第3章 幻覚と、写真集
月曜日の朝、目が覚めた瞬間から、まぶたの裏に重たい鉛の板が張り付いているみたいだった。
いつもなら心地よく感じる朝の光が、今日に限っては目の奥をチクチクと刺してくる。ベッドから立ち上がろうとした途端、視界がぐらりと揺れて、私はそのままシーツの上に座り込んでしまった。
「……あれ、おかしいな」
咳も鼻水も出ないのに、熱で喉がカラカラに乾いていて、頭の芯だけがズキズキと重たく脈打っている。首筋に手を当てると、皮膚の下からじっとりとした熱が滲み出ていた。
一年中、快適な温度と湿度に保たれているこの街では、風邪をひくことなんてめったにない。たぶん土曜日の夜、蒼にもらった星型のクッキーを眺めて嬉しくてたまらなくて、夜更かしをして窓際でうたた寝をしてしまったせいだろう。
一階から上がってきた母に体温計を挟まれると、やがてピピピ、と電子音が鳴った。
『38.2℃』
その数字を見た瞬間、母はハッと息を呑んで、まるで何か恐ろしいものでも見たみたいに一瞬だけ表情をこわばらせた。
「お母さん? どうしたの、ただの風邪だよね? 咳は出ないんだけど、頭だけちょっと重くて……」
私がそう言うと、母は私の額に当てていた指先をほんのわずかに震わせた。けれど次の瞬間には、それを隠すようにすぐいつもの穏やかな笑顔を作った。
「ええ、そうね、ちょっとした知恵熱みたいなものよ。……今日は学校、お休みしなさい。今、学校に連絡して、冷たいお水とゼリーを持ってきてあげるから」
「う、うん……ごめんね、お母さん」
パジャマを着替えて、冷たいタオルを額に乗せてもらうと、私はまたすぐに羽毛布団の中へと潜り込んだ。
母はしばらくそばにいてくれたけれど、どこか落ち着かない様子で時計ばかり気にしていて、午前十時を回るころ、「ごめんね唯、どうしても今日だけ、市役所の窓口に行かなきゃいけない用事があるの。お昼過ぎには帰ってくるから、何かあったらすぐに電話するのよ」と、枕元にスマホと飲み物を置いて急ぐように出かけていった。
玄関のドアが閉まり、母の足音が外の通りへと遠ざかっていく。
その瞬間、二階の私の部屋には、時計の秒針がカチ、カチ、と時を刻む音だけが残された。
家の中に自分ひとりきりになったと意識した途端、シーツの隙間から冷たい隙間風が忍び寄ってくる。
みんなが学校で授業を受けている時間に、一人でベッドに横たわっている静けさ。外の通りからは車の音も話し声も聞こえてこなくて、私ひとりだけがこの白い部屋の底に忘れ去られてしまったみたいな錯覚に襲われる。
私はその頼りない感覚を振り払うように、すぐ横の勉強机の上を見た。
そこには、一番よく見える場所へと飾った『洋菓子 ステラ』の小さな透明の袋が置かれている。白いリボンが結ばれた袋の中で、残り二枚になった水色とラベンダー色の星型クッキーが、カーテン越しの光を受けて静かに輝いていた。
あれは、夢じゃない。
『タダでもらうものじゃなくて、俺が、この子に買ってあげたいんです』
あのときの蒼の低い声と、少し照れたように視線を逸らした横顔を思い出すと、悪寒で震えかけていた胸の奥に、ぽっと温かい熱が灯った。
今日学校へ行けば、また朝の教室で彼と目が合って小さく頷き合えたはずなのに。せっかく近づけた距離が、一日休んでしまうことでまた遠くなってしまったらどうしようと思うと、それが何よりも残念で、私は布団を顎の下まで引き上げた。
どのくらい浅い眠りと目覚めの間を漂っていただろうか。
喉の渇きを覚えてまぶたを開けたとき、時計は午前十一時半を少し回ったところだった。
お水を飲もうとして上半身を起こし、何気なく、レースのカーテンの隙間から外の空を見上げた。
今日も、端から端まで澄み渡った穏やかな青空が広がっている――はずだった。
そのときだ。
『……ブツッ……』
