7話──奔
いいかい?
──はい?
わたしたちの目的は世界を変えること。在るべき世界へ戻すことなわけだ。
──それは、そうですけど……でもそれは実現不可能ですって。絶対。
絶対、ねぇ。 ……わたしはね、この世に絶対は存在しないって思ってるんだ。必ず、なんらかの影響で結果は変わる。本人が絶対十時に朝食を摂ると考えていても、そのタイミングで他人に襲われれば食事する余裕なんて無いだろ? 人間一人の絶対は可能性の一端に過ぎないのだよ。
──それでも世界を変えるなんて道のり、断崖絶壁なんて優に超えた、反り立つ壁のような険しさじゃないですか。
なら諦めるのかい?
──そうは言ってないですよ……
なら、頑張ることだ。私の夢に乗ったのは君からだろう? 今更降りるなんて許さないよ。 どうしても降りたいのなら、記憶を全──
「ふぁ~……」
アスモが目を覚ました時、机の上にはフォラスの置手紙と思われるものがあった。
『おはようアスモ君。すまないが、どうしても外せない用事があって、少しの間だがケルビムを出ている。今日中には帰るが、鍛える約束をした手前、直接教えられなくて申し訳ない。だからとりあえず、君一人でできることで、かつ、元々やらせるつもりだったことを書き残しておく。やるもやらないもアスモ君の自由だが、必ず未来に役立つと断言できるものだ』
そしてその文章の下に書かれていたのは、フォラスからアスモへ与えられたトレーニング内容だ。
「……これ?」
拍子抜けするような内容のそれは、地獄から随分かけ離れているものだった。なにせ……
「フォラスさんが帰ってくるまでランニングする。しかも全力疾走じゃなく、緩めた状態で良いと……これなら全然いけるか?」
(懸念点があるとすれば、いつまで走り続けないといけないのかってところだけど……)
フォラスが帰ってくるまでとなると、十分で終わるのか一時間で終わるのか、六時間以上かかる可能性だってある。
(いやいや、やる前から弱気になるな俺)
アスモは手紙を折り畳んんで腰ポケットに入れ、フォラスの家を出る。大した時間は寝ていないのか外は明け方の様子。大体、六時くらいだろう。
見える範囲の家の住民は既に活動しているようで、窓が開けられていたり灯りが付いていた。
(挨拶は……こんな朝からは迷惑だし、やめとくか。後でにしよう)
「よし」
アスモは昨日フォラスと散歩しに行った方向へ足を進め、少しずつ歩行速度を速め、歩きから走りへシフト。
ケルビムから離れすぎないように、舗装された道に沿って走っていく。
「はぁ、はぁ、はぁ──」
アスモの呼吸はすぐに荒くなった。腹の中の、内臓かなにかが異常を訴えている。今すぐにでも足を止めてしまいたい。もしくは歩きたい。
誰も監視していない、サボるには最適な状況。その思考は、アスモにとってとても甘美な誘惑。
しかし、鈍く重く、休息を求める肉体の訴えを気合いだけで振り切り、アスモは一定の速度で走り続けた。いつまでもいつまでも、暖かくなっても、汗が瞳に入っても、吐き気さえ感じても、アスモは走り続けた。
「ぅ──」
喉が詰まって呼吸が乱れ、張った筋肉が足の動作を鈍らせた。
休まる瞬間なんて一切無い。限界を超えた状態で、更なる限界を突き詰め続けた結果、遂には脳の指示を身体が無視するように、全身の力が緩んで頭を思い切り地面に打ち付けるように倒れた。
息を荒げ、脳が、肉体が、血液が、酸素を欲する。欲することを余儀なくされる。全ては生に執着する本能による肉体の動き。生を人生において最も大切にするアスモの思考によるもの。
「か、はぁ、あ……あ、はぁ……はぁ……は、ぁ……はぁ……」
何時間経ったのか。太陽の傾きを見ればすぐにわかる。上を見ずとも、視界の色は僅かに橙がかっている。十時間は優に超えているのだ。
