執務室でのお仕置き
紗希が初めて鞭で打たれてから、一ヶ月が過ぎようとしていた。その頃には仕事にも慣れてきて、気が緩んだのか小さな粗相が続き、何度か鞭で打たれてしまっていた。
「紗希ちゃん、粗相が続くと、執務室に呼び出されちゃうんだよ。」
一緒に作業をしていた詩織が、心配そうに忠告する。
「忘れてたよ!今月に入ってもう4回だから、後1回で執務室行きになっちゃう…」
ひと月に5回の粗相で、自動的に執務室でお仕置きの決まりなのだった。
「絶対に失敗しないようにしないと…」
その日の午後、厨房の隅でグラスを磨いていた紗希は、ふと窓の外に広がる庭園のバラに目を奪われた。先月植えられたばかりの苗が、ようやく綺麗な蕾をつけている。その美しい緑と赤に見惚れていると、手元が疎かになってしまった。
「あっ!」
ガチャンという嫌な音が静かな厨房に響く。磨いていた透明なグラスが床に落ちて砕け散った。
「やっちゃった……」
血の気が引いていくのを感じた。床に膝をつき、慎重に破片を拾い集める。しかし心臓は激しく脈打ち、手が震えてうまくいかない。
(今月はもう4回も粗相をしてるのに……これで5回目。執務室行きが決定だ……)
背筋に冷たいものが走る。終礼で発表されるであろう自分の名前を想像すると、目の前が暗くなった。執務室でのお仕置き——噂に聞く厳しい懲罰のことを思い浮かべると、胃が締め付けられるような感覚に襲われた。
夕方の業務終了時刻になり、いつもどおりメイド達がホールに集められた。報告や連絡事項の伝達が終わり、全員の顔が神崎を見つめていた。今日のお仕置きの対象者が発表される前の微妙な沈黙。
神崎が手帳を手にしてゆっくりと読み上げる。
「本日のお仕置きは——」
彼の低い声が部屋に響く。紗希は息を呑んだ。もう分かっているのに、結果が出るまで鼓動が速くなるのを抑えられない。
「和美さん、洋子さん。前に出なさい」
「「はい…」」
二人の中堅メイドが、前に進み出た。
続いて神崎がページをめくる音が聞こえた。
「続いて……」
一瞬の間があった。
「……紗希さん」
紗希の名前が呼ばれた瞬間、周囲のメイドたちから小さな囁き声が漏れる。
「ああ……」「ついに……」
という声が聞こえてきた。
「紗希さんは本日で今月5回目の粗相となりました。よって規定に基づき終礼後、執務室でのお仕置きを行います。」
「はい……」
かすれた声で答えるのが精一杯だった。周囲からは同情と期待が入り混じった視線を感じる。執務室でのお仕置きは館内で最も厳しい罰とされており、誰もが避けるべきものだった。
「…は紅茶を……」
「……給仕の最中に……」
「…二人とも、壁に向かって……」
通常のお仕置きが滞りなく進行するが、不安と緊張のあまり、紗希の耳には何も入ってこなかった。
やがてビシッ!ビシッ!と2度の鞭の音が響き、お仕置きは終了した。
「これで今日の終礼を終わります。解散。紗希さんは10分後に執務室に来なさい」
「…はい…」
終礼後、詩織が心配そうに近づいてきた。
「紗希ちゃん……大丈夫?」
「詩織ちゃん!どうしよう……怖いよ…」
紗希は泣きそうになりながら、詩織にすがりついた。
「紗希ちゃん…気を強く持って!きっと初回からそんなにひどくしないと思うよ。私の時もそうだったし」
「そ、そうかな…」
「きっとそうだよ。とにかく、執務室では、どんなに怖くても神崎さんの指示に素直に従って、反省の態度を見せることだよ」
「…うん…」
「ほら、早く行かないと、遅れちゃうよ」
「…うん、行って来る……」
「紗希ちゃん、頑張って…」
詩織に励まされ、紗希はトボトボと執務室へと向かった。すぐに到着してしまったが、ドアの前で固まってしまう。
(怖いよ…でも、逃げられない。お仕置きはちゃんと受けなきゃ!)
