主従の出会い1
翌日の土曜日の昼下がり、神崎は約束通りチェスの対戦をするために九条の書斎を訪れた。
「待ってたよ!神崎君」
九条は嬉しくてたまらない様子で、神崎を迎え入れた。
「恐れ入ります。では早速始めましょうか」
二人はチェス盤を挟んで向かい合わせに応接セットに腰掛けた。
「手加減は無しで頼むよ。真剣勝負だ」
「承知致しました」
序盤は順調に駒を進め、中盤になると長考が増えてきた。
少し疲れが出てきた頃、ノックの音が響き、フットマンの少年が紅茶を運んできた。
着慣れない制服に身を包み、緊張した面持ちでポットの紅茶をティーカップに注いでいる。まだあどけなさが残るぎこちない仕草を、神崎は真剣な眼差しで見つめた。
少年は額に汗を浮かべながら、慎重にカップに紅茶を注いだ。神崎の鋭い視線が気になりつつも、練習した通りに最後の一滴まで正確に注ぎ終える。
「どうぞ」
震える声で言いながら少年はカップを差し出した。
「ありがとう」
九条は満足げに微笑み、紅茶を受け取った。
少年が深々と一礼して退室すると、九条は感慨深げに溜息をついた。
「あの子を見ていると……つい昔の君を思い出してしまうよ」
「昔の私ですか?」
神崎は首を傾げた。
「ああ。君もあのくらいの年齢からここで働き始めたんだったね」
神崎は静かに頷いた。
「十五歳の時です。奨学金制度のあるこのお屋敷に住み込みで……」
「そうだったね」九条は懐かしそうに目を細めた。
「高校に通いながらフットマンとして働いていた」
「はい。今思えば何も知らない世間知らずでした」
「でも素晴らしい才能を見せてくれたね」
「過分なお褒めの言葉です」
「謙遜しなくてもいい。特にチェスの腕前は飛びぬけていた」
「ありがとうございます」
「あの頃は僕も若かったからね。よく君を捕まえて相手をしてもらっていたね」
「はい。早めに切り上げるようにと、よく田所さんに叱られました」
「そうだったのか!君には悪い事をしたな」
「いいえ。私も楽しかったんです。クラブをやめてからチェスをする機会も無くなっていましたから」
「小学校のチェスクラブか…まさかあそこで出会った怜司くんがうちに働きに来てくれるなんて、信じられなかったよ」
「私も本当に驚きました。あの時別れた『孝一くん』が九条伯爵家の御曹司、孝一郎様だったのですから」
今から二十数年前、九条家の一人息子の孝一郎はチェスに夢中だった。幼い頃から頭角を現し、六年生になった今、小学校で彼に太刀打ちできる者は誰もいなかった。
九条孝一郎は小学生の頃から異例の才覚を発揮していた。
父親が経営する大企業グループを継ぐべき人材として英才教育を受け、様々な競技や学術試験で常にトップクラスの成績を収めていた。
特にチェスに関しては、小学六年生になる頃には学校内で彼に挑める者は皆無となっていた。
「相手になる子がいない……」
その悩みは孝一郎にとって最大の苦悩だった。どんな対局も形だけの戦いに過ぎず、真剣勝負の緊張感を味わえない日々が続いていた。
そんな彼が、たまたま目にした新聞記事に孝一郎は目を見張った。
それは地元紙の小さな記事。そこには四年生の神崎怜司が全国小学生チェス大会で優勝したことが報じられていた。
写真の中の少年は少しはにかんだような表情で、優勝トロフィーを手にしていた。
「4年生で全国優勝!この子ならもしかして…」
即座に行動した孝一郎は、父の名で招待状を送る選択肢を捨てた。身分を明かせば警戒されるだろうと考え、単独で神崎の通う庶民の小学校に向かった。校門でしばらく様子を窺っていると、下校時間と重なり多くの児童が帰路に就いていた。
「ここに……神崎君がいるのか」
