結婚
そしてついに、紗希の18才の誕生日が訪れ、神崎と紗希は結婚した。式には孝一郎や田所はもちろんの事、美奈子や片桐や使用人達、院長先生や子供達、家族や友人達など数多くの人達が集まり二人を祝福した。
式は滞りなく執り行われ、その夜遅く二人は新居となる屋敷の離れに帰って来た。
神崎が孝一郎と妾の為と思い整えたその家は、上質でありながらも控えめな絶妙な雰囲気を醸し出していた。
部屋は暖炉の火に照らされ、静かで穏やかな空気が満ちていた。テーブルにはシンプルだが上品なキャンドルが灯り、新婚の二人を優しく照らしている。ソファに並んで腰掛けた神崎と紗希は、今日という特別な日の余韻に浸っていた。
「素敵な式でしたね」紗希がそっと微笑みながら言った。
「みんながあんなに喜んでくれて……夢みたい」
神崎はそっと紗希の手を握る。
紗希の目が潤んだ。
院長先生や孤児院の子供たちの姿が脳裏に浮かぶ。子供たちは笑顔でお祝いの歌を歌ってくれた。
美奈子は白衣のまま駆けつけ「医師としての仕事は、今日だけは後回しよ!」と言って涙ぐんでいた。
孝一郎は「最高の日だ!」と言いながら何度も乾杯を繰り返していた。
紗希の声は震えている。
「こんなにもたくさんの方に祝福してもらえるなんて……思ってもみませんでした」
「僕も同じだよ」
神崎は感慨深げに微笑んだ。
「天涯孤独だと思っていたけど、実際には全然孤独なんかじゃなかったんだ。それに…」
神崎は紗希の肩を抱き寄せた。
「僕には紗希……君という伴侶が……家族ができた」
暖炉の炎が二人の影を壁に映し出す。
「怜司さん……」
「紗希…僕と結婚してくれて……ありがとう。僕は生涯をかけて、君を大切にする事を誓うよ」
「私こそ!ずっと怜司さんに憧れてました。怜司さんと結婚できるなんて……今でも夢みたいです」
「紗希……」
「怜司さん…怜司さんと出会えて、本当に良かった」
「紗希……僕もだよ……」
神崎は紗希を優しく抱き寄せ、慈しむように口づけた。紗希は神崎の背中に手を回し、幸福感に酔いしれた。
結婚指輪が交互に揺れる光景は、何とも言えない幸福感を漂わせていた。
「それに、こんな素敵な所に住めるなんて……」
「そうだよね。孝一郎様がこの家を用意してくださったのは……」
神崎が思い出すように天井を見上げた。
「最初から僕達のためにと考えて下さっていたんだ」
紗希は小さく息を呑む。
「…最初から!?」
「僕達の交際を報告して間もなく、この離れの改築を任されたんだ。大切な人を迎えたいから最高の住まいにして欲しいと仰られてね。僕は勝手に妾のためと思い込んでいたけどね」
「大切な人……」
紗希は神崎と孝一郎の絆の深さに、改めて畏敬の念のようなものを感じた。
「そうだよ…」
神崎が優しく紗希の髪を撫でた。
「孝一郎様のお心遣いに応えられるよう、これからは……」
言葉を選ぶように一瞬沈黙し、
「もっと自分の時間も大切にするよ」
紗希は驚いて神崎を見つめた。
「怜司さんが……?」
「うん」神崎が照れくさそうに笑った。
「執事としての仕事を疎かにしない範囲でだけどね」
「嬉しいです」
紗希の瞳から一粒の涙が溢れた。
「わたし……二人でゆっくり過ごしたいってずっと思っていて……」
「これからは週に一度は必ず休みを取ることに決めたんだ」
「本当に!?」紗希が声を弾ませる。
「うん。孝一郎様の強い勧めもあってね。家族を持つ者として、ちゃんと時間を作るべきだと」
神崎の声には新たな決意が込められていた。
「僕の人生で最も大切な存在を……」