紗希は覚悟を決めて、執務室のドアをノックした。
コン、コン
「…紗希です」
「入りなさい」
「…失礼します…」
恐る恐る執務室に入ると、神崎は執務机で事務仕事をしていたようだった。仕事の手を止め厳格な表情で、彼女を見据える。
「なぜここに呼ばれたか、わかっていますね」
「…はい。ひと月に5回粗相をしてしまいました」
執務室の重厚な空気が紗希の背筋を伸ばさせた。神崎の鋭い視線が彼女に突き刺さる。
「わかりました。では、ソファーにおかけなさい」
神崎は椅子から立ち上がると、紗希をソファーに案内した。普段は客を迎えるための上質なソファーだが、今の紗希にとっては居心地の悪いものに感じる。
神崎も向かい側のソファーに腰掛け、両手を組んだ。
「まず最初に説明させていただきます。当館のルールとして、ひと月に粗相を五回重ねたメイドは必ず執務室でお仕置きを受けることになっています。これは単なる罰ではなく、あなたが重大な過ちを犯す前に、再度認識を改めてもらう機会なのです」
紗希は俯いて聞いていた。
「今回あなたは五つの粗相をしましたが、それぞれは些細なものかもしれません。紅茶をこぼしたとか、花瓶を割ったとか……」
神崎はここで言葉を切った。
「しかし問題なのは、その『些細なミス』が短期間で五回も重なったということです。小さな過ちは油断を示します。そして油断は積もり積もって大きな事故や失態につながります」
紗希は黙って聞いていた。
「この館であなたが行うすべての仕事には、旦那様達の大切なおもてなしや生活がかかっています。一回の失敗で信頼を損なうことになってはなりません」
神崎は少し言葉を和らげた。
「今回のことは教訓として受け止めてください。しかし嘆く必要はありません。ミスを減らし、日々の仕事に集中することができれば十分に挽回できます」
紗希は顔を上げた。神崎の表情には怒りではなく、指導者としての真摯さが見えた。
「はい……」
「何か質問はありますか?」
「いいえ、ありません」
「では説教はここまでとしましょう」神崎が立ち上がった。
「お仕置きの時間です」
紗希の心臓が早鐘を打ち始めた。今まで受けたパドルや鞭打ちとは違う特別なものが待ち受けている予感がした。
「紗希さん、あなたには重要な教訓を得てもらわなければなりません。今後の働きぶりを正しく導くために……」
神崎の声が執務室に響いた。紗希はこれから何が始まるのかわからないまま、次の言葉を待っていた。
「まずあなたには反省文を書いていただく必要があります」神崎は机に歩み寄ると一枚の用紙を取り出した。
「この用紙に、あなたの今日までの行動と反省点を書き留めてください。30分以内に」
紗希は差し出されたペンと用紙を受け取った。こんな形の懲罰があるとは思わなかった。確かに、書くことで自分の過ちを改めて考え直せるかもしれない。
「書き終わったら声をかけてください。私は一旦仕事に戻ります」
神崎はそう言うと、元いた執務机に戻り、事務仕事を再開した。応接ソファには紗希ひとりが残された。
室内は静まり返り、神崎が書類に何かを書きつける音だけが響き渡る。
つい2ヶ月程前に採用面接を受けた同じ場所で、今度はお仕置きを受けようとしている。あの時の希望に満ち溢れた緊張感と、今の状況を比べると、複雑な心境になる。
紗希はテーブルに向かい、ペンを持つ。頭の中では様々な思いが渦巻いていた。お仕置きに対する恐怖、自分の過ちへの後悔、そして未来への不安……
(これを乗り越えなければ……)
紗希は深く息を吸い込むと、一文字ずつ丁寧に書き始めた。自分のミス一つ一つを思い出し、その原因を考える。これまで気づかなかった自分の弱点や油断が次々と浮かび上がってきた。
静かな室内で、神崎の存在を感じながら内省を続けていると、不思議と気持ちが落ち着いてきた。
30分後—
「あの…できました」
紗希はようやく書き終えた用紙を、執務机にいる神崎に提出した。
神崎は用紙を取り上げて目を通し始めた。紗希は緊張しながら彼の表情の変化を見守った。
(お願いだから満足してください……)
しばらくの沈黙の後—
「悪くないですね」神崎は淡々と言った。
「反省の気持ちや、原因と対策が具体的に良く書けています。ただ…誤字、脱字が目立ちます」
神崎は赤いペンを取り出して、添削を始めた。
「この3箇所の漢字、正しくはこうで…こちらは送り仮名が違っていますね」
「あっ!す、すみません…」
(神崎さんって学校の先生みたい)
紗希は、これから執行されるお仕置きの事を一時忘れて、少しだけほのぼのとした気持ちになった。執事とメイドではなく、教師と生徒だったらどんな感じだろう、などと妄想してしまう。
「内容的には問題無いので、良しとしましょう。」
紗希は現実に引き戻された。
「では次に移りましょう」
紗希の心臓が再び高鳴り始める。説教は終わったが、本当のお仕置きはこれからなのだ。
「ここでのお仕置きの具体的な説明をします。」
「まず最初に……」神崎は淡々と語り始めた。
「執務室でのお仕置きは通常のホールでのそれとは異なります。より厳格かつ教育的な目的を持っているのです」
紗希はごくりと唾を飲み込んだ。