孝一郎は周囲に人が少なくなったタイミングを見計らい、校舎へと忍び込んだ。体育館裏にある小さな部室棟に向かうと、「チェスクラブ」と書かれた古い木製プレートが掲げられているのを見つけた。窓から覗くと六人ほどの子どもたちがチェス盤を囲んでいた。
「入部希望者ですか?」
突然声をかけられ振り向くと、白衣姿の中年教師が立っていた。
「ええと……見学したいのですが」
孝一郎は平静を装いながらも内心では焦っていた。学校には正式な手続きが必要なはずだが、ここまで来て諦めるわけにはいかない。
「そうですね……見学なら構いませんよ」
教師の意外な対応に戸惑いつつも、部室へと案内された。
「今日の対局は終わりましたが、まだ何人か残っていますよ」
扉を開くと六人が一斉にこちらを振り向いた。彼らはすでに帰り支度を始めていたが、教師が連れてきた見学者に興味津々といった表情で集まってくる。
「新入り?」
「どこから来たの?」
「見学だけ?」
質問攻めに遭いながら室内に入る孝一郎。視界の隅に一人の少年が映った。他のメンバーと比べて一回り小柄だが、整然とした佇まいと冷静な眼差しが印象的な四年生—神崎怜司だった。
「君が……神崎くん?」
思わず名前を口走ると、周囲がざわついた。
「どうして僕の名前知ってるの?」
神崎は怪訝そうに眉をひそめた。その反応を見て孝一郎は自分の失態に気づき、慌てて取り繕う。
「いや……記事を見たんだ。全国大会優勝の天才チェス少年って」
部室内にどよめきが走った。神崎は少し照れたように視線を逸らす。
「あの……もしよかったら、一局だけやらせてもらえないかな?」
孝一郎の提案に怜司は驚いた様子だったが、他のメンバーからは期待の声が上がる。
「やってみれば?」
「天才対決じゃん!」
「面白そうだな!」
教師も微笑みながら言った。
「いいんじゃないかな?でも怜司くんの負担にならない程度にね」
結局神崎は渋々ながらも了承した。
机に並べられたチェス盤の前に二人が腰掛ける。孝一郎は緊張感が高まるのを感じた。これこそ本物の対局—互角の実力を持つ相手との真剣勝負なのだ。
「それじゃ……よろしくお願いします」
神崎が丁寧に挨拶するのを見て、孝一郎も頭を下げた。
「こちらこそ。全力でいかせてもらうよ」
そして白と黒の駒が配置され……。
一進一退の長丁場の末、ついに孝一郎の手が止まった。眉間に皺を寄せ、必死に次の一手を考えるが、どんなに頑張っても次の一手でチェックメイトが確定してしまう。
(…詰んだ……)
神崎は真剣な表情で、チェス盤を見つめ、その内心を読み取る事はできない。
孝一郎はついに己の敗北を悟り、ここ数年口にする事の無かった言葉を口にした。
「…負けました…」
潔く頭を下げる孝一郎に、神崎も安堵した様子で深々と頭を下げた。
「ありがとうございました」
孝一郎の投了宣言と同時に、部屋の中の空気が一変した。
「嘘だろ!?」
「本当に負けたの!?」
「怜司くんをここまで追い詰めた子は初めてだよ!」
周囲の子供たちから次々と驚きの声が上がり、拍手が湧き起こった。対局の一部始終を見守っていた教師は目を見開き、感心した様子で呟いた。
「これは……素晴らしい対局だったね。特に怜司くんの終盤の読み筋は見事だった」
孝一郎は駒を片付けながら深く息を吐いた。久しぶりに感じる敗北感だったが、胸の中に湧き上がるのは不思議と清々しさだった。
一方の神崎は控えめに微笑むものの、額にはうっすらと汗が滲んでいる。互いに本気で向き合った証拠だ。
「君の戦略は見事だったよ」孝一郎が素直に賞賛する。
「特にクイーンを犠牲にした局面からの逆転は完璧だった」
神崎は少し驚いたように瞬きし、小声で返した。
