主従の絆
その夜、神崎の部屋の扉がノックされた。
「入ってもいいかな?」
孝一郎の声だった。
「どうぞ……」
神崎は執務机に座ったまま振り向かずに答えた。部屋の電気は消されており、月明かりだけが薄暗い室内を照らしている。
孝一郎は両手にワイングラスと数本のボトルを抱えていた。
「少し付き合ってくれないか?」
「……すみませんが気分が乗らないんです」
神崎は机に向かったままだったが、孝一郎は構わず部屋に入ってきた。
「どうしても話したいんだ」
孝一郎は執務机にワインとグラスを置き、椅子を運んできて座った。
「小百合さんのことで……君は今とても苦しんでいるだろう」
「…………」
返事の代わりに神崎の肩が震えた。
「僕には何もできないかもしれない。でも……友人として力になりたい」
孝一郎が優しく声をかける。
「言葉にしてみてはどうかな?」
神崎は長い沈黙の後、ゆっくりと孝一郎の方を向いた。
その目には涙が浮かんでいた。
「……僕は……彼女を守れなかった……」
堰を切ったように言葉が溢れ出す。
「どうして僕はあんなに仕事ばかり……彼女の気持ちを……」
神崎は拳を握りしめた。
「あの電話の時……ちゃんと話を聞いていれば……」
孝一郎はワインをグラスに注ぎ、神崎に差し出した。
「さあ、飲んで。気持ちを全部吐き出すんだ」
神崎は震える手でグラスを受け取ると、一気に飲み干した。普段はこんな飲み方はしないが、孝一郎は黙ってワインを注ぎ足した。
「貴族の世界で生きていれば、こういう事があるのは分かっていたのに……どうして僕はあんなに無知で愚かだったのか……」
神崎の声が詰まる。
「彼女の気持ちをわかっていながら気付かないふりをして…何も約束してこなかった……そのせいで……」
孝一郎は黙って神崎の肩に手を置いた。
「君は一生懸命だった。それはみんな分かっている」
「でも……彼女はもう……」
「怜司くん」孝一郎が名前を呼ぶ。
「君は誠実だった。ただ運命が……あまりにも残酷だったんだ」
「運命なんて……」
神崎の声が震える。抑えきれなくなった感情が溢れ出る。
「なんで……こんなことに……」
涙が止めどなく頬を伝う。
孝一郎は優しく神崎の背中をさすった。
「誰も予測できなかったことだ。君が悪いわけじゃない…」
孝一郎は何度もワインを注いだ。酔わせて感情を吐き出させる事しかできなかった。
どれだけグラスを重ねただろうか。
やがて神崎の体が傾き始めた。酔いが回ってきたのだろう。普段はどんな量のアルコールも制御できる彼が、今夜は違う。
「……彼女に……謝らないと……」
呟きながら机に肘をついた神崎の肩が大きく揺れた。
「おい!大丈夫か?」
孝一郎が駆け寄った時には既に遅く、神崎は突っ伏すように机に倒れ込んでいた。かすかに寝息が聞こえる。
「…怜司君……」
孝一郎は深い溜め息をついた。神崎がこれほど弱っている姿は初めて見る。あんな事があって、どれだけ辛かっただろう……
「こんなところで寝たら風邪をひくよ。起きて…しょうがないな」
どんなに揺さぶっても全く目を覚まさない神崎の腕を自らの肩にかけ、孝一郎は慎重に神崎の上半身を持ち上げた。
「さあ、寝室へ行こう」
細身だが長身の神崎の身体は思ったよりも重かった。学生時代に剣術を習っていた孝一郎には何とか運べる重さだ。
「ほら……ちゃんとベッドで寝てくれよ」
寝室への短い距離を引きずるように移動する。神崎は全く抵抗せず、ただ浅い呼吸を繰り返していた。
なんとかベッドサイドまで辿り着いたその時だった。
「うわっ!」
床に敷かれた絨毯の端に足が引っかかり、孝一郎の体勢が崩れた。慌てて神崎を庇おうとするも間に合わず——
ドサッ!
