第5章 君が笑うなら、世界は綺麗だ
文化祭の準備が本格的に始まると、放課後の教室は毎日少しずつ姿を変えていった。
六時間目のチャイムが鳴り終わるころには、男子たちが机と椅子を後ろへ寄せ集め、空いた床一面に青いビニールシートを敷く。
その上から私たちが何色もの透ける薄い布を広げていくと、いつもの見慣れた床が、あっという間に浅瀬の海みたいな色に染まった。
布を裁ちばさみで切る小気味よい音や、段ボールをガムテープで留める乾いた音、あちこちで上がるクラスメイトたちの笑い声。
私は、みんなで力を合わせてひとつのものを作っていく、この賑やかな時間が大好きだった。
ここにいて、みんなの声の真ん中で手を動かしている間は、一人きりのときに忍び寄ってくるあのおかしな静けさなんて、どこにも入り込む隙間がなかったから。
私は装飾班のチーフとして天井に吊るす布を縫い合わせ、蒼は窓際で、機材班の男子たちと照明の配線を繋いだり暗幕の木枠を組み立てたりしている。
班が違うから、作業する場所は教室の右端と左端で少し離れていた。
それなのに、私は針と糸を動かしながら、今、蒼がどこにいてどんなふうに手を動かしているのかを、磁石の針が北を指すみたいに自然と把握してしまっていた。
白いシャツの袖を肘までまくり上げ、真剣な目で機材に向き合っている横顔や、同じ班の男子に短く答えて頷く姿が、視線を向けなくても空気の揺れだけで伝わってくる気がした。
そして、そんなふうに相手を意識していたのは、たぶん私だけではなかったと思う。
「……よいしょ、っと……」
ある日の放課後、私が教室の隅に積んであった大きなロール状の白い布を、一人で運ぼうとして腰を浮かせたときだった。
見た目以上に重たくて腕が震えかけた瞬間、すぐ横からすっと白いシャツの腕が伸びてきて、何も言わずにロールの反対側を軽々と持ち上げてくれたのだ。
顔を上げると、そこには蒼が立っていた。
「あっ、蒼くん! ごめん、作業中だったよね、ありがとう!」
「いや、ちょうど通りかかっただけだ。……どこまで運ぶ?」
「あそこの、咲たちがいるブルーシートの端っこまで」
「わかった」
蒼は重さのほとんどを引き受けるようにして抱え、私の歩幅に合わせて運んでくれた。シートの端に布を下ろすと、私がお礼を言うよりも早く、「じゃあ、戻るから」とだけ短く言って、何事もなかったかのように機材班の輪へと帰っていってしまう。
それだけではなかった。
私が段ボールを切り抜こうとして、カッターの切れ味が悪くて苦戦していたときもそうだ。咲に呼ばれて一度席を立ち、数分後に戻ってくると、私が置いていたもののすぐ横に、新しい刃に交換された別のカッターがそっと置かれていた。
驚いて機材班のほうを見ると、窓際でコードを束ねていた蒼と一瞬だけ目が合った。彼はやっぱり何も言わずに手元へ視線を落としてしまったけれど、誰が置いていってくれたのかはすぐに分かった。
「……ねえねえ、唯」
床に座り込んで、水色と薄紫色の布を縫い合わせていた私の脇腹を、隣にいた咲が肘でツンツンとつついてきた。
「ん? なに?」
「なに? じゃないでしょーが!」
咲は周りに聞こえないように声を潜めると、私の肩に自分の肩を寄せて、いたずらっぽく目を細めた。
「紺野くん、さっきから唯が困るたびに秒速で助けに来てんじゃん! 昨日の夕方だって、唯が黒板の上のフックに届かなくて背伸びしてたら、どこからともなく現れて引っ掛けてくれたでしょ!」
「えっ、あ、あれは、たまたま蒼くんが近くにいただけで……」
「またまたあ! 他の女子が重い箱持っててもあんなにすぐ飛んでいかないもん、普段から唯のことずーっと見てないとできない動きだってば!」
図星を指されて、私の顔は一気に耳の付け根まで真っ赤になった。
「……ねえ、実際のところどうなの? こないだお見舞いに来てもらってから、毎日一緒に帰ってるんでしょ?」
針を持つ私の指先が震えるのを見て、咲は「うわあ、わかりやすっ!」と小さく吹き出した。
でも、咲の笑い方には意地悪さが少しもなく、むしろ自分のことみたいに目を輝かせて、私の肩にぽんと顎を乗せてきた。
