第2章 四百円の星屑
私の毎日は少しずつ、けれど確実に色を変え始めていた。
朝、教室の引き戸を開けると、まず窓際の一番後ろの席へと視線を滑らせる。
文庫本を開いている蒼の姿を見つけると、胸の奥に小さな明かりが灯るみたいにホッとするのだ。
ふと目が合うと、彼は本から少しだけ視線を上げて、誰にも気づかれないくらい小さく顎を引いてくれる。声にすら出さない、たったそれだけの合図。それなのに、その一瞬だけで私の朝の空気はサイダーの泡みたいに弾けた。
もちろん、毎日必ず一緒に帰れるわけではなかった。
日直で遅くなったり、咲たちに誘われて購買へ寄ったりする日もある。けれど、放課後の昇降口や廊下でタイミングが合うと、私たちはどちらからともなく歩調を合わせて並木道を歩いた。
「ねえ、来月の文化祭、うちのクラスの出し物は何になるんだろうね」
ある日の帰り道、私はカバンのベルトを握りしめながら、隣を歩く蒼を見上げて言った。
「来週のホームルームで決めるって学級委員が言ってたけど、咲たちはカフェがいいって盛り上がってたよ。蒼くんは、何かやりたいものとかある?」
「……いや、俺はなんでもいいよ。大道具でも裏方でも、決まったものを手伝うだけだ」
蒼はまっすぐ前を向いたまま、いつもの落ち着いた低い声で答えた。
「そっか。でも、せっかくの文化祭だもん、クラスみんなで、思い出に残るものが作れたらいいな」
私が声を弾ませて笑うと、蒼は少し歩みを緩めて、上からちらりと私の横顔を見た。
夕暮れの光の中で彼の長いまつげが揺れ、黒い瞳が、眩しいものを見るみたいに細められる。
「……唯は、そういうみんなで何かを作るのが好きなんだな」
「うん、大好き! 準備してるときのお祭りみたいな空気、ワクワクするじゃん」
「そうだな。……唯が楽しめるようなものに決まるといいな」
そんな何気ない会話を交わしながら歩く二十分間が、私にとって一日の中で一番大切な時間になっていた。
並んで歩く靴の音が、少しずつ同じリズムに揃っていく。最初の日に感じたような、何か喋り続けなければという焦りはもう薄れていた。次の話題を探して黙り込んでしまっても、蒼が急かすことなく同じ歩幅で隣にいてくれるから、言葉の途切れた静けささえも心地よかったのだ。
*
ある土曜日の午後、私は咲と、同じクラスの美羽と香織の四人で、街の中心部にある大きなショッピングモールへ遊びに来ていた。
「うわあ、ちょっと見てよこれ! モールの中、どこもかしこもお祭り騒ぎじゃん!」
吹き抜けのエントランスに足を踏み入れた瞬間、咲が目を丸くして歓声を上げた。
白い大理石の床が輝くホールには、三階の天井まで金や銀の華やかなタペストリーが何本も垂れ下がっていた。そこには『全区画合同・特別感謝フェスティバル』という文字が踊り、スピーカーからは胸が弾むようなワルツの音楽が降り注いでいる。
いつも買い物客で賑わうモールだけれど、今日の熱気は少し様子が違っていた。
一階の広場にある有名パティスリーの特設ワゴンで、コックコート姿の職人さんたちが、イチゴやマスカットが宝石みたいに盛られたホールケーキを、通りかかる人たちに次々と箱に入れて手渡していたのだ。
「えっ、なにこれ!? ホールケーキを丸ごとタダで配ってるの!?」
美羽が驚いて駆け寄ると、白髪混じりのパティシエのおじさんがニコニコと笑いながら、ピンクのリボンが掛けられた大きな箱を美羽の両手に押し付けた。
「はい、お嬢ちゃんたちもどうぞ! 今日のために、うちの店にある一番いい生クリームと果物を使って焼いたんだよ。お友達とみんなで、お腹いっぱい食べてね」
「えっ、で、でも、こんな高そうなケーキをタダでもらっちゃうなんて申し訳ないです……!」
私が慌てて遠慮しようとすると、パティシエのおじさんは、なぜか急に鼻の奥をツンとさせたみたいに目を潤ませて首を横に振った。
「いいんだよ、お金なんて、もういいんだ。それより、君たちみたいな若い子たちが『おいしいね』って笑って食べてくれるのが、おじさんたちにとって一番の幸せなんだから」
その声が、まるで旅立つ子どもにお弁当を持たせる親みたいに優しかったから、私たちは「ありがとうございます!」と頭を下げて受け取るしかなかった。