暖炉の薪が爆ぜる音が部屋に響いた。紗希はそっと神崎の胸に顔を埋めた。この上ない幸福と安堵が彼女の心を満たしていく。
「怜司さん……愛しています」
「僕も…愛してる」
二人の影が炎によって一層濃く壁に映し出される。長年待ち望んだ瞬間が今ここにある。そしてこれから始まる新しい日々を想い描く幸せが部屋全体に広がっていった。孝一郎の深い愛情が生んだこの家で、二人の新しい生活が始まろうとしていた。
二人は手をつなぎ、寝室へと移動した。
寝室の空気は期待と緊張で甘く張り詰めていた。ベッドの上で向き合った二人の間には言葉にならない約束が漂っている。神崎の指がそっと紗希の頬に触れると、彼女は小さく息を吸い込んだ。
「紗希…久しぶりだけど大丈夫?」
神崎が静かに尋ねた。その声には紗希への気遣いが滲んでいる。
「はい……」
紗希が目を閉じると同時に神崎の唇が彼女の額に触れた。優しく慈しむようなキスが徐々に頬へと降りていく。
「愛してるよ」
神崎の低い囁きが紗希の耳元に届いた。その言葉一つで彼女の全身が火照るのを感じる。
「私も……愛してます…」
紗希の返事は震えていたが、確かな意思を伝えていた。
神崎の手がゆっくりと彼女の髪を梳きながら背中に回る。紗希も神崎のシャツを掴んだ指に力が入っていく。二人の鼓動が重なり合い、部屋中に響いているようだった。
長い口づけを交わした後、神崎は紗希のブラウスのボタンに指をかけた。
「緊張している?」
「はい……少しだけ」紗希が頬を染めて答えると、神崎は彼女の手を取って自分の胸に当てた。
「僕もだよ。この速い鼓動が聞こえるだろ?」
二人は顔を見合わせて小さく笑った。その笑みが緊張を和らげる魔法のように二人を包み込む。
神崎の唇が首筋に触れるたびに、紗希の体は小さな波を打った。
「綺麗だよ」
「そんな……恥ずかしいです」
「真実を言っているだけだよ」
神崎の手が優しく紗希の肌を滑り始めた。その触れる指先ひとつひとつに彼の想いが宿っているようだった。
紗希の小さな呻き声が部屋に響く。久しぶりに感じる感覚に戸惑いながらも神崎の愛撫を受け入れていく。
「怜司さん……」
「どうしたの?」
「愛されてるって……すごく実感できます。幸せです…」
その言葉に神崎の動きが一瞬止まった。彼は紗希の目を覗き込み、真剣な表情で頷いた。
「これからもずっと……僕の全てを君に捧げる」
神崎の腕の中で紗希は彼の体温を感じながら眠りについた。二人の心と体は一つとなった。
朝日が部屋に差し込む頃には紗希は既に起きていた。
隣で眠る神崎の寝顔を見つめながら昨晩のことを思い返す。痛みと共に得たものは測り知れない幸福感だった。新婚初夜を愛する人と分かち合うことができた幸せに心から感謝する。
やがて神崎も目を覚まし、彼女を見るなり穏やかな笑みを浮かべた。
「おはよう……」
「おはようございます」
神崎が彼女を抱き寄せると紗希も嬉しそうに身を預けた。
「素敵な夢を見ました」
「どんな夢?」
「私たちがずっと一緒にいる夢です」
神崎はその答えを聞いてさらに強く彼女を抱きしめた。
朝日が窓から差し込み、新婚の寝室を優しく照らしている。シーツの上で寄り添う二人の姿は、昨晩までの激しい愛撫の跡を感じさせながらも、今は穏やかな余韻に包まれていた。
「紗希……体は大丈夫かい?」
神崎が気遣わしげに尋ねると、紗希は微かに頷きながらも彼の腕に頬を擦り寄せた。
「少しだけ違和感があるけど……幸せすぎて平気です」
彼女の素直な告白に神崎の表情が和らぐ。長い指で紗希の髪を梳きながら、「僕も幸せだよ」と囁いた。
