表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/13

主従の出会い2

そして数年の時が流れ、孝一郎は高校生へと成長していた。来月からは3年生になる。


チェス好きで快活な青年となった彼は、自室で必死に宿題に取り組んでいた。その時、ノックの音と共に、執事の田所の声が響いた。


「孝一郎坊ちゃま、少しだけお時間よろしいでしょうか?」


「はい、どうぞ…」


なおざりに返事をしながら宿題を続けていると、田所は誰かを伴って入室した。


「今年のフットマンとして採用された者を連れて参りました。彼は大変優秀で、全会一致で決まりました。チェスも得意ですので、いつでもご用命下さい」


「…うん…わかった…」

孝一郎は宿題に必死で、田所の声には上の空である。


「ほら、ご挨拶を…」田所が促す。


「今日からお世話になります。神崎怜司です。よろしくお願いします」


「え!?神崎…怜司…だって!?」


孝一郎が驚いて振り向くと、そこには真新しい制服に身を包んだ細身で背の高い、聡明そうな少年が緊張した面持ちで立っていた。


「君…本当に…神崎怜司くんなの!?あの…チェスクラブの…!」


「え!?まさか…」


神崎は目を大きく見開いて、孝一郎を見つめた。


「まさか…孝一くん…孝一くんなの!?」


「信じられない!こんな所で君に会えるなんて…」


「僕も、信じられない!あの時の孝一くんが九条家の御曹司だったなんて…」


あっけにとられている田所をよそに、孝一郎はチェス盤を取り出した。


「怜司くん、今すぐあの時の続きをしようよ。田所さん、いいよね?」


「それは構いませんが…神崎君、あなたは今、九条家の使用人です。いくら親しくても、孝一くんなどとお呼びしてはいけません」


「はい。すみません。これからは、孝一郎様とお呼びします」


「ええっ!僕は全然構わないのに…」


「坊ちゃまもです。この館では、男性使用人は名字で呼ぶのが慣例です。一人だけ特別扱いは、色々好ましくありません」

色々、とは恐らく神崎の立場をおもんばかっての事だろう。


「わかったよ。神崎君、ならいいかな?」


「結構です。では神崎君、説明事項が残っているので、終わったら執務室へ来て下さい。坊ちゃまに失礼の無いように」


「はい」


「では私はこれで。坊ちゃま、失礼いたします」


田所が退室すると、孝一郎は待ち切れないとばかりに、神崎をチェス盤へといざなった。


「積もる話は後にしよう。とにかく今は…」


孝一郎は手早く駒を配置していく。神崎も迷う事なく、的確に自身の駒を配置した。

小学生の時、チェスクラブで中断したそのままの配置が完成し、怜司は驚きを隠せなかった。


「怜司くん…君も…本当に覚えていてくれてたんだね…」

孝一郎は、今にも溢れ出しそうな涙を必死でこらえた。


「もちろんです。あの時、約束しましたから」


「今度こそ、絶対に負けないよ!僕はあの後数え切れないくらいシミュレーションして、どんなパターンも想定済みなんだ」


「僕もです。でもまさか本当に対局できる時が来るとは…」

神崎も興奮を隠しきれない様子で、拳を握りしめている。


「それじゃ、始めよう。よろしくお願いします!」


「よろしくお願いします!」



約五年ぶりの白熱した戦いが繰り広げられ、その時が訪れた。



「…ま…負けました…」

孝一郎が投了を宣言し、頭を下げた。


「ありがとうございました」

神崎も額に汗を浮かべながら、深々と一礼した。


二人の間には、深い充足感に満ち溢れた暖かな空気が流れていた。


「また君に勝てなかったよ!今度こそって思ってたのに…!」

言葉とは裏腹に、孝一郎の表情は晴れ晴れとしている。


「…怜司くん……やっぱり強いなぁ」孝一郎は肩を落としながらも嬉しそうに笑った。


神崎は椅子から立ち上がり、深々と頭を下げた。

「孝一郎様こそ。想像以上に強くなられて……」


「想像以上ってことはないよ。僕だって相当特訓してきたんだから」孝一郎は苦笑いを浮かべる。


「でもまさか本当に君に会えるなんて思わなかった。あの約束が現実になるとは……」


「僕も同じ気持ちです」神崎は真摯な眼差しで答えた。


「あの日からずっと、孝一郎様との続きを……」


「そっか……お互いにずっと思い続けてたんだね」孝一郎は感慨深げに呟いた。

彼はチェス盤を見つめながら指先で駒を弄び始めた。


