4話──筋肉痛
そうしてケルビムでの一日目が終わり……二日目。
「うー、痛てて……」
アスモは筋肉痛に苛まれていた。
記憶が無くなる前からよほど運動不足だったのか、昨日のあの運動量で身体が悲鳴を上げていたらしい。
子どもたちと遊ぶのは、目線を合わせたりと普段使わない筋肉を使いはしそうだが、日常的に運動していれば翌日に影響ができることはないだろう。その前にかなりの距離を歩きはしたが、多めに見積もっても二時間くらい。
よほど貧弱じゃないと筋肉痛になんてならないはずだ。
(いや、一つだけ原因あったな。というかそれ以外に無いか)
アスモが思い当たるそれは、まさに全身の筋肉を妙な使い方していた行動……否、強制された出来事だ。
腹に手を回させ、肩に担ぎあげられ、そのまま高速で移動させられた。そのせいで筋肉が強張ったり、緩んだり、振り回された結果筋肉痛になってしまったのだろう。
ただ、筋肉痛と言っても、痛は軽め。大部分は筋肉の違和感だ。正座し続けて、痺れを通り越して、無の境地に至った時のような状態。その弱いバージョンがアスモの全身を侵していた。
「おはようアスモ君。……大丈夫かい? 随分長く眠っていたし、その様子だと昨日は相当疲れていたみたいだね」
「フォラスさん、おはようございますちょっと筋肉痛みたいでして、痛みはそれほど無いんですけど、思った通りに、完璧には動かせないって感じですね。でも日常生活には全然問題無いので……大丈夫ではあります」
「一応今日は休んでおくかい?」
「いえ、もし俺にもできることがあればやらせてください。これくらいの痛みなら全然耐えられますので」
(穀潰しにだけはなりたくないんだよなぁ)
二日目にして休息を取り、ニートになるのはさすがに申し訳なさが爆発してしまう。そこまで堕ちたくはないものだ。
「そうかい? ならちょっとした作業をやってもらいたいんだけど、無理はしないでくれよ」
「はい。ちなみに今って、何時くらいですかね?」
随分長く寝ていたというフォラスの言葉と、早朝とは思えない外の様子。
「もう昼過ぎだよ」
「えぇ!?」
まさかの時刻。昨日のアスモは、正子になる前には寝ていたはず。つまり十二時間以上寝たままだったということになる。
(そんなに寝てたのか……。確かに筋肉痛を除けばかなり冴えてはいるけど、時間無駄にしてるなぁ……)
「すみません……!」
「いやいや、全然気にしないでくれたまえよ。私としては眠れないことを危惧してたからさ。慣れない環境だと難しいって人もいるだろう? だからよく眠ってて安心したくらいだよ」
「そう言ってもらえると、助かります」
「じゃあおいで。作業と言っても単純なことだからさ。で、それが終わったらまた子どもたちと遊んであげて欲しい。きっと大変だろうけど……どうか、頼むね」
「……? はい、任せてください」
違和感ある身体を動かして、フォラスの後に続く。
寝室から出て、リビングに向かった。するとそこには巨大な肉が置かれていた。縦と高さは五十センチ、横は五十センチより長いが、
「朝食の準備をするからさ、それまで君にはその肉の解体をしてほしいんだ」
「解体ですか? でも俺、こういうことやったことないんですけど、大丈夫ですかね」
「大丈夫さ。どこかに売るわけじゃないんだからてきとうで構わないよ」
「うーん……頑張ってはみます」
見た目的に動物の肉をただ解体しただけの物ではない。見た目は真っ赤で新鮮な肉ではなく、少しだけ茶色がかったような感じ。アモスの推測ではあるが、保存食としての加工は済んでいるようだ。
「これ使ってくれ。怪我しないように、ゆっくりでいいから」
「はい。ありがとうございます」
フォラスから受け取ったのは包丁。刀身の長さは短めで、幅は十センチほどのものだ。
「どれくらいの大きさで切ればいいんですか?」
「そうだね。食べやすいサイズくらいでいいよ。気持ち大きめくらいね」
「わかりましたー」
アスモは、テーブルクロスの上に置かれた肉に、ゆっくり身長に包丁を入れていく。
その近くでフォラスは既に切り分けられている肉と、パンとを切り合わせて料理へ生まれ変わらせていく。
「アスモ君。話しながらでもいいかい?」
「大丈夫ですよ」
互いに手を動かしつつの会話。
「アスモ君はさ、人殺しって行為をどう思う?」
