第1章 いつだって青い空
朝、目覚まし時計の電子音が鳴るよりも少し早く、私のまぶたは自然と持ち上がった。
白いレースのカーテン越しに、柔らかな朝の光が部屋の隅々まで満ちている。
ベッドから抜け出してカーテンを引き開けると、四角い窓枠いっぱいに、今日も昨日と変わらない澄み切った青空が飛び込んできた。
大きな平筆にたっぷりと水彩絵の具を含ませて、端から端まで丁寧に塗り広げたみたいな、一点の曇りもない青色だ。
遠くのビル群の向こうに浮かぶ白い雲の輪郭すら、昨日見たものとほとんど同じ形をしている。
窓を少し開けてみても、前髪を揺らすほどの風はなく、一定の温度に保たれた清潔な空気だけがすっと部屋の中へと滑り込んでくる。
暑すぎず寒すぎない、人間の肌に一番馴染むように計算されたような優しい温度。
この街の空は、いつだってこんなふうに機嫌がいい。
水曜日の深夜二時から四時までの規則正しい雨を除けば、私が生まれたときから一度も荒れることなく、穏やかな青色を保ち続けている。
制服のブレザーに袖を通し、鏡の前でリボンを結んで一階のリビングへ降りると、キッチンからバターとトーストの香ばしい匂いが漂ってきた。
「おはよう、唯。今日も早いわね」
エプロン姿の母が、フライパンから目玉焼きをお皿に移しながら振り返って微笑んだ。
「おはよう、お母さん。なんか自然と目が覚めちゃって」
「ふふ、いいお天気だものね。ほら、冷めないうちに食べてしまいなさい」
向かい合って座り、朝のニュース番組が流れるテレビを眺めながらパンをかじる。画面の中では、柔和な笑顔のアナウンサーが「本日も全区画において空気は清浄に保たれており、湿度・気温ともに快適です。今週末から来週にかけて、各広場で秋の特別感謝祭が開催されます」と落ち着いた声で伝えていた。
「最近、街中でお祭りばっかりやってるよね。こないだも駅前で焼き菓子をタダで配ってたし」
私が牛乳を一口飲んで言うと、母はコーヒーカップに口をつけながら、少しだけ目を細めて私の顔を見た。
「そうね。この街は、子どもたちが笑っているのを一番大事にしてくれる街だから。……唯も、お友達とたくさん遊んで、毎日を思いっきり楽しまないと損よ」
「なにそれ、いつも通りに過ごしてるってば」
笑って答えながら、私はふと、母の目尻がわずかに潤んでいるような気がして首を傾げた。
でも、母がすぐに「さあ、遅刻するわよ」と明るく立ち上がったので、私はそれを朝の光の加減だと思って忘れた。
カバンを肩に掛けて玄関を出ると、通学路には一年中鮮やかな緑色をした街路樹が並んでいた。
商店街を抜ける道すがら、開店準備をしているパン屋のおじさんや花屋の奥さんが、私を見かけるたびに手を止めて、「おはよう、いってらっしゃい」と声をかけてくれる。
昔から穏やかな街だったけれど、ここ一、二ヶ月は、大人たちの眼差しが不思議なほど柔らかくなった気がする。ただ道を歩いているだけの私たちを、まるで二度と手に入らない宝物でも見るみたいに、ひどく懐かしそうで優しい目で見守ってくれているのだ。
*
私は、誰かと挨拶を交わしたり、人から何かを頼まれて走り回ったりしている時間が好きだった。
逆に言うと、一人でいる時間が長くなるのが、昔から少しだけ苦手だったのだと思う。
きっかけは小学生の頃、大好きだったお父さんが病気で急にいなくなってしまったことだった。
あの日を境に、家は広くて冷たい場所に変わってしまった。夜になるたびに声を押し殺して泣き崩れる母の小さな背中を見ていたら、私の胸の奥までミシミシとひび割れてしまいそうになって、ある日、私は高熱を出して病院へ運ばれた。
白いベッドの上で、私はお医者さんの白衣の裾をぎゅっと握りしめて頼んだのだ。
『私が泣いたら、お母さんがもっと悲しんで壊れちゃうから。もう悲しくならないようにしてください。私はずっと笑ってる、いい子でいたいんです』と。
