酒宴の出来事
それから程なくして年の瀬も迫る頃、館では主人の友人達を大勢招いて、盛大な忘年会が開催された。その当日は多忙を極め、まだ見習いの紗希も接客係として会場に出る事になった。
空いた食器類をひたすら片付け、厨房へと運ぶ。それが今日の紗希に課せられた仕事だった。
会場の喧噪の中、紗希は盆に積まれた食器を慎重に運んでいた。華麗な装飾が施されたテーブルの間を縫うように歩きながら、賓客たちの顔色を窺う。忘年会は盛況で、どのテーブルも満員だ。
突然、背後から大きな手が紗希の細い腰を掴んだ。
「ひゃっ!」
思わず声が出た。振り返ると、上気した顔の男性が不敵な笑みを浮かべている。
「可愛いメイドさんじゃないか。主人のご趣味かね?」
それは池田という名の主人の古くからの友人で、酒に酔うと、いつも無遠慮な態度で使用人を品評するのが常だった。紗希は咄嗟に体を引こうとしたが、男の腕力に阻まれた。
「あの、困ります……」
控えめな抗議も聞こえないふりで、男の手は大胆に紗希の太ももを撫で始めた。恐怖と屈辱で全身に鳥肌が立つ。
「こんな清楚な娘が一番美味いんだよなぁ。ほら、もっと近くにおいで」
紗希の中で何かが弾けた。あまりの恐怖に、反射的に池田を突き飛ばしてしまった。
「いやっ!離してください!」
男はよろめき、後ろのテーブルに倒れ込みながら食器を派手にひっくり返した。ガラスが割れる鋭い音と共に、周囲から驚きの声が上がる。
「この小娘が!」
怒りに燃えた男が持っていたステッキを振り上げた瞬間──鋭い影が疾風のように駆け抜けた。
ガッ!
鈍い衝撃音と共に、鮮血が大理石の床に飛び散った。全員の視線が一点に集まる。
「……っ!」
神崎は低く呻きながらも紗希を背後に庇い、身を挺してステッキの一撃を受けたのだ。彼の左のこめかみから血が滴り落ちている。
「神崎さん!」
紗希の悲鳴が甲高く響いた。
「おっと!?」
ステッキを振り下ろした池田本人も驚愕の表情を浮かべた。相手が自分の友人の執事であり、予期せぬ怪我人が出たことへの動揺が滲む。
「これは失礼した。つい興奮して手が滑りましたな」
神崎は血が流れるこめかみをものともせず背筋を伸ばし、深々と頭を下げた。
「当家のメイドがご迷惑をおかけしましたことを深くお詫び申し上げます」
「謝るならそこに立ってる小娘に言わせるべきだろう!? 私を突き飛ばした挙句……」
「紗希さん」神崎の低い声が室内に響いた。
「お客様に危害を加える行為は許されません。覚えておきなさい」
「……はい」
青ざめた顔の紗希が小刻みに震えているのが見えた。神崎は彼女の両肩にそっと手を置き、静かに告げた。
「池田様に謝罪を」
紗希は涙声で叫んだ。
「……ごめんなさい……! つい怖くて……申し訳ありませんでした」
「あー」池田は鼻を鳴らした。「まあいい。この程度で済んだなら」
その時、騒ぎを聞いて駆けつけた屋敷の主である九条が現れると状況は一変した。壮年の紳士が険しい表情で近づき、神崎の肩に手を置いた。
「神崎……」
「旦那様……お騒がせ致しました」
神崎は片膝をつき最敬礼を取ろうとしたが、傷口から滴る血がさらに濃くなる。主人は厳しい口調で言った。
「その子を連れて一旦下がりなさい」
「しかしまだ業務が……」
「命令だ」
主の冷厳な声に神崎は黙って頷いた。
九条は池田の方に歩み寄り、頭を下げた。
「池田さん、我が家の使用人が大変失礼しました。このメイドには厳しくお仕置きをしておきますので、ご容赦ください」
九条は誰にも気付かれないほど小さな目配せを神崎に送り、神崎は小さく頷いた。
「ま、まあ、それなら」
池田が納得したのを見て、九条は安堵した。
「あちらのラウンジで飲み直しましょう。良いワインが手に入ったので是非。手練れの酌婦も呼んでありますので、お楽しみはそちらで」
「それは楽しみですな」
「では参りましょう。神崎、頃合いを見て追加のワインをラウンジに持って来るように」
「かしこまりました」
ラウンジへと向かう二人を見送り、神崎は恐怖と緊張で肩を震わせる紗希を優しく促した。