不思議なことは、それだけではなかった。
二階のブティック街へ上がると、どのお店でもレジに白い布が掛けられていて、店員さんたちが「今日のお洋服やアクセサリーは、すべてフェスティバルの記念品としてお配りしています。一番着てみたいものを選んでくださいね」と微笑みながら案内してくれる。
三階のゲームセンターへ行けば、すべてのゲームのコイン投入口が解放されていて、ボタンを押すだけで何回でも無料で遊べるようになっていた。しかもアームの力が強く設定されているらしく、香織が一度ボタンを押しただけで、大きな白いクマのぬいぐるみがゴロンと落ちてきた。
「やっばーい! なにこれ、今日ってボーナスステージかなんかなの!?」
「ほら見て、あっちのジュエリーショップでも、綺麗なヘアピン配ってるよ!」
美羽と香織が、両手いっぱいに紙袋やぬいぐるみを抱えて次のショップへと駆けていく。
私も「すごいね!」と一緒に笑いながら、可愛いレースのハンカチをひとつもらった。
けれど――華やかなワルツが響く吹き抜けの真ん中でふと足を止めた瞬間、胸の奥に小さな棘がチクリと刺さったような気がした。
これだけ豪華なものが配られて、お祭りみたいに飾られているのに、すれ違う大人やスタッフの人たちの表情が、どこか奇妙なほど静かなのだ。
誰もが怒ったり急いだりせず、穏やかな声で話し、見ず知らずの人にまで「いい一日をね」「ありがとうね」と微笑みかけている。中には、ベンチでアイスクリームを食べる自分の子どもの頭を撫でながら、ハンカチでそっと目元を押さえているお母さんの姿もあった。
どうして泣いているんだろう。どうしてどのお店も、在庫まで全部空っぽになる勢いで配り続けているんだろう。
背筋が、ぞわりとした。
けれど、一度ぎゅっとまぶたを閉じて開き、モール内に漂う甘いバニラと紅茶の香りを深く吸い込むと、視界の輪郭がふっと柔らかく滲んで、その疑問はすぐに温かい納得へと溶けていった。
きっと今年は、この街ができてから何十年目かの大きな記念の年なんだ。だから大人たちが力を合わせてサプライズをしてくれているし、あのお母さんも感動しちゃっただけだ。そう思えば胸の引っかかりは消えて、私はまた「ほんとに優しい街だなあ」と素直に微笑むことができた。
*
午後四時を回り、カフェテラスで無料のフルーツパフェを食べ終えたころ、美羽がスマホの画面を見て声を上げた。
「あっ、ねえみんな! すぐ隣のシネマ館でさ、五時から恋愛映画の特別上映やるって! ポップコーンもドリンクも全部無料だってよ、観ていかない!?」
「いくいく! 私、あの映画ずっと観たかったんだよね!」
香織がすぐに賛成し、咲がちらりと私の顔を見た。
「唯も行くでしょ? 映画終わったら七時過ぎちゃうけど、今日くらいゆっくり遊ぼうよ!」
私は一瞬、行きたいな、と思った。
でも、テーブルの下に置いてある、さっきもらった大きなホールケーキの箱が目に入った。家で夕飯の支度をしている母の顔が思い浮かぶ。
「ごめん! 私、やっぱり今日は先に帰るね。このケーキ、お母さんと一緒に食べたくて」
私が笑ってそう言うと、美羽と香織は「えーっ、残念!」「唯ってばほんとにお母さん孝行だよねえ」と口々に言った。
咲だけは、少し眉を下げて私の顔をじっと見つめた。
「……ほんとにいいの? 唯、映画観たかったんじゃない?」
「ううん、大丈夫! 映画はまた来週でも観られるし、今日はお家でゆっくりするよ。三人とも、楽しんできてね!」
私が立ち上がって手を振ると、咲は少し名残惜しそうにしながらも、「じゃあ、気をつけて帰るんだよ! また月曜日ね!」と大きく手を振り返してくれた。
シネマ館へ向かう三人の賑やかな背中を見送り、私はケーキの箱と紙袋を持って、一人で出口への連絡通路を歩き出した。
そのときだった。
三人の笑い声が消え、ガラス張りの長い連絡通路に私ひとりだけになった、まさにその瞬間。
ついさっきまであんなに華やかに聞こえていたモール内の音楽やざわめきが、分厚い水槽のガラスの向こう側へ押しやられたみたいに、急にすうっと遠くなった気がした。
連絡通路の天井が、めまいがするほど高く感じられる。
