酒宴の後
神崎が九条の部屋を退出し自室へと向かっていると、美奈子が血相を変えて走り寄って来た。
「神崎君!探したわよ!」
「仲野先生」
神崎は困惑した表情で立ち止まった。
「どうしてすぐに医務室に来なかったの?そんな大怪我をして!」
「大した事ありません。もう大丈夫ですので…」
「大丈夫じゃないでしょ!?こめかみを強打して大量出血して倒れていたって聞いたわよ!?すぐに医務室へ!」
美奈子は神崎の袖を掴むなり引っ張った。その力強い手付きからは医師としての使命感が滲み出ている。
普段は冷静沈着な女性がここまで取り乱しているのを神崎は初めて見た。
「落ち着いてください。ただの擦り傷です」
医務室に通されると、美奈子は神崎をベッドに座らせた。
「見せてみなさい」
命令口調で言い放ち、美奈子は素早くガーゼを外した。その瞬間──
「……え?」
目の前に現れた傷口に美奈子は完全に虚を衝かれた。思ったより遥かに小さい切り傷。しかも出血はほぼ止まっており、適切な消毒と保護が施されている。
「これが……倒れるほどの怪我?」
「いいえ」神崎は静かに首を振った。
「でも私が聞いていた話では……」
「誤解があったようです」
神崎は事の経緯を簡単に説明した。
話を聞き終わると美奈子の顔から険しさが消え、安堵の色に変わった。
「まったく……驚かせないでよ」
深いため息と共に肩の力を抜く。
「まさか血相変えて飛んで来たら、こんな小さな傷だったなんて」
「心配をおかけしました」
「当たり前でしょ!ステッキで殴られたって聞いて、もう、居ても立ってもいられなかったのに…」
美奈子は消毒液で傷口を確認しながらぼやいた。
「誰があなたの応急処置をしたの?完璧な仕上がりだわ」
「それは……」
「紗希ちゃんね?」
「……はい」
美奈子は納得したように頷いた。
「彼女は弟さんのお世話をずっとしてるから、こういう事が得意なんだそうです」
「そうだったのね。せっかく紗希ちゃんが貼ってくれたのに、剥がしてしまって悪かったわ」
「いえ、そんな…」
美奈子は化膿止めの薬を塗り、新しく医療用の目立たないガーゼに貼り替えた。
「後はこのまま保護しておけば、じきに治るわ。もしかしたら、傷跡は少し残るかもしれないけど…」
「問題ありません。ご心配いただきありがとうございました」
「それにしても、どうしてすぐに医務室に来なかったの?」
「大事にしたくなかったのと、医務室はお客様でいっぱいだと思ったので…」
申し訳なさそうな神崎に、美奈子は少し驚いた。
「満員だったのは確かね。入れ替わり立ち代わり、何人も…飲みすぎただの胃薬くれだの、何なのかしら」
「ああ、それは…」
この屋敷の医務室に美人の女医がいるらしいと聞きつけた客人達が、一目見てみようと、こぞって押しかけていたのだ。
「そんなくだらない理由で…!?いくら女医が珍しいからって、まったくもう!」
「皆さん、大変羨ましがっていました。うちにも是非女医を常駐させたいと」
憤慨する美奈子を神崎は必死になだめた。
「それはそうと…」
神崎は深刻な表情で切り出した。
「実は紗希さんのことでお願いがあります」
神崎は辛そうに目を伏せる。
「……今回の出来事は精神的にかなりのダメージを与えてしまったようで……」
美奈子の表情が一変した。
「あの件ね……池田様が酔った勢いで迫ろうとしたって聞いたわ」
「はい。彼女は恐怖のあまり叫んでしまい、更に突き飛ばしてしまいました」
神崎は俯き加減に続けた。
「男性の私が話を聞くと更に辛い記憶を思い出させるかもしれません。もし可能であれば、先生にカウンセリングをお願いできないでしょうか?」
美奈子は暫く考え込み、やがて深く頷いた。
「もちろん協力するわ」
「ありがとうございます」
「私だって女性だもの。男性には話せない辛さも理解できる」
彼女は決意を秘めた眼差しで神崎を見上げた。
「明日朝一番で彼女に会いましょう。きっと私から尋ねないと本当のことを話さないでしょうね。特にあなたには余計に遠慮してしまって」
「そうだと思います。助かります」
「一つ条件があるの」
美奈子は突然真剣な顔で神崎を見つめた。