「ここでのお仕置きでは、あなたは私の膝の上にうつ伏せになる必要があります」
神崎は自分の膝を軽く叩いて示した。
「え……?」
紗希の顔が見る見るうちに赤くなっていく。噂には聞いていたが、現実だったのだ。
執務室でお仕置きという時点で既に十分衝撃的なのに、まさか本当に、男性である神崎の膝の上で罰を受けるなんて信じたくなかったのだ。
「驚くのも無理はありません。しかしこれは、貴族の館では必ず行われている伝統的な懲罰方法なのです」神崎は続けて説明する。
「その姿勢を保ちながら受けることで、より深刻な反省を促す効果があります」
「は……はい……」
「そして服の上からではなく」神崎は少し躊躇うように続けた。
「スカートを上げて下着を下ろし、むき出しのお尻を直接平手で叩きます」
紗希は恥ずかしさのあまり顔を覆いたくなった。男性の前でそんな姿勢になるだけで耐え難いのに、さらに下着まで下ろすなんて—
「多少声を上げるのは構いません。感情を抑圧するのは得策ではありません。ですが必要以上に体を動かしてはいけない。これはあなた自身への課題です」
「…はい…」
「痛みから逃げたいという本能に抗うことこそが」神崎は真剣な眼差しで説明する。
「自己コントロール能力を養う訓練となります。また、あなたがどれだけ真剣に罰を受け入れているかという指標にもなります」
「は…はい……」
「準備はいいですか?」
紗希は深呼吸して震える声で答えた。
「……はい……」
神崎は立ち上がり、隅に置いてある椅子を部屋の広い場所へと移動させ、腰を下ろした。
「では始めましょう。こちらへ来てください」
紗希はゆっくりと神崎の方へ歩み寄った。今から起こることが信じられなかった。これまでの人生で経験したことのないことばかりだ。
「膝の上に乗りなさい」
神崎は自分の右膝を軽く叩いて促した。紗希は恐る恐る近づき、彼の膝を目の前に立ちつくした。
「うつ伏せになるんですよ」
紗希の顔が一気に赤くなった。男性の膝の上でうつ伏せになるなど、とても恥ずかしい行為だったが、これが決まりならば従うしかない。
「は……はい……」
紗希は、ためらいながらゆっくりと上半身を傾け、神崎の膝の上にうつ伏せた。
「もう少し前方に移動して、私の膝にお腹が乗る位置で…体重はかけてしまって構いません」
指示に従い体を前方にずらすと、お尻を叩かれるのに最適な姿勢になった。長身の神崎の膝に乗る小柄な紗希は、まるでお尻ペンペンを受ける子供のようにも見えなくはない。
神崎の引き締まった膝の硬さと温かさを同時に感じ、紗希はなんとも言えない気持ちになっていた。圧倒的な恥ずかしさと痛みへの恐怖と共に、初めて触れる大人の男性の身体の感触と温かさ。
紗希は混乱し、激しく動揺を感じていた。
「スカートを自分で持ち上げなさい。そして下着を膝まで下ろしてください」
紗希の手が震えた。それでも従わなければならないとわかっていた。恥ずかしさで涙が出そうになるが、必死に堪える。
「早くしなさい」
神崎の声が急かす。紗希は目を閉じて意を決したようにスカートを持ち上げた。白い下着が露出する。ここまでは、今までのお仕置きで経験済みである。しかし、下着を下ろすという行為はどうしてもためらわれた。
奥手でボーイフレンドすらいなかった紗希にとって、男性の前でお尻を出すなど、途方も無く恥ずかしい行為である。
震える両手を下着にかけたまま、紗希はそれを動かせずにいた。
「紗希さん!」
少し語気を強めた神崎の声に、紗希は覚悟を決め、ゆっくりと下着を太腿まで下ろした。
「そうです。それで良い」
紗希の顔は真っ赤だった。全身が燃えるように熱い。羞恥心で今すぐ逃げ出したかったが、体は動かない。
普段は隠されていて、誰の目にも触れる事の無いお尻が、白日の下にさらされて、間近で男性に見られる状態にある。
紗希はあまりの恥ずかしさに、頭がどうにかなりそうになる。
「これがお仕置きの基本姿勢です。よく覚えておきなさい」
「…はい……」
紗希は消え入りそうな小さな声で頷いた。もうこの恥辱に耐えるしかない。
「最初はゆっくり始めます」
神崎はそう言って右手を高く掲げた。その動きだけで紗希の体が緊張する。
「一回目」
バチン!という音と共に鋭い痛みが紗希のお尻を襲った。
「あぁっ!」
思わず声が漏れてしまう。だがそれ以上に姿勢を崩さないよう必死に耐える。
「二回目」
バシッ!
今度は右側。
「うっ……!」
紗希は歯を食いしばった。痛みは予想以上だった。
「三回目」
バチン!
左側。
「くぅっ……!」
徐々にペースが上がっていった。
バチン!バチン!バチン!
「うぅっ!あぁっ!痛っ!」
痛みの波が次々と襲ってくる。紗希は声を抑えようとするが不可能だった。
「七回目」
バシッ!
「ぐっ……!」
痛みに耐えつつも紗希はなんとか姿勢を維持していた。神崎の掌は容赦なく紗希の柔らかなお尻を打ち付ける。
「八回目」
バシッ!
「ああっ!」
痛みは蓄積していく。肌が熱くなり、赤く染まっていくのが自分でも分かる。七回、八回と数が増えるにつれて痛みは強まるばかり。
「九回目」
バシッ!
「うああっ!」
紗希は堪らず首を振った。涙が目に溢れてくる。九回目でついに限界が来た。
「十回目」
バシッ!