「私達も一旦下がりましょう」
神崎は近くにいた使用人に後片付けの指示を出し、会場を後にした。
「紗希さん、大丈夫ですか?怖い思いをさせてしまいましたね」
紗希は泣きながら、大きく首を横に振った。
「私のせいで、神崎さんっ…怪我を…ごめんなさいっ…ごめんなさい……」
泣きじゃくる紗希に神崎は優しく言った。
「たいした怪我ではありません。あなたの受けた屈辱に比べれば、これくらいどうという事はありません」
「で…でも…」
「残念ながら、酒の席ではよくある事です。ちゃんと注意喚起をすべきでした。」
辛そうに話す神崎に、紗希はなんと答えて良いかわからなかった。
「私はまた会場に戻りますので、あなたは洗い物の手伝いをして下さい。それでは」
「待って下さい!医務室で手当てを…」
「いえ、大丈夫です。医務室は今頃飲みすぎたお客様でいっぱいでしょうし、大事にしたくないので」
「そんな!?それならせめて私に手当てさせて下さい!そこの準備室に救急箱があるはずです」
「そんなに心配しなくても大丈夫ですから…」
「…お願いです…!!」
神崎の腕を両手でつかみ、泣きながら必死で訴える紗希に、神崎は狼狽した。どうしたものかと、何気なく違和感を覚えたこめかみに手をやると、生暖かい鮮血が手に着いた。
「…確かに、こんな見苦しい状態では人前に出られませんね。止血だけでも…」
「はい!行きましょう」
準備室に入るや否や、紗希は素早く動き出した。壁際の棚から救急箱を取り出すと、椅子に座るよう神崎に促した。躊躇いがちに腰掛ける神崎の傍らで紗希はテキパキと準備を進める。
「失礼します」
紗希は濡れた布で神崎のこめかみの血を拭い始めた。その手付きは意外なほど確実で無駄がない。
「手慣れてますね」
思わず神崎が漏らすと、紗希は少しだけ笑顔を見せた。
「弟が小さくてよく怪我をするので。手当ては慣れっこなんです」
「弟さんが?」
「七歳違いで。しょっちゅう転んだり、ちょっとした階段とかから落ちたりして……泣き虫で大変なんです」
紗希の目元に優しさが灯るのを見て、神崎はふと胸の内が温かくなるのを感じた。普段の彼女からは想像できない一面だ。
「なるほど。素晴らしいお姉さんですね」
消毒液が傷口に染みる痛みに神崎は小さく眉をひそめた。紗希の手が一瞬止まった。
「痛かったですか?」
「少しだけ…大丈夫です」
「ごめんなさい」
俯く紗希に神崎は穏やかに語りかけた。
「気にしないで下さい。むしろ感謝しています」
紗希は顔を上げると決意に満ちた瞳で神崎を見つめた。
「あの……先程は本当に申し訳ありませんでした。私のせいで……」
「いいえ」神崎の声は驚くほど柔らかかった。
「あなたが無事でよかった。それだけで充分です」
出血の割に傷口は小さく、ガーゼを当てテープで留め、手当てを終えた。紗希は緊張した面持ちで神崎を見上げた。
「これで大丈夫だと思います」
「ありがとうございます」
神崎が深々と頭を下げると、紗希は慌てたように両手を振った。
「私の方が……お礼を言うべきです。神崎さんが庇ってくれなかったら……」
「当然のことです。使用人を守るのも執事の仕事です。では、そろそろ…」
「あ、あの…!」
紗希は、仕事に戻ろうとする神崎をおずおずと呼び止めた。
「はい?」
「…あの…執務室には…いつ行けばいいですか…?」
「え?」
「…旦那様が、厳しくお仕置きを、と仰っていたから…」
「ああ、あれは…そのままの意味ではないのですが…」
不安げに見つめる紗希に、神崎は穏やかに告げた。
「そうですね。今日はもう時間が無いので、ここで済ませましょう。紗希さん、机に両手をついて下さい」
「はい」
紗希は、素直にスカートを上げ、机に両手をついた。初めてパドルで叩かれた時の姿勢である。
紗希は覚悟を決めた表情で机に両手をつき、腰を少し突き出した姿勢をとった。長いスカートは既にたくし上げられ、白いショーツが露わになっている。
神崎は革製のパドルを手に取った。それは通常よりも薄く軽いタイプで、痛みよりも衝撃を与えるためのものだ。だがその手には迷いがあった。
「紗希さん」