「それにしても……」神崎が小さく笑う。

「最後のあの動き。あれで僕の読み筋が完全に崩れました」


「ああ、あのビショップの動きね!」孝一郎の目が輝いた。「実は昨日徹夜して考えた新戦略なんだ。片桐先生が教えてくれた西洋戦法を応用して……」


「なるほど!あの状況でその手を……」神崎は思わず身を乗り出した。「確かに奇抜ですが理に適っています。正直言ってかなり苦戦しました」


「いやいや!最後まで食い下がって来た君の戦い方が素晴らしかったんだよ」孝一郎は手を振った。「特にルークを使ったあのカウンターなんて……」


「あれは咄嗟の判断です」神崎は照れくさそうに首を振った。「孝一郎様の先読みがあまりにも正確だったので、こちらも必死でした」


二人の会話は次第に白熱していった。6年前に中断されていた議論が今、鮮やかによみがえっていく。


ふと時計を見ると、1時間余りが過ぎている。


「あっ!もうこんな時間だ!まずい…宿題が…」

孝一郎は突如現実に引き戻され、頭を抱えた。


「家庭教師の来る時間なんだ…小学生の時から全然進歩してないな僕は…」


神崎は微笑みながら手早く駒を片付けた。

「それでは、僕はこれで失礼します」


「うん。次は絶対負けないから!」


焦って宿題に取り掛かる孝一郎を残して、神崎は部屋を後にした。



廊下を歩く神崎の前方から、落ち着いた足音が聞こえてきた。曲がり角から現れたのは家庭教師の片桐だ。紺の三つ揃えに身を包んだ片桐は、端正な顔立ちに僅かな驚きを浮かべている。


「失礼します」

神崎は自然に会釈し、そのまま通り過ぎようとした。

片桐は立ち止まり、わずかに頭を下げると、神崎を見送った。その眼差しには懐かしさと複雑な感慨が漂っている。


廊下に神崎の足音が消えると、片桐は再び歩き出し、孝一郎の部屋のドアを軽くノックした。


「は、はい!どうぞ…」


「こんにちは。孝一郎君」


「片桐先生、こんにちは」


ドアを開けると孝一郎は焦った様子でペンを持ち、宿題のノートを前にしていた。額に汗が滲んでいる。

片桐は微笑みながら部屋に入ると、孝一郎の横に座った。孝一郎は何かを話したくてうずうずしているようである。


「どうしました?何か嬉しそうですね」


孝一郎の顔がぱっと輝いた。

「実は今ね!小学生の時にチェスクラブで知り合った友達と再会したんだ!」


「ほう。それで……」


「驚くよ!神崎怜司くんって言ってね……田所さんがフットマンとして紹介してくれたんだけど……」


「なるほど」片桐は静かに頷いた。

「あの時の彼のことですね」


「そう!本当に驚いたよ!いつか会えるって…先生の言った通りになったよ!でも彼がこの家に……しかも使用人として……」


「それは確かに興味深い偶然ですね」


「しかもね!6年生の時のチェスクラブで中断した対局の続きをしたんだ!」


「ほう」

片桐の目が興味深そうに輝いた。「勝負はどうなったのですか?」


「結局負けたんだ。だけど楽しかった!また彼に挑むつもりさ!」


「それは本当に良かったですね」

片桐の口元が緩んだ。


「ところで、今頃宿題に励んでいたようですが……」


「あっ……!ギリギリ間に合うはずだったんだけど……」

孝一郎は慌ててノートに目を落とした。


片桐はやれやれという表情でため息をつくと、立ち上がって窓際に歩み寄った。庭を掃除する神崎の姿が見える。


(あれから5年か……)


彼はふと過去を振り返った。あの時、孝一郎が秘密のクラブ通いをしていると知った時の衝撃。叱責し、厳しい罰を与えた記憶が蘇る。しかしその経験があったからこそ、今の孝一郎があるのだ。


「先生?」


孝一郎の声で我に返ると、片桐は優しく微笑んだ。

「なんでもありません。宿題を終わらせていない子には、お仕置きが必要ですね」


「ええっ!後もう少しだったのに…」


「時間に余裕を持って早めに終わらせておけば、こんな事にならないんですよ。さ、立って。机に両手をつきなさい」


片桐は壁にかけてある革鞭を手に取ると、孝一郎を促した。


「机に手をついて」


「はい……」


孝一郎は抵抗せず指示に従い、背筋を伸ばして机に両手をついた。幼い頃から馴染んだ行為とはいえ、やはり緊張感がある。


片桐はゆっくりと近づき、革鞭を軽くしならせた。


「準備はいいですか?」


「……はい」


「では一発だけ。しっかり受け止めなさい」


革鞭が空気を切り裂く鋭い音と共に孝一郎のお尻を打った。


パンッ!