「でも最後は君の粘りで随分苦労したよ。ギリギリだった」
「神崎くん、僕はずっと君みたいな強い相手と戦いたかったんだ」
孝一郎の言葉に、神崎は照れたように微笑んだ。
「怜司でいいよ。みんなそう呼んでるし…あ、君は…」
孝一郎はまだ名乗っていなかった事に今更ながら気付いた。
「僕は孝一ろ…孝一っていうんだ」
孝一郎は身分がばれるのを恐れて、とっさに縮めた名前を名乗った。
「孝一くん、僕もこんなに熱くなる対局は初めてだったよ。また君と戦いたい…明日も…」
「怜司くん…でも、僕は……」
言い淀む孝一郎に、教師は笑顔で提案した。
「今日はもう遅いから終わりにしよう。ええと…孝一くん、入部は今すぐ決めなくてもいいから、しばらく体験してから決めればいいよ」
「はい。明日もまた来ます」
教師に促され、子供達は部室を後にした。
孝一郎は、対局の興奮がなかなかおさまらないまま帰路に就いた。ふと腕時計を見ると、家庭教師の時間を既に過ぎていることに気がついた。必死で走って帰宅した時には、30分の遅刻であった。
玄関の重厚な扉を乱暴に閉めると、大理石の廊下に響き渡る靴音で孝一郎の焦りは最高潮に達した。執事の田所が慌てて近づいてくる。
「孝一郎坊ちゃま!どこへ行っていらしたのですか?」
「ち、ちょっと寄り道して……」
弁解する間もなく、勉強部屋の方向から厳しい足音が近づいてきた。
ダークグレーのスーツに銀縁眼鏡の男性教師・片桐が姿を現す。孝一郎専属の教育係兼家庭教師として、孝一郎が5才の時から九条家に仕えている。端正な顔立ちに冷たい威厳を湛えた彼は、普段から厳しいことで知られていた。
「何時だと思っているのですか」
低く響く声が孝一郎の鼓膜を刺した。
「ごめんなさい……遅れてしまって…」
片桐の目が鋭く光る。
「寄り道ですか?」
鋭い声に孝一郎は萎縮したように身を縮めた。
「友達と……遊んでいたら時間を忘れてしまって……」
「言い訳は聞きたくありません。今日はお仕置きです」
「えっ……!?」
孝一郎の顔から血の気が引いた。
「遅刻の罰として三十回です。今すぐ勉強部屋に来なさい」
有無を言わせぬ口調に逆らう余地はなかった。
勉強部屋に入ると、片桐は扉を閉め鍵をかけた。古風な木製デスクの前の椅子に腰掛け、膝の上をポンポンと叩く。
「ここに来なさい」
拒否の意思を示すことさえ許されない。孝一郎は屈辱に唇を噛みながら椅子に歩み寄った。
「君はもう六年生です。自分で準備して膝に乗れますね」
「…は、はい…」
顔が火照るのを感じながらも命令に従うしかなかった。羞恥心で震える指でベルトを外しファスナーを下ろし、片桐の膝の上にうつ伏せに乗った。
「いい子です」
そう言うと片桐は、孝一郎のズボンと下着を一気に下ろし、お尻を露出させた。小さい頃から何度となくされてきたお仕置きだが、この時の怖さと恥ずかしさは慣れる事は無い。
「では、遅刻の罰として30回叩きます。動いたら数は増えます。お行儀良くしっかり反省しなさい」
孝一郎の腰を固定しながら片桐が警告する。
初めの一撃が落下した。
パァンッ!
乾いた音と共に鋭い痛みがお尻を襲う。思わず悲鳴が漏れそうになるのを必死で堪えた。
「一」
淡々と数える声が耳に入る。
パァンッ!パァンッ!
次の打擲。また痛みが走る。三度目で涙がにじみ始める。
「十」
子供のお仕置きである。当然手加減はしているが、半分もいかない段階で既に耐え難い痛みに変わっていた。
「十五」
「ぅわあぁん……」
思わず泣き声が溢れ出す。
「二十五」
ついに耐えきれず叫び声が溢れ出す。
「いたいよぉ!ごめんなさいぃっ……ぅぇ……」
嗚咽混じりの懇願は聞き届けられない。
パァンッ!
