傷は、答えじゃない
治療房の上で、雨が止まっていた。
落ちる途中の水滴が空いっぱいに浮かび、一粒ごとに昨日の未来痕を映している。左橋へ踏み出すセシル。右の穴へ書き換えるリナ。落ちる前と、落ちた後。
どの水滴にも、傷がつく瞬間だけは映らなかった。
未来痕は危険を示す。治療はしない。
リナは寝台で鉛筆を握った。
握ったつもりだった。
鉛筆は指の間から滑り、毛布へ落ちる。
「もう一度」
治療師が太い木軸を渡した。今度は両手で持つ。右の掌で左手の位置を確かめ、ゆっくり線を引く。
筆圧が強すぎて紙が破れた。
「痛くないのに」
「痛みと位置の感覚が同じ道を通らなくなっている」
「戻る?」
治療師は答える前に、発光する亀裂へ指を近づけた。触れない。
「傷は閉じる。感覚は戻らない。光も残る」
可能性という言葉に、リナはしがみつかなかった。
隣の区画で、杖が床を打つ。
一度。
長い間。
二度目。
セシルが仕切りの向こうから現れた。右脚は膝下から硬い支持具で包まれ、片手に白木の杖がある。
右脚も元のようには戻らない。支持具と杖があれば歩けるが、走ることと跳ぶことはできないと、治療師から告げられていた。
「歩いていいの?」
「三歩まで」
「そこ、五歩ある」
「仕切りから数えれば三歩」
「寝台から数えて」
セシルは言い返そうとして、右脚へ体重が乗った。顔から色が引く。
リナは立ち上がりかける。
「来ないで」
痛みを隠すためではない。リナが前腕を使えないことを見ている。
セシルは杖を一度前へ置き、左脚を寄せ、右脚を引く。方向を変えるだけで三つの動作が要る。
寝台へ腰を下ろした時、額に汗があった。
「三歩じゃない」
「訂正する。遠かった」
「首席が数え間違えた」
「笑っていいわ」
「いまは笑わない」
痛みを冗談にする代わりに、リナは落とした鉛筆を見せた。
「こっちも、距離が分からない」
セシルは拾おうとしなかった。杖を置けば立てないからだ。
二人とも、できないことを相手の前へ置いた。
*
学院の認定者が治療房へ来た。
封印廊でニコの正答を固定した人だった。
「二人へ、即時の正答封印を提案する」
リナは破れた紙を伏せた。
「事故の翌日に?」
「翌日だからだ。未来変更の範囲を一つへ固定すれば、同種事故の再発率は下がる。未決宮へ戻らない場合にも、日常での誤発動を防げる」
脅しではない。昨日の傷を見れば、合理的な提案だった。
「代わりに、別の未来は出なくなる」とセシル。
「そうだ。安全は、選択肢を減らして作ることがある」
「本人が比べ終える前でも?」
「比べている間に次の事故が起きれば、説明では戻せない」
リナの前腕が淡く光る。
「この傷が、私の答えを決めるんですか」
「決める材料にはなる」
セシルがリナを見る。
「傷は、答えじゃない」
静かな声だった。
「間違えた結果ではある。でも、次に何を選ぶかまで傷に決めさせないで」
認定者は怒らなかった。
「では、代わりに何を示す」
リナは太い鉛筆を両手で持ち直した。
「変えたら言う。返事を聞く。それで安全にできるところを見せます」
「実演できなければ、封印を再提案する」
「受けます」
セシルがすぐ答えた。
リナは横目で睨む。
「私の返事は?」
セシルが口を閉じた。
一拍待つ。
「受ける」とリナ。
「二人の返答を確認した」
認定者は、記憶砂漠での予備審問を指定した。