「これからはずっと一緒だ」
「はい……」
二人は言葉よりも目で語り合う。やがて神崎が身を起こすと、紗希もゆっくりと続く。彼の視線が彼女の裸体に向けられると、紗希は恥ずかしそうに毛布を引き寄せた。
紗希にはこのところ、ずっと考えている事があった。恥ずかしくて言えずにいたが、今なら言える気がする。
「あ……あの」意を決して神崎に呼び掛けた。
「何?」
「怜司さんとこうやって一緒になれたのが嬉しすぎて……もう何も怖くないと思いました」
神崎は黙って聞いている。彼女の言葉に何か不穏なものを感じ取ったのだろう。
「でも……私は未熟で……まだまだ勉強中の身ですから」
紗希はそっと神崎の手を取り、その甲にキスをした。
「これからも……私が何か失敗したり粗相をした時には……お願いします」
「お願い?」神崎が怪訝な顔をする。
「あの……メイドの時に頂いていたような罰を……」
その言葉に神崎は思わず息を飲んだ。
「紗希……何を言ってるんだい?」
「怜司さんにふさわしい奥さんになりたいんです。だから……」
紗希の声が小さくなっていく。神崎は彼女の肩を掴み、真剣な眼差しで向き合った。
「罰って……君が受けていたような厳しいお仕置きのことかい?」
「はい……」
「冗談じゃない!」神崎の声が急に荒くなる。
「君を傷つけるような真似は二度としたくない」
紗希の瞳に驚きと混乱が浮かぶ。メイド達は厳しく指導されてきた。特に初期の頃は失敗も多く、お仕置きは不可欠だと教え込まれてきたのだ。
「でも……怜司さんは……」紗希が言いかけて言葉を飲み込む。
「違うんだ」神崎は彼女の髪に優しく指を通しながら言った。
「確かに使用人の躾は必要だ。しかし……」
彼の声が低く震える。
「でもそれは君に対する愛情とは全く別物なんだ」
紗希は黙ったまま俯く。神崎の手が彼女の背中を撫でる。その温もりは言葉以上に彼の想いを伝えていた。
「紗希……君はもうメイドじゃない。僕の最愛の妻になったんだよ」
「でも……未熟なままだと嫌われるんじゃないかって……」
「僕が君を嫌うと思う?」
神崎の口調が柔らかくなる。彼は紗希の顔を両手で挟み込み、額を合わせた。
「どんな失敗をしても君は君だ。僕はありのままの君を愛している」
紗希の目に涙が溜まっていく。
「それでも……私がより良くなりたいと思ったら……?」
「成長したい気持ちは大事だよ」神崎が微笑む。
「でも罰ではなくて……」
彼の指が紗希の唇に触れる。
「教えてあげる。間違った時は一緒に考えよう」
しばらくの沈黙の後、紗希が小さく頷いた。
「分かりました……怜司さんと一緒に学びます」
「それこそが僕たち夫婦の第一歩だね」
神崎が紗希の身体を引き寄せる。二人の間にあった緊張が溶け始め、代わりに深い信頼感が流れ込んでくる。
「でも……」神崎が突然真面目な表情で付け加える。
「万が一君がうんと悪い子だったら……」
「はい……?」紗希が不安げに見上げる。
「その時は……ベッドでのお仕置きが必要になるかもね」
紗希の顔が一瞬で赤く染まる。
「え……!」
「冗談だよ」神崎が笑う。
「でもそういう意味の罰ならいつでも歓迎するよ」
二人の間に甘い笑いが広がる。新しい関係の始まりは時に衝突も伴うけれど、こうして乗り越えていく。紗希は改めて思った。この人と結婚できて本当によかったと。
「怜司さん……わたし頑張ります」
「焦らなくていい」神崎が優しくキスをする。
「時間はたっぷりあるからね」
朝日はすでに高く昇っていた。新しい一日が始まり、二人の人生もまた新たな章を開いていく。