「あなたのその傷も定期的に診させて。小さな傷でも感染症になったら大変だから」
「もちろんです。明日も必ず診ていただきます」
「約束ね?」
美奈子の瞳に少し心配の色が混じっていた。
「わかりました。約束します」
診察が終わると、美奈子は患者ファイルを整理しながら言った。
「さて……じゃあ私はもう寝るわ。あなたも早めに休みなさいね」
「はい。ありがとうございました」
翌朝、美奈子が食堂での紗希の様子を見ると、思いつめて食が進んでいないようである。今日の紗希のシフトは午後からで、同室の詩織が午前の勤務に出たのを確認して、美奈子は紗希の部屋を訪れた。
ノックの音に顔を上げると、紗希は驚いて椅子から飛び上がった。
「美奈子先生……」
「こんにちは、紗希ちゃん」
美奈子は穏やかな笑顔で部屋に入ってきた。手には小さなトレイがあり、香り高い紅茶とチョコレートが乗っている。
「少し時間あるかな?ちょっとお茶でもどう?」
「あ……はい……」
紗希は戸惑いながらも頷いた。
二人は窓際の小さなテーブルに腰掛けた。紅茶を一口飲むと、美奈子は慎重に切り出した。
「昨日のこと……辛かったわね」
その瞬間、紗希の目からぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
「先生……わたし……どうしていいか……」
言葉が続かない紗希に、美奈子は黙ってハンカチを差し出した。
「神崎さんのこと心配してる?」
問いかけに紗希は激しく何度も頷いた。
「わたしのせいで……あんな怪我を……」
「大丈夫よ。ちゃんと治療してるから」
「でも……わたしが我慢できていれば……こんなことには……」
嗚咽交じりの告白が始まった。
紗希は泣きじゃくりながら昨日起きた出来事を語り始めた。
酔った客人に身体を触られた時の恐怖。そして咄嗟に抵抗して相手を突き飛ばしてしまった後の混乱。そして駆けつけてくれた神崎が代わりに傷つくという最悪の展開。
「私がいけないんです……」
「そんなことないわ」
「みんなに迷惑かけて……神崎さんが……私のせいで…」
「それは違う」
美奈子は紗希の肩に優しく触れた。
「あなたは何も悪くない。悪いのは酔って手を出してきた人よ」
紗希は俯いたまま首を横に振った。
「私……男の人が怖くなって……」
「そうよね。それは自然な反応よ」
「どうすればいいのか……わからない……」
「焦らなくていいの。少しずつでいいから」
美奈子は心理学者としての経験から適切なアドバイスをした。
紗希の精神状態が急性ストレス反応である可能性が高いこと。時間をかけて癒やしていく必要があること。そして男性に対する恐怖は一時的なもので治ると励ました。
「神崎さんはあなたのことを気遣ってたわよ」
「神崎さんが?」
「ええ。あなたを心配して相談してきたの」
その言葉に紗希の表情が和らいだ。
「もし良かったら、これから毎日少しでも話しましょうか。何かあったらすぐ教えてね」
美奈子の提案に紗希は小さく頷いた。
美奈子は優しく微笑んだ。
「彼のためにも元気になって、ね」
紗希は震える手でティーカップを持ち上げた。少しずつではあるが、その表情には希望の色が見え始めていた。
その日の夜、神崎は美奈子の医務室を訪れた。
「まずは傷を診るわね…経過は良好ね」
美奈子は神崎の傷跡を確認し、手早くガーゼを交換した。
「ありがとうございます。あの…紗希さんの様子は…」
神崎は不安そうに切り出した。
美奈子はガーゼを貼り終えると、深い溜息をついた。
「紗希ちゃんね……」
「はい」
「すごく落ち込んでるわ。あなたへの罪悪感がとても強くって」
神崎は思わず身を乗り出した。
「そんな……私のことは全く心配ないのに」
「本人に言ってあげれば?」
美奈子の言葉に神崎は複雑な表情を浮かべた。
「私自身が直接行くと彼女を余計に苦しめそうで……」
「そうね。今の紗希ちゃんには男性との接触そのものがストレスになっているから」
医師は静かに続けた。
「特に酷いのは『自分が全て悪かった』という思い込みよ。池田様を突き飛ばしたことを相当気に病んでいる」
