第4章 オーロラと、冷たい雫
翌朝、目が覚めると、昨日まで頭の中に詰まっていた重たい鉛のような熱は、嘘みたいにすっきりと消えていた。
布団を跳ね除けて立ち上がっても、もう視界が揺れることはない。
私は白いレースのカーテンを引き開け、窓ガラスに額を近づけて外の空を見上げた。
そこには、今日も端から端まで澄み渡った青空が広がっている。
昨日見た、あのテレビの画面が欠けたみたいな「四角い夜」があったはずの場所を探してみたけれど、どこを見渡しても黒い継ぎ目なんて見当たらない。
やっぱり、熱が見せた幻覚だったんだ。
自分にそう言い聞かせて小さく息を吐く。でも、あのとき「ブツッ」と空が途切れて底知れない闇が覗いた感覚だけは、まぶたの裏に小さな棘みたいに引っかかって消えてくれなかった。
視線を横に落とすと、勉強机の上には『洋菓子 ステラ』のクッキーの袋と、昨日蒼が持ってきてくれたプリントの封筒が並んでいる。
自分の額にそっと右手を当ててみた。
帰り際に蒼が重ねてくれた、あのひんやりとした手のひらの感触がまだ残っている気がして、朝から耳たぶがじんわりと熱くなった。
一日休んだだけで、学校の空気は少しだけ新鮮に感じられた。
朝の教室の引き戸を開けると、一番に気づいた咲が「唯ーっ! おはよう、もう熱は大丈夫なの!?」と駆け寄ってきた。
「うん、おはよう咲! 昨日はゼリーありがとう、おかげですっかり下がったよ」
「よかったあ! 唯が学校休むなんて小学生のとき以来じゃん」
咲は私の肩を叩いてから、ふと声を潜めて、いたずらっぽく目を細めた。
「……で? 昨日、プリント届けてくれた紺野くんとは、なんかいい感じの話でもできたわけ?」
「えっ!? な、なんでそれ……!」
「いやいや、だって先生が『誰か唯の家の近くの人、プリント届けてくれないか』って言ったとき、私が『はーい! 紺野くんが同じ方向でーす!』って推薦したんだもん」
咲が胸を張ってピースサインを作る。
私は顔が赤くなるのを感じながら、「ちょっと咲、なんてことしてくれるの……! 私、すごいボロボロのパジャマ姿で出ちゃったんだからね!」と小声で抗議した。
「あはは、いいじゃん別に! でもさ、私が名前を出したとき、紺野くん『わかった、俺が持って行く』ってすぐ引き受けてくれたんだよ? あれは絶対、唯のこと心配してたって!」
咲の言葉に、胸の奥がトクンと甘く跳ねた。
窓際の一番後ろの席へ視線を向けると、ちょうど座ったばかりの蒼と目が合った。
蒼は、体調が戻ったのを確かめるみたいに少しだけ目元を緩め、いつものように小さく顎を引いてくれた。
私も慌てて頷き返す。たったそれだけのやり取りで、私の心は朝の光みたいに明るく満たされていった。
*
その日の六時間目は、来月の文化祭の出し物を最終決定するロングホームルームだった。
教卓の前に立った学級委員の男子が、黒板にいくつかの候補を書き出していく。
『1.模擬店(パンケーキ&カフェ)』
『2.お化け屋敷』
『3.巨大段ボール迷路』
「えー、先週のアンケートで多かったのはこの三つです。他にどうしてもやりたい案がある人はいますか? いなければ、この三つで多数決をとりますが――」
教室の中は、「絶対カフェがいいって!」「いや、男子はお化け屋敷やりたいよな!」という声でざわついていた。
私は自分の席で、膝の上の両手をぎゅっと握りしめていた。
昨日の夕方、あの黒焦げの写真集を閉じながら蒼と交わした言葉が、頭の中で何度も響いている。
『見上げた人が安心できるような、温かいオーロラを作れたらいいなと思って』
『もしよかったら、うちのクラスで、そのオーロラのプラネタリウム、やってみたいな』
あのとき、蒼は確かに「わかった」と頷いてくれた。