「痛いぃ!」
紗希は耐えきれずに、反射的に上体を起こそうとする。
「紗希さん!姿勢を崩さないように言ったはずです!」神崎の声が厳しく響く。
「だって…!痛すぎて…!」紗希は泣きじゃくりながら言い訳した。
「お仕置きから逃げることは許されません。姿勢を戻しなさい」
「もう無理です!痛いぃ…!」
紗希は完全にパニックに陥り、神崎の膝の上から逃れようと暴れ始めた。脚をバタつかせ、肩で彼を押そうとする。
「紗希さん!静かに!」
神崎の腕が伸びて紗希の肩をしっかりと押さえる。
「離してください!お願いです!もう無理…!」
紗希は神崎の手を振りほどこうと全力で抵抗する。
「聞き分けなさい!これは必要なことです!」
「嫌あっ…!」
紗希はとうとう力尽きて床に崩れ落ちた。神崎の膝から離れることに成功する。そのまま床に座り込み、両手でお尻を押さえながら泣きじゃくる。
「もう…許して下さい…」紗希は嗚咽しながら訴えた。
「私が悪いのはわかってます!でも……でも……こんなに痛いなんて!耐えられません…」
神崎は溜め息をついて立ち上がる。床に座り込んで泣いている紗希を見下ろす。
「紗希さん……」
「…もう……」紗希はしゃくり上げながら呟いた。「もうこれ以上無理です……」
紗希の顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっていた。制服も乱れ、膝に引っかかった下着が露わになっている。プライドも尊厳もすべて失われたように見える。
神崎はゆっくりと紗希の前で膝をつき、その顔を見つめた。
「紗希さん、聞いて下さい。確かにこれは辛い試練です。しかし必要なことです」
「……どうして…ですか……」紗希は涙に濡れた瞳で神崎を見上げた。
神崎は真剣な表情で答えた。
「貴方が私たちにとって大切だからです」
「……大切……?」
「はい。ここで働く仲間として、貴方は貴族の方々のお世話をするという責任を担っています。小さなミスが命に関わるような重大事態に発展することもあるのです」
神崎は紗希の肩に手を置いた。
「貴方の成長を願うからこそ、時に厳しく接する必要があるのです」
紗希は神崎の言葉に胸が締め付けられた。確かにこの館では些細なミスが重大な結果を招く可能性がある。
自分が未熟であることも自覚していた。しかし、このような罰を与えられるのは耐えられなかった。
「でも……でも……」紗希はまだ納得できない様子で呟いた。
「他の罰にすることは……こんな恥ずかしい姿勢で……しかも……」
神崎は穏やかながらも毅然とした口調で言った。
「他に代わりとなる懲罰は存在しません。これは伝統であり、必要な通過儀礼なのです」
「……」
紗希は沈黙した。その言葉には揺るぎない確信があった。
「どうしますか?今からでも再開しますか?」神崎は選択権を与えるように尋ねた。
紗希は俯いたまま考え込んだ。恥ずかしさと痛みへの恐怖はあるものの、いつまでも駄々をこねるわけにもいかない。
この館のメイドにはお尻叩きのお仕置きがある、それを納得の上で働く事を決めたのは自分なのだ。
「……わかりました……」紗希は決意を固めたように顔を上げた。
「最後まで受けます」
神崎は満足そうに頷いた。
「良い選択です」
再び膝の上に戻ると、紗希は先ほどよりも緊張していた。一度逃げ出してしまった分、余計に恥ずかしさが増している。
再びスカートが上げられ、少し赤くなっているお尻がさらけ出される。
「では始めます」
神崎は宣言すると、右手を高く上げた。
バチンッ!
「いっ!」
鋭い痛みが走る。しかし今度は紗希の体は動かなかった。
「よく耐えました」神崎は褒めるように言った。
「次です」
バチンッ!
「んっ!」
今度は反対側。
「三回目」
バチンッ!
「うっ!」
少しずつ慣れていくような錯覚に囚われる。だが痛みは容赦なく続く。
バチンッ!バチンッ!バチンッ!バチンッ!
「あぁっ!ううっ!いっ!痛いぃ!」
「紗希さん!姿勢を維持してください!」
紗希は何とか持ちこたえていたが、十を超える頃には限界が近づいていた。痛みの蓄積で打たれるたびにお尻に激痛が走る。
「あぁっ!……ごめんなさいっ……もう……」
紗希は涙を流しながら泣き叫んだが、神崎の膝にしがみついて必死に姿勢を保ち続ける。
バチンッ!バチンッ!バチンッ!バチンッ!