そのとき、医療センターの先生が「じゃあ、唯ちゃんに特別なお守りをあげようね」と言って、悲しさを和らげる処置をしてくれた。
淡い光を当てるヘッドホンみたいな機械を着けて、甘い匂いのする部屋で眠っただけだったけれど、目が覚めたとき、胸を締め付けていた苦しさは嘘みたいに消えていた。
ただ、処置のあとに私の頭のデータを調べた白髪の先生だけは、モニターの数字を見て『……信じられない。こんな完全な形で定着するなんて、前例がないぞ……』と、手が震えるほど驚いていた。
それ以来、私の頭は、少し怖いニュースを見たり悲しい話を聞いたりしても、視界のピントがふっと甘くなるみたいに働いて、それを「きっと大丈夫な理由」へと自然に置き換えてくれるようになった。
母はそれを、「唯の優しい心が作ったお守りね」と言って撫でてくれた。
そのおかげで、私は今日まで怖いことや悲しいことに出会わずに、毎日を楽しく笑って過ごせている。
けれど――ここ最近になって、ひとつだけ、理由の分からないおかしな感覚があった。
放課後に友達と別れて一人きりになった瞬間や、自分の部屋でぼんやりしているときだけ、理由もなく胸の奥がざわざわと冷たく波立ち始めるのだ。
広すぎる世界の中に自分ひとりだけが取り残されて、足元のアスファルトや街並みが、音もなく透き通って消えてしまうような正体不明の心細さ。
ただ、誰かの役に立って「ありがとう」と声を掛けてもらっている間だけは、その心細さを見ないふりをしてやり過ごすことができた。
だからこそ、いつも誰かの声が響いている学校は、私にとって一番安心できる箱庭だった。
「――唯ーっ! ちょっと手伝ってよ!」
昼休みの終わり際。教室の窓辺で頬杖をついていた私は、後ろから弾けるような大きな声で呼ばれて視線を戻した。
振り返ると、親友の咲が、自分の顎の高さまであるプリントの束を両腕で抱えて、困り果てた顔をしていた。今にも白い書類の雪崩が起きそうだ。
「はいはい、わかったってば! 今行く!」
私はすぐに立ち上がり、咲のところへ駆け寄ると、その白い束の上半分をすくい上げるようにして受け取った。
「うわっ、おっも……」
見た目以上の紙の塊の重さに少しバランスを崩して、思わず情けない声が出た。
刷り上がったばかりの紙から、熱を持ったインクの匂いがふわっと立ち昇る。
咲が「ごめんごめん! 先生が職員室からこれ全部運べって言うんだもん、腕ちぎれるかと思った!」と、明るい声で笑いながら頭を下げた。
「いいよ、いいよ。別にこれくらい!」
私はプリントの束をお腹の前で抱え直して笑ってみせた。
こうして咲が頼って笑ってくれるだけで、私の胸の真ん中に溜まっていたかすかな澱は、春の雪みたいにすっと溶けていく。
「じゃあ、これ隣の準備室に置いてから戻るね」
「ありがとー! 唯、愛してる!」
咲の投げキッスを背中で受け止めながら、私は抱えたプリントの山の向こう側、ほとんど見えない足元を手探りするようにして教室の引き戸を出た。
*
昼休みの終わりの廊下は、教室へ戻る生徒たちで少しざわついていた。
顎の下まで紙の束があるせいで、視界の下半分が真っ白に塞がれている。慎重に数歩進んだところで、ローファーのつま先が床のわずかな段差に引っかかった。
「――あっ!」
体勢を立て直す暇もなかった。
傾いた腕の中から、何百枚もの白いプリントが鳥の群れみたいに宙を舞い、床一面にバサバサと音を立てて散らばっていく。
「やばいやばい、どうしよう……!」
顔から火が出そうなほど恥ずかしくて、私は慌ててその場にしゃがみ込んだ。
周りの生徒たちが、ちらりとこちらを見て通り過ぎていく。
早く拾わなきゃ、五時間目の予鈴が鳴っちゃう。焦れば焦るほど指先が滑って、床に張り付いた紙の端をうまく掴めない。
そのときだった。