「三十。終わりです」
片桐は静かに告げると、泣きじゃくる孝一郎を優しく抱き起こし、ズボンと下着を元通りに上げてやった。
「泣くことないですよ。遅刻しなければ痛い目に遭わずに済んだだけのことです。これからは気をつけなさい」
「はい…ごめんなさい……」
孝一郎は泣きながら謝罪した。
「分かればいいんです」
片桐は孝一郎の頭を優しく撫でた。
「次も遅刻したら倍にしますからね」
孝一郎はビクッと身体を震わせた。
「はい……もうしません……」
「よろしい。では、落ち着いたら授業を始めましょう」
「はい……」
孝一郎は涙を拭いて、授業の準備を始めた。
次の日の放課後、孝一郎は昨日と同じように校舎裏の小さな部室へと向かっていた。心臓が高鳴るのを感じながら扉を開けると、すでに集まっていた子供たちの視線が一斉に彼に向けられた。
「やあ!」
「また来たね!」
「早く入って!」
昨日より明らかに和やかな雰囲気に包まれていた。彼らはまるで昔からの友人を迎えるかのように、孝一郎を熱烈に歓迎した。怜司も無邪気に微笑みながら手招きしている。
「今日はどうする?」
「対戦カード組んだよ!」
「それとも見学?」
子供たちの活気に圧倒されながらも、孝一郎は少しずつ輪に入っていった。昨日までの緊張が嘘のように消えていく。
「孝一くんは何年生?」
「何組なの?」
「兄弟はいる?」
「好きなチェスの駒は?」
矢継ぎ早の質問に苦笑しながら答えているうちに、自然と笑顔がこぼれてきた。彼はこの空間の居心地の良さに驚いた。
「孝一くん、また対戦しようよ」
怜司からの誘いに孝一郎は一瞬躊躇した。家庭教師との予定が脳裏をよぎる。
(昨日遅刻したばっかりなのに……)
だが怜司の純粋な瞳と周囲の期待に満ちた視線に押され、彼は小さく頷いた。
「うん。短時間なら」
怜司の顔がぱっと明るくなった。
「じゃあ始めよう!」
二人は素早く駒を並べ直し、勝負を開始した。昨日の続きを思い起こすかのように展開はスムーズに進み、白熱した戦いが始まった。
しかし一時間ほど過ぎた頃、腕時計を確認した孝一郎の表情が曇った。
「……もう行かなきゃ」
「え?」
「家庭教師が来る時間なんだ」
周囲から惜しむ声が上がる中、彼は駒を急いで片付け始めた。
「続きは明日だね」
怜司の言葉に孝一郎は申し訳なさそうに頷いた。
「うん……ごめん…」
「気にしないで。また明日ね」
その日の夕暮れ。昨日の反省を活かして孝一郎は時間通りに自宅に戻り、片桐にしっかりと挨拶を交わした。
「今日は遅れませんでしたね」
片桐の表情には安堵の色があった。
「はい。昨日は本当にすみませんでした」
「もう大丈夫ですね。さあ、授業を始めましょう」
授業が始まると孝一郎は集中力を高め、教科書の文字を目で追った。心の中では明日の対局の展開を考えながら……。
翌日の放課後。孝一郎は昨日の続きを楽しみにしながら部室へ向かっていた。部室に入ると、昨日中断した状態を再現したチェス盤を前に、怜司が待っていた。
「孝一くん、すぐに始めようよ」
笑みを浮かべて孝一郎を迎え入れる。
「昨日は途中でごめん。今日は準備までしてもらって…」
「気にしないで。孝一くんからだよ」
「うん」
この日も肉迫した戦いが続き、接戦の末にまた怜司が勝利した。
「また勝てなかったよ!さすが怜司くんだ…もう一回…」
孝一郎は悔しそうに言いかけたが、腕時計を確認して肩を落とした。
「もうこんな時間だ…帰らなきゃ」
「うん。また来れる?」
「必ず来るよ。また明日」
孝一郎の慌ただしいクラブ通いは、ひと月程続いた。
そんなある日、いつものように孝一郎と怜司が対局していると、顧問の教師が深刻そうな面持ちで入ってきた。何かあったのかと子供達が視線を向けると、教師は孝一郎に複雑な表情で話しかけた。
「孝一くん、保護者の方がお迎えに来てるから…」
「え?保護者って…あ!」
ドアの外に立つ片桐の姿に気付き、孝一郎は絶句し、全てを悟った。連れ戻され、もうここに来る事は禁止されるだろう。
孝一郎は目に涙を浮かべて、怜司に告げた。
「怜司くん、僕はもう行かないといけない。最後までできなくてごめん…」
「う、うん…また明日…」
「…きっと、もう…来れない……」
