主の息子
ある日の午後、神崎が廊下を歩いていると、柱の影から小さな頭がひょっこりと覗いているのが見えた。五歳の賢太郎だ。孝一郎の長男で、今年から片桐の息子による英才教育が始まっていた。
「あっ……神崎さん!」
賢太郎は神崎に気づくと、堰を切ったように泣きじゃくりながら駆け寄ってきた。
「うわぁぁん!神崎さぁん!」
小さな体で必死に神崎の腿にしがみつく。
「坊ちゃま?どうなさいました?」
神崎は膝をつき、小さな肩に優しく手を置いた。
「家庭教師の時間なのでは?」
「だってぇ……片桐先生が……怖いんだもん……」
賢太郎の小さな指が神崎のジャケットを握りしめる。
「僕……嫌われてるんだ……先生は僕のこと……好きじゃないんだ……」
「なぜそう思うのですか?」
「だって先生……いつも怒ってるもん……間違うとすごく怒るもん……」
賢太郎の声が震えている。
「僕……悪い子だから……」
神崎は静かに微笑んだ。その表情には、かつて自身も経験したことのある痛みへの理解が浮かんでいる。
「そうではないですよ、坊ちゃま」
「え?」
「片桐先生はとても厳しい方ですが……それはあなたが大切な方だからです」
賢太郎が不思議そうに顔を上げる。
「僕が…大切…?」
「そうです」
神崎は賢太郎の頭に手を置き、優しく撫でた。
「完璧を求めることは、あなたの将来を案じている証拠。本当の愛情を持っているからこそなのです」
賢太郎は黙って神崎の言葉を聞いていた。
「だから、先生が怖くても逃げずに向き合うことが大切です。時には辛いこともあるでしょう。でも……」
神崎は目を細めた。
「それが本当の優しさというものなのです」
「…うん……でも、勉強から逃げたから、きっとうんと叱られる…やっぱり怖い……」
「大丈夫です。ちゃんと謝って、素直にお仕置きを受ければ、きっと許してもらえます。さあ、勉強部屋へ戻りましょう」
お仕置き、という言葉を聞いて、賢太郎の目に涙が溢れそうになる。
神崎は賢太郎の手を取った。
「さあ、行きましょう。先生も坊ちゃまを心配していますよ」
「でも……」
賢太郎は神崎のジャケットの裾をつかんだまま、足を地面に突っぱっている。
「…抱っこ……して……」
消え入りそうな声でつぶやく。
「抱っこですか?」
神崎は少し困った顔をしたが、賢太郎の小さな拳が震えているのを見て、すぐに決心した。
「特別ですよ」
そう言うと、神崎は賢太郎の脇の下に手を入れ、軽々と抱き上げた。腕の中にすっぽり収まる小さな体は、柔らかく温かい。
「わぁ……高い……」
一瞬怯えた賢太郎の顔が、安心したように緩む。神崎の肩に顔をうずめ、小さな手でしっかりと首にしがみついた。
「先生……怒ってるかな……」
「大丈夫。ちゃんと謝れば許してくれますよ」
「うん……」
廊下を歩く神崎の足音だけが響く。時々賢太郎の小さな鼻をすする音が聞こえる。
「神崎さん……パパみたい……」
突然の言葉に、神崎は少し驚いて足を止めた。
「パパみたい……ですか?」
「うん。パパもね、僕が泣いてるとき、こうやって抱っこしてくれるの」
賢太郎は顔を上げてにっこり笑った。
神崎は胸にじんわりとした温かさを感じた。孝一郎も幼い頃はこんな風に泣いていたのだろうか。そして自分もこうして誰かに抱かれて安心したことがあったのだろうか。
「そうですか。ではこれからも時々は抱っこしてあげましょう」
「ほんと!?やったー!」
賢太郎の笑顔が弾けた。その笑顔は間違いなく孝一郎譲りだった。
「でも、先生のところには自分で行きましょうね」
「うん!」
程なく勉強部屋の前に着いき、神崎はゆっくりと賢太郎を下ろした。
「大丈夫ですか?」
「うん…」
それでも不安げな表情で廊下に立ちつくしていると、気配を感じたのか、ドアが開き、勉強部屋から片桐が出てきた。それに気づくと神崎は片桐に一礼して、その場を立ち去った。
「賢太郎君!20分の遅刻ですよ。どこに行っていたのですか?」
「ご…ごめんなさい…僕…叱られるのが怖くて…」
「…そうだったんですね」
賢太郎がこんなに素直に謝るのは始めてなので、片桐はかなり驚いた。
「どうして叱られると思ったのですか?」
「…僕が、勉強ができないから…」