「うわぁぁ!」


孝一郎が大げさに悲鳴を上げて飛び跳ねた。床にしゃがみ込み、お尻を両手で庇う。


「痛い!痛すぎる!先生手加減してください!」


「大げさですね」

片桐は呆れたように笑った。


「昔のような激しい痛みではないでしょう?」


「うん!でも痛い!あと一日は歩けないかも……」


「全く……」

片桐はため息をつきながら鞭を壁に戻した。


「冗談はさておき、次からはもっと余裕を持って宿題に取り組みましょう」


「はい」

孝一郎はお尻をさすりながら立ち上がった。

二人の間に温かな笑いが広がった。

片桐は窓際に歩み寄り、外に目をやった。ちょうど神崎が掃除道具を片付けているところだった。


「神崎君と再会できて良かったですね」


「うん!本当に嬉しかった」


孝一郎は元気よく頷くと、再びノートに向かった。窓の外では神崎が仕事を続けている。片桐はそれを見守るように眺めながら、少し複雑な思いにかられた。


(孝一郎君は無邪気に喜んでいるが、神崎君はどんな気持ちなのだろう。再会は嬉しくても、雇用主の息子と使用人という立場の違いに、戸惑いは無いのだろうか)


「先生、宿題終わりました。…先生?」


「…ああ、ちょっと考え事をしていて。では、答え合わせをしましょうか…」


家庭教師の時間が終わり、片桐は孝一郎の部屋を退室した。帰宅しようと玄関ホールへ向かうと、執事の田所が神崎を伴って待っていた。


「片桐先生、お疲れ様でした」


「わざわざどうも。今日はこれで失礼します」


「はい。神崎君、先生にコートを」


「はい。どうぞ」

神崎はハンガーからコートをはずし、片桐に手渡そうとしたところを田所が静止した。


「あ、違いますよ!こうするんです」

田所はそう言うと、コートを手に片桐の背後に回り肩の辺りにコートを広げた。


「ありがとうございます」

片桐はそう言うと、コートに腕を通した。田所は絶妙な角度にコートを傾け、スムーズに着用が完了した。その流れる様な所作に、神崎は目を見張った。


「それでは、失礼します」


「どうぞお気をつけて。神崎君、先生の荷物を車までお運びして」


「はい」

神崎は教材の入った箱を受け取ると、片桐と共に駐車場へと向かった。



「神崎君、あそこで少し話をしませんか?」


「え?僕と…」

片桐の突然の意外な誘いに、神崎は戸惑った。


「田所さんには事前に言ってありますから、大丈夫ですよ」


「…はい…それなら…」


片桐は、駐車場に隣接する庭園にあるベンチに神崎をいざなった。


「ちゃんと自己紹介してませんでしたね。私は孝一郎君の家庭教師で、片桐といいます」


「僕は、神崎怜司です。今日からフットマンとしてここで働く事になりました」


片桐はゆっくりとベンチに腰掛けた。春の風が二人の間を吹き抜け、片桐の髪が揺れる。


「実は……私たちは以前に会っていますね」

片桐は静かに言った。神崎はハッとした表情で彼を見た。


「やっぱり…そうだったんですね。あの時、孝一くん…孝一郎様を迎えに来た…」


「はい。孝一郎君があの時…」


片桐は言葉を選んだ。


「無断で通っていたチェスクラブで」


「無断で…そうだったんですか…」


片桐は軽く頷いた。

「あの頃の彼は……自由もなく、対等に戦える友人もおらず……」