私のすぐ隣に、もうひとつ、静かな影がすっと落ちてきて屈み込んだのは。
「…………」
声はなかった。
ただ、白いカッターシャツの袖口から伸びた少し骨ばった長い指が、散らばったプリントを端から順番に、滑らかな手つきで拾い集めていく。
ハッとして顔を上げると、そこには同じクラスの紺野蒼の横顔があった。
少し長めの柔らかい黒髪が、俯いた彼の目元にさらりとかかっている。
私が声をかけるよりも先に、彼はもう散らばった紙の半分以上を回収し終えていた。
トントン、と床で紙の束の角を揃える、乾いていて規則正しい音。
彼の動作には無駄がなくて、けれど突き放すような冷たさもなかった。ただ、落ちているものを元の場所に戻すのが当然だとでも言うように、淡々と私の失敗をフォローしてくれている。
床に残った最後の数枚に私が手を伸ばしたとき、同じ紙に向かって伸びてきた彼の指先が、私の人差し指のすぐ手前でぴたりと止まった。
皮膚と皮膚の間の空気が押し潰されて、相手の体温が直接伝わってくるくらいの距離で、彼は静かに指を引き、私にその一枚を譲ってくれる。
あまりの近さに、肋骨の奥で心臓がドクンと大きく跳ねた。
すぐ目の前にある蒼のまつげは長くて濃い。その下にある瞳は、音のない夜の海を閉じ込めたみたいに静かで、深かった。
「……大丈夫?」
短く、聞かれた。
すぐ近くで聞く彼の声は、思っていたよりもずっと低くて、チェロの弦を指で軽く弾いたみたいな落ち着きを持っていた。
「う、うん! 大丈夫! 私、前見てなくて……ほんとにありがとう!」
上ずった声で頭を下げると、蒼は「気にしなくていい」とだけ短く言った。
そして、綺麗に角を揃えたプリントの束を、私の腕の中へとそっと戻してくれる。その瞬間、彼の手のひらの側面が私の指先にほんの一瞬だけ触れた。
ひんやりとしているのに、奥のほうに確かな熱を持った、乾いた心地よい感触。
「あ……」
ちゃんとお礼を言い直す暇もなく、蒼はすぐに立ち上がると、教室のほうへと歩き出してしまった。
私は床にしゃがみ込んだまま、彼の少し広い背中が教室のドアへ吸い込まれていくのを見つめていた。
なんだったんだろう、今の。
胸に抱えたプリントの束が、さっきよりもずっと軽く感じられた。
代わりに、彼の指先がかすめた自分の手の甲だけが、小さな陽だまりでも落ちたみたいに、じんじんと熱を持っていた。
蒼のことは、春に同じクラスになったときから知っていた。
係の仕事で言葉を交わしたことはあるけれど、彼が普段どんな音楽を聴いて、休日に何をしているのか、そういう「中身」に踏み込む話をした記憶は一度もない。
いつも窓際の後ろの席で、誰かと群れるでもなく、ただ静かに文庫本を読んでいるか、窓の外の空を眺めている男の子。
五分前までは、ただの「おとなしいクラスメイト」だったはずだ。
なのに今、私の頭の中には、彼の手の温度と、優しい声ばかりが居座っている。
ただ落とした紙を拾ってくれただけで、特別な意味なんてあるはずがない。
それなのに、準備室にプリントを置いて戻るまでの短い廊下で、私の胸の奥はもっと彼の声を聞いてみたいと思ってしまうような、落ち着かない熱を帯びていた。
自分の頬を両手で軽く叩いて教室の扉を開けたけれど、席に戻るまでの間、私の視線は窓際の後ろの席――何事もなかったかのように頬杖をついて黒板を見つめている蒼の横顔を、しっかりと捉えて離さなかった。
*
午後の授業は、先生の話がほとんど頭に入ってこなかった。
黒板を写すふりをして少し首の角度を変えると、視界の端に、蒼の姿が映る。
彼は真面目にノートを取っているかと思えば、ふとペンを止めて、窓の外の空をじっと見上げることがある。
そのときの彼の目が、ただ景色を眺めているというよりは、ガラスの向こうにある何か遠いものを確かめているような、少し寂しそうで大人びた色をしていることに、私は今日初めて気がついた。
