第6章 約束は、光のカーテンの下で
文化祭の本番まで、あと一日。
金曜日の放課後を迎えた私たちの教室は、普段の面影をすっかり失っていた。
窓という窓には隙間なく分厚い黒の暗幕が張られ、まだ外が明るい時間でも一歩足を踏み入れれば真夜中のように暗い。
天井には、私たちがこの二週間かけて縫い合わせた幾重もの透ける薄い布が、クラゲのドレスみたいにふわふわと垂れ下がっている。エメラルドグリーン、深い群青、淡いラベンダー、そして白。床に置かれた作業灯の光を下から受けて、それらの布がゆらゆらと長い影を揺らしていた。
準備期間も今日が最後となり、教室の空気は少し不思議な熱を帯びていた。
普通なら、これだけ毎日遅くまで作業が続けば、誰かが愚痴をこぼしたり、ちょっとした言い合いになったりしてもおかしくないはずだ。
けれど、今年のクラスメイトたちは、おかしなくらい全員が穏やかだった。
さっきも、男子が脚立に足を引っ掛けて水の入ったバケツをブルーシートの上にひっくり返してしまったのだけれど、誰ひとり声を荒らげたりしなかった。それどころか、周りの子たちが一斉に雑巾を持って駆け寄り、「あはは、床に新しい湖ができたじゃん!」「怪我がなくてよかったよ!」と声を上げて笑い合っていたのだ。
休憩時間にも、誰もスマホを取り出そうとはしない。
ただ、薄暗い床に座り込み、どうでもいいような思い出話ばかりを飽きもせずに語り合っている。まるでお互いの声や笑い顔を、ひとつでも多く胸のポケットに詰め込んでおこうとしているみたいに。
けれど、ふと昔話が途切れた瞬間、みんなの笑顔がすっと消えて、教室の空気が凍りつきそうなほど重たく沈み込むことがあった。
誰かが黒い暗幕で閉ざされた窓のほうをぼんやりと見つめ、隣にいる子の指先を、まるで暗い海で確かめるみたいにぎゅっと握りしめている。
「――あーあ、それにしてもさ、明日の文化祭が終わったら、再来週はもう期末テストなんだよね! 私、勉強ぜんぜん進んでないんだけど!」
その静けさを吹き飛ばすように、私が色紙の星を切り抜きながら明るい声で言うと、俯いていた美羽や香織、男子たちがハッとしたように一斉に顔を上げた。
「ねえ、明日の本番が大成功したらさ、来週の放課後にみんなでまたどこか遊びに行こうよ! こないだ私だけ行けなかったモールの映画館でもいいしさ!」
私がハサミを持ったまま笑うのを見て、張り詰めていたみんなの肩から、すうっと力が抜けていった。
作業灯の淡い光の中で、美羽が泣き笑いみたいに目元を緩め、隣の香織と視線を交わす。
「……うん、そうだね。唯がそうやってテストの心配してると、なんか全部いつも通りなんだなって安心するよ。来週、みんなで行けたらいいね」
「だな。唯が笑って『来週』って言ってくれると、ほんとにまだずっとこの放課後が続く気がしてくるわ」
男子の一人が、少し鼻の奥をすするような音を立てて、けれど心から救われたみたいに柔らかく笑った。
みんな連日の準備できっと疲れているのだ。それでも、私が先の話をすると教室の空気が一気に温かく色づくのが嬉しくて、私は「絶対だよ、約束ね!」と大きく頷いた。
*
午後五時を少し回ったころ、私は教室の後ろの隅で脚立を押さえながら、咲と一緒に最後の布の端を銀色のリボンで結んでいた。
「咲、そっちの端っこ、もうちょっと緩めに結んでくれる? 照明を当てたときに布がふわっと広がるようにしたいから」
私が下から声をかけると、「はーい、お安い御用だよ!」と元気な返事が返ってきた。
けれど、脚立から降りてきた咲が、隣に並んだままふと手を止めて立ち尽くしているのに気づいて、私は顔を上げた。
「咲? どうしたの、リボン足りなくなった?」