彼は遠くを見るような目で空を見上げた。

「彼はあの場所で君に会って、本気で戦える喜びを知ったのでしょう」


「そうだったんですね……」

神崎は驚きと共に少し誇らしい気持ちになった。


「ただ…伯爵家の嫡男が、警備の整わない一般の小学校に一人で出入りするのは、あまりに無防備で危険な行為でした。それに…」


片桐は言葉を選びながら、話を続けた。

「あのままチェスに没頭すれば、将来への危険な偏りを生むかもしれない。彼には九条家の後継者としての……」


「…それが理由で、孝一郎様はチェスクラブを辞める事になったんですね」


片桐は重く頷いた。

「あの時は必要だと判断しました」


しばしの沈黙の後、神崎が口を開いた。

「孝一郎様は、僕との対局が中断した時も『必ずまた会える』と言ってくれました」


神崎の目に懐かしさと感謝の色が浮かぶ。

「その言葉を彼はずっと守っていました」


片桐は真摯な表情で神崎を見つめた。

「今日、君と再会できた時の孝一郎君の喜びようといったら……本当に見ているこちらも嬉しくなりました」


「それは僕も同じです。まさかこんなに早く会えるなんて思ってもいなかったから」


「本当に不思議な巡り合わせですね。ただ…」


「ただ……」片桐は少し躊躇うように言葉を選ぶ。


「君にとって……複雑な感情はないのですか?以前は友達同士だった二人が……今は雇い主の息子と使用人という立場で……」

片桐は誠実な眼差しで神崎を見つめた。


神崎はしばらく考えてからゆっくりと答えた。

「正直なところ……最初は戸惑いました」


彼は少し俯きながら続けた。

「でも対局の時は……僕も必死ですから。そんなことを考える余裕はありませんでした。チェス盤に向かえば、身分や立場は関係ありません。それに……」


神崎は顔を上げて真っ直ぐに片桐を見た。


「孤児院出身の僕が、九条家の奨学金制度のお陰で、高校に行けるんです。しかもここで働きながら大学も目指せる……感謝の気持ちでいっぱいなんです」


「そう言ってもらえて、安心しました」

片桐は安堵の表情を浮かべた。


「九条家は才能ある若者を育成することも目的としています。君が将来どこを目指しているかわからないけれど、努力次第でいくらでも道は拓けると思います」


「はい!僕はこの恩を返せるよう一生懸命働きます!そして……」


神崎は少し照れくさそうに付け加えた。


「孝一郎様が僕とのチェスを求めてくれるなら、全力で応えたいと思っています」


「そうですか」

片桐は優しい笑みを浮かべた。


「孝一郎君が君を好きな理由が解った気がします」


「そ…そんな事…」

神崎は照れたように俯いた。


「ああ、随分話し込んでしまいましたね。」


辺りは薄暗くなり始めている。


「私はそろそろ帰ります。荷物をありがとう。神崎君」


「はい」


「君と話せて良かった。慣れない仕事や環境で大変だと思いますが、頑張って下さい。それでは、また」


「お疲れ様でした」



九条家で働き始めた神崎の日々は、目まぐるしく過ぎていった。日中は屋敷から高校へ通い、帰宅後はフットマンとして働く。就業後、就寝までの時間が勉強時間に充てられた。その合間をぬって、孝一郎とチェスをする。忙しいながら、充足感を感じ始め、あっという間に一年が過ぎようとしていた。