「はい」
紗希は緊張に震えながらも背筋を伸ばしている。
「これは形式的なものと理解してください」
そう言いながら神崎はパドルを振り上げた。空気を切る僅かな音とともに——
パシン
柔らかな衝撃が紗希のお尻を覆った。痛みを感じるどころか、パドルが皮膚に触れた感触さえ曖昧だった。一瞬遅れて神崎の手がスカートの裾を引き下ろし、紗希の下半身を隠した。
「これで終わりです」
「え?」紗希が思わず振り返る。
「あの……」
神崎は革パドルを静かに机の上に戻した。その表情には憂いと決意が交錯していた。
「今日のことは不問とします」
「で……でも!」紗希が訴えるように声を上げる。
「私のせいなのに……神崎さんは怪我までして……」
「確かに、あなたは重大な過失を犯しました。どんな理由があっても、万が一貴族に怪我でもさせてしまったら、解雇では済まされません」
神崎の声が厳しさを帯びる。
「状況を考慮すれば理解できますが、感情を抑える事が必要です」
紗希の目に再び涙が溢れそうになった。
「理不尽に感じるかもしれませんが、もう二度としないと約束して下さい」
「はい……約束します」
紗希の声は涙で掠れていたが、決意に満ちていた。
「では、私は戻ります」神崎が扉に向かう。
「……神崎さん…ありがとうございました」
準備室を出て行く神崎の背中を見送りながら、紗希は静かに涙を拭った。その胸の奥に宿ったのは今までとは少し違う、何か温かいものだった。
「しっかりしなきゃ」
自分自身に言い聞かせるように呟くと、紗希はゆっくりと立ち上がった。
数本のワインとグラスの並ぶワゴンを押しながら神崎がラウンジに足を踏み入れると、部屋の一角に残る数名の客が談笑している。主人・九条の姿を探すが見当たらない。
「神崎殿か」
重厚なソファに深く沈む初老の男が手を振った。
「こちらへどうぞ。池田君は先ほどお帰りになったよ」
神崎は静かに礼をすると、新たなワインボトルをグラスに注ぎ始めた。
「あの御仁は実に面白い。若いメイドを追いかけ回したり、酒に酔って暴れたり……まったく昔から変わらん」
「いやはや」別の紳士が笑みを浮かべる。「しかし君の対応は見事だった。あの巨漢からメイドを庇った勇気には感服したよ」
神崎は軽く頭を下げたが、傷跡のあるこめかみに視線が集まるのに気づいた。
「お怪我は平気かね?」
「はい。すでに手当て済みです」
「さすがだな」
髭を蓄えた大柄な男が豪快に笑った。
「使用人の盾となる執事か。この館の品格が分かるというものだ」
会話が弾む中、ラウンジの奥から九条が戻ってきた。
「皆様、楽しんでいますか」
主人の姿を見ると神崎は即座に恭しく挨拶した。
「旦那様。新たなワインを届けに参りました」
九条は神崎の側まで歩み寄ると、周囲に聞こえぬよう囁いた。
「助かった。上手くフォローしてくれたな」
神崎も小声で答える。「お役に立てて光栄です。池田様は?」
「彼の従者が迎えに来て連れて行った。相当酔ってたからな」九条は微笑む。
「ところで君の勇気ある行動は賞賛されてるぞ」
主人がグラスを掲げると一同がそれに倣った。
「では神崎くんに乾杯しよう」
突然の拍手に神崎は戸惑いながらも感謝の意を示した。九条は満足げに頷くと耳打ちした。
「君のような忠実な者がいてくれて幸運だ」
「勿体ないお言葉です」神崎は深く頭を下げた。
その後、神崎はしばらく談笑に加わりながらも、内心は波乱に満ちた一日を反芻していた。
紗希の怯えた表情が脳裏に焼きついている。そして自分でも意外なほど彼女に対する情が芽生え始めていることに気付き始めていた。
そして夜もふけ、客人達はそれぞれの従者と共に帰路に就いた。長い宴会の夜が終わり、神崎は九条の部屋へと向かった。
夜半過ぎ、神崎は主人の寝室に現れた。窓からは冬の月明かりが差し込んでいる。
「失礼致します」
部屋の中央に立ち尽くす九条の背中を見た瞬間、神崎は事情を察した。上質なシルクのガウンをシャツの上から羽織り、ジャケットが床に無造作に投げ捨てられている。
「ああ神崎君か」九条が振り返る。「今日は遅くなるから妻は先に休ませたんだ」
