主従の絆、現在へ
そして月日は流れ去る。
孝一郎は予定通りに結婚し、翌年には長男の賢太郎を授かる。九条家の事業はすこぶる順調で、拡大の一途を辿っていった。
神崎は執事の仕事に邁進し、年中無休で働き続けた。
孝一郎の身の回りのことはもちろんの事、屋敷や広大な敷地の管理運営、使用人達の指導監督など全てを取り仕切った。
特に使用人達の福利厚生に力を注いだ。週休二日制や8時間労働、有給休暇を先駆けて導入し、世間の話題を集めた。
医務室を設置して、医師の美奈子が常駐するようになったのも、神崎の功績である。
そして今、神崎と孝一郎は再びワイングラスを重ねている。
「この10年、本当にいろんな事があったね」
孝一郎は遠い目をして感慨深げにつぶやいた。
「君の働きには本当に頭が下がるよ」
孝一郎はワイングラスを傾けながら続けた。
「事業がここまで大きくなれたのも、すべて君が裏で支えてくれたおかげだ」
神崎は慎ましやかに首を振る。
「私はただ与えられた職務を全うしただけです」
「与えられた職務?」孝一郎が微笑む。
「8時間労働制度も有給休暇も、すべて君の提案だったじゃないか。それに医務室の設置だって……」
「あれは」神崎が僅かに眉を寄せた。
「以前、メイドが過労で倒れたことがありましたので」
「そうだね。あの時の君の迅速な対応が全てを変えた」孝一郎は神崎のグラスにワインを注ぎ足した。
「僕が最も信頼できる相談相手は常に君だった」
10年前のあの秋から考えると、信じ難いほど二人の関係は深まっていた。主人と執事いう枠を超えながらも、決して崩れない境界線を保った独特の絆。
「それだけではない」孝一郎が静かに言った。
「君がいなければ、僕はきっと潰れていただろう。賢太郎が生まれた時の僕の狼狽ぶりと言ったら……」
神崎の目元に柔らかな笑みが浮かぶ。
「奥様が出産されたときの孝一郎様は……」
「やめてくれ」孝一郎が赤面して手を振る。
「妻が陣痛で苦しんでいるのに何もできない自分が情けなくて……君がいなければどうなっていたか」
二人は昔話に花を咲かせながらも、10年の歳月が彼らにもたらした変化を無言で共有していた。
神崎は33歳を迎え、精悍さに加えて落ち着きが増し、九条家の重臣として風格を備えていた。孝一郎も35歳となり、青年の頃の奔放さは消え、家長としての威厳と穏やかさが同居している。
「ねえ怜司君」
孝一郎が真摯な眼差しで神崎を見つめた。
「この十年間……本当にありがとう」
その言葉には多くの意味が込められていた。執事としての卓越した才能への称賛だけでなく、孤独な主人を支え続けた友人としての感謝も含まれている。
神崎は一瞬言葉に詰まりながらも、深々と頭を下げた。
「私の方こそ…」
声が少し震えている。
「このような素晴らしい家にお仕えできたこと、そして……」
言いかけて言葉を選ぶ。
「貴方のような主人に出会い……友人と認められたこと……」
窓から差し込む月明かりが神崎の横顔を照らす。
「それが私の人生最大の誉れです」
10年前の秋の夜と同じように、二人の間には言葉にできない深い絆が流れていた。
あの日の別れは確かに神崎の人生を大きく変えた。だが、全ての出来事は、今現在に繋がっている。紗希との出会い、孝一郎の後押し、危うい交際を経ての婚約…
神崎からの言葉に孝一郎は幸福感を噛み締めた。
「うん…これからも、よろしく頼むよ」
距離を保つというあの日の決意は間違っていなかった、これからも変わらずただ側にいようと決意を新たにする。
「そうだ、怜司君。これからの事だけど…」
孝一郎は笑顔で神崎に話しかけた。
「紗希さんとの式の準備は進んでいるかい?」
孝一郎がワイングラスを回しながら訊ねた。神崎は穏やかに頷く。
「はい、もう来月ですから」
「素晴らしい縁組だよ」
孝一郎の声には純粋な祝福が込められていた。
「彼女なら君をしっかりと支えてくれるだろう」
窓の外では雨上がりの月明かりが庭園をきらめかせていた。二人が過ごしてきた10年間と同じように、晴れやかな未来が待っている。
「それでね、怜司君」
孝一郎が少し姿勢を正した。
「この機会にぜひ伝えたいことがあるんだ」
神崎も自然と居住まいを正す。主人がこんな真摯な表情を見せるのは珍しい。
「何でしょうか」
「今までありがとうという感謝は充分に伝えたつもりだ」孝一郎が目を細める。
「でもこれからの時代は……少し違う形で君に関わっていきたいと思っている」
神崎はわずかに眉を寄せた。主人の意図を探ろうとする。
「つまりね」孝一郎は深呼吸をした。
「紗希さんとの結婚を機に、君はもっと時間を取るべきだと思うんだ」
「時間……ですか?」
「執事としての勤勉さは素晴らしいよ」孝一郎が神崎の手をそっと取る。
「でもそれ以上に大切なことがあるだろう?」
「それは……」
「家族だよ」孝一郎の声が強まる。
「これから始まる新しい家族を慈しむこともまた大切なんだ」
神崎は言葉に詰まった。10年間一切の休暇も取らずに尽くしてきた自分にとって、その提案は意外なものだった。
「九条家のためには今後も全力を尽くします」
「そういう意味じゃない」孝一郎が首を振る。
「僕はね……執事としての君はもちろん必要だけれど、それ以上に友達として大切な存在だと思うんだ。だからこそ、家族を持つ君を支えたい」
雨に濡れた窓ガラス越しに見える庭園が二人を象徴するかのように輝いている。
「これからは最低でも週に一回は、必ず休みを取るんだ」孝一郎の命令は断定的だった。
「何曜日でも構わない。もし来客があったとしても、別の者が対応する。人手が足りないなら、新しく雇用して分担するんだ。これは決定事項だ」
「しかし……」
神崎の反論を孝一郎が遮る。
「紗希さんとの時間も大切にするんだよ」
孝一郎の眼差しは優しさに満ちていた。
「これまでの10年は全て僕のためだった。これからはその一部でも君自身のために使ってほしい」
神崎は深く考え込んだ。
確かに紗希との時間がなかなか取れず、寂しい思いをさせてきた。せめて結婚したら週に一度くらいは夫婦水入らずの時間を……そんな考えが浮かぶ。
「わかりました」
神崎はついに決意したように頭を下げた。
「孝一郎様のご配慮に感謝致します」
言葉を区切りながら神崎は続けた。
「新たな生活を始めることにも不安がありますが……このご提案はありがたく受けさせていただきます」
その声には揺るぎない決意が感じられた。
「よかった」孝一郎の表情が明るくなる。
「仕事と家庭を両立させるのは、有能な大人の男の証だよ。君なら絶対にうまくやれると信じてるよ」
窓の外では初秋の風が吹き抜け、二人の間に新しい季節の到来を告げていた。10年の忠誠と新たな生活の狭間で、神崎は初めて自分自身の変化を受け入れる決意をした。