その年の三月、孝一郎は高校の卒業を控えていた。片桐の指導のおかげで、大学も首席合格を果たしていて、家庭教師も最後の日を迎えていた。


「私が家庭教師としてここに来るのは、今日で最後になりますね」


その日、孝一郎の高校卒業と大学合格を祝い、片桐への感謝と慰労をこめて食事会が催された。


会が終わり、孝一郎の部屋で二人きりになった片桐は、しみじみと想いをはせた。

「あんなに小さかった孝一郎君が、こんな立派な大人になって…」


「先生…僕…」

孝一郎は感極まって、言葉が続けられない。


「私の厳しい指導に、よくついてきてくれました。貴方は私の自慢の生徒です」


「…先生…辞めないで…大学生になっても…勉強、教えて下さい…」

孝一郎は涙をこらえながら、必死で訴えた。


「私が教えられる事は、もう何もありません。貴方はもう大人です。」


「…でも…」


「大学で、やりたい事を見つけて、友達を作って、思い出をたくさん作って下さい」


「…はい……先生、ここを辞めたらどうするんですか?」


「私は学園の教師に戻ります。お父様のお計らいで、籍はそのままになっていますので」


「そうなんですね!今度会いに行っても…」


「もちろんです。いつでも遊びに来て下さい。…もうこんな時間ですね」


片桐は立ち上がると、孝一郎も続いて立ち上がった。


「孝一郎君、私は貴方の家庭教師を務められた事を、誇りに思います。貴方はお父様の跡を継いで、立派な伯爵になると信じています」


「…先生…僕は…」

孝一郎は涙を堪えられず、言葉を繋げる事もできずにいた。そんな孝一郎を片桐は優しく見つめ、迷いながら口を開いた。


「…孝一郎君…不敬を覚悟でいいますが…」


孝一郎は目に涙をためて片桐を見上げた。


「私は孝一郎君の事を、本当の息子のように思っていました。5才の貴方と出会った時からずっと…」


「…先生っ…!僕も……」


「孝一郎君」


片桐は孝一郎の名を呼びながら、一歩前に踏み出した。そして、優しく両手を広げた。

孝一郎はその仕草に導かれるように、片桐の胸元へと身を寄せた。


「……先生っ……!」


片桐は力強く、しかし優しく孝一郎を抱きしめた。


「本当に……大きくなりましたね」

その声には長い年月を共にしてきた師弟関係を超えた温もりがあった。


孝一郎は片桐の背中に腕を回し、縋るように抱きしめ返した。13年間の月日が、この瞬間に凝縮されているかのようだった。


「先生……!本当にありがとうございました……!」

声は震え、途切れ途切れになった。それでも孝一郎は必死で言葉を紡ぎ続けた。


「僕は……先生のおかげでここまで来られました……」

孝一郎の肩が小刻みに震えている。

片桐は孝一郎の髪に触れながら、穏やかな声で言った。


「貴方が地道に努力を続けてきた結果です」


「僕一人じゃ…先生に褒めてもらいたい一心で…」


孝一郎の声が涙で詰まった。

「だからこそ……頑張れたんです……!」


片桐は孝一郎の背中を優しく叩いた。そのリズムに合わせるように、孝一郎は少しずつ呼吸を整えていった。


「孝一郎君」片桐は耳元で囁いた。

「これからは、自分の道を自分で選んでいきなさい。どんな困難があっても、貴方は乗り越えられます」


「はい……!」


「私はいつでも貴方を見守っています。自信を持って前を向きなさい」


「先生っ……」

孝一郎は顔を上げた。涙で濡れた瞳の奥に、決意の光が宿っていた。


片桐は孝一郎の頬に触れた。

「立派になった……」


片桐もわずかに目を潤ませながら微笑んだ。

「家庭教師は終了しますが、永遠の別れではありません。いつでも会えます」


孝一郎は頷くと、もう一度しっかりと抱きついた。


そして、本当の別れの時が訪れた。


「孝一郎君、お元気で。貴方のこれからの活躍を、遠くで見守っています」


玄関ホールには、伯爵である父親や主要な使用人が見送りのために集まっている。その中で、片桐と孝一郎は固く握手を交わした。


「片桐先生、長い間、息子がお世話になりました。本当にありがとう」


伯爵からの感謝の言葉に、片桐は恐縮した。


「勿体無いお言葉です。こちらこそ、お世話になりました」