普段なら夫人が夜の支度をするはずだが、先に休ませ、主人自ら着替えようとしていたらしい。
「お召し替えのお手伝いをさせていただきます」
「うん、頼むよ」
神崎が丁寧にネクタイをほどき始めると、九条は懐かしそうに目を細めた。
「何年ぶりだろうな。君に着替えを手伝ってもらうのは」
「ご結婚されるまででしょうか」神崎の手は一切止まることなく動き続ける。
「そうだね」九条が笑った。
「あの頃は楽しかったな。身軽で自由で」
シャツのボタンを外しながら神崎は静かに答えた。
「ご家族が増えて、今はあの頃とは違う幸せを手にされています。私も、立場は変わっても、こうしてお仕えできて光栄です」
「堅苦しいな」九条が不満げに言う。
「子供の頃みたいにタメ口で話せばいいのに」
「それはできません」
ワイシャツを脱がせつつも神崎の口調は一貫して丁寧だ。
「まったく相変わらずだな」九条が嘆息する。
「昔はよく一緒に遊んだのに」
「そうですね。今も良い思い出です」
神崎は新しい寝間着を広げながら穏やかに続けた。
「君は本当につまらない奴だな」九条が冗談っぽく叱責する。「昔みたいに『孝一君』って呼んでほしいのに」
「申し訳ございません」神崎は淡々と答えながら寝間着を主人の肩にかける。
「現在の立場では、そのような非礼はできません」
「分かってるよ」九条が苦笑する。
「ただ懐かしくてね。あの頃の君はもっとかわいかったから」
神崎は最後のボタンを留め終えると一歩下がった。
「できました」
「うん、ありがとう」
「旦那様、私は今日の事のお詫びをしに参りました」
「え?どうして?あれはどう見ても、池田さんが悪いだろ?あの人は普段は温厚な紳士なのに、酒が入ると一変するから」
「いいえ、酒宴に不慣れな新人を配置した私の采配ミスが、一番の原因です」
「うーん、まあそういう考えもあるのか…」
「旦那様のお口添えのおかげで、池田様にお許しいただけましたが、あの場の責任は全て私にあります。申し訳ありませんでした」
納得しかねる表情の九条に、神崎は深々と頭を下げた。
「どのような処罰も甘んじて受ける所存です」
「…まったく君は頭が硬いな。とにかく頭を上げて。そうだなあ…お仕置きが必要なのかな…?」
「はい、では鞭を持って参ります」
「ば…!冗談だよ。大人の男を鞭で打つわけ無いだろ?うーん…」
しきりに九条は考え込んだが、良い考えが思いついたようである。
「…君の気持ちはわかった。采配ミスの処罰として…」
神崎は固唾を呑んで見つめている。
「今週末、2時間、いや1時間でもいいんだ。僕のチェスの相手をしてくれないかな?」
「え!?それは…」
神崎は驚きを隠せずに、言葉に詰まった。
「また昔みたいに、君とチェスがしたいんだ。超多忙な神崎執事を2時間も拘束するんだ。これは厳しい罰だと思うけど」
「…それは、罰などでは…」
「いいよね?怜司くん」
満面の笑みを浮かべる九条につられて、神崎の顔にも穏やかな笑みが浮かんだ。
「はい。喜んでお相手させていただきます。旦那様」
「そこは『孝一くん』だろ?」
「…そういうわけには…」
「わかってるよ」
九条は不満げではあるが、嬉しそうなのは一目瞭然である。
「それはそうと、あのメイドのお仕置きは…」
思い出したように九条が問いかける。
「先ほど済ませました。ごく軽く、1回だけです」
「うん、それでいい。君が僕の真意を汲んでくれて助かるよ」
「恐れ入ります。彼女はもう二度としないと約束してくれました」
「あの子には気の毒な事だったな」
「彼女も貴族にお仕えする者です。理不尽でも理解すると思います」
「それではお休みなさいませ」
「ああ」九条が頷く。「それと」
「はい?」
「今日の件……ありがとう」
九条の声が改まって真剣になった。
「僕の友人が済まなかった。君がいなければどうなっていたか…。女の子の顔に傷でもつけてしまったら、取り返しのつかないところだった。代わりに君が傷ついてしまったけど…」
「私は仕事をしただけです。お役に立てて光栄です」
神崎は深々と一礼した。