美奈子はカルテを開きながら補足した。
「今日私がカウンセリングしたときも最初はなかなか口を開かなかったわ。『私が我慢できていれば』って繰り返し自分を責めてばかり」
「そうですか……」
神崎の顔に陰りが差した。
「…私のせいです…あの時私が言った言葉が彼女を苦しめている…」
「……それは……」
「あの時私は『酒の席ではよくある事、貴族に何をされても我慢しろ』という意味の事を言ってしまったのです…」
「それは貴族に仕える使用人として当然の事だわ。彼女自身の安全のためでもあるのだから」
「そうなのですが…」
「あと気になるのは男性全般への恐怖感ね」
「やはり……」
「一時的なPTSDと言ってもいいわ。男性の姿を見るだけで身体が強張るみたい。特にスーツ姿の人や背の高い男性は避けてしまうらしいの」
美奈子はペンでカルテに記録を追加した。
「このまま放置したら日常生活にも影響が出るわ。幸い私とは普通に話せるから少しずつリハビリをしていくつもり」
「私にできることがあれば……」
「今は静観してて。下手に接近すると逆効果になりかねないから」
「わかりました」
神崎は沈痛な面持ちで頷いた。
「それから」美奈子の声が少し強くなった。
「紗希ちゃんはあなたのことすごい心配してるわよ」
「私のこと?」
「ええ。『神崎さんに合わせる顔がない』って」
美奈子は神崎の目をまっすぐ見た。
「彼女の中であなたの存在がとても大きいのね。助けに来てくれたことだけじゃなくて……信頼関係ができてる」
「そうだったのですか……」
「だからこそ自分が迷惑をかけたって罪悪感が強いの。あなたが大丈夫って言うから少しは安心すると思うけど」
沈黙の後、美奈子は優しく微笑んだ。
「時間はかかるけど必ず良くなるわ。それまで私たちが支えてあげましょう」
「はい。ありがとうございます」
神崎は深く頭を下げた。
その頃紗希は、詩織や数人の親しいメイド達と談話室でくつろいでいた。
「紗希ちゃん、元気出して。ほら、一緒におやつ食べようよ!」
「…うん、ありがとう、詩織ちゃん」
詩織は必死に紗希を元気づけようとする。
「酔っ払いのおじさんって、本当に許せないね!」
「そうよ!」
他のメイドたちも次々に同意した。
「私なんかパーティーの時、お客さまにワインを勧めたら『君と一緒に飲みたいな』って肩抱かれたことがあるわ」
「それだけならまだ良い方じゃない? 私はお皿運んでる時に背後から胸触られたわよ」
「ああ~わかる! 私も足さすられた事ある。『美しい脚だ』とか言われたけど気持ち悪すぎて鳥肌立っちゃった」
紗希は驚いた表情でメイドたちを見つめた。
「みんな……そんな目に遭ってたの?」
「当たり前じゃない!」年長の恵梨香が声を荒げた。
「お客様の前では笑顔だけど、心の中ではみんなブチ切れてるわよ!」
「そうそう! 『後で思いっきり罵ってやる』って思いながら我慢してるの」
メイドたちはうなずき合った。
「それに紗希ちゃんのは正当防衛よ!」詩織が力強く言った。
「あんなおじさんに迫られたら誰だって怖いわ」
「そうよ!」
「神崎さんも分かってくれてるわ」
メイドたちは口々に擁護した。
「でも……神崎さんが怪我したのは……」
紗希の言葉を遮るように、一番年上のメイドが割り込んだ。
「それはもう終わったことでしょ。神崎さんは元気だし、あなたを恨むわけないじゃない!」
「そうよ! あんなに紳士的な方なんだから」
「紗希ちゃんが罪悪感を持つことなんて何もないのよ」
紗希は少しずつ心が軽くなるのを感じた。
「それに……」恵梨香が声を落とした。
「正直言って今回の一件で神崎さんがどれだけ信頼できるか分かったわ」
「うん! 私もそう思う!」詩織が目を輝かせた。
「そうよね!」メイドたちは一斉にうなずいた。
「あの時神崎さんがすぐに駆けつけてくれたから紗希ちゃんは無事だったんだもの!」
「まさか貴族からメイドを守ってくれるなんてね」
「神崎さんって私たち使用人を大切にしてくれるのね」
「そうそう、あのお尻を叩くお仕置きもね……」一人のメイドが意味ありげに言った。
「最初はすごく怖いんだけど、終わってみると……不思議と清々しいのよね」