窓ガラスの向こう側、はるか高い空の上で、古いテレビの電源コードが引き抜かれたみたいな乾いたノイズが鳴った気がした。
次の瞬間、私が目を向けた青空の一角が、真四角の形にパッと消えたのだ。
雲が横切ったのではない。
まるで、空という青い画用紙の一部がカッターナイフで真四角に切り抜かれて、その裏側にある「底知れない真っ暗な夜」がむき出しになったみたいに。そこには太陽の光もなく、ただ冷たくて巨大な鉄の天井の継ぎ目のような闇と、その向こう側で蠢く赤黒い稲妻のような光が、ほんの一秒だけ生々しく覗いていた。
「……え……?」
息が止まった。
同時に、こめかみの奥が冷たく引き攣り、心臓が早鐘を打ち始める。
なに、あれ。空に穴が空いてる。まるで、私たちがいるこの場所の上が全部、巨大な蓋で覆われているみたいな――。
そう考えかけた途端、また『パチッ』と小さな音がして、その四角い闇は瞬きをする間に消え失せ、元通りの明るい青空と白い雲が戻っていた。
ズキズキと脈打つ熱のめまいの中で、視界のピントがふわりと甘くぼやけ、張り詰めていた思考が、温かいお湯に溶ける角砂糖みたいにゆっくりと丸くなっていく。
ああ、びっくりした。……そっか、私、今三十八度も熱があるんだった。
小学生の頃に高熱を出して医療センターへ運ばれたときも、こんなふうに起きたまま変な夢を見たじゃないか。
ふと、熱でぼんやりした頭のまま、あのときの記憶が蘇る。
『特別なお守り』の処置を受けたあと、私はなぜか熱が下がってからも一ヶ月近く、病室から出してもらえなかった。
頭に冷たいセンサーを何十個も貼られたり、腕から何度も血を抜かれたりして、子ども心にすごく嫌で、退屈で、一度だけベソをかいて逃げ出そうとしたこともある。
あのとき、いつも優しかった白髪の先生が、ベッドの前に膝をついて、今にも泣き出しそうな顔で言っていた。
『痛い思いばかりさせて、本当にごめん。……でもね、唯ちゃんの中に生まれたその優しいお守りは、この街でたった一人しか持っていない奇跡なんだよ。いつか、どうしても悲しい思いをしなきゃいけない日が来たとき、みんなを助ける魔法のお薬を作るために――唯ちゃんの力を、少しだけ分けてほしいんだ』
結局、難しいことはよく分からなかったけれど、最後の日には甘い匂いがするラムネみたいな試作品を見せてくれたっけ。
早鐘を打っていた鼓動は少しずつ、元のリズムを取り戻していった。
私は冷たいお水を一口飲んで、もう一度布団の中へと潜り込み、重たいまぶたを閉じた。
*
次に目が覚めたとき、窓から差し込む光は、柔らかいオレンジ色の夕暮れへと変わっていた。
一階から母の物音はしない。市役所の用事が長引いているらしい。けれど、汗をかいたおかげか、頭の痛みは少し和らいでいた。
そのとき、静まり返った家の中に、ピンポーン、とインターホンの音が響いた。
お母さんが鍵を忘れたのか、それとも学校が終わった咲がプリントでも届けに来てくれたんだろうか。
私は布団から抜け出し、パジャマの上に白いモコモコのカーディガンを羽織った。寝癖で広がった髪を手ぐしで適当に押さえながら、まだ少し浮つく足取りで階段を降りていった。
「はーい、今開けます……」
モニターを確認するのも忘れて、玄関の鍵を開け、重いドアを少しだけ押し開ける。
「咲、わざわざありがと……」
言いかけた言葉が、夕暮れの風の中でぴたりと凍りついた。
開いたドアの向こう、西日を背負って立っていたのは咲ではなかった。
学校のブレザーをきっちりと着こなした紺野蒼が、片手に白い封筒とコンビニのビニール袋を下げて、静かにそこに立っていたのだ。
「……あ、蒼、くん……!?」
頭の中から一瞬で熱の気だるさが吹き飛び、別の種類の猛烈な熱が顔面へと集中した。
ちょっと待って。今の私、どんな格好してる!?