「……そっかあ。いいじゃん、紺野くん。無口でちょっと取っつきにくいと思ってたけど、ほんとはすごく誠実で、唯のこと一番に考えてくれてるんだね」
「咲……まだ、そんなんじゃないよ。ただ、一緒に帰ってるだけで……」
「もう、じれったいなあ! あっ、ねえ唯、この水色の布さ、反対に裏返して縫ったほうが、光を通したときにキラキラして綺麗じゃない?」
咲が急に話を変えて、私の膝の上の布を指差した。
裏返してみると、確かに生地の光沢の向きが変わって、蛍光灯の光を柔らかく反射する。
「あ、ほんとだ! こっちのほうが綺麗だね、ありがとう咲!」
私が顔を上げて笑うと、咲は少しだけ眩しそうに目を細めて、私の背中をバンッと叩いた。
「よしっ! 本番までに最高のオーロラ作って、紺野くんをもっとびっくりさせちゃおう! 私も全力で手伝うからね!」
「うんっ!」
大好きな親友に背中を押してもらえることが嬉しくて、私はひと針ずつ丁寧に糸を通し始めた。
*
準備期間も後半に入った、金曜日の夕方だった。
その日は部活や委員会の集まりが重なっていて、午後五時を回るころには、クラスメイトたちも「ごめん、あとちょっとよろしくね!」と次々に帰っていった。
咲も「生徒会室に書類を出してくるね!」と慌ただしく廊下へ飛び出していった。
気がつくと、広い教室に残っているのは、私と蒼と、廊下の向こうで看板にペンキを塗っている男子が二人だけになっていた。
窓から差し込む夕日は、鮮やかなオレンジ色だ。
教室の中は、半分閉められた暗幕の影と斜めに伸びる琥珀色の光が混じり合って、深い水底の秘密基地みたいな静けさに包まれていた。
「……この一番奥の布だけ、今日中にフックに引っ掛けておきたいな」
私は紫色の薄い布を持ち上げて、天井を見上げた。
教室の後ろ、一番高い天井の隅にある金具にだけ、まだ布が掛かっていなかったのだ。ここを留めておけば、来週からはすぐに照明を当てるテストに入れる。
近くを見回すと、蒼は窓際の机で、古めかしい真鍮製の丸い筒のようなものを、布で丁寧に磨いていた。
その横顔があんまり真剣だったから、手を止めさせるのが申し訳なくて、私は一人で教室の隅からアルミ製の脚立を引っ張り出した。
脚立を開いてロックし、紫色の布を肩に掛けて一段ずつ登っていく。
二段目、三段目、四段目。
いざ登ってみると床までの距離が思ったより遠く感じられて、少しだけ足元がすくんだ。
「……よっと……あれ、あとちょっとが、届かない……」
一番上の天板に両足を乗せ、背伸びをして右手を天井の隅へと伸ばした。
指先が、金具にかする。
布の端をフックに引っ掛けようとして、私は無意識のうちに、つま先立ちのまま上半身をぐっと後ろへ反らせた。
その瞬間だった。
靴底が、アルミの天板の上で、キュッ、と乾いた音を立てて滑った。
「――っ、あっ!」
重心が完全に後ろへと抜け、足元の感覚が消え去った。
視界がぐらりと天井へ向かって傾く。声にならない悲鳴が、喉の奥で凍りついた。
このまま背中から硬い床へ叩きつけられる――頭の中が真っ白になり、恐怖でぎゅっと目を閉じた。
ガシャーン! と、脚立が倒れる凄まじい金属音が鼓膜を破った。
それとほぼ同時だった。
宙へと投げ出されかけた私の体が、下から飛び込んできた誰かの腕の中に、ものすごい勢いで抱きとめられたのだ。
「――っ、く……!」
短く息を呑む呻き声。
私の背中に回された力強い両腕が、落下する体重をまるごと受け止め、二つの体はそのまま床へ滑り込むようにしてぎりぎりで踏みとどまった。
「……は、ぁ、っ……」
耳のすぐ横で、切迫した荒い息遣いが響く。
恐る恐る目を開けると、すぐ目の前に蒼の白いカッターシャツの襟元と、乱れたネクタイがあった。
倒れ込む寸前、蒼は自分の膝と体をクッションにして私を抱きかかえ、後ろから丸ごと包み込むようにして座り込んでいたのだ。
私の背中は、彼の胸元に隙間なく押し付けられている。
作業で熱を帯びた彼の体温と、激しい心音の波が、薄いブラウス越しに容赦なく背中へ流れ込んできた。
