の体を、正面から力いっぱい抱きしめた。
「……えっ、お母さん……?」
小学生の頃、お父さんがいなくなったあの日に抱きしめられたとき以来の、息が詰まるほど強い抱擁だった。
私の背中に回された母の細い腕が、かすかに、けれどはっきりと小刻みに震えている。母は私の肩に顔を埋め、私の髪を何度も、何度も撫でながら、喉の奥で必死に何かを押し殺すような、かすれた声で囁いた。
「……いつの間にか、こんなに綺麗なお姉さんになったわね、唯。……お母さんのところに生まれてきてくれて、今日までずっと、お母さんの前で笑っててくれて、ほんとうにありがとうね……」
「お母さん……? どうしたの急に、なんか、泣いてるの……?」
首筋に、ぽつりと温かい雫が落ちた気がして、私が戸惑いながら体を起こそうとすると、母はすぐにパッと顔を上げ、エプロンの袖口で目元を素早く拭ってから、くしゃっと笑顔を作ってみせた。
「やだ、泣いてなんかないわよ! ただね、今朝の唯があんまり可愛くて大人っぽく見えたから、なんだか急に寂しくなって、ぎゅってしたくなっちゃっただけ!」
母は私の背中をポン、と強く押して、玄関のドアを大きく開け放った。
「さあ、遅刻するわよ! 思いっきり楽しんでらっしゃい、唯!」
「う、うん! いってきます!」
お母さんったら、文化祭の朝に急に感傷的になっちゃって、変なの。
私はくすぐったいような気持ちで朝の通りへ飛び出し、角を曲がる手前で一度だけ振り返った。
玄関の前に立つ母は、片手で自分の口元を強く押さえて、今にも崩れ落ちそうな顔を必死に堪えながら、もう片方の手で、私が視界から消える最後の瞬間まで、大きく手を振り続けてくれていた。
*
朝の通学路は、いつも以上に穏やかで、不思議なほど静かだった。
大通りにはバスやトラックの姿が見当たらず、信号機の電子音だけが響いている。それなのに、歩道にはたくさんの家族連れや老夫婦がゆっくりと散歩をしていて、誰もが手をつないだり肩を寄せ合ったりしながら、頭上の青い空を愛おしそうに見上げていた。
校門をくぐり、一階の廊下を歩いていたときだ。
階段の裏手にある自販機コーナーの隅で、他のクラスの女子生徒が二人、声を押し殺して泣きながら抱き合っているのが目に入った。
そのすぐ先では、普段は一番厳しい生活指導の男の先生が、壁にもたれて青ざめている男子生徒の肩を優しく抱いて、静かに背中をさすってあげている。
「……え……?」
私の足が、廊下の真ん中でぴたりと止まった。
これから一年に一度の文化祭が始まるというのに、どうしてあんなに必死にしがみついて泣いているんだろう。
今朝の、あの暗い紺色のテレビ画面。『最終段階』という言葉。
胸の奥に冷たい雫が落ちたような違和感が広がり、足元の床がすっと遠くなるような心細さがせり上がってきた。
私は逃げるように階段を駆け上がり、三階の教室の引き戸を開けた。
教室の中は黒い暗幕で窓が覆われ、入り口付近の蛍光灯だけが点いていた。
いつもならお祭り前の大騒ぎになっているはずの教室が、どこか静かで、みんなが小さな声で寄り添うように話している。
私が入ってきたのに気づくと、蒼たちと立ち話をしていた咲が、パッと顔を上げて駆け寄ってきた。
「唯ーっ! おはよう! 今日もバッチリ可愛いじゃん!」
「あ、うん、おはよう咲……ねえ、あのさ」
私はカバンを机に置きながら、すぐ後ろに歩いてきた蒼と咲の顔を交互に見て、少し震える声で尋ねた。
「なんか、一階の廊下で他のクラスの子がすごい泣いてて、先生に慰められてたんだけど……今日、街のニュースかなんかで、なにか悪いことでもあったのかな? 私、お母さんにスマホ制限されちゃってて……」
私がそう口にした瞬間だった。
咲の笑顔が一瞬だけ凍りつき、後ろに立っていた蒼と、火花が散るみたいに真剣な視線を交わしたのだ。
近くにいた美羽や香織、男子たちまでが、一斉に息を呑んで私の方を見たのが分かった。
蒼が、一歩だけ静かに前へ出て、私のすぐ隣に立った。
そして咲が、胸の前でパンッと大きく手を叩いて、教室中の空気を塗り替えるみたいに明るい声を張り上げた。
「あーっ! 一階の3組の子たちでしょ!? あそこ、昨日の演劇のリハーサルで主役の子がセリフ飛んじゃって、みんなで励まし合って感極まって泣いてただけだってば!」
「えっ……あ、そうなの?」
「そうそう! 生活指導の先生も3組の副担任だから、朝から青春ドラマに付き合わされて大変だよねえ。……なっ、紺野くん!」
咲に振られて、隣に立つ蒼が私の目をまっすぐに見下ろしながら、いつもの落ち着いた声で頷いた。