咲は銀色のリボンを指先に絡めたまま、教室の真ん中で笑い合っているクラスメイトたちの姿をぽつんと見つめていた。
よく見ると、今日の咲は、いつもならパッチリと開いている二重のまぶたが少し赤く腫れぼったくなっている。今朝「おはよう!」と抱きついてきたときから、少し声が大きすぎて、無理にテンションを上げているような気はしていたのだ。
「……ねえ、咲。今日、なんか目、赤くない? 昨日あんまり眠れなかった?」
私が小声で覗き込むと、咲はビクッと肩を揺らし、慌てて瞬きをしてから百点満点の笑顔を作った。
「えっ!? やだあ、唯ったら観察力するどすぎ! バレた!?」
咲は目元を両手でパタパタと扇ぎながら、わざとらしくおどけた声を出した。
「きのうの夜中にさ、お父さんとこれからの話? みたいなのをしてたら、なんかしんみりしちゃってさあ! あはは、私としたことが、柄にもなくちょっと泣いちゃったんだよね!」
「お父さんと? 咲のお父さん、市役所の管理課に勤めてるんだっけ。なんか厳しいことでも言われたの?」
「ううん、全然! むしろ逆だよ!」
咲は手元のリボンに視線を落とし、指先で丸めながら言葉を継いだ。
「いつもは仕事ばっかりで雑談なんてしないお父さんがさ、ゆうべに限って、お母さんと二人で私の部屋に入ってきて。『今までうちの娘でいてくれて、お父さんもお母さんも本当に幸せだったよ』なんて、卒業式みたいな顔で言われちゃってさ。……なんか、大げさだよねえ」
咲はケラケラと声を上げて笑った。
けれど、笑っている彼女の黒目の奥がわずかに潤んでいるように見えて、私の胸の奥が小さく軋んだ。
どうして咲のお父さんは、文化祭の前の日にそんな言葉を言ったんだろう。
「……なんかさ、唯」
咲はリボンを結び直しながら、誰にも聞こえないような小さな震える声で言った。
「みんなとこうやって、教室でバカみたいなこと言って笑い合ってる時間がさ、ずっと、ずーっと終わらなければいいのにね」
「……咲?」
その横顔を見つめていると、頭の奥がじんわりと重くなりかけた。
けれど、すぐ近くから男子たちの明るい笑い声が響いた瞬間、私の思考は、緩やかな川の流れに乗るみたいに自然と滑っていった。
そっか。咲も私と同じで、この楽しかった準備期間が終わってしまうのが寂しいんだ。
私が「文化祭が終わっても毎日ここで会うじゃん」と言いかけたとき、咲はパンッと両手を打ち鳴らして、くるりと私の方へ向き直った。
そして、私の両肩をガシッと強く掴んだ。
「それよりさ、唯! あんた、紺野くんにはいつちゃんと言うつもりなの!?」
「えっ!? い、いつって……なにを……!」
「とぼけなーい! 好きです、付き合ってください、に決まってるでしょーが!」
声が大きい、と私が口を塞ごうとすると、彼女は私の手首をぐっと握りしめて下ろさせた。
そして冗談めかしたトーンをすっと消し、驚くほど真っ直ぐで切実な目で私を見つめた。
「ねえ、唯。私ね、唯がいつも誰かのために一生懸命で、自分の欲しいものを一番最後にしちゃう優しい子だってちゃんと知ってるよ。……でもね、これだけは遠慮しちゃダメ」
「……咲……」
「『そのうち言えばいいや』なんて思ってたらダメだからね。伝えたい言葉があるなら、今この瞬間に、ぜんぶ伝えなきゃ。……唯には、後悔なんて絶対にしないでほしいの」
私の手首を握る咲の指先の力が、少し痛いくらいに強かった。
どうしてただの恋の相談で、咲がこんなにも祈るような顔をするのか分からなかったけれど、親友が私の幸せを心から願って背中を押してくれていることだけは痛いほど伝わってきて、私は小さく、でも力強く頷いた。
「……うん。明日の本番が終わったら、その日のうちに、ちゃんと蒼くんに伝えるよ」
「ほんと!? よし、私との約束だからね!」