二十回目の打撃を受けたとき—
「うわあああん!痛あい!!!!」
ついに限界を超えた。紗希は大声で泣き叫んだ。神崎の膝の上で体を縮ませるが、辛うじて逃げ出さないでいる。涙が床にぽたぽたと落ちる。
「よし……」神崎は打つ手を止めた。
「これで終わりです」
紗希は嗚咽しながら神崎の膝から滑り落ちるように降りた。床に座り込み、お尻を押さえながら号泣している。色白の紗希のお尻は今や真っ赤に腫れ上がり、お仕置きの厳しさをありありと物語っている。
「痛い……痛いよぉ……」
「頑張りましたね」
神崎は安堵の表情で紗希を見つめた。
「最後まで逃げ出さず、よく耐えました」
紗希は泣きじゃくりながら顔を上げた。鼻水と涙で顔はぐしゃぐしゃだ。
「ううっ……ひっく………」
紗希はなおも泣きじゃくり、泣き止む事ができずにいた。
すると神崎はポケットからハンカチを取り出し、紗希に差し出した。
「使いなさい」
「…え、でも…汚してしまうから…自分のが…あれ?無い…」
紗希は自らのポケットを探すが、ハンカチを忘れたようだ。
「…いいから」
神崎はハンカチを紗希の手に押し付けた。
「あ、ありがとうございます…」
紗希はおずおずと受け取り、涙を拭った。
「さて」神崎は立って紗希を見下ろしながら言った。
「今日のお仕置きはこれで終わりです。落ち着いたら、服装を整えて部屋に戻りなさい」
神崎は手早く椅子を片付け、執務机へと戻った。
「…はい…」
紗希は再び涙ぐんだ。今日一日でどれだけ泣いたか分からない。
紗希は下着を上げ、ゆっくりと立ち上がった。まだお尻がズキズキと痛む。だが不思議と清々しい気持ちもあった。
「失礼します……」
紗希は一礼して執務室を後にした。
執務室を出た紗希は、よろよろと壁に手をついた。お尻がズキズキと痛む。ゆっくりと階段を下りて廊下を進むと、突き当りの曲がり角に見覚えのある人影が見えた。
「詩織……ちゃん……」
詩織が柱の陰からそっと現れた。彼女の顔には明らかな心配の色が浮かんでいる。
「紗希ちゃん!」
詩織は駆け寄ってきて、紗希の肩を支えた。
「大丈夫?ずいぶん時間かかったね……」
紗希の目から再び涙があふれ出した。張り詰めていた緊張の糸が切れたのか、抑えていた感情が一気に噴き出した。
「ううっ……ひっく……怖かった……痛かった……うわぁーん!」
紗希は詩織にしがみつき、子どものように泣きじゃくった。詩織は紗希の背中を優しくさすりながら耳元で囁いた。
「よく頑張ったね。もう大丈夫だよ」
長いことそうして慰められた後、ようやく紗希の泣き声は小さくなった。
「歩けそう?部屋に戻ろう?」
紗希は弱々しく頷いた。二人はゆっくりと廊下を進んだ。詩織は紗希が歩きやすいよう気遣ってくれる。階段を降りる時は詩織の肩につかまりながら慎重に降りた。
二人の部屋に着くと、紗希はベッドに倒れ込んだ。詩織が照明をつけ、カーテンを閉める。
「今、何か冷やすものを持ってくるから」
詩織がキッチンに向かい、しばらくして戻ってきた時にはタオルに包まれた氷嚢を持っていた。
「お尻を見せてくれる?冷やしたほうがいいよ」
紗希は恥ずかしそうに頷き、ゆっくりとうつ伏せになった。詩織が優しくスカートをめくり上げると、紗希の真っ赤に腫れ上がったお尻が現れた。
「わぁ……痛そう……」
詩織はそっと氷嚢をお尻に当てた。
「あっ!冷たっ!」
「我慢して。炎症を抑えないと」
紗希は冷たさと痛みで身じろぎしたが、詩織に制されてじっとした。詩織は紗希の腫れた部分に丁寧に氷嚢を当てていく。
「どう?少し楽になってきた?」
「うん……冷たくて気持ちいいかも……」
紗希の呼吸が少しずつ整ってきた。
「今日はずいぶん大変だったみたいだね。執務室に入った時は緊張したでしょう?」
詩織の問いかけに、紗希はまた涙ぐんだ。
「うん……神崎さんのお仕置き……想像以上だった。ほんとに怖くて……でも途中で逃げちゃって……また最初から……ううっ……」
「最初からやり直したの?」詩織が驚いた様子で聞き返す。
「うん……『姿勢を正しなさい』って言われても痛くてできなくて……結局逃げ出しちゃった……でも神崎さんが教えてくれて……私たちのために必要な罰だって……」
詩織は理解したように頷いた。
「でも私は取り乱して逃げ出しちゃって……それでも神崎さんは最後までしてくれた。こんな恥ずかしい格好や痛みに耐えるのも、訓練なんだって……」
「叩かれたのは平手でだけ?」
「うん、そうだよ」
紗希の言葉に詩織はホッとしたように微笑んだ。
「神崎さん、やっぱり最初だから大目に見てくれたんだね。姿勢を崩してお仕置きから逃げようなんてしたら、反省していないとみなされて、鞭やパドルが追加されるんだよ」
紗希は詩織の言葉にぞっとして顔を青ざめた。
「そ、そんな……私なら死んじゃうよ……」
詩織は紗希のお尻に氷嚢を当てながら言った。
「うん…平手の後に鞭で打たれた子は、次の日、椅子に座るのも辛そうだったよ。紗希ちゃんは本当にラッキーだったよ。初めてのお仕置きで逃げ出したけど平手のみで許してもらったんだから。」