「え?」
突拍子もない質問に、ハッキリ聞こえたはずなのにアスモは己の耳を、聞き間違いを疑った。
「人殺し……ですか?」
「人殺し。人を殺すこと。例えばだけど、君は私が殺してくれと懇願したら、私を殺してくれるかい?」
「無理ですよ」
人殺しなんてできるわけがない。本人から頼まれたとしても、自身の手を汚すことはできない。そもそも、一切面識のない人間ならまだしも、フォラスという恩人を殺すなんて考えられなかった。
人殺しが日常と化した殺人鬼ならまだしも、アスモは過去が失われた、最もピュアな人間だ。殺人なんてどれだけ切羽詰まった状況でも、地獄だとしても、選択肢に入ることは無い。
「人殺しは最低です。悪人を裁く行為ならまだしも、俺の手で人を殺すなんてこと、俺にはできません。間違いでも考えられません」
「殺さないとアスモ君が殺される状況だとしてもかい? 殺すか、殺されるか、その二択しかない。それでも君は殺さないという選択をするのか?」
「はい」
アスモに、迷いは一切無かった。思考時間は一瞬で、殺した方がいいかなんて考えた瞬間なんて一瞬すらも存在しない。即断即決。どんな状況だとしても、最愛の人が人質に取られていたとしても、己の命を天秤に掛けられていたとしても、人殺しという選択はアスモに無い。アスモの脳の辞書には一文字も刻まれていない。
「俺には人を殺すなんてできません。考えられませんね。恩人であるフォラスさんからの頼みだとしても、拒否します」
「誰かを殺してくれって頼もうとしてるわけじゃないさ。もちろん私も人殺しは否定派だ。仕方ないと思える状況なら人殺しも選ぶから、君と比べると緩い考えだけどね」
会話に脳内処理を奪われて作業スピードが落ちるアスモに比べ、フォラスは手を止めずに口を動かす。
「次の質問だ。君は神を信じるかい?」
「……信じ…………いや、わかりません」
「わからない? 濁してるわけじゃないよね?」
「もちろんです。フォラスさんに対して言葉を濁すなんてことは絶対しません。わからないというのは、神の恩恵なんて感じたことが無くても、それが神が存在しない証明にはならないと思っての、わからないです。なので、一応どちらか片方を選択するのであれば、俺は信じない寄りですね」
「君自身、神に遣わされた選ばれし者だとか考えたことある?」
「いえ全く」
「ふーん……」
「なんです? もしかして答え間違いました?」
フォラスがどこぞの神の信仰者なのだとしたら、今の回答はアスモの失敗だろう。詳しくないからわからないという、まだ神の存在を判断できる状態じゃないことを示すのが最良だったか。
しかしフォラスからの否定は無い。
「なるほどね」
それだけ言って、フォラスは作業の手を止めて考え込んでいた。
アスモはアスモで、そんなフォラスの様子を見て不安を感じるものの、お世話になってる立場なので己に任された作業を続けるだけだ。手を動かし、視線を手元に固定して、足は動かさず、腰を少し曲げて、脳は別のことを考える。それは単純作業だからこそできること。選択を間違えたことで追い出されるという最悪までもアスモは考えれていた。
「……アスモ君。もしなんでも理想を叶えられるくらいの力、戦力があったらなにをしたい? 実現が厳しいものでも良いよ。あくまでこれは雑談に過ぎないのだからさ」
「理想を……」
なんでもできる最強の力があるという仮定での話という事だ。
「……普通に生きて、普通に死にたいですね。当たり前をこなせる人生を理想とします。それが一番、俺にとっての最高で理想の人生です。特別とかは求めません。ただ普通に当たり前を生きれるような人生であれば良いです」
「ありきたりな答えだね」
「ありきたりでも良いです。それが俺の本心ですから」
正直に本心を告げる。それこそが恩に報いる行ないだと信じて。
「他が為に生きる気はあるかい?」
「……状況によりますが、あります。一応今のところは我が身可愛さは否定できません」
「正直だね」
「正直に話さないと、今を生きることはできませんから」
「……そう、か。君は真新しいわけだ」
「えっと、まぁ、そうかもしれません」
一切の記憶が無いというアスモを表す、真新しいという言葉。アスモはまさしく真新しく、新規一転をも凌駕する状況であり、それが現状だった。