咲は満足そうにニッと笑うと、急に腕時計を見て、わざとらしいくらい大きな声を張り上げた。
「――あっ、やっば!! もう五時半じゃん! ごめんみんな、私、今日家族で夕ご飯食べるから早く帰れって言われてたんだった!」
教室の真ん中で雑談していたクラスメイトたちが、きょとんとして一斉に咲を振り返る。
咲は、みんなに向かって大きく目配せをすると、美羽と香織を指差した。
「ねえ美羽、香織! あんたたちも今日、広場の前夜祭に行くって言ってたよね!? 今出ないと間に合わないよ!」
「えっ? あ……あーっ、そうだった! すっかり忘れてた、今すぐ行かなきゃ!」
咲の合図の意味を察した美羽が、慌てて手を叩いて話を合わせる。すると、周りにいた男子たちまでがニヤリと顔を見合わせて腰を上げた。
「そういえば、俺たちも部活のミーティングあるから、もう上がらないとまずいわ!」
まるで事前に打ち合わせでもしていたかのように、残っていたクラスメイトたちがバタバタとカバンを掴んで立ち上がり始めた。
「えっ、ちょっと待ってよ咲! これから照明の最終テストするんじゃなかったの!?」
私が慌てて引き止めると、咲はカバンを肩に引っ掛けながら、引き戸の前でペロッと舌を出した。
「微調整は、装飾チーフの唯と機材チーフの紺野くんの二人きりでやったほうが絶対いい感じに決まるって! ねーっ、みんな!」
「そうそう! 二人とも最後の仕上げよろしくなー!」
「おつかれー! また明日、本番でね!」
嵐のような勢いで、みんなが教室から出ていく。
引き戸を閉める直前、咲が隙間から顔だけを出し、私に向かって親指をグッと立てて、少し潤んだ瞳でウインクをして見せた。
パタン、と引き戸が閉まり、遠ざかっていくみんなの足音と笑い声が校舎の奥へと消えていく。
もう、咲ったら、あからさますぎるよ。
心の中でそう呟いた瞬間、残された教室には、耳が痛くなるほどの静寂が落ちてきた。
気がつけば、この暗い布の森の中にいるのは、私と、窓際で機材をいじっている蒼の二人きりになっていた。
*
教室の天井の蛍光灯は消されている。
床の隅に置かれた作業灯のオレンジ色の光だけが、垂れ下がる何十枚もの布を下から淡く照らし出し、壁に長い影を作っていた。
「……みんな、すごい勢いで帰っちゃったね」
急に降りてきた静けさに少し緊張して、私は機材の前にしゃがみ込んでいる蒼の背中へ声をかけた。
「ああ。……咲のやつ、ずいぶん強引だったな」
蒼は小さく苦笑してドライバーを置くと、ゆっくりと立ち上がってズボンの膝を払った。
「でも、ちょうどよかったかもしれない。今からメインの投影機を点けるから、余計な光はないほうがいいし、人数も少ないほうが影が見やすい」
蒼はそう言って、作業灯のスイッチへと手を伸ばした。
「一度、完全に暗くするよ。足元に工具があるから、そのままそこにいて」
「うん、わかった」
パチン、と小さな音がして作業灯が消えた。
瞬間、教室の中が完全な暗闇に包まれる。
いつもなら、こんなふうに広くて真っ暗な場所に立たされたら、すぐに足元がすくむような心細さに襲われていたはずだった。
なのに不思議だった。すぐ数メートル先の暗闇の中に、蒼の静かな呼吸の気配があると感じられるだけで、私の心は驚くほど穏やかで、少しも怖くなかったのだ。
カチリ、と暗闇の奥で、蒼が投影機のスイッチを入れる音がした。
ブゥン……という低いファンの回転音とともに、古い機械が熱を帯びていく気配がする。
そして、次の瞬間だった。
真っ暗な床から天井へ向かって、一筋の強い光の束が放たれた。
あのおじいちゃんの古いガラスレンズを通り抜けた光が、天井に張り巡らされた幾重もの透ける布にぶつかり、柔らかく乱反射しながら教室全体へと波紋のように広がっていく。