「そ、そうなのかな…」
(あんなに痛かったのに、まだ軽めだったなんて…)
「でも、今日は初めてなのに三十回も叩かれたんでしょ。普通はもっと少ないよ。きっと神崎さんは紗希ちゃんに期待してるんだよ。これからどんどん上達して欲しいと思ってるんだよ」
詩織は氷嚢を当て換えながら続けた。
「紗希ちゃんは偉いよ。ちゃんと最後まで受けたもの」
紗希はお尻に冷たい感覚を受けながら目を閉じた。
「私なんかまだまだだよ……何も出来なくて迷惑ばっかりかけて……」
「そんなことないよ。一生懸命頑張ってるの見てるよ」
詩織の言葉に紗希はまた涙が溢れてきた。
「ありがとう……詩織ちゃん……」
詩織は紗希の髪を優しく撫でた。
その時、
コンコン
二人の部屋にノックの音が響いた。
「紗希ちゃん、入るわよ」
返事をする前に、白衣姿の女性が、ドアを開けて入ってきた。
「美奈子先生!」
美奈子は医務室の主で、使用人の健康管理を一手に引き受けていて、メイド達から絶大な信頼を受けている。
「こんばんは」
美奈子は紗希と詩織を見て微笑んだ。紗希がベッドに横たわっている様子を見て察したようだった。
「神崎さんから聞いたわよ。お仕置きを初めて受けたんですって?」
美奈子の優しい声に紗希は緊張したが、何とか頷いた。
「はい……」
「大丈夫?痛みがひどいんじゃない?」
美奈子は医者の眼差しで紗希の様子を観察する。
詩織が慌てて立ち上がった。
「あの、先生、今は氷嚢で冷やしてるんです。」
「まあ、素敵な心遣いね。新入りの子の面倒をちゃんとみて、偉いわ」
美奈子は労うように微笑みながら、詩織の頭をなでた。
「そ、そんな…私も先輩にやってもらってたから…」
詩織は恥ずかしそうにはにかんだ。
「適切な応急処置よ。熱が引くまでは冷やしておくといいわ」
美奈子は鞄から聴診器や道具を取り出した。紗希は不安そうに見つめている。
「ちょっと診せてもらえる?」
美奈子は優しく声をかける。
「安心して。私はみんなの味方よ。ここで働くみんなの、怪我や病気を治療するのが私の仕事」
紗希は恐る恐る頷いた。美奈子は素早く診察を行いながら言う。
「お仕置きの後はね、特に初めての時は炎症を起こしやすいの。正しい処置をすれば早く治るわ」
美奈子は紗希のお尻をチェックした後、薬瓶を取り出した。
「特別な軟膏があるの。炎症を抑えながら血行を促進してくれるものよ。これを塗れば明日にはかなり良くなってるはず」
詩織は興味深そうに見守っている。
「すご~い!そういうのもあるんですね」
「もちろん」美奈子は笑った。
「この館では時々こういう時のケアが必要だからね」
美奈子は紗希に向かって言った。
「このお仕置きのあとに使う特製軟膏で処置しましょうね」
紗希は目を丸くして美奈子を見つめた。
「わざわざ作ってくださったんですか?」
「そうよ」美奈子は優しく笑った。
「みんなの大切なお尻ですからね。健康を保つのを助けないと」
詩織は呆れた様子で肩をすくめた。
「もう、先生ったら」
「それにしても」美奈子は軟膏を手に取ると微笑んだ。
「紗希ちゃんは本当に良く耐えたわね。初めてであんなに辛い思いをして」
紗希は顔を赤らめながら小さく頷いた。
「ええ……とても痛かったです」
「でしょうね」美奈子は同情的に言った。
「私も昔は同じように痛い目に遭ったわ」
詩織は興味津々で美奈子を見つめた。
「美奈子先生もメイドだったことがあるんですか?」
「そうよ」美奈子は懐かしそうに笑った。
「学生の頃に短期のアルバイトとしてね。今から二十年近く前になるかしら」
美奈子は紗希のお尻に優しく軟膏を塗り始めた。
「当時の執事の田所さんのことは今でも忘れられないわ。本当に厳しい人でね」
美奈子は懐かしそうに話を続けた。
「決して悪い人じゃないんだけど、伝統的な職務に忠実なのね。田所さんは常に鞭を持ち歩いていてね、粗相があると、その場で何度も打たれたものよ」
「ええっ!その場で!?」
「何度も…」
紗希と詩織は絶句した。
「執務室でのお仕置きもしょっちゅうあって、メイドはいつもお尻を真っ赤にしていたわ」
「それに比べれば、神崎さんは優しいのかも…」
「そうだよね。鞭は一回だけだし」
二人は少しほっとしたように頷いた。
「メイド達は常に緊張状態だったけど、貴族のお屋敷はどこもそうだったのよ。伝統的な躾として、お客様の前でお仕置きされる事もあったのよ」
「信じられない!!」
「あり得ないよ…」
「そうよね…そういうあまりにも理不尽なやり方は、神崎さんが執事になってから旦那様と交渉して、少しずつ変えていったのよ。医務室ができたのも、神崎さんの尽力ね」
「そうだったんだ…神崎さんが私達の執事で、本当に良かったね!」
「うん!」
「まあ、二人とも…!」
美奈子はおかしそうに微笑んだ。
「あ、もうこんな時間。二人とも夕食はまだなんでしょ?」
「そういえば…お仕置きが終わってほっとしたらお腹が空いてきました」
「私も」
「もう大丈夫だと思うけど、薬を置いていくから、一応寝る前に塗ってね」