でも、いざクラス全員が「カフェか、お化け屋敷か」で盛り上がっている空気の中に座っていると、手を挙げて新しい案を出すのにはものすごく勇気がいった。
誰かの意見に賛成して手伝うのは得意なのに、自分から「これがやりたい」と大勢の前で声を上げるのは、昔から一番苦手なことだった。
「――じゃあ、他に意見はないみたいなので、黒板の三つで多数決を……」
学級委員がチョークを置いて、手を挙げさせようとした瞬間だった。
ガタッ、と教室の一番後ろ、窓際の席で静かに椅子が引かれる音がした。
「……ひとつ、いいかな」
低く落ち着いた声が、ざわついていた教室の空気をすっと切り裂いた。
クラス全員の視線が、一斉に後ろへと振り向く。
そこには、普段ならホームルームで発言することなんてない紺野蒼が、手を挙げて静かに立ち上がっていた。
「おおっ、珍しいな紺野! どんな案?」
学級委員が驚いたように目を丸くして促す。
蒼は、注目が自分に集まっていることにも動じた様子を見せず、教室の隅までよく通る声で言った。
「教室の窓を全部暗幕で囲って、天井に何重にも透ける布を吊るして……下から特殊な照明を当てて、部屋いっぱいに『オーロラ』を映すプラネタリウムみたいな展示はどうかな」
教室の中が、一瞬ぽかんと静まり返った。
「オーロラ……?」「プラネタリウム?」と、何人かが顔を見合わせる。
やっぱりみんなピンと来ないかもしれない、と私がハラハラして振り返ったときだった。
「――ちょっと待って、それ、すっごく素敵じゃない!?」
誰よりも早く、パーンと明るい声を上げたのは隣の席の咲だった。
咲は立ち上がると、目を輝かせて教室中を見回した。
「だってさ、カフェもお化け屋敷も、毎年他のクラスと被りまくるじゃん! でも、教室の中に本物みたいなオーロラを作るなんて、絶対うちのクラスしかできないよ! 私、そういう綺麗なやつがやりたい!」
咲が力強く言ったのを皮切りに、「確かに、写真映えしそうじゃない?」「音響も凝ったらめっちゃ雰囲気出るかも!」「お化け屋敷より準備も楽しそうだな」と、クラスの空気がオセロの石が裏返っていくみたいに一気に熱を帯びていった。
私も慌てて手を挙げて、「わ、私も、それやってみたいです! 布を染めて吊るしたりしたら、すごく綺麗になると思う!」と声を重ねた。
学級委員が黒板に『4.オーロラのプラネタリウム』と書き足して多数決をとると、クラスの三分の二以上の手が迷いなくその案に挙がった。
「よーし、決まり! 今年のうちのクラスの出し物は、『オーロラのプラネタリウム』に決定します!」
わあっ、と教室中に明るい拍手と歓声が湧き上がる。
「やったね唯! めっちゃ楽しみになってきた!」と咲が肩を抱いて揺さぶる中、私はもう一度だけ、後ろの席を振り返った。
拍手の渦の中で、蒼はすでに静かに席に座り、いつものように頬杖をついていた。
けれど、振り返った私と目が合った瞬間。
彼は、誰にも気づかれないくらい小さく、「約束、守ったぞ」と言うみたいに深く一度だけ頷いて見せてくれたのだ。
胸の奥が、きゅうっと締め付けられた。
普段は自分から目立つようなことをしない人が、昨日私の部屋で交わした約束のために立ち上がって、私の見たかった景色をみんなの目標に変えてくれた。
その真っ直ぐな優しさが嬉しすぎて、私は拍手をしながら、目の奥がツンと熱くなるのを必死にごまかした。
*
ホームルームの後、私は咲たちと一緒に天井の布を作る「装飾班」に、蒼は照明を組み立てる「機材班」に入ることが決まった。
放課後のチャイムが鳴り、私は蒼と一緒に昇降口へと向かった。
校門を抜けていつもの並木道に出ると、今日からまた元気に彼の隣を歩けることが嬉しくて、足取りが自然と弾んだ。
「蒼くん、さっきのホームルーム、ほんとにありがとうね」
私はカバンを抱え直しながら、隣を歩く蒼を見上げて言った。