「……っ、わあ……」
私の口から、声にならない吐息がこぼれた。
頭上に浮かび上がったのは、仮テストのときのカラー電球の光なんかではなかった。
深いエメラルドグリーンから夜の海みたいな群青色へ、そして淡いラベンダー色へと溶け合うように滲む、圧倒的な光のグラデーション。
昔のガラスが持つわずかな厚みと歪みが人工の光を優しく砕き、まるで本物の夜空が発光してゆっくりと呼吸しているかのような、深くしっとりとした色彩を生み出していた。
写真集で見た「本物のオーロラ」にあった氷の冷たさや恐ろしさをすべて取り除いて、ただ見上げた誰かを包み込むための「温かさ」だけを結晶にしたような光。
完成した私たちのオーロラは、私が夢見ていたものより何十倍も綺麗だった。
「……どうかな。じいちゃんのレンズ、組み込んでみたんだけど」
投影機の横から、蒼の静かな声が届いた。
緑と青の揺れる光に照らし出された彼の横顔は、どこか胸が詰まるほど儚げに見えた。
「すごい……すごく綺麗だよ、蒼くん。私、こんな優しい光、今まで見たことない……」
感動で胸がいっぱいになりながら、私は天井を見渡して、装飾チーフとしての役目を思い出した。
「あ、えっとね、真ん中は完璧なんだけど、一番右端の紫の布だけもう少し内側に寄せたほうが、緑の光との重なりがもっと綺麗に出るかも」
「右端だな。わかった、今直す」
蒼は暗闇に慣れた足取りで、教室の隅から脚立を運んできた。
私が「あ、私がやるよ」と言い出すよりも早く、蒼は自分で脚立をセットし、慣れた様子で登っていく。
私は脚立の真下で支柱を両手で押さえながら、布の広がり具合を確認して声をかけた。
「あ、そう、そこ! もう五センチくらい右かな……うん、そこでストップ!」
「ここか?」
「うん、バッチリ! 光の筋がすごく綺麗に透けてるよ!」
交わしている言葉は、ただの作業の確認だけだ。
それなのに、静まり返った暗い教室の中で私の声と彼の低い声が重なるたび、胸の奥が甘く締め付けられる。
蒼がフックを留め終えて、トントンと脚立から降りてきた。
私が支柱から手を離そうとしたときだった。
床に降りた蒼が、そのままくるりとこちらを向いた。
お互いのつま先が触れ合いそうなくらいの、ほんの三十センチの距離。
頭上で揺れるオーロラの光が二人だけの間に降り注ぐ中、ふと同じタイミングで顔が上がり、私たちの目がぴたりと合った。
「…………」
一瞬で、喉の奥がカラカラに乾いた。
あまりにも近すぎて、彼の長いまつげが作る影も、黒い瞳の中で揺れている小さな緑の光の粒も、はっきりと見えてしまう。
お互い、ハッとしたように同時に視線を外した。
二人の間に、深くて甘い沈黙が落ちる。
私はすぐ横まで垂れ下がっていた白い布の端を、指先でぎゅっと摘まんだ。
心臓がうるさいくらいにドクンドクンと鳴っていて、この静かな教室なら、蒼にまで聞こえてしまっているんじゃないかと怖くなるくらいだった。
頭の中で、ついさっき咲が私の手首を握りしめて言った『唯には、後悔なんて絶対にしないでほしいの』という言葉が蘇る。
喉のすぐそこまで、言葉がせり上がってきていた。
好きです、と。
今ここで、彼が私のために作ってくれたこの綺麗な光の下で、ぜんぶ伝えてしまいたい。
唇を少し開けば、そのままこぼれ落ちてしまいそうだった。
でも、最後の最後で声が出なかった。
今言ってしまったら、明日の本番を前にしてこの心地よい空気が壊れてしまうんじゃないかという臆病さと、明日クラスのみんなとプラネタリウムを大成功させたあとにこそ、一番綺麗な気持ちで伝えたいという思いが、胸の中で渦を巻いていた。
私が布の端を握りしめて俯いている間、蒼も、その距離から一歩も動かなかった。