「はい。だいぶ楽になりました。美奈子先生、ありがとうございました。」
「いいのよ。さ、ご飯に行きましょう。早くしないと食堂が閉まっちゃうわ」
3人は連れ立って使用人食堂へ向かった。すっかり元気を取り戻し、楽しそうに談笑しながら完食する紗希を見て美奈子は安堵した。
(この子はもう大丈夫ね。後は…)
「私は先に戻るわね。紗希ちゃん、何かあったらいつでも医務室に来てね」
「はい。ありがとうございました」
食堂を後にした美奈子は、足早に神崎の執務室へと向かいながら、神崎とのやり取りを思い出した。
1時間程前、美奈子の医務室の内線電話が鳴り響いた。
「はい、医務室です」
「…あの…神崎です…」
「あら、神崎君、何かあったの?」
「……雨宮紗希のお仕置きをしました…彼女のケアを…」
絞り出すような苦悩に満ちた声に、美奈子は全てを理解した。
「わかりました。すぐに行ってきます」
「…よろしくお願いします…」
(…まったく…ケアが必要なのは…)
美奈子は神崎の執務室へ到着し、ドアをノックする。
「…どうぞ」
力ない返事と同時に、ドアを開けると憔悴した様子の神崎が顔を上げた。
「神崎君…」
「仲野先生。お手数をおかけしました。どうぞ、こちらへ」
美奈子を応接ソファへと案内した。
「…紗希さんの様子はどうでしたか?」
「ええ」美奈子は優しく微笑んだ。
「紗希ちゃんは同室の詩織さんにしっかり世話されていたわ。私が行くとすでに氷嚢での応急処置を行っていたのよ。優しい子ね」
「そうですか」神崎はわずかにほっとした様子を見せた。
「私からも特製の軟膏を塗っておいたわ。炎症を抑える成分と血行を促進する成分が含まれていて、痛みの緩和に役立つはずよ」
「それは助かります」神崎は心底安心したように息を吐いた。
「やはり専門家に見てもらうべきでしたね」
美奈子は更に続けた。
「それから三人で少し雑談したのですが、紗希ちゃんの顔色も良くなってきて、食欲も戻ったようです。先ほど食堂でしっかりと夕食をとることができていたわ」
「……精神的にも安定していますか?」
美奈子は首を縦に振った。
「ええ。初日のお仕置きとしては想定内の反応です。むしろよく耐えたと思うわ。彼女は強い子ね」
神崎は目を伏せたまま安堵の表情を浮かべた。彼の指が微かに震えているのに美奈子は気づいた。
「ですが……神崎君」美奈子は静かに切り出した。「初めての新人に対して二度も……しかも合計三十回というのは些か……」
「わかっています」神崎は言葉を遮った。
「私も反省しています。しかし執事として館の規律を守る責任があります。中途半端では意味がないのです」
「…そうね…」
(神崎君…あなたは本当に不器用ね…)
「紗希ちゃんは納得してたわ。むしろ一度逃げ出したのに、鞭で打たれなくて良かったって。」
「それは…あの子は取り乱していたので、鞭は危険と判断しただけです」
(やっぱりあなたは優しいわ…)
美奈子は優しく諭すように言った。
「あなたの誠実さは理解しているわ。紗希ちゃんはまだ十六歳。身体も心も成長過程にある子よ。今日の事をきっかけに、きっともっと成長するわ……」
「そうだと良いのですが…」
「それはそうと神崎君。私はあなたの心と身体が心配です」
「…え?私が何か?何の問題も…」
神崎の肩が僅かに揺れた。
「私の仕事は、この館の使用人の心身の健康を守る事。その中には神崎君、あなたも含まれているのよ」
「……ありがとうございます」神崎は弱々しく微笑んだ。
「お気遣い感謝します。でも、私は大丈夫です。心身共に健康…」
「ならどうして、あなたはそんなに辛そうな顔をしているの?罪悪感や葛藤を感じて、悩んでいるんじゃ…?」
「……!」
美奈子からの思いがけない指摘に、神崎は言葉を失った。神崎の答えを待ち、じっと目を見る美奈子に耐えられず、神崎は小さくため息をついた。
「…あなたには何でもお見通しなんですね。…今まで大勢お仕置きしてきて何を今更、と思われるでしょうが…確かに、私は今、あの子に対して罪悪感を抱いています」
「でも、それは…」
「ええ、これは仕事です。必要な事だというのは、執事になると決めた時にちゃんと理解して、納得しているのです」
神崎の独白を美奈子は黙って聴いた。
「それでも…女の子をあんなひどい目にあわせて、一生消えない心の傷を負わせたんじゃないかと、自己嫌悪に陥るのが止められないんです」
「…神崎君…」
「…特に、今日のあの子はかなり取り乱して、あんなに泣いて…何年経っても、慣れないもので、情けないですね」
「そんな事無いわ」
美奈子は力強く言った。
「あなたほど真剣に仕事に向き合う人を、私は見たことが無いわ。そして同時に、使用人達の幸せを思いやる優しい心を持ってる。だからこそ罪悪感を覚えるの。そんな風に一人で悩まないで」
神崎は困惑した表情で美奈子を見つめた。
「でも私には……執事としての責務が……」
「あなたは十分すぎるほどよくやっているわ」
美奈子は穏やかに微笑んだ。