「私、怖くてどうしても言い出せなくて……。蒼くんが手を挙げてくれたとき、ほんとにびっくりしたよ」
「……昨日、俺から言うって約束したからな」
蒼は並木道の先を見つめたまま、少し照れくさそうに答えた。
「それに、咲がすぐに乗っかってくれたから助かったよ」
「うん、咲にもあとでお礼言わなきゃ。……ねえ、どんなふうに光らせるか、もう考えてるの?」
「ああ。カラー電球を当てるだけじゃ、ただの布にしか見えないからな。家に、じいちゃんが昔使ってた古い投影機のガラスレンズがあるんだ。あれを通せば、光が柔らかく滲んで綺麗に出ると思う」
文化祭の機材のことになると、蒼は少しだけ言葉数を増やして丁寧に説明してくれた。
しばらく並んで歩き、並木道が幹線道路と交わる信号の手前まで来たときだった。
『……ポツッ』
突然、私の右の頬に、何かとても冷たいものが一粒だけ落ちてきて弾けた。
「……あっ」
足を止めて、自分の頬に指先を当てる。
すぐに見上げたけれど、頭上には雲ひとつない夕暮れ前の青空が広がっているだけだ。
指先に残った透明な水滴を見つめたとき、私は少しだけ眉をひそめた。
水滴から、雨の匂いではなく、錆びた鉄のパイプか古い機械の油みたいな、冷たくて金属質な匂いがかすかに漂ってきたからだ。
温度も普通の雨粒よりずっと冷たくて、氷が溶けた雫みたいだった。
「……あれ、なんだろうこれ。空から、冷たいお水が落ちてきたよ」
私が指先を見せようとした瞬間。
隣で立ち止まった蒼がハッと息を呑んで、頭上の青空を鋭く睨み上げた。
その横顔を見て、私は思わず言葉を失った。
彼の黒い瞳はこれまで見たことがないほど険しく細められ、まるで空の高いところにある「目に見えないひび割れ」の位置を探し当てようとしているみたいに、張り詰めた緊張感を帯びていたのだ。
「……蒼くん?」
私が小さく呼ぶと、蒼はすぐに視線を外し、ポケットから白いハンカチを取り出した。
そして一歩近づくと、そのハンカチで私の右の頬と指先を、少し強い力で丁寧に拭き取ってくれた。
「……街路樹の葉っぱの奥に、スプリンクラーの水でも残ってたんだろ。汚れてるかもしれないから、あんまり触らないほうがいい」
「あ、うん……ありがとう」
ハンカチが離れたあとも、鼻先には、あの錆びた鉄のような冷たい匂いが微かに残っていた。
信号が青に変わり、私たちが横断歩道を渡ろうとして大通りの向こう側へ目を向けた瞬間だった。
道路を挟んだ反対側には、いつもなら買い物客や仕事帰りの大人たちで賑わっているはずの「第三区画」の商店街の入り口が見えていた。
けれど今日、その広い入り口には、人の背丈ほどもある白い簡易フェンスが隙間なく並べられていて、『第三区画・全域立入制限中』と書かれた無機質な看板が立てかけられていたのだ。
フェンスの向こうの商店街は、どのお店のシャッターも下ろされ、街灯すら消えてガランと静まり返っている。白い作業服を着た大人たちが数人、無言でフェンスに太い鎖を巻きつけ、南京錠を閉めている姿が見えた。
「……え……?」
私の足が、横断歩道の手前で鉛みたいに重くなって止まった。
先月まではあんなに明るかった通りが、最初から誰も住んでいなかったみたいに真っ暗に閉じられている。
空に浮かんだ四角い闇。写真集の最後にあった銀色のドーム。そして今、落ちてきた冷たい鉄の雫と、鎖で封鎖されていく無人の街。
いつもなら、少し変だなと思っても、すぐに思考が温かい霧に包まれて、「工事をしてるだけだ」と納得できるはずだった。
なのに――この瞬間だけは、目の前の異様すぎる景色の重さに耐えきれず、頭の中の防波堤がピシリ、と音を立ててひび割れた気がしたのだ。
『あそこには、もう誰もいない』
頭の中のどこかで、自分自身のものとは思えないほど冷え切った声が響いた。