「そんな!どうして…?」
「……遠くの学校に転校するんだ…」
孝一郎は努めて明るく嘘をついた。
「え?!どこに行くの?」
「…ごめん…言えないんだ…」
「……」
怜司は、ドアの外の人物を見て、孝一郎には何か深い事情がある事を察した。
「怜司くん、みんな、短い間だったけど本当に楽しかった。元気で…」
「孝一くん!僕、この局面をずっと忘れないよ。いつかまた会えたら、続きをしようよ。チェスを好きでいたら、きっとまた会えるよ」
「怜司くん…僕も忘れない。そして大人になったら、絶対君を探して会いに行くよ」
「約束だよ…」
「…みんな今までありがとう。さよなら…」
孝一郎は泣きながら部室を後にした。
「お別れは済みましたか?」
「…はい…片桐先生、僕は…」
「お話は帰ってからゆっくり聞きます」
その日、孝一郎は今までで最も厳しいお仕置きを受けた。送迎の運転手に嘘をついてクラブに通っていた事や、何より従者も付けず一人無断で庶民の学校に出入りしていた事を厳しく咎められた。
片桐からのお仕置きの後、父親の書斎に呼ばれ、本来は中学生から使われる鞭で初めて打たれた。
そして当然、チェスクラブへの出入りは禁止され、1週間の外出禁止を言い渡された。
厳しいお仕置きの後、孝一郎はお尻の痛みと悔しさで、ベッドに倒れ込み号泣した。もう怜司と対局できない事が、何より悲しかった。
その時、ノックの音が静かに響き、片桐が部屋に入って来た。
「孝一郎君、お父様から鞭を頂いたそうですね」
片桐は水に浸した冷たいタオルを手に持って入ってきた。孝一郎の涙で濡れた顔を見て、一瞬言葉を失ったが、すぐに穏やかな口調で語りかける。
「泣いてはいけません。鞭の跡がひどくなりますよ。さあ、お尻を出して見せてみなさい」
気が動転していて行動に移せない孝一郎に代わり、片桐は孝一郎のズボンのファスナーを下ろし、慎重にズボンと下着を下ろした。
真っ赤に腫れ上がったお尻に、3本の鞭の跡がくっきりと刻まれていた。
「これは…かなり厳しく打たれましたね…」
そう言いながら片桐はベッドサイドに腰掛けた。冷たいタオルをお尻にそっと当てると、孝一郎の体が反射的に縮こまった。
「いっ……!」
「痛いでしょうが我慢してください。こうすれば腫れが早く引きますから」
片桐の手つきは慎重で優しい。普段の厳しい指導者とは違う一面を見せていた。しばらく冷湿布を続けながら、彼は静かに語り始めた。
「今回の事は、とても辛い体験になったでしょう。でも分かるでしょう?あなたは九条家の嫡男です。その地位には責任があります」
孝一郎は黙ったままうなずいた。
「もちろん、あなたも一人の子供です。遊びたい気持ちは分かります。ですが……」片桐は一旦言葉を切り、タオルを新しくした。
「あなたの存在は、一般の人々とは違う意味を持っているのです」
孝一郎は鼻をすすりながら呟いた。
「怜司くんとチェスをしたいだけだったんだ……」
片桐の目が一瞬柔らかくなった。
「怜司君……今日も対局していた子ですね」
「うん……すごく強いんだ……僕よりも……」孝一郎の声が震える。
「そうでしたか」片桐は微笑んだ。
「チェスは私も多少は嗜みます。強い相手と戦いたい気持ちはよくわかります」
孝一郎は驚いたように顔を上げた。
「本当に?」
「はい。そして…今は会えなくても、きっといつかまた会える日が来るはずです」
「そうだといいんだけど…」
「ええ。ただし……」片桐は真剣な表情に戻る。
「そのためにはまず、あなたが九条家の嫡男としての責任を果たす必要があります」
「どうすれば……」
「一つずつ階段を上っていきましょう。まずは今日の痛みを乗り越えて……」
冷えたタオルを取り替えながら片桐は続けた。
「そして明日からは新たな課題に取り組みましょう。怜司君との再会に向けて……」
孝一郎の目に再び涙が浮かんだが、今度は悔しさではなく、希望の涙だった。
「はい……頑張ります」
片桐は優しく背中を撫でた。
「いい子です。さあ、もう少し冷やしましょう。後で温かい飲み物を作ってあげますから……」
夜は更けていった。お尻の痛みはまだ続いているものの、孝一郎の心には再会への確かな希望が灯っていた。