クマの模様が入った子どもっぽいパジャマに、部屋着のカーディガン、髪は寝癖でボサボサ、おまけに熱で頬は真っ赤に上気しているはずだ。よりにもよって、一番かっこいいところを見せたい男の子の前に、こんなボロボロの姿で出てきてしまうなんて。
私はあまりの恥ずかしさに、反射的にドアを閉め直そうとした。
けれど、その前に蒼が一歩前へ出て、少し困ったように眉を下げながら声をかけてきた。
「……急に悪かった。担任から、今日の授業のプリントと文化祭の資料を届けるように頼まれて」
「えっ、あ、ううん! 来てくれたのはすごく嬉しいんだけど、今ちょっと、人前に出られるような顔じゃなくて……!」
私がドアの隙間に半分身を隠しながら口ごもると、蒼は私の頭のてっぺんからスリッパまでをゆっくりと見てから、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「……別に、変じゃないよ。それより、まだ熱あるんだろ。立ってるの辛そうだし、これ渡したらすぐ帰るから」
「う、うん……ありがとう」
差し出された白い封筒とビニール袋を受け取ろうとして、ドアの隙間から一歩踏み出した瞬間だった。
急に立ち上がって階段を降りてきたせいか、視界の端がチカチカと白く明滅し、足元の感覚がふっと消えて、体がそのまま前へと大きく傾いた。
「――っ、あっ」
玄関のタイルに転ぶ、と思った。
けれど、私の体が床にぶつかるよりも早く、ビニール袋を落とした蒼が玄関の中へと踏み込み、力強い両腕で私の肩と背中をガッと正面から抱きとめた。
ドクン、と耳の奥で心臓が跳ねる音がした。
顔のすぐ前に、蒼の白いカッターシャツの襟元と紺色のネクタイがある。
私を支える彼の胸元から、外の夕暮れの匂いと清潔な石鹸の香りがふわっと立ち昇り、熱でぼんやりしていた感覚をすべて塗り替えていった。
「……ほら、言わんこっちゃない」
頭の上から、少し息の上がった蒼の低い声が降ってくる。
「ご、ごめん……! ちょっと立ちくらみがしちゃって……もう大丈夫だから、平気だよ……!」
「全然平気に見えないけど」
蒼は背中から腕を離さないまま、玄関の奥へと視線を向けた。
「……家の人は?」
「お母さん、市役所に用事があるって言ってて、まだ帰ってないの……」
「そっか。じゃあ、玄関先で置いて帰れないな。部屋、二階だろ? ベッドまで運ぶから、少しだけ掴まってて」
「えっ!? い、いいよそんな、風邪うつしちゃうし……!」
「風邪なんてうつらないよ。いいから、ほら」
蒼は落とした袋と封筒を片手で拾い上げると、もう片方の腕を私の背中に回し、私の右手を自分の肩へとそっと乗せさせた。
壊れやすいガラス細工でも扱うみたいな、慎重で優しい手つき。
私はもう抵抗する力も残っていなくて、耳まで真っ赤に染めながら、彼の肩に指先でしがみつくようにして階段を上がった。
あんなに重たくて辛かった体の熱が、彼に支えられている左側だけ、不思議なくらいすっと軽くなっていく気がした。
*
二階の部屋のドアを開けると、夕暮れの光が白いカーテンを透かして部屋を琥珀色に染めていた。
「……散らかってて、ごめんね」
「全然、綺麗だよ。……ほら、ゆっくり座って」
蒼は私をベッドの縁まで連れていき、シーツの上に腰を下ろすまで支えてから、ようやく腕を離した。
自分の部屋という一番プライベートな空間に蒼が立っている事実に、私の心臓はバクバクと鳴り続けていた。
蒼はビニール袋から、冷えたスポーツドリンクとリンゴのゼリーを取り出して、サイドテーブルに並べてくれた。
「これ、咲から預かってきたやつと、俺が途中で買ってきたやつ。熱があるときは、こういうののほうが喉を通りやすいだろ」
「……ありがとう。咲にも、蒼くんにも、心配かけちゃったね」