「わかるわかる!ちゃんと叱ってくれる人がいるってありがたいわ」
「それに神崎さんのお仕置きって公平なの。誰に対しても同じ基準で扱ってくれるから」
「ねえ紗希ちゃん」詩織が紗希の肩を優しく抱いた。
「神崎さんは厳しいけど信頼できる人だよ。今回のことだって全部あなたの味方でいてくれたでしょ?」
「うん……」紗希は小さく頷いた。
「それに九条家のメイドでいられるってことはすごい特権なのよ」恵梨香が真剣な表情で語った。
「どんなに偉い貴族だって、自分の屋敷で働くメイドには横暴な態度をとったりするもの。でも九条家では誰もが紳士的で誠実なの。それってきっと神崎さんのおかげなんだから」
「そうだね……」紗希はようやく少し微笑んだ。
「だから紗希ちゃん」詩織が優しく手を握った。
「もう気にしないで。私たちみんなあなたの味方だよ」
「ありがとう……」
紗希の心には少しずつ温かいものが広がっていった。これまで感じていた孤独や恐怖が、仲間たちの言葉によって溶かされていくようだった。
お腹の底に溜まっていた重たいものが、ようやく流れ始めたような気がした。それでも時折甦る記憶に体が震えることもあったけれど—。
そんな中で神崎の顔を思い出した。怪我を負ったのは自分なのに、紗希の身を案じてくれていたこと。そしてお尻を打った時も、痛みよりも慈しみを感じたこと。
(神崎さん、私、もっと強くなれるように頑張ります)
辛い経験を糧にして、紗希は決意を新たにした。
それから1週間ほどが過ぎ、紗希はかなり元気を取り戻していた。
「紗希ちゃん、だいぶ元気になったみたいね」
毎日カウンセリングを続けていた美奈子は、嬉しそうに紗希に話しかけた。
「はい。美奈子先生やみんなが励ましてくれたおかげです」
「良かったわ。男の人が怖い気持ちは今はどう?」
紗希は少し考えてから答えた。
「まだ怖い気持ちが完全になくなったわけじゃなくて……特にスーツ姿の人とか、大きな人を見るとドキッとする時があるんです」
美奈子は優しく頷いた。
「それは自然な反応よ。トラウマというのは簡単には消えないものだから」
「でも、このままじゃダメだとも思うんです」紗希は拳を握りしめた。
「詩織ちゃんも恵梨香さんも他の先輩方も、みんな辛い思いをしてきたのに頑張ってる。だから私だけ特別扱いされたくないんです」
美奈子は感心したように微笑んだ。
「その気持ちがあれば必ず乗り越えられるわ」
「だから……少しずつ慣れていこうと思ってます。最初は短時間でも男性職員さんと話す機会を作ったり……」
「それが良いわね」美奈子は熱心に聞いた。
「無理せず自分のペースで。ところで…」
美奈子は少しためらいながら、話を続けた。
「神崎さんのことはどう?彼も背が高くてスーツみたいな服装だけど…」
紗希は顔を赤らめ、大きく首を横に振った。
「神崎さんは特別です。神崎さんは、私を助けてくれました。怖いわけないです!……信頼できる人です。いつも私たち使用人の事を気に掛けてくれていて…」
紗希の必死の返答を聞いて、美奈子は心底安堵し、真摯な眼差しで紗希を見つめた。
「あなたが神崎さんを怖がってなくて、本当に良かったわ。これからも少しずつ自信を持ってね。男の人にも色々な人がいるということを知っていくのも大切よ」
「はい」紗希は大きく頷いた。
その夜も、神崎は約束通り医務室を訪れた。美奈子はガーゼをはずし、傷口を確認した。
「傷口は完全に塞がったわね。痛みはどう?」
「全くありません」
「良かったわ。もうガーゼは外していいわよ。後は時間が経てば、傷跡も薄くなっていくでしょう」
「長い間、ありがとうございました。それでは…」
深々と頭を下げ、立ち上がろうとする神崎を、美奈子は引き止めた。
「待って神崎君、実はね…紗希ちゃんをここに呼んであるの」
「カウンセリングですね。それなら私はいない方が…」
「紗希ちゃんはあなたの事、怖がってないわ」
「え!?」
「まだ男性への恐怖は少しあるけど『神崎さんは特別で信頼してる』って言ってたわ」
「…そう…でしたか…確かに執事は特殊な仕事ですし…」
