怖いから、短くする
鐘の海が、光で真二つに割れた。
黒い水面から天井まで、白金の刃が一直線に立つ。刃の両側で水が壁になり、浮いていた鐘が遅れて二つに裂けた。
その中心を、ニコが走っていた。
一歩ごとに足元から光が伸びる。速いから刃になるのではない。彼が選んだ進路そのものが、巨大な刃として宮を切り分けている。
「右へ!」
誰かが叫ぶ。
ニコは右を見た。けれど身体は曲がらない。
走り始めたら、終点まで曲がれない。
彼の前では、沈みかけた小鐘へ一人の受験生がしがみついていた。光刃の線上に半身が出ている。
「止めて!」
リナは鐘の縁まで走った。
止まれない。曲がれない。ニコ自身が一番よく分かっている。口を結び、足の速さを変えず、まっすぐ進むしかない。
セシルは水面を見た。
光刃の先は、中央の大鐘に描かれた白い円へ向かっている。終点は見えている。だからニコは最後まで同じ直線を走る。
「終点をずらせない?」とリナ。
「走り始めた後は、誰にも曲げられない」
「じゃあ、私が未来を――」
「人を動かす未来は出せない」
「分かってる!」
分かっていることを言われると、余計に腹が立つ。
セシルは腰袋から黒い鏡片を出した。星喰い鏡。受けた光を一度だけ呑み、表面の傷が向く方へ吐く遺物だ。
「刃を上へ逃がす」
「ニコの身体は?」
「鐘の縁に細い溝がある。あの子を引き込めば、ニコの足より低い」
「誰が引くの」
セシルは答える前に、隣の鐘へ飛び移った。
ごうん。
「それ、返事じゃない!」
「私が引く!」
遅れて返し、もう一つ先の小鐘へ跳ぶ。手も靴も光らない。鐘が傾くたび、縁へ指をかけ、身体だけで次へ移る。
ニコは直進してくる。
「あと四歩!」とリナ。
セシルが受験生のいる鐘へ腹から落ちた。片手で外套の襟を掴み、もう片方で星喰い鏡を立てる。
「身体を丸めて!」
「脚が挟まってる!」
鐘の割れ目へ靴が噛んでいる。
「右の靴を脱いで!」とリナ。
「紐が――」
セシルが鏡を肩で支え、両手で靴紐を引きちぎった。
「あと二歩!」
受験生の脚が抜ける。
セシルはその身体を鐘の溝へ引き込み、自分も上から覆った。星喰い鏡だけを進路へ向ける。
ニコの光刃が鏡へ当たった。
黒い面が白金の刃を呑む。鏡の傷から、行き場を変えられた光が天井へ噴き上がった。
ニコの身体は曲がらない。
鐘の縁を一直線に駆け、溝へ伏せた二人の頭上を越えた。靴底がセシルの髪を一房だけ巻き上げる。
そのまま中央鐘の白い円へ到達し、初めて止まった。
刃が細くなり、鐘の海へ溶ける。
星喰い鏡には白い亀裂が残った。セシルの掌にも、熱で赤い線が走っている。
割れていた水が落ちた。
どおん、と二枚の海がぶつかる。
*
救われた受験生が泣いている横で、ニコは膝へ手をついた。
「ごめん」
「助かったから」
「切るところだった」
「でも、助けた」
「両方だ」
短く言い、どちらも消さなかった。
リナはニコの答案を覗いた。一行だけ。走る進路と、目で選んだ終点。それ以外は余白だった。
「どうしてそんなに短いの」
ニコは呼吸を整えてから答えた。
「怖いから、短くする」
「逆じゃない?」
「怖い時に長く言うと、迷った方へ足が出る」
セシルが、すぐ隣へしゃがんだ。
「終点を選ぶ前には、何が見える?」
「白い場所」
「人が重なったら?」
「走らない」
「途中で入ったら?」
「曲がれない」
「鏡が刃を呑んだ時は?」
「進路は変わってない。刃だけ上へ抜けた」
セシルは質問のたびに少しずつ身を乗り出す。ニコの返事が短いので、距離ばかりが縮まっていく。
リナは二人の間へ鏡片を差し込んだ。
「首席。近い」
「鏡が?」
「顔が」
「聞こえる距離にいるだけよ」
「ニコの声、鐘より通るけど」
ニコがリナとセシルを順に見た。
「二人とも、近い」
リナは一歩下がった。なぜ自分まで下がるのか、納得はいかなかった。
*
学院の認定者が鐘の海へ降りてきた。
救助の成功と、進路を変えられなかった危険を同じ紙へ記す。ニコの答案を見て、静かに言った。
「進路光刃魔法。この仮説を固定すれば、光刃は毎回同じ条件で発動する。未知の逸脱は減る」
「別の走り方は?」とニコ。
「発動しなくなる」
「事故も減る」
「そうだ」
ニコは裂けた鐘と、助けた受験生を見た。
「考える」
認定者は明日の封印廊を指定した。
リナは何も言えなかった。止めれば、今日救えたことを軽く扱う。勧めれば、ニコが失う別の道を自分が決める。
セシルも黙っていた。
その沈黙だけは、リナより上手だった。