「……ああ。みんな、今日のために一生懸命準備してきたから、朝から気が張ってるだけだよ。心配しなくていい」
咲の太陽みたいな笑顔と、蒼の揺るぎない静かな声。
そして、周りのクラスメイトたちが「そうだよ唯、びっくりさせんなよな!」「さあ、最後の準備しようぜ!」と次々に明るく頷いてくれた瞬間。
張り詰めていた私の視界のピントがふわりと甘く緩み、胸の奥の冷たい引っかかりが温かい納得へと溶けていった。
ああ、なんだ。演劇のことで感極まってただけか。今日のためにみんな何週間も頑張ってきたんだから、本番の朝に泣いちゃうくらい気持ちが高ぶることもあるはずだ。
「そっかあ! よかった、私てっきり誰か怪我でもしたのかと思ってびっくりしちゃった!」
私が胸を撫でおろして、「じゃあ、うちのクラスも一番綺麗なオーロラ見せてあげようね!」と笑ったとき。
咲も、美羽も、男子たちも、そして隣にいる蒼も、張り詰めていた糸が緩んだみたいに深く息を吐き、泣き笑いみたいな優しい目で「うん、頑張ろうね!」と頷き返してくれた。
*
午前九時の校内放送とともに、文化祭が幕を開けた。
私たちのクラスの『オーロラのプラネタリウム』は、開場した直後から驚くほどの大盛況になった。
一度に十五人ほどが暗い教室へ入り、床のマットや椅子に座って、十分間、静かな音楽とともに頭上のオーロラを見上げる仕組みだ。
私は入り口の暗幕の内側で懐中電灯を持って案内する係になり、蒼は一番奥の機材ブースで、メイン投影機の光量を調整する係になった。
入ってきたお客さんたちは、最初は「わあ、真っ暗だね」と小声で囁き合っている。
けれど、蒼が投影機のフェーダーをゆっくりと押し上げ、あの古いガラスレンズを通ったエメラルドグリーンと群青、淡いラベンダー色の光が、天井の幾重もの透ける布にじんわりと滲み出した瞬間。
教室の中にいる全員が、一斉に「……あっ……」と息を呑んで言葉を失うのだ。
「……すごい、ほんとに空が光ってるみたい……」
「綺麗だねえ……見ていると胸の奥がぽかぽかして、ちっとも怖くない光だねえ……」
生徒たちだけでなく、保護者の大人たちや商店街のおじいさん、おばあさんたちまでが、頭上でゆっくりと呼吸するように揺れる優しいオーロラを見上げていた。
不思議なことに、投影が終わって出口へ向かうお客さんたちのほとんどが、そっと目元を拭いながら、案内係の私に向かって「ありがとうね、最後にこんな温かいオーロラが見られて本当によかったわ」「素敵な思い出をありがとう」と頭を下げて出ていくのだ。
私はそのたびに、「ありがとうございます!」と誇らしい気持ちで胸を張って微笑み返した。
笑って「また来てくださいね!」と手を振ると、泣いていた大人たちまでが、ぱっと表情を明るくして「ええ、またね」と笑顔になって帰っていく。自分がこの教室の光をみんなに分け与えているみたいで、胸の奥が温かい喜びで満たされていった。
何度目かの投影の最中だった。
お客さんたちが天井の光のカーテンに見惚れている中、私はふと、反対側の奥にある機材ブースへと視線を向けた。
そして、ハッと息を止めた。
機材の横に立つ蒼は、自分自身が作り出した頭上のオーロラなんて、一度も見上げていなかった。
彼の深い瞳は、薄闇を隔てて、入り口に立っている私のことだけを、まばたきもせずにじっと見ていたのだ。
揺れる緑と青の光の下で、来場者の喜ぶ姿を見て笑っている私の横顔だけを、彼はまるで、世界のすべてがそこに詰まっているとでも言うように、切ないほど真っ直ぐな目で見つめ続けていた。
先週の金曜日、夕暮れの踊り場で彼が真っ赤な耳をして言ってくれた『唯が笑ってくれたら、それでいい』という言葉が蘇り、私の頬が暗闇の中でカッと熱くなった。
投影が終わり、次の案内まで少し時間が空いたとき、蒼が機材ブースから静かに歩いてきて隣に並んだ。
「……すごく評判いいよ、蒼くん。見に来た人たち、みんな泣いちゃうくらい綺麗だって感動してくれてるよ」
私が少し上ずった声で言うと、蒼は天井の緑の布を一度だけ見上げてから、私の顔を見た。
「そうか。……唯は、どうだった?」
「私? 私はもちろん、世界で一番綺麗なオーロラだと思ってるよ! 何回見ても全然飽きないもん」
私が胸を張って笑うと、蒼の口元から、ふっと力が抜けたような柔らかい笑みがこぼれた。
「……なら、よかった。それなら、これで大成功だな」
その笑顔があまりにも優しくて、私は昨日の夕方に交わした「本番が終わったら」という約束を思い出し、指先をきゅっと握りしめた。
*
午後二時を回ったころ、後半シフトのクラスメイトたちが交代にやってきた。