「唯が休むなんて珍しいって、みんな心配してたよ」
そう言いながら、蒼は授業のプリントが入った白い封筒を置こうとして、隣の勉強机のほうへと向き直った。
そして、机の上に手を伸ばしかけたまま、ピタリと動きを止めた。
「…………」
蒼の視線が、机の真ん中に釘付けになっている。
そこには、私が一番目立つ場所に飾っておいた『洋菓子 ステラ』のクッキーの袋が、夕日を受けてキラキラと鎮座していたのだ。三枚入っていたうちの、まだ二枚が綺麗に残ったままで。
「――っ、ああっ!?」
気づいた瞬間、私は熱のことも忘れてベッドから身を乗り出し、両手をぶんぶんと振った。
「ち、違うの! おいしくなかったから残してるんじゃないの! 一枚目は土曜日の夜に食べて、すっごくおいしくて……でも、あんまり綺麗でもったいないから、残りの二枚は、ほんとに『特別な時』が来たら食べようって決めて飾ってあっただけで……!」
必死に言い訳する私の声が、静かな部屋に響く。
お供え物みたいに机のど真ん中に飾っていたのを見られて、もう布団を頭からかぶって消えてしまいたかった。
けれど、蒼はゆっくりとこちらを振り返ると、これまで見たことがないくらい、深く、柔らかく目を細めて笑ったのだ。
「……そっか」
彼の指先が、机の上の白いリボンに一瞬だけ触れる。
「そんなに大事にしてくれてるなら、買った甲斐があったな。……でも、あんまり長く置いとくと湿気るから、早くその『特別な時』が来るといいな」
「……う、うん……」
私は布団の端を握りしめて、真っ赤になった顔を半分シーツに埋めた。
「……あのさ、唯。まだ少し、起きてられそう?」
蒼が、机の前の椅子をベッドのほうへ引き寄せながら尋ねた。
「うん! ずっと寝てたから頭はすっきりしてるよ。……それに、まだもうちょっとだけ、蒼くんと話していたいし」
熱のせいにして、普段なら言えないような甘えた言葉が口をついて出た。
蒼は一瞬だけ目を瞬かせたけれど、すぐに静かに頷いて、通学カバンから布に包まれた一冊の大きめの本を取り出した。
「一人で寝てると退屈だろうと思って、じいちゃんの部屋からこれを持ってきたんだ。……土曜日の帰り道に、唯が『オーロラを見てみたい』って言ってただろ」
「えっ……うん、言ったけど……」
蒼がその布を丁寧にほどくと、中から分厚い革張りの古い写真集が現れた。表紙の角やページの端々が、一度大きな火事をくぐり抜けてきたみたいに、チリチリと黒く焦げて炭になっている。
「じいちゃんが若い頃に持ってた写真集なんだ。火事でほとんど焼けちゃったらしいんだけど、中の写真だけはいくつか残ってて……ここに、本物のオーロラが載ってる」
「ほんとに!? 見たい!」
私が身を乗り出すと、蒼はベッドの横に膝をつき、焦げたページが崩れないようにそっとめくった。
古い紙と、かすかな灰の匂いが立ち昇る。
開かれたページに目が落ちた瞬間、私は「……わあ……」と息を呑んだ。
そこには、街のモニターや絵本で見てきたどの景色とも違う、圧倒的な世界が焼き付けられていた。
見渡す限り、木も建物もない白い氷と黒い岩の大地。
その頭上を覆い尽くす夜空には、空そのものが緑と紫の炎になって燃え上がっているかのような、凄まじい光の渦が吹き荒れていた。
エメラルドグリーンの光の柱が何千本も天に突き刺さり、血のように濃い茜色と深い群青色が生き物みたいにうねっている。
目が眩むほど綺麗だった。けれど同時に、見ているだけで指先が凍りつきそうな絶対的な冷たさと、人間なんて一瞬で呑み込んでしまいそうな恐ろしいほどの迫力が滲み出ていた。
「……すごい……。これが、本物のオーロラなんだね」
私がページを見つめながら呟くと、隣で蒼が静かに言った。
「ああ。昔の、この街の外にあった本物の空の写真だ」
