恐怖を喰えば喰うほど強くなる
「ガルルッ……!」
俺の放った言葉の意味を理解したわけではないだろう。だが、目の前の巨大な一つ目狼――『一ツ眼魔狼』は、明らかに自分に向けられた狂気的な敵意を察知していた。
化け物は怯えを振り払うかのように、鋭い牙を剥き出しにして、凄まじい咆哮を上げながら地を蹴った。
狙いは俺の喉笛だ。体長3メートルを超える巨躯が、まるで巨大な肉弾と化して視界を埋め尽くす。
普通なら、迫り来る圧倒的な質量と質量が生む風圧だけで、再び恐怖に腰を抜かしていたかもしれない。
ところが、今の俺の頭脳は驚くほど冷徹だった。
(……遅い。スローモーションみたいに見えるぞ)
自身の恐怖を喰らってバグった俺の動体視力は、突進してくる魔獣の軌道を完全に捉えていた。
それどころか、突進してくる化け物の顔面から、さらに濃くなった青白い『恐怖の霧』が陽炎のように噴き出しているのが、ハッキリと見えてしまう。
口では威嚇していても、こいつの骨の髄は、すでに俺という存在に怯えきっている証拠だ。
「まずはスープ代わりに、それ、もらうわ!」
俺は一歩も動かず、あえて魔獣の突撃を正面から迎え撃つ構えをとった。そして、目前まで迫った狼の鼻先に向けて、右手を思い切り突き出す。
狙ったのは、攻撃ではない。化け物の全身から溢れる、その青白い霧の収穫だ。
――ズウウウウンッ!!!
俺の右手が魔獣の顔面に触れた瞬間、掌のなかの空間がまるでブラックホールにでもなったかのように、狼の恐怖が一気に俺の体内へと吸い込まれていった。
「、あぐっ……あはははははっ! すげえ、自分の恐怖より何倍も濃厚だ……っ!」
全身の神経をカミナリが駆け抜けるような、圧倒的な快感が脳髄を突き刺す。
自分の恐怖を喰った時が『エネルギーの自家発電』だとすれば、他人の恐怖を喰らうのは『外部からの強烈なエネルギー強奪』だ。
体内で魔力のスープが激しく沸騰し、俺の肉体を内側からさらに強固に作り変えていく。
そして、肉体強度のバグは、ダイレクトに物理現象として現れた。
ドガアアアアアンッ!!!
森の空気を震わせる、凄まじい衝撃音。
体長3メートルの化け物が時速百キロ近いスピードで激突してきたというのに、俺の身体は一歩たりとも後ろへ下がらなかった。それどころか、突き出した俺の右手一本が、魔獣の突撃を完全にその場で停止させていたのだ。
「ガ、ガゥ……ッ!?」
狼の血走った一つ目が、驚愕に大きく見開かれる。
全体重をかけた一撃を、ただの、それもさっきまで怯えていたはずの人間に片手で止められたのだ。化け物の脳は、もう完全に理解の限界を超えていたに違いない。
メキメキ、と不穏な音が鳴り響く。俺の指先が、狼の頑丈な頭蓋骨を強引に陥没させていく音だった。
「おいおい、そんなもんかよ。お前の全力って、この程度なのか?」
俺は左手で狼の下顎を掴み、そのまま怪力に任せて、巨体を地面へと叩きつけた。
ズドォォォォンッ!!!
凄まじい衝撃と共に、周囲の泥と落ち葉が派手に飛び散り、地面に巨大なクレーターが出来上がる。狼は衝撃で肺の空気をすべて吐き出し、「ガハッ!」と短い悲鳴を上げて悶絶した。
だが、俺の攻撃はまだ終わらない。
マウントポジションを取るようにして巨体の上に飛び乗り、俺はギラギラと輝く拳を何度も振り下ろした。
ドカッ! バキッ! ドゴッ!!!