工事なんかじゃない。作業員の人たちは工具なんてひとつも持っていない。あれは何かを直しているんじゃなくて、二度と使わなくなった部屋に白い布を被せて、鍵をかけている手つきだ。小学生の頃、お父さんが病院のベッドで冷たくなって、お医者さんがシーツを頭まで引き上げたあの日の病室と、まったく同じ気配がする。
「……あ……っ、はぁ、っ……」
急に、肺の奥まで空気が入ってこなくなった。
視界の端がぐにゃりと歪み、フェンスの向こうの暗い影が巨大な黒い穴になって、足元のアスファルトまで呑み込んで消していくような猛烈なめまいに襲われる。
指先から血の気が引き、カバンを持っていた左手がガタガタと震え出した。
「……ねえ、なんで……? あっちの通り、誰も、いなくなって……っ、空から、鉄の匂いがして……ねえ、この街、どうなっちゃうの……!?」
自分の声が、子どもみたいに掠れて震えていた。
怖い。何か取り返しのつかないことが、目の前で起きている。
膝から力が抜けて、歩道にしゃがみ込みそうになった瞬間だった。
「――唯っ!」
すぐ隣から、蒼が私の視界を遮るように一歩前へと大きく踏み込んだ。
目の前に立ちはだかった彼の白いシャツの背中が、フェンスの向こうの暗い通りを完全に隠す。
それと同時に、彼の右手が伸びてきて、震えている私の左手首を少し痛いくらいの強い力でガッと掴んだ。
「……っ!」
「見るな、唯。こっちだけ見てろ。俺の顔だけ見て」
普段の穏やかな彼からは想像もつかないほど低く、切迫した声だった。
蒼は私の手首を強く握りしめたまま、正面にしゃがみ込むようにして視線の高さを合わせ、私の揺れる瞳を真っ直ぐに射抜いた。
掴まれた場所から、彼の熱い体温が、冷え切った私の血管の中へと直接流し込まれてくる。
「……あ、蒼、くん……」
「大丈夫だ。どこもおかしくなんかない。あれはただの古い水道管の工事だよ。だからさっき、配管の水が風に飛ばされて落ちてきただけだ」
蒼は、握る指先の力を少しずつ優しく緩めながら、私の目を一秒も離さずに言葉を継いだ。
「ほら、息を吸って。……俺がここにいるだろ。明日からは、教室でみんなとオーロラの布を縫うんだろ? 何も怖いことなんか起きてないよ、唯」
目の前にある、深くて静かな蒼の瞳と、手首から伝わってくる確かな熱。
そのすべてが私を包み込んだ瞬間、ひび割れかけていた頭の中の「お守り」が、彼の手の熱に溶かされるみたいに、もう一度ふわりと温かく繋がり直した。
荒くなっていた呼吸が、すうっと深く肺の奥まで落ちていく。
視界の歪みが消え、さっきまで背筋を凍らせていた「お父さんの病室みたいな冷たい気配」の記憶が、ただの白昼夢だったかのように遠くへと霞んで消えていった。
……ああ、そっか。水道管の工事か。
だからさっき、古いパイプから鉄の匂いのするお水が飛んできただけなんだ。昨日の四角い空だって、やっぱり熱のせいに決まっている。
だって、目の前にはこうして蒼くんがいて、明日から教室では楽しい文化祭の準備が始まるのだ。この優しい日常が壊れてしまうような怖いことなんて、起きるはずがないじゃないか。
「……っ、ふう……。ご、ごめんね、蒼くん。私、病み上がりでまだちょっと貧血気味だったみたいで、急にクラッとしちゃって……」
私は冷たい汗が浮かんだ額を拭いながら、照れ隠しみたいにへらっと笑ってみせた。
「うん、そうだよね。水道管の工事なら、封鎖されててもしかたないよね!」
私が明るい声を取り戻して笑うと、蒼は、まだ私の手首を掴んだまま、ほんの少しだけ涙をこらえるように眉を寄せ、長い息を吐き出した。
それから、彼の手のひらが私の手首からゆっくりと離れた。
「……ああ。まだ熱が下がったばかりだからな。今日はもう、ゆっくり歩いて帰ろう」
蒼は、もう二度と私が反対側の通りを見なくて済むように、自分が車道側の壁になってすぐ横に並び直してくれた。