深々と一礼し、玄関扉の方へ向かうと、神崎が片桐のコートを持って近付いた。


「片桐先生、コートを…」

そう言うと、神崎は片桐の背後に歩み寄り、肩の辺りで広げた。


「ありがとうございます」


それは絶妙な角度とタイミングで、スムーズに着用は完了した。


「荷物をお持ちします」

花束や私物の入った大きめの箱を抱え、神崎は片桐の後に続いた。


「それでは、失礼いたします」


大きな拍手の中、片桐は九条邸を後にした。



駐車場へと続く道を歩いていると、庭園にあるベンチが目に入った。


「神崎君、最後に少しだけ、あそこで話しませんか?」


「はい…」


ベンチに腰掛けた二人の間を春の夕暮れの風が通り過ぎた。


「神崎君」

片桐は静かに口を開いた。その声には長い年月を経た成熟と信頼が込められていた。


「はい」

神崎は背筋を伸ばして応えた。


「君には、孝一郎君の事で頼みたいことがあります」


神崎の表情が引き締まる。

「どのようなことでしょうか」


片桐は遠くに見える伯爵家の屋根を見つめながら話し始めた。


「孝一郎君は本当に素晴らしい若者に成長した。聡明で素直で……」


そこで言葉を切り、片桐は神崎に向き直った。


「しかし……」

少し躊躇うような間の後で続ける。


「孝一郎君は明るく振る舞っていますが、根本的に孤独なのです」


片桐の言葉は重みを帯びていた。


「彼の母親は彼が小さい頃に病で亡くなり、兄弟もいません。お父様とは立場上どうしても距離があり……」


神崎は静かに頷いた。


「彼は常に周囲に気を使い、弱みを見せまいとしています。私にも……」


片桐の目が遠くを見た。


「家庭教師として長年見てきましたが、彼が本音を漏らしたのは数えるほどです」


「そうだったんですね……」神崎は小さく呟いた。「確かに、いつも明るく振る舞っていました」


「ええ。だからこそ心配なのです」片桐の視線が神崎に注がれた。


「表向きは快活で社交的な若者に見えますが、内側には脆い部分も持っています。神崎君……」


片桐の声がさらに低くなる。

「君は九条家の中で唯一、彼を対等な立場で理解できる存在かもしれません」


神崎は少し困惑した表情を浮かべた。

「対等……ですか?僕は使用人ですし……」


「対等にチェスで戦える間柄でしょう?」

片桐が優しく微笑んだ。


「彼は君に会うためにチェスクラブに入った。そして再会した今も、君と盤を挟む時間を大切にしています」


「それは……」神崎は言葉を探すように口ごもった。


「私は学園に戻っても定期的に様子を見に来るつもりです。しかし日常の小さな支えは、そばにいる人にしかできない」


片桐は真摯な眼差しで神崎を見つめた。


「孝一郎君は表面的には明るい青年です。でも彼の中には、誰にも打ち明けられない寂しさがある。彼にとって君との対局は単なる趣味以上のものになっているはずです」


「僕に何ができるのでしょうか」

神崎は不安げに尋ねた。


「具体的な何かをしてほしいわけではありません」

片桐は静かに首を振った。


「ただ彼の本当の姿を受け入れてほしい。彼が弱音を吐くとき、聞いてあげてほしい。チェスを通して彼の思考に寄り添ってほしい」


神崎は片桐の言葉を噛みしめた。


「わかりました」彼は深く頷いた。「僕にできることがあれば……」


「ありがとう」

片桐は安堵したように微笑んだ。

風が二人の間を優しく通り過ぎた。


「そろそろ行きますか」


「はい」


立ち上がった二人は駐車場へ向かった。夕陽に照らされる伯爵家の輪郭が長く伸びていた。


片桐の心には、ここで孝一郎と過ごした日々が、走馬灯のように映し出された。


5才から小学校3年生までは住み込みで、食事マナーから礼儀作法や言葉遣いまで、あらゆる生活指導も行った。


怖い夢を見て眠れないと泣いていたら添い寝をしてやり、熱を出した時には徹夜で付き添った。時には厳しく叱責し、何度もお尻を叩いてお仕置きもしてきた。そうやって長い時を寝食を共にし、確固たる信頼関係が築かれていった。そんな教え子を、一人残して去るのは後ろ髪を引かれる思いだが、成長を喜ばしく感じるのも事実である。


(孝一郎君、貴方の未来が幸せなものである事を願っています)