キィン、コーン、カーン、コーン……。
六時間目の終了を告げるチャイムが鳴り響いても、私の胸の奥の熱はすっかり定着してしまっていた。
帰りのホームルームが終わり、放課後の教室は一気に騒がしくなる。
私はカバンを肩に掛けながら、教室の後ろのドア付近で、咲や美羽たちとたわいもないお喋りをしていた。
「ねえ、今日の五時間目の数学、やばくなかった?」
「まじで無理。私、黒板の数字が途中から古代文字に見えたもん」
咲の身振りに声を上げて笑いながらも、私の視線の端は、帰りの支度をしている蒼の姿を追っていた。
自分でもあからさますぎると思うけれど、どうしても目が離せない。
蒼はノートと筆箱を丁寧にカバンにしまうと、誰と話すでもなく一人で立ち上がった。ふと彼の視線がこちらに向きそうになるたび、私の心臓は跳ね上がり、慌てて咲のほうへ向き直る。
「じゃあね唯、また明日!」
咲たちが教室を出ていくのと、蒼がカバンを肩に引っ掛けて廊下へ出ていくのが、ちょうど同じタイミングだった。
今しかない、と思った。
ここで声をかけなかったら、明日にはお礼を言うきっかけすら失って、また元の「話すことのないクラスメイト」に戻ってしまう気がした。
私は教室を飛び出し、一人で昇降口へ向かう蒼の背中を小走りで追いかけた。
「――あ、あのさ、蒼くん!」
呼び止めると、蒼はすぐに足を止め、ゆっくりと振り返った。
オレンジ色に染まり始めた廊下で、彼の黒い瞳がまっすぐに私を見る。いざ目の前に立つと、昼間しゃがみ込んでいたときよりもずっと背が高く感じられて、言葉が喉の奥で縮こまった。
「えっと、昼休みは、その……プリント、ほんとにありがとう」
「ああ。別に、大したことしてない」
相変わらずの短い返事だ。ここで引き下がったら、今までと何も変わらない。
私はスカートの裾を片手でぎゅっと握りしめ、勇気を振り絞って、もう一歩だけ彼のほうへ踏み出した。
「あのさ……もし今日、このあと予定なかったら、途中まで一緒に帰らない?」
言えた。
思ったよりも普通の、明るいトーンで誘えたことに、自分自身が一番びっくりしていた。
バクバクと鳴る鼓動をごまかすように笑ってみせると、蒼は少しだけ目を丸くして、私を見つめた。
ほんの二、三秒の沈黙。
彼の深い瞳の奥に、一瞬だけ、まるで「近づいてはいけない壊れやすいもの」にうっかり触れてしまったときのような、かすかな戸惑いと痛みの影が揺れた気がした。
やっぱり急すぎたかな、と私の笑顔がこわばりかけた、そのとき。
彼は小さく息を吐いて、静かに頷いた。
「……別に、いいけど」
スカートの陰で握りしめていた拳に、嬉しさでぎゅっと力が入る。私は「やった! 行こっか!」と弾む声で彼の隣に並んだ。
*
校門を抜けて、夕暮れの並木道を二人で歩く。
いざ並んで歩き始めると、私は沈黙が落ちてくるのが怖くて、数学の先生のモノマネだとか、購買の甘いメロンパンのことだとか、いろんな話題を引っ張り出しては喋り続けた。
黙ってしまったら、隣を蒼が歩いているのが夢みたいに思えて、一人きりのときのあの心細さが顔を出してしまいそうだったから。
けれど、しばらく歩いてから、私はあることに気がついた。
蒼は私よりもずっと足が長いのに、校門を出たときから、私の少し小さな歩幅にぴったりと速度を合わせてゆっくり歩いてくれていたのだ。
「――でね、咲がそこでチョーク落としちゃってさ」
「うん」
「先生も笑っちゃって、結局あてられずに済んだの」
「そうなんだ。よかったな」
彼の返事は、相変わらず短かった。
でも、適当に聞き流されている感じは少しもしなかった。私の他愛のないお喋りを、ひとつ残らず丁寧に受け止めてくれているのが伝わってくる。
時々、話の合間に、彼が上からちらりと私の顔を覗き込む。
その静かな視線に気づくたび、耳たぶから首筋にかけてじわっと熱い血が巡るのが分かった。
