2.山行
アスピーテラインが八幡平に向かって蛇行しながら登って行く手前、後生掛温泉への脇道に近い所に駐車場がある。そこに立っても木々しか見えない展望台には、いくつかベンチが置かれていた。その一つに、男女が座っている。
オレンジ色の大きなバックパックの上部でKarrimorのロゴが土埃に塗れている。本来なら野営道具を吊り下げる上蓋の下には、はみ出す程に荷物が詰められている。チラリと覗くのは携帯食料のパッケージ。
ブラウンの登山靴の靴紐を二重に締め終えた後、男はバックパックを担ぎ上げる。肩紐がミシリと小さく悲鳴を上げ、男の肩に食い込む。
「………準備は出来たか?」
男は傍らの少女に聞く。聞くまでも無い。まだ真新しいヤッケに身をつつみ、ソールの減っていない靴の紐を相手に悪戦苦闘している。
「見れば分かるじゃろ!まだじゃ!」
苛立たしげに言い放ち、また靴紐と格闘する。
男は少女から目を離す。眼下に見える澄川、温泉の建屋の向こう側に吹き上げる湯気が見える。
胸ポケットから煙草を取り出して火を付ける。胸奥に吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。
焼山は芽吹いた若葉で青々として見える。川底を中心に赤茶けた、或いは硫黄の晶出により黄色に色付けされた地面が見える。上流に視線を移すと、白っぽい灰色の沼が、幾つも口を開けている。
男には、この表面が地下から沸く蒸気と泥によって、ゴポリゴポリと沸き立つ様子までを視界にいれ、煙を吐き出した。風で吹きながられる火山ガスの臭い。硫化水素とも違う、火山性温泉の臭いが仄かに紫煙に混じる。
一本目を吸い終える。
胸元のポケットから携帯灰皿を取り出し、中に吸い殻を捨てる。続けざまに二本目を口に咥えて火を付ける。
十和田八幡平国立公園は、国内でも有数の月輪熊生息地だ。最寄りの駅から、バスを使ってもレンタカーを使っても、二時間近く掛かる。秘境と、そう言っても良い立地だが、存外に観光客は多い。
活火山である焼山の周辺には、硫酸温泉である後生掛温泉、硫酸塩酸混合泉である玉川温泉を筆頭に、様々な温泉が湧き出ている。特に、昭和の終わり頃に、玉川温泉の湯につかることで、癌が治癒したという話が出回ってからは、最後の望みを託すように、この山を訪れる人が後を絶たない。それ以外は、多様な泉質を求める温泉マニアが多い。また、この地域には湯治の概念が残っている。長ければ数カ月にも渡って湯治を行い、そのついでと観光をしていく人も、中にはいる。
ほんの二月ほど前に、この地域で死体が発見された。
胴体は一人分、頭は二つ。どちらも食い荒らされた形跡も生々しかったらしい。人を食った熊は、頭が回るのか、未だに捕獲されたという話は聞かない。
お誂え向きだった。
準備の出来た少女を連れて、歩き出しながら、男は笑う。
狐神は武を尊ぶ。
その言葉通り、今日も獣たちが互いを喰む。肉を食い裂き、血を飲み干し、骨を噛み砕く。
人を喰った獣を、人が狩り、喰らう。
とてもシンプルで明快だ。
熊出没注意。人身事故発生、入山禁止。様々な表現で立ち入りを禁じる表示を全て無視していく。登山道はもとより、林道の一本に至るまで張り巡らされたタイガーロープを踏み越える。
大湯沼に入る。熱水変質により、白い珪化岩が顔を出し、そこから毀れた砂が白い池塘を作っている。硫黄苔の鮮やかな緑が白い地面に映える。少女は顔を輝かせて、アレコレと指差しながら男に話しかけるが、男は生返事を返すばかりだ。
湿原を越えて湯田又沢に入る。
景色が一変する。なだらかな湿原から、深い山中を縫うように流れる川へと。
木々もまた、里山に近い疎林から繁茂するままに伸びた樹海へと変化する。折れた枝が川を塞ぐ所が何箇所もあり、それらの濡れた表面に足を掛けて、乗り越える。真新しかった少女の靴も、ズボンも濡れて、重い。川底の砂に、岩に足を取られかけて蹈鞴を踏む。常に背後から水の流れが足首辺りを押してくる。慣れない大きなバックパックは、身を捩るたびに傾き、重心を持っていかれる。
いつしか、少女の息は乱れ始める。
白い額に珠のような汗が浮き、帽子の下では髪が蒸れる。登山靴の中は生暖かい水が溜まっていて、足の先に重りをつけているようだ。直接、水に触れたつもりは無いというのに、木々を押し退ける度に手袋は湿気を吸って濡れていく。傾斜を増した川の流れが、あちこちから跳ね返って、全身が細かい水滴をまぶされていく。一時間も歩いていないと言うのに、全身が重い。
川の底が、白っぽい砂から、黒い溶岩に変わる。どのような仕組みなのか、長さ50cm程の石畳の様に平たい岩が川底を満たしている。横幅は不規則だが、表面は水で磨かれたのか、とても滑らかだ。凹凸が少なく、足を置いても引っ掛かる事がない。水流と相まって、何度も転びそうになる。
先を歩く男の背中がヤケに遠く感じる。
自分とは違い、息を切らす様子もない。これほどに足場が悪いというのに、歩く速度は微塵も遅くならない。まるで舗装された道を淡々と歩くように、遠ざかっていく。
クソッ、と心の中で悪態をつく。