「あはははは! ほら、もっと怖がれよ! お前がビビればビビるほど、俺はどんどん強くなるんだからさぁ!」
殴るたびに、狼の心は絶望に染まり、比例して全身から青白い恐怖の霧がブクブクと、まるで湧き出る泉のように溢れ出してくる。
俺はその霧を、呼吸をするように鼻と口から貪欲に吸い込み続けた。
美味い。美味すぎる。暴力的で、濃厚で、極上のスパイスが効いたディナーだ。
力を込めて拳を振るうたびに、俺の身体能力はさらに倍、そのまた倍へと跳ね上がっていく。もはや俺自身が、どす黒い魔力のオーラを全身から噴き出す化け物と化していた。
やがて、狼の抵抗が完全に弱まった。
四肢は力なく垂れ下がり、あれほど凶暴だった一つ目は、涙を浮かべて「ヒゥン、ヒゥン……」と情けない悲鳴を上げている。
命乞いだ。この期に及んで、この化け物は俺に命を乞うている。
だが、その哀れな姿を見ても、俺の胸に湧き上がるのは慈悲ではなかった。あるのはただ一つ、強烈な満腹感と、底なしの支配欲だけだ。
「ごちそうさまでした。――じゃあ、最後の一口な」
俺は右拳に、体内で渦巻くドロドロとした黒い魔力を極限まで集束させた。
パチパキと不気味な黒い放電が周囲の空気を焦がし、森の木々がそのプレッシャーに耐えかねてミシミシと悲鳴を上げる。
死を確信した狼の身体から、これまでにないほど濃密な、最後にして最大の恐怖の霧がブワッと噴き出した。
俺はその最後の輝きを余さず肺に吸い込み、限界まで強化された一撃を、化け物の脳天へと叩き込んだ。
「――シネ」
ドバァァァァァァンッ!!!
大爆発のような破壊音が森一帯に木霊した。
狼の頭部は木っ端微塵に粉砕され、その巨体はピクピクと痙攣した後に、光の粒子となってサラサラと消滅していく。
残されたのは、抉れた地面と、圧倒的な静寂。そして、返り血一つ浴びていない、無傷の俺だけだった。
「……はぁ。食った食った。マジで満腹だわ」
自分の手のひらを見つめながら、ぽつりと呟く。
信じられないことに、あれほどの激戦を繰り広げたというのに、息一つ乱れていない。それどころか、全身が信じられないほどの万能感と熱量で満たされている。
これが、俺の力。【恐怖捕食】。
他人の恐怖を喰らい、己の血肉に変える、最悪で最強のチート能力だ。
しかし、一息ついた俺の耳に、ふと、かすかな足音が届いた。
ザッ、ザッ、と、明らかに動物のものではない、二足歩行の足音。
「……おいおい、まだおかわりがあるのか?」
俺は獰猛な笑みを浮かべたまま、足音のする方角へとゆっくりと視線を向けた。
だが、鬱蒼とした木々の隙間から姿を現したのは、先ほどのような魔獣ではなかった。
「あ、う……うそ……一ツ眼魔狼が、一撃で……?」
そこに立ち尽くしていたのは、ひどくボロボロになった、中世の貴族のようなドレスを着た一人の少女だった。
年の頃は俺と同じくらいだろうか。輝くような銀髪に、エメラルドグリーンの瞳。だがその美しい顔は今、驚愕と、そして――圧倒的な『恐怖』で真っ青に染まっていた。
少女の全身から、先ほどの狼とは比べ物にならないほど、 澄み切った、美味しそうな青白い霧が立ち上り始める。
「人間の、女の子……?」
俺の呟きを聞いた少女は、ビクゥッ! と身体を震わせ、恐怖のあまりその場にへたり込んでしまった。
どうやら彼女は、魔獣に襲われてここに逃げ込んできた現地の人間らしい。そして、その魔獣を笑顔で撲殺した俺という『バケモノ』を見て、完全に魂を抜かれている。
へたり込んだ少女を見下ろしながら、俺の喉が、ゴクリと不謹慎な音を立てて鳴った。
(なんだこれ……魔獣の恐怖よりも、人間の恐怖のほうが……圧倒的に綺麗で、美味そうだ)
俺の胸の奥で、消えかけたはずの飢餓感が、再び猛烈な勢いで首をもたげ始めた。