手の中には美味しいケーキの箱があるし、ガラスの向こうには雲ひとつない夕焼け空が広がっている。悲しいことなんて、何ひとつ起きていないはずだ。
それなのに、立ち止まった足元のタイルが薄い氷みたいに頼りなくて、自分の輪郭がこのまま広い空気の中に溶けて消えてしまいそうな心細さが喉の奥までせり上がってくる。
誰でもいいから、今すぐ名前を呼んでほしい。
冷たくなり始めた指先で、ケーキの箱の持ち手をぎゅっと握りしめて俯いた、そのときだった。
「――唯?」
すぐ後ろから、聞き覚えのある、低くて落ち着いた声がした。
ハッとして振り返ると、連絡通路の柱の横に、白いシャツの上に黒のカーディガンを羽織った蒼が立っていた。
制服とは違う、シンプルだけれど少し大人びて見える私服姿。片手には小さな茶色い紙袋を持っている。
「……あ、蒼くん……!」
彼を見上げて名前を口にした瞬間。
さっきまで足元を揺らしていた氷のような心細さが、太陽を浴びた朝霧みたいにすっと消え去っていくのが分かった。
遠くなっていたモールの音楽が、また元の温かさで耳に戻ってくる。
「ひとりで、どうしたの。……なんか、顔色悪くないか?」
蒼がすぐに歩み寄ってきて、私の顔を覗き込むように少し身を屈めた。
「う、ううん! さっきまで咲たちと遊んでたんだけど、私だけ先に帰ることになって……ちょっとぼーっとしちゃってただけ!」
私は慌てて首を横に振り、明るい声を作って笑ってみせた。
蒼は私をじっと見つめてから、手にある大きなケーキの箱と紙袋に視線を落とした。
「……荷物が重そうだ。駅のほうまで戻るんなら、途中まで持つよ」
「えっ、いいよそんな、全然重くないから!」
「いいから、貸して」
蒼はすっと手を伸ばして、私の手から白い紙袋を受け取った。そのとき、彼の乾いた温かい指先が私の手に触れて、一気に甘酸っぱい熱が胸の奥へと駆け上がった。
「蒼くんは、どうしてモールにいたの? お買い物?」
外の風が通るオープンテラスの階段を並んで降りながら、私は尋ねた。
「ああ。……じいちゃんの部屋にあった古い懐中時計のゼンマイが切れてたから、時計屋に予備の部品がないか見に来たんだ」
「そっか、こないだ言ってた時計だね! 部品、見つかった?」
「うん。時計屋の店主が、引き出しにあった部品を箱ごとくれたよ」
蒼は持っていた小さな茶色い紙袋を軽く持ち上げて見せた。
「これから帰るところ?」
「ああ。唯と同じ方向だし、あっちの旧商店街を抜けて帰ろうか。大通りはイベントの人混みで歩きにくいから」
「うんっ!」
私は弾む呼吸を整えながら、蒼の隣に並んだ。
一人で帰るはずだった夕暮れが、一瞬にして二人きりの特別な時間に変わってしまった。私服の蒼と学校の帰り道以外の場所を歩くのは初めてで、本当のデートをしているみたいな気がして、私は勝手に耳たぶを熱くしていた。
*
旧商店街は、石畳の道が緩やかな坂になって続く、少しレトロで落ち着いた通りだった。
ここでも店先には『感謝祭・ご自由にお持ちください』という札が掲げられていたけれど、モールほど騒がしくはなく、夕暮れのオレンジ色の光が石畳に長い影を落としていた。
「……ねえ、蒼くん。今日、街中がほんとにすごいお祭りだよね。こんなにお店が全部タダになってるの、初めて見たかも」
私がケーキの箱を抱えながら言うと、蒼は前を見つめたまま「……そうだな」とだけ短く答えた。
そのとき、角を曲がった少し奥まった場所で、ふわっと甘くて香ばしい匂いが鼻先をくすぐった。
焦がしバターとバニラビーンズ、焼きたての小麦粉が混ざり合った匂い。
顔を向けると、そこにはツタの絡まる古いレンガ造りの小さな洋菓子店があった。深緑色の日除けテントには、金色の文字で『洋菓子 ステラ』と書かれている。
私は、ガラス窓の内側に置かれた小さな木製のショーケースに目を奪われて足を止めた。
「……わあ、綺麗……」
ショーケースの中には、丁寧に焼かれた素朴な焼き菓子が少しずつ並んでいた。
その真ん中のトレイの上で、星の形をしたアイシングクッキーが、店内のランプに照らされてキラキラと輝いていたのだ。