「……っ、唯」
頭の上から、震える低い声が降ってきた。
抱きしめられた腕に、痛いくらいの力がこもる。
「……怪我、ないか? どこか、ぶつけなかったか……!?」
いつもは淡々としている蒼の声が、このときばかりははっきりと取り乱していた。私の肩を確かめる指先がかすかに強張っているのが伝わってくる。
「ご、ごめん……! あとちょっとで届くかなって思って……」
「高いところは俺がやるって言っただろ。呼べばいいのに……落ちてたら、どうするんだ」
少し怒っているようでいて、それ以上に、心底ほっとしたような優しい声だった。
蒼は私の背中に回していた腕の力をゆっくりと緩めると、肩で息をしながら私の顔を覗き込んできた。
「……本当に、どこも痛くない?」
「う、うん……蒼くんが受け止めてくれたから、平気……」
至近距離の黒い瞳に、私は顔から火が出そうになりながら、か細い声で答えた。
蒼は深く息を吐き出すと、私の体から手を離して先に立ち上がり、倒れた脚立を片手で起こした。
「……ほら、座ってないで立って。手、貸すから」
差し出された大きな手のひらを掴んで引っ張り上げられ、私の足はやっと床を踏みしめることができた。
そのまま蒼は軽々と脚立を登り、私が届かなかった天井の金具に、長い腕を伸ばして布を固定してみせた。
トントン、と降りてきた彼は、額の汗を手の甲で拭うと、「これでいい?」と私を見た。
「う、うん! バッチリ! ありがとう……!」
蒼は「気をつけろよ」とだけ短く言うと、それ以上は何も言わずに自分の作業机へと戻っていった。
必要以上に構うことはしないのに、私が危ないときには誰よりも早く飛んできて守ってくれる。
その不器用な優しさが胸に染み込んで、私はさっき彼の腕が触れていた腰のあたりを、制服の上からそっと押さえた。
*
「……ちょっと、休憩にしようか」
教室がいよいよ静かになったころ、蒼が声をかけてくれた。
さっきのドキドキで喉が乾いていた私は、「うん!」と頷いて財布を取り出した。
教室を出て、すぐ横にある階段の踊り場へと向かう。
自動販売機の前に立ち、私が小銭を握りしめて迷っていると、すぐ隣に蒼が並んだ。
「蒼くんも、飲み物?」
「ああ」
蒼は迷わずにブラックの缶コーヒーを買い、私は冷たいリンゴジュースのボタンを押した。
二人で缶を手に取り、踊り場の大きなガラス窓の前に並んで立つ。
窓の外には、今日という一日がゆっくりと閉じていく茜色の空が広がっていた。
私は冷たい缶を両手で包み込みながら、さっき蒼が机の上で磨いていたもののことを思い出して尋ねた。
「ねえ、さっき蒼くんが机で拭いてた丸いガラス、あれなあに? 学校の備品じゃないよね?」
蒼は缶コーヒーのプルタブを開けて、少しだけ視線を落とした。
「……ああ、これのこと?」
彼は羽織っていたパーカーのポケットから、柔らかい布に包まれた手のひらサイズの部品を取り出して見せてくれた。
古い真鍮の枠に収まった、少し青みがかった分厚いガラスだ。夕日の光がそこを通ると、蒼の手のひらの上に綺麗な虹色の光の輪が浮かび上がった。
「じいちゃんの部屋から持ってきた、昔の投影機用のガラスレンズなんだ」
蒼は、そのレンズの表面を親指の腹でそっと撫でた。
「今のプラスチックのレンズより、こういう昔のガラスのほうが、光を通したときに色が本物みたいに柔らかく滲むから。……今回のメイン照明に、これを組み込もうと思って」
「えっ、おじいちゃんの部屋から!? そんな大事なものを、クラスの出し物に使っちゃっていいの?」
私が目を丸くすると、蒼はレンズを布で包み直してポケットにしまい、茜色の空へと目を向けた。
「いいんだ。暗い部屋の奥にしまっておくより、ここで使ったほうが、じいちゃんも喜ぶと思うから」
そう言って、彼はコーヒーを一口飲んだ。
このオーロラにかける蒼の想いが、ただのイベント以上の切実な祈りみたいに感じられて、私は自分の缶を見つめたまま、ぽつりと呟いた。
「……来週の本番、うまくいくといいね。見に来てくれた人たち、みんな綺麗だって喜んでくれるかな」