しかし、アスモにはわからない。脳が常に酸素を欲し、走るという行動以外を考える余地がないほどに切迫していた。肺は稼働し続け、心臓が酸素を全身に送ろうとして、耳にまで届くほどの心音がアスモに鳴り響く。
変わらない景色。村の周囲をぐるぐると走り続けることは、アスモにとって拷問にも等しく感じられた。せめて景色が移り変われば、精神的なダメージは多少でも減少しただろう。しかし、地理に明るくないアスモが村から離れればそのまま迷子になるだけ。やむを得ない状態なのだ。
終わりを願う心は消えている。義務的に走り続ける。
口が渇いても走り続け、喉の違和感が強烈になっても走り続け、指先が痙攣しても、何度も足が縺れても気合いだけで立て直した。
走り続けた。
走り続けた。
走り続けた。
走り、走り、走り、走り、走る。
走る。
走る。
走────
「は、ぁ、ぁ……ッぁ」
いつの間にか、アスモは空を見ていた。
黒ずんだ橙色に染まった空はぼやけ、チカチカと点滅している。大地に仰向けになっているはずなのに、まるでふかふかなベットに寝転んでいるようなふわふわな感覚だった。指先、足先まで血流の流れを感じられるほど、肉体が繊細に、ボロボロになっていた。
鼓動が高鳴っている。喉が苦しい。頭が回らない。辛い。あったかい。
それからどのくらい経ったのか、まだ苦しさは残る。しかし、喘ぐような呼吸は収まりつつある。
「はぁ……」
視界の異常も収まり、ハッキリと空を見ることができた。雲が多く、オレンジ色に照らされている。
足の違和感。少しでも力を入れれば、攣ってしまいそうだった。アスモの脳は酔ったように、思考をまとめられない。ただ、充足感に満ち足りていた。
「──こんなところにいたのか」
音に反応してアスモが視線だけでそちらを見れば、そこにはフォラスが見下ろすように立っていた。
「ふぉらす……さん……」
「その様子だと、書き置き通りしっかり走っていたみたいだね」
フォラスはアスモの頭の横にしゃがみ、顔を近付ける。
「でも、私が戻るまで走り続けることはできなかったか」
「はぁ、はぁ、無理ですよ……」
「そうかい? 惜しいところまでは行ってたじゃないか」
「見てたんですか……?」
惜しい。そんな言葉、アスモがいつ倒れたのかを知っていないと言えないはず。
「見てたさ。途中から……大体一時間前くらいからかな」
「そんな前から……あ」
アスモは気付いた。一時間前からフォラスが見ていた。どこから見ていたのかわからないが、それはどうでもいい。
「じゃあ、クリアじゃ……」
「まぁまぁ、そんなことは置いといて、サボらずちゃんと走ってたことは評価できるよ。正直、適当に走って休むか、私が返ってくる頃合いを狙って走り始めるかもって思ってたからさ」
「……裏切るような真似は、しませんって」
てきとうに流されたことにジト目になりながら、フォラスが抱いていた疑いを否定する。
「君のやる気はこれでよく分かったし、根性も素晴らしい。君のやる気を削がないために言ってるんじゃなくて、本心でそう思っている。よく頑張った」
「……ありがとうございます」
「じゃあ──」
フォラスは立ち上がると、村の方を見ながら告げる。
「いつまでもこんなところで寝ているわけにもいかないだろう? 帰るよ」
「あの……」
「ん? どうしたんだい?」
「このままの姿勢で、俺を村まで運ぶことってできます?」
「男なんだから、最後はかっこつけなよ」
そんな挑発交じりの鼓舞にも、アスモは冷静に、端的に答えた。
「むり」
木の板の上に乗せられ、フォラスに家まで運び込まれたアスモはそのままベットに転がる。どうしようもない疲労。思い出したかのように僅かな痛みを訴え始める全身。行動なんてできるわけなかった。
すぐに眠気が襲い、爆発するかもしれないほんの少しの痛みを包むように上回る。
「おやすみ、アスモ君」
「……なさい」
そう曖昧に返し、アスモは本日二回目の眠りについた。




