言わなかった。待たなかった
巨鳥の胸郭に、二つの出口が重なって見えた。
左肋のあいだには、白い骨橋が谷へ伸びる。右の胸骨には、巨大な円い穴の淡い痕が浮かび、その向こうで逆さの塔が透けている。
リナが答案に書いたのは左だけだ。触れられる未来として現れるのも、左橋ひとつだけになる。
右の穴は、未決宮がまだ捨てていない非実体の候補として明滅している。
「左橋を本物にする」
リナは全員へ言った。
「変更しない?」とイオ。
「しない」
「返事」とハル。
一人ずつ答える。
最後にセシルが「いい」と言った。
リナが解環を答案へかざす。一行の光像が輪へ移った。
周囲の音が消えた。
どくん。
左の骨橋が実体化する。
半透明の六人が橋を渡っていた。未来痕のセシルは先頭で、白い眼蓋石を左肋の窪みへ差している。橋の終わりには全員の足跡がある。
「眼蓋石は私が置く」とセシル。
「置いたら返事して。私が橋を固定する」
「分かった」
二つ目。
ニコとマヤが先に渡る。イオ、ハルが続く。胸郭が羽ばたくたび、橋の白い縁が震えた。
セシルは眼蓋石を抱え、左肋へ向かう。
三つ目。
右の穴から、折れた骨翼が滑り込んだ。
ハルの足元へ落ちる。
「動かないで!」
リナが叫ぶ。
骨翼は橋を横から押し、ハルを谷側へ傾けた。左の未来を続ければ、橋は本物になる。だが、その前にハルが落ちる。
右の未来なら、胸骨の穴が広がり、骨翼は外へ抜ける。未来痕のハルも穴の内側に立っている。
変える。
そう言うべきだった。
四つ目。
リナは答案の一行を書き直した。
――右胸骨の穴が開き、骨翼が外へ抜けている。
左橋の白い縁が薄くなる。右の穴が実体を増す。
リナは「右へ変える」と言わなかった。
言えば、セシルは眼蓋石を置くのを止める。返事を待てば、ハルが滑る。
自分なら間に合わせられると思った。
同じ瞬間、セシルは未来痕の足跡へ踏み出した。
リナの返事を待たなかった。
眼蓋石を早く置けば橋が安定し、ハルも助かると思った。
五つ目。
左の骨橋が消えた。
セシルの右足だけが、もう橋の上にあった。
身体は未来痕の位置へ移らない。
支えを失った現在の身体が、そのまま落ちる。
「セシル!」
リナは左肋から身を投げ出した。
片手がセシルの手首へ届く。
右の穴が実体化し、骨翼が外へ抜ける。ハルは倒れたが、橋の内側へ残った。
六つ目。
セシルの身体が胸郭の一段下へ振られる。右脚が二本の肋骨の間へ入った。
巨鳥が羽ばたく。
肋骨が閉じる。
鈍い音がした。
セシルの息が止まる。
「脚、抜いて!」
「抜けない」
声が細い。
リナは手首を離さない。もう片方の腕を肋骨へ差し込み、閉じる骨を押し返した。
七つ目。
右の未来環境が崩れ始める。
リナの前腕は、崩れる未来の開口部と現在の肋骨の境に差し込まれていた。
そこへ白い光のひびが走った。骨に挟まれた皮膚の上を、細い亀裂が内側から照らす。
熱くはない。
痛みのあと、指の感覚が消えた。
セシルの手首を掴んでいるはずなのに、どこまで力を入れているか分からない。
「リナ、強すぎる」
セシルが痛みの中で言う。
「分からない!」
八つ目。
マヤが戻ってくる。
「肋骨の衝撃、私が受ける。触っていい?」
「いい!」
マヤが閉じる骨へ両手を当てる。圧力を身体へ引き受け、肋骨の動きを一瞬止めた。
「ニコ、右の骨だけ!」
「セシルの脚から外れる線を」
イオが位置を示す。ニコは返事を待ち、一直線の光刃で一本だけ切った。
九つ目。
ハルが小さな骨片を投げ、距離で支柱ほどに育てる。閉じる肋骨の間へ楔が入る。
セシルの脚が抜けた。
イオが胸郭の内側に立ち、閉じた空間の内外を反転する。六人は雲の上へ吐き出された。
十。
未来環境が完全に砕けた。
現在の巨鳥は谷の底へ沈み、右胸骨の穴も消える。
けれど傷は消えない。
リナの前腕には、暗闇でも分かる白い亀裂が残っている。
セシルは右脚を伸ばせない。
*
雲の上で、二人は隣り合って寝かされた。
リナは前腕を胸へ載せられたが、自分の腕の重さが分からなかった。
「私が変えた」
「ええ」
「言わなかった」
セシルは目を閉じたまま答える。
「私は、返事を待たなかった」
リナは唇を噛んだ。
「言わなかった。待たなかった」
規則は、それだけだった。
それだけで、二人の身体には戻らないものが残った。