ここ一年ほど師事しているが、まだまだ男の底が知れない。分かったことは、酷く無愛想で、無口であるということ。それらの社交性の欠如を補える程に強いと言うこと。
ズレてきた肩紐を、定位置に直して、男を追う。
急に視界が開けた。
訝しむのも束の間、いつの間にか歩みを止めた男に袖口を引かれる。振り返れば、呆れたような顔。
「………死ぬぞ」
内容の剣呑さに反して、静かな声だ。
何のことか、と改めて足元を見る。
悲鳴が、喉の奥に弾けた。
爪先から、ホンの20cm先に地面が無かった。
思わず後ずさった拍子に、尻を付く。川の水が尻を濡らす。
男は傍らの森の中に足を突き入れて登って行く。
何をしているのかと、目で追うと、近くの木の幹にロープを掛けている。
そこで、思い付いた。
恐る恐る、川沿いの木の一本に手をかけて、先を覗く。
落差30mはあるだろう、大きな滝が口を開けている。
滝を上から覗き込むのは始めてだった。あまりの落差に目眩がする。水の量が少ないのか、滝壺に落ちる流れは酷く静かだ。鳥の嬌声のほうがよほど大きく聞こえる。
馬蹄形の滝壺。水面は抹茶の色に近い、くすんだ緑。水底は見えない。抉られた滝壺の周りを縁取るように、河洲があって、拳ほどの石がゴロゴロとしている。下に生えている木が小枝の様に小さく見える。
なる程、落ちたら死ぬ。
そう思った時には遅かった。覗き込みすぎて傾いだ重心は、既に取り返せない程にブレていた。つかんでいた枝を握りしめても、濡れた木皮に滑っていく。小さな葉が掌を舐めていく。
あ、と小さく呟いて、少女は落下を開始。
しなかった。男が心底、呆れたという表情で少女の腕を掴んでいた。
「………すまない」
そのまま、腕が引かれて重心を戻す。男はぶっきらぼうに、気をつけろ、と言う。
少女に命綱をつけてから、男は懸垂下降で先に降りていった。男は音もなく降りていく。動かす手は早くは見えないのに、あっという間に小さくなって、地面に降りる。まるで手品を見ているようだ。
自分につけられた命綱を手繰って、ロープに近寄る。事前に使い方を教えられていたハーネスをつけて、縄を通す。厚い手袋越しにロープを握りしめて、降下を開始。
爪先が地面を離れる。ハーネスが股に食い込んで痛い。両手は荷重が掛からないので意外にも楽だが、手を離せば宙づりになるとは聞いている。
地面から足を離すことが、こんなに怖いとは思わなかった。
眼下の男に目配せすると、男はロープの先で何かを動かす。少女を吊っているロープが滑り出して、ゆっくりと体が下がっていく。
男の操る道具、グリグリ、と言う名前を聞いた時は冗談だと思った。しかし、慣れない者でも安全に下降できる事を体験してみると、笑ってしまって悪かったと言う気持ちが湧いてくる。
地面に近付くにつれて、周りが見えてくる。目の前の黒い岩肌を、水が滴っていく。頭の上から、霧のように細かい水滴が降り注ぎ、地面に着くころには、水を被ったように髪が重かった。
難所と言っても過言では無いと、少女は思う。それが疑問に塗れているのは、先を行く男が休みを入れないどころか、歩みを緩める気配も無いからであった。
疲れというものを知らないのかもしれない。突拍子も無い想像は、しかし、真実味を帯びて少女の脳裏に広がる。
少女は既に疲れ切っている。山行もそうだが、沢下りは常に無いほどに体力を奪う。何処から延びているか分からない枝葉に注意し、水の流れと足場を計算しながら足を運び、平地には無い足元との悪さを勘定に入れなから、歩を進める。背中に掛かる荷物の重さも厄介だった。軸足を何度も化かされ、その度に全身を動かして立て直す。その動作の一つ一つは、或いは、男は無駄と言って捨てる凶勁の類であることは、少女にも理解出来ていた。
滝を下って暫し、足元が溶岩から、青灰色の火山灰に変わった辺りに辿り着いた。
「………ここだ」
男は始めて足を止め、短く呟く。
景色は変わった。谷底には噴気が立ち上り、濛々とした火山ガスの周りは熱水変質した白い岩が露出している。谷に沿うように南北に列を作り、一体幾本の噴気孔があるのかも定かでは無い。
「………この沢の水は、どこも飲めない。少し下れば八幡平から熱水の混じっていない沢がある。飲水はソコで確保しろ」
男は淡々と告げる。
河洲にバックパックを降ろすと、中身を並べていく。中身の入っていないボトルが6本、蜷局を巻いたロープが6本、大振りの鉈にノコギリ、なんの冗談なのか火打石。最後に鞘に収まった大振りのナイフが二本。申し訳程度の携帯食料。
「二年後に迎えにくる。套路は欠かすな」
ちょっと待て、と少女が口を挟む。
聞こえていないのか、いないのか。男は荷物の全てを置き去ると、雄鹿の様に沢から森に登り、そのまま去っていく。
「待て!待て!これでは遭難ではないか!」
少女は必死に追い掛ける。固い基盤岩の斜面に足を掛けて攀じ登ろうとする。濡れた岩肌は、掛けられた少女の爪先に抵抗を返さない。
前のめりに頭を打ち付ける。
切れた額から血が流れる。
既に男の姿はなく、森を往く葉擦れの音すら聞こえない。