「特殊じゃなくて特別よ!とにかく、あなたの傷は治ったし、紗希ちゃんの恐怖心は消えかけてる。特にあなたの事は全く怖がってないわ。これでもう、問題は無いわよね」
「そう…ですね…」
神崎が考え込むと、コンコンとノックの音が医務室に響いた。
「紗希です。美奈子先生、頼まれてた換えのシーツを持ってきました」
「紗希ちゃん、ありがとう。どうぞ入って」
「失礼します。あっ、神崎さん!診察中にごめんなさい。すぐに…」
シーツを置いて出て行こうとする紗希を美奈子は必死で引き止めた。
「待って!紗希ちゃんもここに座って。」
「でも…」
困惑する紗希を、美奈子は強引に神崎の近くの椅子に座らせた。
「私はちょっと出て来るから、二人でゆっくりお話ししててね」
そう言い残して、美奈子は医務室を後にした。
残された二人は途方にくれたが、やがて神崎が切り出した。
「紗希さん」
神崎の低い声が静寂を破った。
「あの時はありがとうございました」
紗希は驚いて顔を上げた。
「え……?」
「あなたの応急処置が的確だったおかげで、傷はほとんど目立たなくなりました。仲野先生も驚いていましたよ」
神崎は左手でこめかみに触れると、もう薄くなりつつある傷跡を見せるようにした。
「これも綺麗に治りそうです」
「そんな……私は何も……」紗希の声は震えていた。
「いえ。あなたがすぐに手当てしてくれたから助かりました。あのまま放っておいたら危なかったかもしれません」
紗希は俯いて膝の上で両手を握りしめた。
「神崎さん……」
「はい?」
「私の方こそ……本当にごめんなさい」
彼女の声は再び涙で濡れていた。
「私のせいで神崎さんに怪我をさせて……あの時も私のせいで池田様が……」
「違います」神崎は優しく否定した。
「あれは全て事故です。誰のせいでもありません」
「でも……」
「あなたを守ることができて良かったと思っています」神崎の声には迷いがなかった。
「それが私の仕事ですから」
「神崎さん……」
紗希は顔を上げると、目には涙があふれていた。彼女の表情に神崎の胸が締め付けられる。
「もう自分を責めないでください。あなたは被害者です。それだけは覚えておいてください」
「…はい…ありがとう…ございます…」
美奈子が医務室のドアを開けると、すぐに異変に気づいた。先ほどまであったぎこちなさが消え、代わりに緩やかな雰囲気が漂っている。
「あら?」美奈子は目を細めた。「何か良いお話ができたみたいね」
神崎は少し照れたように俯いたが、その目に宿る温かさは隠しきれなかった。紗希も頬を赤らめながらも、確かな微笑みを浮かべている。
「やっと問題が解決したようね。二人とも、お互い悪い方に考え過ぎなのよ」
「ご心配おかけしました」
神崎は深々と頭を下げた。
「本当よ!悪いと思ってるなら…」
美奈子はいたずらっぽく微笑んだ。
「二人とも、私の目の前で、仲直りの握手をして」
「先生……それは」神崎が言葉を選びながら言う。「私たちは別に喧嘩していたわけではありませんが……」
「形式的なことよ」美奈子は笑った。
「でも、これで新しいスタートを切れたら素敵じゃない?」
紗希は困惑した様子で神崎を見上げた。神崎は一瞬躊躇した。執事として、部下のメイドとの間にお仕置き以外の物理的な接触が適切かどうか迷ったのだ。
しかし彼女の不安そうな眼差しを見て決断した。
「分かりました。紗希さん」
神崎は紗希の目をまっすぐに見つめ、右手を差し出した。
「あの日の事で、私達の間には何のわだかまりも無い、今まで通りです。だから…握手をしてもらえますか?」
「はい…」
紗希はおずおずと右手を出し、神崎の手に重ねた。
彼は静かに紗希の小さな手を握り返した。彼女の指は微かに震えていたが、すぐに神崎の掌の中で落ち着いた。
その瞬間、何かが解放された。紗希の表情が和らぎ、彼女の全身から緊張が抜けたのが分かった。神崎自身も、今まで意識していなかった重荷が肩から降りていくのを感じた。
二人は見つめ合い、どちらからともなく微笑み合った。それは単なる握手以上の意味を持っていた。
「これで仲直り完了」美奈子は満足げに頷いた。




