2話──ケルビム
アスモの体感時間にして一時間。実際は十五分程度しか経過していないのだが、楽しい時間ほどすぐに過ぎ去るのと逆で、退屈だったり苦しい時間ほど長く感じるという集中力の霧散がアスモの時間を引き延ばしていた。
女性が足を地面に擦らせて減速する。若干慣れつつあったアスモの体内はその減速により再び乱され、くらくらと眩暈のようなものに襲われる。
「着いたよ」
「うぅ……」
アスモは情けない声を漏らすだけで、女性の声に対する応答をしない。
「大丈夫かい?」
「……はぃ」
二度目の声掛けでやっと反応。しかしか細い声で、情けないことに変わりはない。
「情けないねぇアスモ君。君はさ、男なんだからもっと気張らないとだよ」
「そうは言われましても……誰だってこの体験したらこうなりますって…………絶対……」
「まったく、立てるかい?」
「地面に降ろしてもらって、いいですか?」
「あぁ、はいはい。倒れないようにね」
女性はアスモを気遣うように、ゆっくりと降ろしてくれた。
ならさっきも気遣う心を見せてくれと文句が喉まで上がってきたアスモだったが、それは吐き気と共に飲み込む。手と膝を地面に付けて、首も上げられず下を向いたまま深呼吸。息を整え、平衡感覚を失ってふらふらする頭を落ち着ける。
「ふ、ふぅ……はぁー……、すみません、なんとか大丈夫です」
アスモは右手で身体を支えつつ立ち上がった。
「よかったよかった。ほら、見えるかい? ここが私が住んでる村さ」
「ここが……」
アスモの視界に映ったのは、木造の民家がいくつか並ぶ小さな村。パッと見、十軒も無いくらいの小規模な集落で、中心を通るように小川が流れている。その小川の隣には三メートルほどの高さの木がそびえ立ち、葉の隙間から差し込む陽光が水面で輝き、小さくも御神木のようだった。
子どもたちが四人、アスモのことを見ながら会話している。誰なんだろう? そんな純粋な疑問からだろう。一人は腰に剣を携えているが、チャンバラ用の模造刀だろう。
「ここはケルビム。小さいけど、良い村だろう?」
「はい。確かに……良い村ですね。その、饒舌に褒めれる語彙力は無いんですけど、自然と共存してる感じなのが良いですね。温かみがあって」
「おぉ、わかるかい?そうなんだよ。だから私、昔は別の場所で暮らしてたんだけど、君が言ったようなところに惹かれてここに移住したんだ。こうして胸を張って自慢できるくらいには好きな場所さ」
「へぇ……」
女性の声色はシルクのように優しい。本当にケルビムという村が好きなのだろう。
「私の家に周辺の地図があるんだ。それあげるから着いてきてくれ」
「ありがとうございます。でもお金とかは無いんですけど大丈夫ですかね? 文字通りの無一文でして、それに見ての通り何も持ってないので物々交換とかもできないんですが……」
「それくらいなら気にしないでくれたまえよ。あそこで会ったのも何かの縁だ。地図くらい対価無しであげるさ」
「本当にいいんですか? もしあれでしたら仕事か何か、肉体労働とかなら……」
アスモはふと気付く。身体能力はどう考えても女性が何倍も上。アスモの肉体労働の一時間は、女性にとっては五分で済ませられるものだろう。
(……身体能力の差的に、肉体労働の価値はゼロに近い。俺は知識もゼロ。……マジでなにもできないな)
「やっぱ聞かなかったことに──」
「ならさ」
アスモが撤回の言葉を言いきるよりも先に、女性がハッとなにか妙案を思い付いたような表情で声を上げた。
「せっかくだし、村の子どもたちと遊んであげてくれないか?」
「それって、あの子たちとってことですか?」
「そうだとも。別に面倒を見てくれってわけじゃないんだ。ただ気ままに遊んでくれるだけでいい。この村は良い村なんだけど、唯一、刺激が少ないって欠点があってね」
「子どもの成長には刺激が大切だって言いますもんね」
(年齢的には十歳前後かな? それなら一番接しやすい年頃か。幼過ぎると怪我が不安過ぎるし、思春期に入ってくるとそれはそれで大変だもんな。でも、なにすればあの子たちの心を掴めるかな~)