賢太郎が涙を堪えながら答える。
「それは違います」
片桐は賢太郎の目線までかがんだ。
「そもそも人間は生まれた時からできる事など何も有りません。皆、いろいろと試しながら学んで行くのです」
「……」
「大切なのは、学ぼうとする姿勢です」
賢太郎はじっと片桐の目を見ている。
「今までの授業であなたは確かにミスが多くありました」
「はい……」
「でも同時に多く学びもしました。それを忘れずに次に活かせばよいのです」
「わかりました」
「ではまず反省の意味でお尻10発の罰です。来なさい」
「……はい……」
賢太郎はそう答えたものの、動き出さない。
賢太郎の小さな肩が震えた。罰を受けることは怖い。けれど——
(神崎さんの言ってたとおりにしよう……)
唇をきゅっと結び、一歩前に出る。
「……お願いします」
その瞬間、賢太郎の中で何かが変わった。
自分でズボンのボタンをはずし、ファスナーも下ろし、片桐の膝の上にうつ伏せた。
いつもとは全く違う従順な態度に驚きながら、片桐は無言で賢太郎のズボンに手をかけた。ズボンと下着が下ろされると、小さな白いお尻があらわになる。片桐の右手がさっと上がる。
パァンッ!
「痛っ!」
一発目が振り下ろされた。鋭い痛みが広がる。
バシッ!パシッ!
二発目。三発目。
「うぅっ……!」
小さな声が上がる。でも逃げようとしない。
(神崎さんが言ってた……ちゃんと受けなきゃ……)
バシッ!バシッ!
四発目。五発目。
お尻が赤くなり始めた。熱い疼きが続く。
バシッ!パシッ!
「ごめんなさいっ……!」
パシン!パシッ!バシッ!
片桐の手が止まった。見ると賢太郎の目から涙が溢れている。
九発目。最後の一発。
パシッ!
「十発目。これで終わりです」
片桐の手が止まり、賢太郎を優しく抱き起こした。
「よく頑張りましたね。立派でした」
片桐が初めて微笑む。
「今までで一番良い態度でしたよ」
ズボンを上げながら片桐が言った。
「……先生…!」
「自分の間違いを認められる。それが本当の強さです」
賢太郎は小さく頷いた。
「もう怒ってませんから…さあ、涙を拭いて」
片桐はハンカチを取り出し、賢太郎の顔を拭いてやり、優しく頭をなでた。
「…それでは、今日の授業を始めましょうか」
「はい!」
賢太郎は不思議な感覚をおぼえていた。さっきまで怖くて、自分は嫌われていると思っていたのに、今はそうじゃない気がする。
(神崎さんの言った通りかもしれない)
そんな想いを抱きながら、賢太郎は片桐の授業に集中していった。
そして2時間後。
「今日はここまでにしましょう。明日は朝9時からです。今度は遅れないように」
「はい」
「では、夕食まで自由時間です」
「はい!ありがとうございました」
賢太郎はぺこりと頭を下げると、勉強部屋から駆け出して行った。
賢太郎を見送り、片桐もつかの間の休憩をとるため自室へと戻るとすぐに、神崎がコーヒーを運んできた。
「片桐先生、お疲れ様でした」
「神崎さん、わざわざすみません。先程は、賢太郎君を部屋まで連れてきてくださって、ありがとうございました」
「いいえ。たまたま廊下で見つけたものですから」
「助かりました。お恥ずかしい話ですが、私は賢太郎君に怖がられていて、しょっちゅう逃げられてしまうんです」
片桐は苦笑した。
「伯爵からは厳しく躾けるようにと言われているのですが、難しいものです」
「先生のご苦労はお察しします」
「そういえば、今日の賢太郎君は、今までに無いほど、素直で従順でした。すぐに謝って、お仕置きも自分から…いつもは膝に乗せるのも一苦労なのですが…」
「そうでしたか…」
神崎は心底安堵したしたように微笑んだ。
「もしかして、神崎さんが説得して下さったのですか?」
「説得という程の事では…素直に謝ってお仕置きを受ければ、きっと許してもらえると言っただけです」
「なるほど。そうでしたか。やはり神崎さんは子どもの扱いがうまいですね。私などはすっかり怖がられて、勉強以前の問題ですよ…」
父親とよく似た端正な顔立ちを曇らせ、片桐は肩を落とし、うなだれた。
「そんな事は…坊ちゃまは私が叱らない人間だとわかっていて、甘えて下さるのだと思います。でもいつか、叱ってくれる方の愛情に必ず気づくはずです」
