誰も抜かない
巨人は、すでに跪いていた。
谷を埋める石の膝が地へ沈み、背から生えた横倒しの塔が、向こう岸まで一本の橋になっている。橋の窓には星海が流れ、胸郭の穴から朝のような光が差していた。
それは、十二の鼓動以内に届くはずの一景だった。
まだ、どこにも現れていない。
時は、リナが解環をかざす直前へ戻る。
現在の巨人は立っている。片手に塔を握り、もう片方の拳を振り上げていた。
現在の六人は、予行で選んだ場所にいた。
セシルだけは、リナが発動する前から巨人の胸へ上がっている。重力布を腰と右脚へ回し、左脚と杖で胸郭の斜面を支えていた。
リナの答案板は前腕帯へ固定されている。
「巨人が跪く。塔が橋になる。変えない」
一人ずつ返事が来る。
ニコ。「走る」
マヤ。「受ける」
イオ。「中へ入る」
ハル。「投げる」
セシルは胸郭から叫ぶ。
「帰る」
最後の返事を聞いてから、リナは解環を答案へかざした。
一行の光像が輪へ移る。
音が消えた。
どくん。
一つ目。
未来環境が現在へ重なった。
跪いた巨人と塔橋が、立っている巨人を透かして現れる。
半透明の六人は未来の位置にいる。ニコは膝外側。マヤは拳の下。イオは胸郭の中。ハルは投げ終えた手を開き、リナは谷の縁、セシルは胸の傷へ両手を当てている。
ニコが走る。
進路が巨大な光刃となり、巨人の膝鎧を外側から一直線に裂いた。未来痕の焦げた袖より半歩外。刃は味方を外れ、膝の白い傷へ届く。
巨人の脚が沈む。
だが、まだ跪かない。
二つ目。
巨人の拳がマヤへ落ちた。
石山ほどの拳を、マヤは両腕で受ける。
衝撃が身体へ沈み、青白いひびが全身を走った。彼女の周囲から地面が砕け始める。
「持った!」
次に触れる物は一つだけ。
塔脚は、未来環境の橋を挟んだ向こうにある。
三つ目。
イオが胸郭の裂け目へ入る。
「閉じる!」とセシル。
外から見える肋骨の輪が、巨人の動きで狭まっていく。
「まだ」
イオは内側を一周見る。背の塔と胸郭をつなぐ石の輪だけが、完全に閉じていない。
セシルの前に、浮骨鍵ほどの窪みがある。
未来痕では、そこへ胸郭遺物が噛み合っていた。
セシルは腰袋から白い眼蓋石を出す。
前腕の力で押すが、入らない。
窪みの傷が、未来と上下逆だった。
「反対」とリナが谷から叫ぶ。
「見えている」
セシルは答え、身体を向き直そうとする。
杖を置く。左脚を寄せる。右脚を引く。
三つ動作の二つ目で、巨人が揺れた。
支持具が石から滑る。
重力布が腰を支えたが、眼蓋石が手から落ちた。
「セシル!」
リナの左手が無意識に答案板へ伸びる。掴んだつもりで、縁を外した。
未来を変えれば、セシルが落ちない位置を選べるかもしれない。
変えないと答えた。
「落とした。未来は変えない!」
声にする。
四つ目。
ハルがまだ投げていない。
守護獣の小牙を掌に置き、巨人の膝と、落ちる眼蓋石を見比べている。
「牙を投げれば、石を拾えない」
「私を抜いて」とセシル。
重力布に吊られた身体が、胸郭の外へ傾く。
「誰も抜かない」
リナが叫ぶ。
「ハル、牙は膝へ。眼蓋石は――」
ニコは走り終えて曲がれない位置にいる。マヤは衝撃を抱え、何にも触れられない。イオは内側。リナは遠い。
セシル自身しかいない。
セシルは杖を手放した。
落ちた杖が眼蓋石へ当たり、窪みの縁で止める。
左手で重力布を掴み、右手を伸ばす。指先が石へ届く。
五つ目。
ハルが牙を投げる。
小牙は距離に応じて育ち、巨人の裂けた膝鎧へ向かう。握りすぎず、未来痕より一拍早く手を離していた。
牙は塔ほどの楔となり、膝へ食い込む。
巨人の脚が止まる。
六つ目。
セシルが眼蓋石を裏返し、窪みへ噛み合わせる。
胸郭と背の塔をつなぐ輪が閉じた。
「閉じた!」
イオの返事を待つ。
「反転する!」
乾いた音が、巨人の身体の内側で鳴った。
胸郭の内外が裏返る。
中にあった重い石冠が外へ露出し、巨人の重心が前へ移った。イオ自身は反転の中心へ残る。
七つ目。
巨人が前へ傾く。
拳を受け止めていたマヤの足元へ、未来環境の塔橋が実体を持って伸びている。
「塔脚まで、これを渡る!」
マヤは最初から立っていた砕石板ごと、未来の橋へ滑り込む。セシルが予行で残した重力布の裾が、石板の落下方向を塔へ向けていた。
漏れる衝撃で板が砕ける。
八つ目。
マヤの掌が、本物の塔脚へ届く。
「触る!」
「塔脚へ渡す。返事!」
「いい!」とニコ。
「境界の外!」とイオ。
「終点、塔脚!」とハル。
「帰路に誰もいない!」とセシル。
「渡して!」
最後にリナが返した。
巨人の拳の衝撃が、塔脚へ移る。
どおん。
横倒しの塔が巨人の背から折れ、谷へ傾いた。
九つ目。
未来の塔橋と、現在の塔が重なる。
巨人はまだ片膝を浮かせている。
楔の位置が浅い。
「ニコ!」とリナ。
「走り終えた。もう曲げられない」
「ハル!」
「手放した。もう大きくできない」
イオは胸郭の中心。マヤは衝撃を渡し終えた。セシルは胸へ吊られている。
残るのは、リナの未来ではない。
現在の身体だ。
リナは谷の縁にある巨人の折れた指へ足をかけた。前腕では掴めない。右腕と両脚で石指を押す。
「無理!」とマヤ。
「未来に、私もいた!」
「影は命令じゃない!」
「だから自分で選んでる!」
十。
折れた指が楔の端へ当たる。
ほんの少し、牙が深く入る。
巨人の膝が地へついた。
十一。
本物の巨人が跪く。
本物の塔が向こう岸へ落ち、橋になる。
答案に書いた景色が成立した。
十二の鼓動が鳴る前に、未来環境が静かに消える。
*
胸郭の穴から、イオがセシルを先に押し出した。
重力布が二人を塔橋へ降ろす。セシルは右脚をつけず、左膝と両手で着地した。
リナは駆け寄らない。駆け寄って腕を出せば、握る力を誤る。
「手、出していい?」
「右手なら」
リナは右手を差し出す。
セシルが掴む。
六人の後ろで、跪いた巨人は動かない。
橋になった塔も消えない。
学院が例外と呼ぶには、大きすぎる証拠が谷を渡っていた。