アスモは子どもたちが好む遊びを考えつつ、女性に向き直る。
「わかりました。それで良ければ是非やらせてください」
「助かるよ。初めましての人と仲良くできるようになってもらうのも、今のうち経験して慣れておいた方がいいからさ。アスモ君のその旅は急ぎかい?」
「いえ、ゆっくり回ろうかと」
そのアスモの発言に嘘は無い。実際、これから自分自身の名前以外を知るために世界を見て回ろうと本気で思っていたからだ。
自分探しの旅とでもいうべきか。
もしかしたら、アスモが生きた痕跡がこの世界に残されているかもしれない。少なくとの女性と三人の子どもたちはアスモのことを知らないようだが、他の村、町、国にはアスモを知っている人物がいるかもしれない。そんな微かな希望だ。
「なら提案なんだけど、今日は……いや、一週間ほどケルビムに腰を落ち着かせないかい?」
「一週間ですか?」
「もっと居たいなら居てくれて構わないんだけど、今日だけで終わるには勿体無い縁だ。だからー……それを対価としようか。もちろん地図以外にも提供するし、君に不平不満を感じさせるようにはできるだけならないようにするさ」
「至れり尽くせりで、逆に怖いんですけど……」
「対等に感じられないってことかい? ならもっとこき使ってやることもできるけど、それは嫌だろう?」
「どちらかと言えば楽に越したことはないですけど、恵まれ過ぎるのもそれはそれで申し訳なさがありますから」
偶然出会っただけなのにここまで発展するものなのだろうかと、アスモは少し警戒心を高めた。しかし子どもたちをも協力させた上で、奪えるものも無いアスモを騙すことに利点は無い。ローリスクだとしてもリターンが無さすぎる。ローリスクゼロリターンだ。
(でもなぁ、記憶がないせいで親切心も怖く見えちゃってるのは……良くない思考だよな)
今のアスモが疑心暗鬼になるのは最もよろしくない。疑心暗鬼は態度に出てしまう。頼る先も無いのに人を疑った先に待っているのは破滅の道。そこに悪意が無くとも、信用されていないということは相手に伝わってしまう。子どもは騙せても、顔を見る大人は張り付いた笑顔か否か、簡単に判別できる。表情だけじゃない。声色でも、行動でも、発言でも、色んな要因か重なっていき、せっかく生まれた縁も簡単に千切れるものだ。
だから今アスモが取るべき最善の選択は、どんな言葉も素直に受け取るということ。裏を見ようとせず、誠実な対応を見せるべきなのである。
「使ってもらえるのであれば全然働きますよ。それくらいやらせてください。とは言っても、なにか提示できる能力はありませんので、努力はしますけど期待通りの働きは保証できません」
自身の情報を曝け出す。それが、今のアスモにできる最大限の誠実な対応である。
ただ、曝け出せる情報がそもそも少ないし、なおかつ全ての情報とまではいかない。記憶喪失のことについては、まだ隠しておくべきだろうとアスモは判断した。
「そうかい。君がそこまで言うなら何かしら仕事を考えとくよ。それまでは子どもたちと親睦を深めておいてくれ」
「わかりました。ではよろしくお願いしますね」
「ああ。任せたまえよ」
女性は笑顔で頷く。疑っていた自分が馬鹿だと感じるくらいには、綺麗な表情。
「そういえばまだ聞いてなかったんですけど、お名前は……?」
「おっと、すっかり忘れていたよ」
ごめんごめんと、女性は謝りながら笑い、
「私はフォラス。子どもたちにはラス姉って呼ばれてるから、もしラス姉がーーとか言ってたら、私のことだと思って話合わせてあげてくれよ?」
再び子どもたちへの優しさを見せた。
「わかりました。ではちょっとあの子たちのところに行ってきますね」
「頼んだよ。一応もう一回聞いておくけど、ここで寝ちゃっていいんだね?」
「……? えぇ、屋内になる場所さえお貸ししていただければという感じてはあるんですけど」
「なら大丈夫だね。あと家のことなら気にしないでくれ。そこも含めて私が手を回すからさ」
「お願いします」
今のアスモにとっては、ラス姉と呼びたくなるくらいフォラスのことを頼もしく感じた。