「想像してたのよりずっと色が濃くて、少しだけ怖いくらいだね。でも……やっぱり、すごく綺麗」
私が次のページも見たくて視線を動かすと、蒼は最後の数枚をめくった。
半分近くが黒く焼け焦げた最後のページには、吹雪の中にぽつんと佇む、巨大な「銀色のドーム」のような建物の写真が貼られていた。
灰色の分厚い雲の下で、半分砂と氷に埋もれた銀色の卵みたいにうずくまっている丸い屋根。
「……あれ、この丸くて大きな建物はなあに? どこかの研究所かなんか?」
私が指差して尋ねると、蒼の指先がピタリと止まった。
彼はあの土曜日の夜と同じように少し眉を寄せて、写真の中の銀色のドームをじっと見つめていた。
「……どうだろうな。古い記録だから、詳しいことは書いてないんだ」
蒼はそう言って、パタン、と静かに写真集を閉じた。
「でも、この本の中にあるオーロラは、少し冷たすぎる気がする。……もし、来月の文化祭でうちのクラスが何か作るなら、こういう怖い光じゃなくて、見上げた人が安心できるような温かいオーロラを作れたらいいなと思って」
「……っ、え?」
私は顔を上げて、蒼の顔を見つめた。
数日前の帰り道には『出し物なんてなんでもいい』と言っていたはずの彼が、私の言葉を覚えていてくれて、写真集を探し出し、文化祭で優しいオーロラを作れたらいいと言ってくれている。
「……私も、作りたい」
胸の奥から熱いものがこみ上げてきて、私は思わず蒼のブレザーの袖口を小さく掴んでいた。
「明日のホームルームで、出し物決めるんでしょ? 私、まだ熱が下がらなかったら明日も休んじゃうかもしれないけど……うちのクラスで、そのオーロラのプラネタリウム、やってみたいな」
潤んだ目で見上げると、蒼は自分の袖を掴んだ私の指先を一度見てから、まっすぐに目を見返して頷いた。
「わかった。明日、もし唯が来てなかったら、ホームルームで俺からちゃんと言っておくよ」
「ほんとに!? でも、蒼くん、そういうの自分から言うの苦手じゃ……」
「別に、苦手じゃないよ。……唯がそれを見たいなら、そうする」
あまりにもさらりと、けれど揺るぎない声でそう言われて、私は言葉が出なくなってしまった。
袖口を掴んだ指先から彼の優しさが流れ込んできて、午前中に窓から見たあの「四角い闇」の不気味さも、一人で部屋にいたときの静けさも、すべてが溶けて消えていくのを感じていた。
「……じゃあ、俺はそろそろ帰るよ。長居したら、それこそ熱が下がらないだろ」
蒼が写真集を布に包み直そうとしたとき、私は「その本、少しだけ貸してくれないかな」と頼んでみた。けれど蒼は少し迷うような顔をしてから、「……ごめん。これ、紙が古くてボロボロだから、家の外に置いておくと崩れちゃうんだ。また元気になったら、いつでも見せるから」と優しく断ってカバンにしまった。
立ち上がった蒼は、最後に一度だけベッドの上の私を振り返ると、少し躊躇いがちに右手を伸ばし、私の前髪の下にある額へと、広い手のひらをそっと重ねた。
「……っ」
ひんやりとしていて、驚くほど気持ちのいい温度。
「……最初に来たときよりは、少し下がったかな。でも、まだ熱い。リンゴのゼリー食べて、今日はもうしっかり寝ろよ」
「う、うん……! ほんとに、来てくれてありがとう、蒼くん」
「ああ。お大事に、唯」
静かに部屋のドアを閉めて階段を降りていく足音を、私は布団にくるまったまま耳を澄ませて聞いていた。
一階の玄関が閉まる音がして、再び家の中が静まり返る。
けれど、今の私の部屋には、もうあの冷たい孤独感はどこにもなかった。
サイドテーブルには彼が買ってきてくれたゼリーがあり、机の上には星型のクッキーがある。
私はまだ少し熱い額に自分の手を重ねて、さっきまでそこにあった彼のひんやりとした手のひらの感触を思い出しながら、幸せなまどろみの中へとゆっくりと沈んでいった。