少し言葉を切ったタイミングで、私は思い切って聞いてみた。
「ねえ、蒼くんってさ、クラスでもあんまり自分のこと話さないよね。なんで?」
蒼は、並木道の先にある茜色の空へ視線を上げた。
「……特に、誰かに話すような面白いこともないから」
「そうなの? 休みの日とかは、家で何してるの?」
「亡くなったじいちゃんの部屋に置いてある古い本を読んだり、止まったままの時計を分解して直したりしてるだけだよ」
「時計? すごい、そんなことできるんだ!」
私が目を輝かせて見上げると、蒼は「ただの暇つぶしだよ。直しても、またすぐに止まっちゃうような機械ばっかりだしな」と、気恥ずかしそうに、でもどこか寂しそうに口元を緩めた。
「じゃあさ、これから少しずつ、蒼くんの好きな本とか、直した時計のこととか教えてよ。私、知りたいな」
私が笑いかけると、蒼はほんの少しだけ目を細めて、柔らかい声で言った。
「……そうだな」
たった一言。それだけなのに、胸の奥がギュッと掴まれたみたいに苦しくなった。
普段無口な人が、ふいにそんな優しい顔をするのはすごくずるいと思った。
肩と肩が触れそうで、触れない距離。
近すぎず、遠すぎず。この数センチの隙間が、今の私には一番心地よかった。これ以上近づいたら自分の中の何かが決定的に変わってしまいそうで少し怖かったし、このまま離れてしまうのはもっと嫌だった。
ふと、私は自分がさっきから何も喋っていないことに気がついた。
いつもなら、会話が途切れたらすぐに胸の奥に冷たい隙間風が吹き込んで、何か喋らなきゃと焦り出すはずなのに。
言葉がなくても、ただ隣で蒼の革靴がアスファルトを踏む音がして、彼の白いシャツから微かに清潔な石鹸の匂いが漂ってくるだけで、私の心は凪いだ海みたいに静かで、温かかったのだ。
「……なんかさ、不思議だな」
ぽつりと、自分の口から言葉がこぼれた。
「ん?」
「蒼くんのそばにいると、なんかすごく安心するかも」
言ってしまってから、耳の先まで真っ赤になるのが分かった。
今日から一緒に帰り始めたばかりなのに、なんて重たいことを口走ってしまったんだろうと後悔しても、もう遅い。
蒼は、すぐには答えなかった。
正面を向いたまま、自分の靴音を確かめるように何歩か歩いてから、ぽつりと静かに言った。
「……そうなのか」
「う、うん! なんか落ち着くっていうか!」
否定されなかったことに胸を撫でおろして、私は照れ隠しに笑った。
やがて、私の家へと続く道と、彼の家へと続く坂道の分岐点が見えてきた。
いつも一人で帰るときより、ずっと早く着いてしまった気がする。
「私、こっちだから。今日は一緒に帰ってくれてありがとう!」
「ああ。また明日」
私が大きく手を振ると、蒼は片手を肩の高さまで小さく上げて応え、反対方向の坂道へと歩いていった。
私はその場から動かず、夕暮れの街並みの中を歩いていく彼の背中を、角を曲がって見えなくなるまでずっと見つめていた。
一人になると、周りの景色が急に静かに感じられた。
でも、今日は不思議と怖くなかった。胸の真ん中に、確かな熱がぽっと灯ったまま残っていたからだ。
家へ向かう途中、交差点の角に設置された巨大な街頭モニターが目に入った。
そこには、昼間の青空の映像とともに、優しい女性のナレーションが街中に響き渡っていた。
『市民の皆様、本日も街の空気は清浄に保たれています。風は穏やかです。今週末は、中央広場にて政府主催の無料音楽祭と、光のパレードを開催いたします。どうぞ、大切な方と心ゆくまで楽しい時間をお過ごしください』
色鮮やかな告知映像が、オルゴールのような音楽とともに繰り返されている。入場も飲食もすべてお金がかからないらしい。
この街は、いつだって私たちに優しいのだ。
たぶん私が生まれるずっと前から。そしてきっと、これから先も、ずっと。