程なく、片桐と神崎は駐車場に到着し、車に荷物を積み込んだ。


「神崎君、いつも荷物をありがとう」


「いえ…そんな…」


「それでは、私はこれで…そういえば…」

車に乗り込もうとした片桐は、神崎を振り返った。


「神崎君、君は将来の進路はもう決めているのですか?」


「実は……」神崎は少し恥ずかしそうに言った。


「僕は教師になりたいと思っています」


片桐は意外そうな表情を見せた。

「教師?それは……素敵な夢ですね」


「孤児院で育ちましたが」神崎は空を見上げながら続けた。


「九条家の奨学金と支援があったおかげで、教育を受けることができました。だから…」神崎はしっかりとした口調で言った。


「同じような境遇の子どもたちに伝えたいんです。生まれや育ちに関わらず、努力さえすれば可能性は無限にあるということを」


片桐の目が少し潤んだ。

「そうでしたか……」彼は静かに頷いた。


「それは素晴らしい志ですね」


「片桐先生みたいな立派な先生になれればと……」神崎は真摯な表情で告げた。


片桐は軽く笑った。

「それは過大評価ですよ。ですが……」彼は神崎の目をまっすぐに見た。


「もし本当に教師になるのなら、私が教壇に立つ学園での後輩になる可能性もありますね」


「そうなるといいのですが」

神崎の顔がほころんだ。片桐は彼の肩に軽く手を置いた。


「君ならきっと良い先生になれるでしょう」


二人は少しの間見つめ合った後、片桐がエンジンをかけた。


「では、もう行きます。またいつか会える日を楽しみにしています」


「はい。どうかお元気で」


神崎が深々と頭を下げたとき、車はゆっくりと動き出した。片桐の姿が見えなくなるまで彼はそこに立ち尽くしていた。



翌朝の起床時間より少し早く目が覚めた。昨夜の出来事がまだ鮮明に思い出される。孝一郎の部屋で過ごした時間。そして片桐先生との会話……


孝一郎様は今日から大学生活が始まる。

僕も……僕の道を進んでいくんだ。


神崎は深呼吸をして起き上がると、制服に着替え、鏡に向かってネクタイを整えた。新たな一日が始まろうとしている。


だが、その後幾多の紆余曲折があり、将来は孝一郎の執事となる事を、今の神崎は知る由もなかった。



「それにしても…」

駒の移動を終えた九条は、感慨深げに言った。


「まさか君が僕の執事になってくれるなんて、あの頃は想像もしていなかった」


「…私もです」


「…君は教師を目指していたのに…僕が君を…」


「旦那様、その事は言わない約束です」

神崎は、九条の言葉を静止した。


「旦那様」神崎は九条の言葉を遮り、正面から向き合った。


「私がこの仕事を選んだのは……」神崎は静かに言った。


「完全に自分の意思です」


九条は神崎の真剣な眼差しを受け止めた。


「もちろん当初は葛藤もありました。でも…」神崎は微笑んだ。


「でも執事であれば……」


神崎は強い決意を込めて九条を見つめた。


「……最も大事な人を直接支えられる」


「…神崎君…」


「私にはその方が意味があると思いました」


彼の瞳に光が宿った。


「人生は予想外の連続です。でも結果として、私は自分の居場所を見つけたと思っています」


九条は複雑な表情を浮かべた。

「本当に……これで良かったのかい?」


「もちろんです」神崎は即答した。


「怜司君……」


九条の目が微かに潤んだ。


「私は……幸せです」神崎は静かに言った。


「孝一郎様のそばで働くことができて」


九条は言葉を失い、ただ深く頷いた。


「さあ、ゲームを続けましょう」神崎は盤面を指さした。


「チェックメイトです」


「えっ?」九条は慌てて盤上を見つめた。


「いつの間に……」


「勝負は常に目の前の一手に集中しないと」神崎は柔らかく微笑んだ。


二人の間に静かな笑いが広がった。チェス盤越しに交わされる会話は、彼らの信頼関係の深さを物語っていた。


「やっぱり敵わないな……」

九条は降参のポーズを取りながらも、満足げな表情を浮かべていた。


「それでは、私はこれで失礼いたします」


「うん。楽しかったよ。近いうちにまた」


「はい。是非」



神崎が退室すると、近くで控えていたフットマンの少年が、食器を片付けに来た。神崎は、緊張した面持ちで食器を乗せたトレーを手に廊下に出てきた少年に歩み寄った。


「佐々木君」


「は、はい!」


急に声をかけられた少年は、不安と緊張の表情を浮かべ、神崎を見上げた。彼は紅茶の給仕が苦手で、神崎から直接何度も指導を受けてきたのだ。


「先程の紅茶の給仕ですが…」


何か失敗をしてしまったかと、少年の表情がさっと曇る。


「大変良くできていました」

神崎は穏やかな笑顔を見せた。


「…本当ですか!?」


「はい。基本に忠実で丁寧な所作でしたね」


佐々木少年の顔がパッと明るくなる。

「良かったです!神崎さんに教わったとおり、何回も練習したんです。」


「そうだったんですね。でも旦那様の前でかなり緊張していましたね」


「それはもう!僕みたいな新人が旦那様にお茶を出すなんて…」


「何事も経験です。数をこなせば、緊張せずに、もっとスムーズにできるように必ずなります」


「はい!」


「頑張って下さいね」


「ありがとうございます!失礼します」



一礼して立ち去る佐々木少年の背中を見送りながら、神崎は胸に温かいものが宿るのを感じた。未熟な若者達を指導し、その成長を実感する喜び。これは、教師のそれと通ずるものではないか。


神崎は、執事の仕事のやりがいを改めて実感し、決意を新たに歩き出した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