「そうだと良いのですが…そういえば、神崎さんはこちらに来て長いと聞いたのですが、伯爵と父の関係は、神崎さんから見てどのような感じでしたか?」
「そうですね…私がこちらに入った時は旦那様は既に高校3年生でしたが…」
神崎は懐かしそうに話し始めた。
「私から見ると本当に羨ましいくらい、深い信頼関係で結ばれているように感じました。正に理想的な師弟関係といいますか…でも、小さい頃は先生が怖かったとも仰っていましたよ」
「そうでしたか。今は怖がられていても、私もいつか賢太郎君とそんな関係になりたいものです」
「きっとなれます。片桐先生と坊ちゃまは、お父上と旦那様によく似てらっしゃると思います。ですから、きっと」
「はい…外見だけは似ているようなので、気長にやっていきます」
父親の昔の話を聞き、片桐は前向きな気持ちになったようで、神崎は安堵した。
神崎が退室しようとした時、片桐が口を開いた。
「あの…父から聞いたのですが…」
片桐は言葉を選びながら、慎重に話を進めた。
「伯爵はもともと神崎さんを家庭教師にと考えていたそうですね」
神崎は少し複雑な面持ちで微笑みながら、首を横に振った。
「ずっと昔の事です。二人ともまだ学生で、教師を目指していた私に旦那様が戯れで仰っただけです」
神崎が大学の教育学部に入学した時には、孝一郎は自分の事のように喜んでくれた。
「入学おめでとう!神崎君が教師になったら、将来生まれる僕の子供の家庭教師になってほしいなあ。そうしたら、卒業後もまた屋敷で一緒に暮らせて、チェスの相手をしてもらえるしね!」
屈託無く微笑む孝一郎に、神崎は戸惑いと嬉しさを同時に感じていた。
「気が早すぎます。ご結婚の予定はお有りなのですか?」
「うーん、僕が生まれる前から家同士で決めた許嫁がいるんだけど、今はまだ小学生だからだいぶ先になるかな」
「…そ、そうだったんですね!」
貴族というのも、庶民には計り知れない大変なものだと驚いた。
「僕はまだ、大学の4年間はこちらでお世話になりますから。しばらくは今まで通りです」
「うん!やっと大学生同士だね。時間も自由も今までとは桁違いだよ。楽しみだね」
孝一郎は神崎をいろいろな所へ連れ出す気が満々のようだ。
実際に神崎は孝一郎の専属の従者に指名され、あらゆる場所へ同行するようになっていった。大学の講義や課題をこなしながらの随行は大変ではあったが、神崎は今まで以上の充足感をおぼえていた。
神崎にとって孝一郎は、雇用主の息子として仕える相手であると同時に、友達であり兄弟のようでもあり、かけがえのない存在になっていった。
今思えば、この頃が二人にとって一番幸せな時だったのかもしれない。
神崎が教育実習を終え、念願の教員免許を取得して、勤務先を考えている頃、孝一郎の父親である九条伯爵は大きな決断をしていた。その事が、神崎の人生に大きな影響を及ぼす事になる。
「教員免許だけは取ったのですがいろいろありまして…気が着けば執事になっていました」
神崎は遠い目をして答えた。
「…そうだったのですか…立ち入った事を聞いてしまってすみません…」
片桐は申し訳無さそうに頭を下げた。
「いいえ、今では執事になって良かったと思っています。この仕事には教師の仕事に通じるものもありますし、やりがいも有ります」
神崎が言った事は紛れもなく本心であった。
「少し話しすぎてしまいました。お疲れのところを申し訳ありません。そろそろ失礼致します」
「こちらこそ、お引き止めしてしまって…色々とありがとうございました」
片桐の部屋を辞した神崎は、ふと考えた。もしあの時、執事にならずにどこかの学校の教師になっていたら…今の片桐のように、賢太郎の家庭教師になるという未来もあったのだろうか。
しばらく考えを巡らせたが、やはり自分には賢太郎の家庭教師は務まりそうに無いと結論付けた。
たとえ孝一郎の命令であっても、あの可愛らしい賢太郎を厳しく躾けるなど、自分にはできる気がしない。ましてやお仕置きなど、どう考えてもできそうに無い。
孝一郎によく似た無邪気な笑顔を思い出し、それも含めて執事という選択は間違っていなかったと再認識した神崎であった。