「責務を果たしながらも相手を思いやれる。それがあなたの素晴らしいところよ」
神崎の目がわずかに潤んだ。
「私の若い頃と違って今の使用人制度は随分改善されたわ。特にあなたが執事になってからはね」
美奈子は思い出に浸るように付け加えた。
「田所さん時代と比べたら雲泥の差よ」
「……でも私は彼女に痛みを与えたことに変わりはありません」
美奈子は深いため息をついた。
「それが誤解なのよ。神崎君。あなたのお仕置きは違う。確かに痛みはあるけれど、それは単なる罰ではないわ。使用人たちを守り導くための訓練なんでしょう?」
神崎はゆっくりと頷いた。
「そう。貴族の使用人としての責任と誇りを持つためには必要なのです」
「そしてきちんとケアもする。紗希ちゃんはあなたの気持ちを理解していたわ。今日のお仕置きの後であってもね」
「本当ですか?」
美奈子は大きく頷いた。
「ええ、それにね。『私達の執事が神崎さんで良かった』と言ったわ」
「!!…まさか!」
「本当よ。詩織ちゃんも同意してたわ(田所さんに比べてだけど)」
「………」
「あなたが貸してあげたハンカチを握りしめて、確かに言ってたわ」
「!なぜ私の物だと!?」
「状況的に、あなたしかいないでしょう」
神崎の表情が柔らかくなった。長らく彼の肩に重くのしかかっていたものが少し軽くなったような表情だった。
「……そうでしたか」
「あなたは使用人たちにとって最高の執事よ」
美奈子は彼の肩に優しく手を置いた。
「自分を責めすぎないで。胸を張りなさい」
神崎は微かに微笑んだ。
「ありがとうございます……仲野先生」
「それにね」美奈子は悪戯っぽく笑った。
「あなたも人の子。時には悩み苦しむのが当たり前よ。私はいつでも相談に乗るわ」
神崎は深く頭を下げた。
「心強いです。本当にありがとう」
「もう遅いから、私は帰るわね」
美奈子は立ち上がりながら振り返り、小さな包を手渡した。
「これ、私の夜食用にって、食堂からもらってきたの。あなたは、また夕食を抜くつもりだったでしょう」
「…どうしても食事をとる気になれなくて…」
「だめよ!お腹が空いてると、ろくな考えが浮かばないんだから。置いていくから、少しでも食べた方がいいわ」
「お気遣い、ありがとうございます。いただきます」
「それじゃ、もう戻るわね。お休みなさい」
「お休みなさい」
翌日、朝礼が終わると、紗希は神崎の執務室を訪れた。
「あの、今お話、大丈夫ですか?」
「はい、どうしましたか?」
恐らく、辞めたいと言いに来たのだ。お仕置きの翌日に、辞める子は、たまにいる。
「あの、これ…ありがとうございました」
紗希は、神崎の貸したハンカチを差し出した。
「ああ、いつでも良かったのですが…」
ハンカチを受け取り机に置き、昨日の事について何か話すべきか逡巡していると、紗希の方から切り出してきた。
「あの、昨日は本当にすみませんでした!あんなに取り乱してしまって逃げ出して、泣きわめいて…恥ずかしいです…」
「いえ、初めての経験ですから、致し方ありません」
「私、次からは、もっとちゃんとお仕置きを受けられるように頑張ります」
「え…!?」
紗希の意外な言葉に神崎は言葉を失い、苦笑した。
「それは良い心掛けですが、次など無い事を目指してほしいものです」
「あ!…はい。なるべくお仕置きにならないように頑張ります」
「期待していますよ」
「はい!あ、もうこんな時間!失礼します」
紗希は慌てて執務室を後にした。バタバタと走って行く足音を聞き、神崎はため息をついた。
(またあの子は廊下を走って…誰かとぶつからなければ良いのだが…)
その後、紗希から返されたハンカチをしまおうと手に取ると、神崎は目をみはった。
「これは…」
それはまさに完璧な仕上がりだった。
たかがハンカチのアイロンがけといっても実は奥が深く、このレベルに達するにはかなりの鍛錬が必要になるのだ。神崎は2ヶ月ほど前の事を思い出した。
約2ヶ月前、紗希がメイドとして働き始めて3日ほど経った頃、神崎は洗濯室の隅で大量のアイロンがけと格闘している紗希を見かけ、声をかけた。
「紗希さん、仕事の方は順調ですか?」
「あ、神崎さん」
紗希は手を止め、笑顔で顔を上げたが、すぐに表情を曇らせた。
「何か問題ですか?」
「アイロンがけって、すごく難しくて…ハンカチですらどうしてもよれちゃうんです」
「ああ、なるほど。ハンカチのアイロンがけは、単純なようでコツがあります。見ていて下さい」
神崎はアイロンを手に取り、ハンカチにかけ始めた。
「まず、ここを押さえて…この隅で力をかけて止めて…仕上げは……できました」
神崎の仕上げたハンカチを見て、紗希は息を呑んだ。
「すごい…!新品みたいです…」
「練習すれば、できるようになりますよ。頑張って下さいね」
「はい!ありがとうございます」
あの子はこの2ヶ月、かなり練習をしたのだろう。美奈子の言うように、毎日成長を続けているのだ。
その成長を見守り、正しく導く。この仕事もそんなに悪くないのかもしれないと、改めて感じ始めた朝であった。