作業に戻るわけでもなく、ただ静かに目の前にいて、私が自分の心で言葉を見つけるのを辛抱強く待ってくれている気配がする。
私は深く、震える息を吸い込んだ。
今すぐには言わない。でも、逃げるのだけは絶対に嫌だった。
私は布からそっと手を離し、顔を上げて、青い光の中に佇む蒼の目をまっすぐに見上げた。
「……あのね、本番が終わったら」
自分でも驚くほど小さな、鈴を鳴らすみたいな声が出た。
蒼が、ぴたりと呼吸を止めて私を見つめ返す。
「明日の本番が、全部終わったら……ちゃんと、蒼くんに話したいことがあって」
それ以上の言葉は、顔が熱すぎてどうしても続かなかった。
でも、ただの係の連絡なんかじゃないことは、私の震える声と赤くなった顔を見れば、彼にだって絶対に伝わっているはずだ。
蒼は、すぐには頷かなかった。
頭上で揺れる光が、彼の白い頬に深い影を落とす。
彼は私の瞳の奥をじっと見つめたまま、何か重たい決意を胸の底で固めるみたいに、数秒間だけ深く黙り込んだ。
それから、ゆっくりとまぶたを伏せ、暗い教室の隅々まで響くような確かな声で頷いた。
「……俺も」
もう一度、彼の深い瞳が私を捉える。
「俺も、明日の本番が終わったら、唯に話したいことがある」
たったそれだけの、短い返事だった。
でも、今の私にはその一言だけで十分だった。
明日、みんなで作ったこのお祭りが終わったら、私は彼にすべてを打ち明けて、彼の言葉を聞くことができるのだ。
そう思えた瞬間、張り詰めていた胸の奥に温かい安堵が広がって、私は「……うん、約束ね」と小さく笑った。
*
投影機の電源を切り、教室の鍵を閉めて、私たちは夕闇が降りた校舎を出た。
いつもの並木道を、二人で並んで歩く。
今日の帰り道は、初めて一緒に帰った日みたいに私が一人で喋り倒すことはなかった。
かといって、気まずい沈黙なんかでもなかった。無理に言葉を詰め込まなくても、ただ隣に並んで歩いているこの時間そのものが、もう他の何にも代えがたい特別なものになっていたからだ。
いつもの分岐点で、「じゃあ、また明日ね」「ああ、本番、頑張ろうな」と言葉を交わして別れる。
家に帰り着き、自分の部屋のドアを閉めた瞬間、それまで抑えていた胸の高鳴りが急に大きな音を立てて暴れ出した。
勉強机の上には、あの『洋菓子 ステラ』のクッキーの袋が、スタンドライトの光を受けて静かに私を待っている。
私は椅子に座ってその袋を手に取り、白いリボンをほどいた。
そして、残っていた二枚のうちの一枚を指先で取り出した。
明日、文化祭が終わったあとの教室で、怖がらずにちゃんと気持ちを伝えられますように。そんな自分への「おまじない」みたいに、その二枚目のクッキーをそっと口に含んだ。
サクッ、と軽い音がして、焦がしバターとバニラの優しい甘さが口いっぱいに広がる。やっぱり、胸がきゅっと苦しくなるくらいおいしい。
袋の底には、これで本当に「最後の一枚」になった水色の星がちょこんと残った。
もし明日、蒼に好きだと伝えて、彼も同じ気持ちだと答えてくれたなら――そのときこそが、私がずっと待っていた『特別な時』だ。この最後の一枚は、そのときに蒼と二人で食べよう。
私は白いリボンをもう一度蝶々結びに結び直すと、朝、忘れないように、その袋を通学カバンの一番奥の内ポケットへと大切にしまった。
ベッドに潜り込んで、スタンドライトを消す。
まぶたを閉じると、さっき暗い教室で揺れていた優しいオーロラの光が鮮やかに浮かんでくる。
あと一日だ。
空のどこかで、本物のオーロラも今ごろ静かに光っているのかな。そんなことを考えながら、私は明日という特別な一日への期待に胸を膨らませて、穏やかな眠りへと落ちていった。