「はいはーい! 前半組の唯と紺野くんは、今から一時間、強制休憩でーす!」
入ってきた咲が、私と蒼の背中をグイグイと押して教室の外へと追い出した。
「せっかくの文化祭なんだから、二人で模擬店とか回っておいで! いってらっしゃーい!」
パタン、と後ろで引き戸が閉められる。
残された廊下で、私と蒼は顔を見合わせて、少し照れくさそうに笑ってしまった。
「……咲には、ほんとに敵わないね」
「ああ。でも、唯も朝から何も食べてないだろ。一階の模擬店のほう、行ってみるか」
「うんっ、行こう!」
暗い教室から外の廊下へ出ると、そこはお祭りの熱気とざわめきで溢れ返っていた。
どのクラスも、今日という一日にすべてのエネルギーを使い果たそうとしているみたいに、焼きそばやワッフルを「全部無料だよー!」と威勢のいい声で配り歩いている。
けれど、一階のメイン廊下へ階段を降りたとき、私はそのあまりの人の多さに目を丸くした。
生徒だけでなく、街中の家族連れや大人たちが校舎の中にまで詰めかけていて、まっすぐ歩くのも難しいほどのすし詰め状態になっていたのだ。
「うわあ、すごい人だね……」
私が少し気後れして足を緩めた瞬間、横から走ってきた男子生徒のグループが前を通り抜け、私と蒼の間が人の波で引き離されそうになった。
「――あっ」
ほんの一歩、蒼の背中が人混みの向こうへ遠ざかりかけた瞬間。
これだけたくさんの人に囲まれているのに、私の胸の奥で、あの氷みたいな心細さが急に頭をもたげかけた。ここで蒼くんとはぐれてしまったら、もう二度と彼を見つけられなくなってしまうんじゃないか――そんな不安が背筋を駆け上がる。
私は考えるよりも先に、前へ手を伸ばしていた。
そして、すぐ前を歩いていた蒼の、白いカッターシャツの右の袖口を、後ろから指先でちょこんと小さく摘まんだ。
「……っ」
わずかな重みがかかったのに気づいて、蒼がすぐに足を止め、ゆっくりと振り返った。
人混みの真ん中で、彼は自分の右袖を掴んでいる私の指先へ視線を落とし、それから私の顔を見下ろした。
なんて子どもみたいなことをしているんだろうと耳まで真っ赤になったけれど、指先をどうしても離せなかった。
「……ご、ごめんね。すごい人だから、なんか、置いていかれそうな気がしちゃって……」
私が言い訳をするように呟くと、蒼の瞳が、周囲のどんな喧騒も届かないみたいに深く静かに揺れた。
彼は、人混みの波が私にぶつからないように半歩だけ下がってすぐ横に並び直すと、私がそのまま歩きやすいように、自分の右腕をほんの少しだけ私のほうへと寄せてくれた。
「……置いていったりしないよ。ゆっくり歩くから、そのまま掴まってて」
ざわめきの中で、私の耳元にだけすっと届いた、低くて優しい声。
「……うん」
私は小さく頷き、彼の袖口をもう少しだけしっかりと握り直した。
ただシャツの端っこに触れているだけなのに、そこから伝わってくる彼の確かな体温で、さっきまでの不安は魔法みたいに消え去り、胸の奥がじんじんと熱くなった。
模擬店でベビーカステラと冷たいレモネードを二つ受け取り、私たちは人混みを避けて、校舎裏の静かな中庭のベンチへと向かった。
そこだけは人が少なくて、抜けるような青い空の下、緑の木々が穏やかな影を作っている。
ベンチに並んで腰を下ろすと、私はようやく蒼の袖から指を離した。
「はい、レモネード。冷たくておいしいよ」
「ありがとう」
二人でストローに口をつけ、甘いベビーカステラをひとつの袋から交互につまんで食べる。
遠くから聞こえてくる文化祭の音楽が、波音みたいに心地よく響いていた。
「……なんか、夢みたいだな」
私は足をぷらぷらと揺らして空を見上げた。
「一ヶ月前までは、蒼くんとほとんど話したこともなかったのに。今こうして、一緒に作ったプラネタリウムが大成功して、二人で文化祭を回ってるなんてさ」
隣に座る蒼は、カップを両手で持ったまま、私の横顔を静かに見つめていた。
「……俺も、そう思うよ」
「ねえ、来年の文化祭はさ、三年生になるじゃん? また蒼くんと同じクラスになって、今度はもっとすごいもの作りたいね!」
私が当たり前のこととして「来年の秋」の話を口にしたとき。
隣にいた蒼が、ほんの一瞬だけ息を止め、カップを持つ指先にぎゅっと力を込めた。
彼はすぐに視線を足元の芝生へと落とし、胸の奥で暴れかけた何かを押し殺すように、深く息を吐いてから微笑んだ。
「……そうだな。また唯と同じクラスになれたら、いいな」
時計の針は、午後三時を回ろうとしていた。
文化祭の終了時刻が、そして、私たちが約束した「本番が終わったあとの時間」が、もうすぐそこまで近づいていた。