夜空が溶け込んだみたいな淡い水色とラベンダー色の砂糖衣が滑らかに塗られていて、その上には銀色の小さなアラザンが星屑みたいに散りばめられている。
そして何より驚いたのは、トレイの前に、手書きのカードで『一袋・四百円』という値札がちょこんと立てかけられていたことだった。
今日、どのお店でも値札なんてひとつも見かけなかったのに、この小さなお店だけは、いつもの日常のままお菓子の値段を掲げていたのだ。
「……どうかした?」
数歩先で足を止めた蒼が、戻ってきて隣に並んだ。
「あ、ううん! この星型のクッキー、すごく綺麗な色だなって思って。それに、ここだけちゃんとお値段がついてるから珍しいなって」
私がガラス越しに指差すと、蒼もショーケースの中の青い星を見つめた。
カラン、コロン、と真鍮のベルの音がして、お店の木の扉が内側から開いた。
出てきたのは、白いエプロンを着けた白髪の老店主だった。私たち二人を見ると、ずっと待っていたお客さんが来てくれたみたいに穏やかな笑顔を浮かべた。
「いらっしゃい。その星のクッキー、いい色でしょう。最後の粉とバターで焼いたばかりなんだよ」
「すごく綺麗です! まるで本物の夜空のかけらみたいですね」
私が目を輝かせて言うと、老店主は「ふふ、ありがとうねえ」と目を細めた。
すると、隣にいた蒼が一歩前へ出た。
そして、ポケットから黒い革の財布を取り出すと、中から百円玉を四枚、チャリンと小さな音を立てて取り出したのだ。
「おじさん、その星のクッキーを、ひとつください」
「えっ!? あ、蒼くん、いいよそんな! 私、ただ綺麗だなって見てただけで……!」
私が慌てて袖を引こうとすると、蒼は振り返り、少しだけ口元を緩めて言った。
「唯がそんなに綺麗だって言うなら、俺が買いたいんだ」
老店主は、四枚の百円玉と私の顔を交互に見つめて、優しい目で微笑んだ。
「……他のお店はみんな、今日から全部タダで配り始めているのに、お兄ちゃんはちゃんとお金を払って買ってくれるのかい?」
蒼は、迷わずに静かに頷いた。
「はい。……タダでもらうものじゃなくて、俺が、この子に買ってあげたいんです」
その言葉を聞いた瞬間、私の心臓がドクンと大きく跳ね上がった。
ただのクラスメイトに言うには、あまりにも真っ直ぐで特別な響きを持った言葉。
老店主は深く頷くと、「……そうかい。いい男の子だねえ」と呟いた。
そして、ショーケースから星型のクッキーが三枚入った透明の袋を取り出し、真っ白な細いリボンを美しい蝶々結びに結んでくれた。
老店主は、蒼の手のひらから四枚の百円玉を、とても尊いものに触れるみたいに両手で包み込んで受け取った。
「ありがとう。……やっぱりお菓子っていうのは、誰かが大切な人を想って、こうしてお代を払って手渡すときが一番輝くんだねえ」
老店主はそう言って、白いリボンが結ばれた袋を蒼へと手渡した。
「お嬢ちゃん、その子に感謝して、笑顔でお食べなさい。……二人とも、どうかいい夜をね」
「あ、はい! ありがとうございます!」
頭を下げて店を離れると、蒼は立ち止まり、その小さな袋を私に差し出した。
「はい、これ」
「……ほんとに、もらっちゃっていいの? 四百円もしたのに……」
「いいよ。唯に持っててほしいから」
私は両手を揃えて、蒼の指先からそっと受け取った。
袋越しに、まだほんのりと焼き菓子の温かい気配と甘い香りが伝わってくる。
左手に下げている高級パティスリーのホールケーキは、値段にしたら何千円もするはずだ。
それなのに、蒼が自分のポケットから四枚の硬貨を出して買ってくれたこの四百円の星屑のほうが、どんな豪華なケーキよりも重たくて、胸が苦しくなるくらい嬉しかった。
*
旧商店街を抜け、いつもの並木道へ出るころには、空はすっかり深い群青色の夜へと切り替わっていた。
私は白いリボンの袋を両手で胸の前に抱きしめながら歩いた。蒼に持ってもらっていた紙袋を返してもらおうとしたけれど、彼は「いいから、唯はそれだけ大事に持ってなよ」と言って、家の近くまでずっと持って歩いてくれた。
「……ねえ、蒼くん」
私は胸元の青い星を見つめながら、ふと思いついて隣を見上げた。
「蒼くんはさ、星とか、夜空とか好き?」
蒼は並木道の先を見つめたまま、少し考えてから答えた。