毎日放課後に残って蒼と同じ教室にいられた時間が、もうすぐ終わってしまうことへの、ほんの少しの寂しさが混じった声だったかもしれない。
すると、窓の外を見ていた蒼がふっと動きを止めて、私のほうを向いた。
夕暮れの光が斜めに差し込む、誰もいない静かな踊り場。
彼の長いまつげが頬に影を作り、その下の深い瞳が、まっすぐに私だけを捉えていた。
「――唯が笑ってるのが、一番いい」
短く、けれど、これまで聞いた彼のどんな言葉よりもはっきりとした、澄みきった声だった。
「……え?」
私は息を呑み、缶を持ったまま顔を上げた。
蒼は茶化したりごまかしたりせず、私の瞳の奥をじっと見つめたまま、静かに言葉を継いだ。
「他の誰がどう思うかは関係ない。このオーロラの下で、唯が笑ってくれたら、それでいい。……俺は、そのために作ってるんだから」
それだけ言うと、蒼はすっと視線を外し、また窓の外を見つめた。
いつもの、淡々とした静かな横顔。
なのに――夕日のせいだけではなく、彼の白い首筋から耳の先までが、見たこともないくらい真っ赤に染まっているのに気づいてしまった瞬間。
私の胸の奥で、何かが決定的に音を立てて弾けた。
『唯が笑ってるのが、一番いい』
『俺は、そのために作ってるんだから』
今の言葉だけが鼓膜の奥で何度も反響しながら、熱い雫になって胸の底へと深く沈んでいく。
彼は、ただの親切なクラスメイトとしてではなく、私を笑わせるために、ずっと私の隣にいてくれたのだ。
指先が震えて、持っている缶がカチャリと小さく鳴った。
「……ありがとう」
熱くなった喉の奥から、小さな声を絞り出すのがやっとだった。
蒼は窓の外を向いたまま、赤い耳を隠すみたいに、「……別に」とだけ短く答えた。
*
その日の帰り道、私たちはいつもよりさらに近い歩幅で、夕暮れの並木道を並んで歩いた。
もう、無理に話題を探して喋り続ける必要なんてなかった。歩くリズムに合わせて彼と私の袖がかすかに触れ合うたび、踊り場での言葉が蘇って、胸が苦しくなるくらい甘酸っぱかった。
ふと隣を見上げると、夕暮れの光の中で、蒼の襟元から覗く首筋が目に入った。
来週の文化祭が終われば、もうすぐ十二月がやってくる。
一年中穏やかな気候のこの街でも、毎年十二月の間だけは、少しだけ空気がひんやりと冷たくなって、夜空から白い雪が舞い降りるのだ。
もし、十二月になってもこうして蒼くんの隣を歩いていられたら――お揃いのふわふわしたマフラーを巻いて、休日の街へ一緒にお出かけしたりできるのかな。
そんな未来をぼんやりと思い浮かべただけで、頬が緩んでしまった。
家に帰り着いてカバンを置くと、私は部屋の電気も点けないまま、ベッドの上に仰向けに倒れ込んだ。
机の上では、『洋菓子 ステラ』の袋の中で、残りの星型クッキーが静かに光っている。
暗い天井を見上げたまま、ゆっくりとまぶたを閉じる。
すると暗闇の裏側に、蒼の真剣な瞳と、赤くなった耳、そしてあの低い声が鮮明に浮かび上がった。
胸の真ん中が、きゅうっと強く締め付けられて息が苦しい。
これまでずっと、「一緒にいると安心する」だとか、曖昧で安全な言葉を使って自分の本当の気持ちに蓋をしてきた。もし認めてしまったら、拒絶されたときに、今度こそ冷たい孤独に押し潰されてしまいそうだったから。
でも、もう自分に嘘をつくことなんてできなかった。
私は、紺野蒼のことが、どうしようもなく好きなのだ。
彼の隣を歩いて、彼の短い相槌を聞いて、彼の瞳の中に自分の姿が映っている時間が、今の私にとって世界のすべてになっていた。
並んで歩くときの、袖と袖がかすかに触れ合うだけの距離。
昨日までは一番心地よかったはずのそのわずかな隙間が、今夜は泣きたくなるくらい遠く、もどかしく感じられた。
私はシーツの上で寝返りを打ち、胸の前で両手をぎゅっと握りしめた。
来週、文化祭が始まり、私たちが作ったオーロラが教室の天井に灯る。
その光の下で、私は彼にどんな言葉を伝えればいいのだろう。高鳴る鼓動の音だけを聞きながら、私はいつまでも、熱い頬を枕に埋めていた。