「……嫌いじゃないよ。静かだから」
「そっか。私ね、このクッキーみたいにいろんな色が混ざった綺麗な夜空を、いつか本物で見てみたいんだよね」
私は見上げた夜の空を指差した。
この街の夜空は、いつも滑らかな紺色をしていて、決められた場所に白い星が標本みたいに規則正しく並んでいるだけだ。
「ほら、空いっぱいに緑や紫の光がカーテンみたいに揺れる、オーロラってあるでしょ? いつかこの街の外のもっと遠い場所へ行って、本物のオーロラを自分の目で見てみたいなって、昔からずっと憧れてたの」
蒼くんも、きっとそういう綺麗な景色が好きなんじゃないかな。
そう思って、私は無邪気に笑いながら蒼の顔を覗き込んだ。
けれど。
街灯の白い光の下で浮かび上がった蒼の横顔を見た瞬間、私の言葉は喉の奥で止まった。
蒼は、突然冷たい刃物で胸を突かれたみたいに、ハッと息を呑んで目を見開いていたのだ。
いつもは静かな彼の瞳が、見たこともないほど激しく揺れている。眉間には苦しげなシワが寄り、紙袋を持っていないほうの拳が白くなるほど強く握りしめられていた。
「……蒼くん?」
私が驚いて声をかけると、蒼はすぐにまぶたを伏せ、その痛々しい表情をいつもの静かな顔の下へと隠してしまった。
「……ああ、ごめん。なんでもない」
「でも、なんか今、すごく苦しそうな顔……」
「ちょっと、考え事をしてただけだ。……オーロラ、か。そうだな、唯はそういう綺麗な光が好きなんだな」
蒼は私を安心させるみたいに、ほんの少しだけ口元を緩めて見せた。
どうして「本物のオーロラを見てみたい」と言った瞬間に、彼があんなにも悲しそうな目をしたのか、私にはどうしても分からなかった。
いつもの分岐点まで来ると、蒼は持っていた荷物をそっと返してくれた。
「じゃあ、また月曜日に、学校で」
「うん! 今日は荷物持ってくれて、それに……このクッキー、ほんとにありがとう! 大切に食べるね!」
私が胸元の袋を抱きしめて笑うと、蒼は「ああ。おやすみ、唯」と短く言って、夜の坂道へと歩いていった。
*
家に帰ると、母は私が持ち帰ったホールケーキを見て「まあ、すごいわね!」と喜んでくれた。
夕食のあとに二人でそのケーキを食べたけれど、私の頭の中は、部屋の机に置いてきたクッキーのことでいっぱいだった。
お風呂から上がって自分の部屋に戻り、机のスタンドライトだけを点ける。
勉強机の真ん中に置かれた白いリボンの小さな袋。中に眠る三枚の青い星が、オレンジ色のライトを受けて優しく光っている。
「……食べちゃうの、もったいないな」
でも、どんな味がするのかどうしても知りたかった。
私はリボンが解けないようにそっと袋の口から抜き取り、三枚あるうちの一枚だけを指先で取り出した。
口へと近づけると、焦がしバターとバニラの濃厚で優しい香りがふわっと広がる。
星の端っこを、前歯でサクッと小さくかじった。
瞬間、口の中いっぱいに、素朴で、涙が出そうになるくらい温かい甘さがほろほろと崩れて広がった。
アイシングのしゃりっとした食感と、少し塩気の効いたバタークッキーの香ばしさ。
作った人の手の温度と、それを手渡してくれた蒼の不器用な優しさがそのまま形になったみたいな、世界で一番おいしい味だった。
「……おいしい」
小さく呟いて、私は残りの入った袋に、もう一度白いリボンを掛け直した。
残りの二枚は、机の一番よく見える場所に飾っておいて、本当に特別なことがあった日にだけ大切に食べるのだ。
幸せなため息をついてスタンドライトを消し、ベッドへと潜り込んだ。
カーテンの隙間から、夜の空が見える。
そのとき――静まり返った夜の街のはるか頭上、規則正しい星が並ぶ黒い空のずっと高いところから。
『……ギシィ……』
と、巨大で重たい鉄の屋根か、分厚いガラスの板がわずかに撓んだような、乾いた軋み音が降ってきた気がした。
布団の中で目を瞬かせたけれど、すぐに音は消えて、あとはいつもの穏やかな静けさだけが続いている。
きっと、遠くで夜の工事でも始まったのだろう。
私は口の中に残る甘いバニラの余韻を確かめながら、月曜日にまた教室で蒼に会えることだけを思い浮かべて、ゆっくりとまぶたを閉じた。