鈍い衝撃とともにベッドの端に仰向けに倒れ込む孝一郎。その上に神崎の体重がかかり、彼の顔が孝一郎の胸元に埋まる形になった。
「……怜司君!」
孝一郎の声が裏返る。彼の胸元で規則正しい寝息を立てる神崎。
「起きて…」
軽く揺すってみるが反応は無い。むしろ神崎の腕が孝一郎の腰に回り、「……小百合さん……」と寝言を漏らしながら抱きしめる。
「…怜司君……」
孝一郎の顔が赤らむ。
友人とはいえ、同じ男性の体重と温もりが全身にかかる感触に動揺していた。しかも神崎の吐息が鎖骨にかかり、ワインの香りと共に彼自身の香りが混ざって……
孝一郎は困ったように微笑んだ。こんな状況なのに——いや、こんな状況だからこそ——胸が熱くなる。
学生時代から感じていた神崎に対する特別な感情。それが友情を超えた何かだと気づいたのはいつだったか。
(ああ……やっぱり好きなんだ)
無意識に神崎の背中に手を回す。痩せた背中から伝わる確かな体温に胸が高鳴った。普段の毅然とした執事姿からは想像できない無防備な姿。寝息が孝一郎のシャツ越しに伝わり、肌が粟立つ。
「……本当にバカだな、僕は」
苦笑いしながら神崎の髪を優しく撫でる。月明かりに照らされた漆黒の髪が柔らかく光を反射していた。額にかかる前髪をそっと払い、その寝顔を見つめる。睫毛が意外に長いことに初めて気づいた。
(君が悲しむ姿を見るのが辛い)
(だからといって……)
唇を噛む。孝一郎には神崎を奪う勇気も権利もなかった。彼の苦しみに付け入ることは絶対にしたくなかった。友としての立場を越えられない自分への苛立ち。
(このまま時が止まればいいのに……)
心の奥で呟く声を聞きながら、孝一郎はそっと手を離した。神崎の肩を支え直し、ゆっくりと自分の身体から引き離す。
「こんな服装で寝たら疲れが取れないよ」
そう言うと、孝一郎は神崎のジャケットを脱がした。神崎は深い眠りに落ちていて、されるがままになっている。続いてネクタイを丁寧にほどき、ワイシャツの首のボタンを二つ外した。
次にズボンのベルトに手をかけた。一瞬躊躇したが、他意は無いと自分に言い聞かせバックルを外す。ファスナーを下ろし、ズボンも両足から引き抜く。
なんとか楽な格好にすると、布団を引き寄せて冷えないように掛け直し、孝一郎は立ち上がった。
「……ごめんね」
月光が窓から差し込む静かな部屋で、孝一郎は振り返った。神崎の寝顔は安らかだが、目の周りは泣いた痕で腫れている。そんな姿を見て胸が痛んだ。
(いつも冷静な君がこんなに泣いて…僕は絶対に君を傷つけない…ただ側にいるよ)
孝一郎は決然と背筋を伸ばした。執務机に残ったグラスと瓶を片付けながら、窓の外に目を向ける。夜空が無数の星を散らしていた。
「親友として——それが今の僕たちに必要な距離だ」
囁き声は夜の静寂に溶けていった。孝一郎は部屋を後にしながら、明日からの決意を新たにする。
神崎の悲しみが癒えるまで、いや一生かけても——彼の一番の理解者であり続けようと。
朝靄の中、神崎は朦朧としながら目を覚ました。
(…昨晩は孝一郎様とワインを飲んで…その後…?)
ひどく泣いてしまった気がする。
(いつベッドに入ったんだろうか)
何とか記憶を手繰り寄せるが、何も思い出せない。
(ハンガーに……執事服が?)
神崎はぼんやりと壁際を見つめながら手を伸ばした。シーツの感触が素肌に触れる。ズボンもジャケットもない軽装姿に混乱する。
「え……?」
慌てて起き上がり、ベッドサイドの姿見に飛びつく。シャツのボタンは外され、ネクタイもない。鏡に映る自分の姿があまりにも無防備で恥ずかしさに頬が熱くなる。
(昨晩の記憶がない……)
記憶はぼんやりしている。
孝一郎と飲んだ酒のことしか覚えていない。執事服はきちんとハンガーに掛けてあったが自分のいつもの掛け方とは微妙に違っている。
「まさか……」
(孝一郎様が……ここまでしてくれたのか?)
執事服を丁寧に掛けている孝一郎の慣れない手つきを思い浮かべると、妙な気恥ずかしさが込み上げてくる。昨晩の醜態を思い出しつつも、心の中に芽生えた奇妙な安心感に戸惑う。
「執事失格だ……」
そう呟きながらも神崎は素早く身支度を整え始めた。もうすぐ孝一郎の起床時間である。窓から差し込む朝日が彼の真新しいシャツを白く照らしていた。
まだ薄闇が残る廊下を足早に通り抜け、孝一郎の私室の扉を叩く。中から応える声はまだ眠そうな響きだった。
「…はい…どうぞ……」
「失礼致します」
扉を開くと孝一郎はベッドの中で眩しそうに目を開け、すぐに驚いた表情を見せた。
「怜司君?こんな時間に……今日は休むよう言ったのに…」
「昨日はご迷惑をおかけしました!」
神崎は深々と頭を下げた。昨夜の記憶が途切れていることに苛立ちつつも、自分が醜態をさらしたことだけは確信していた。
「記憶がないのですが……どうやら泥酔してしまい……」
「ああ」孝一郎は起き上がると、柔らかく笑った。
「大丈夫だよ。君は疲れていただけだ」
「気づいたらベッドにいて、服まで……」
「自分でやったと思ってた?」
神崎の顔が赤くなる。
「……覚えていないのですが……」
「実は」孝一郎はさらに言葉を続けた。
「僕がやったんだ」
「え?」
「君はすごく酔っていてね。服が皺になるといけないと思って……勝手ながら手伝わせてもらったよ」
神崎は言葉を失った。まさか主人に自分の介抱をさせるとは—。
「申し訳ありません!執事の務めも果たせずに醜態をさらしてしまい……お手を煩わせるなど…」
「友人として当たり前だよ。いつも君が僕にしてくれてる事じゃないか。本当はパジャマを着せたかったけど見当たらなくてね」
孝一郎は微笑みながら言ったが、その目にほんの少し悲しみが浮かんでいた。
「本当に申し訳ありません」
「もう謝らなくていいよ。それより、君は今日一日くらいゆっくり休むんだ。あんな事の後なんだし…」
「いいえ。僕はもう大丈夫です」
神崎はきっぱりと答えた。
「働いている方が気が紛れますし、少しだけ吹っ切れた感じなんです」
「でも……」
「彼女に言われたんです。僕が執事で誇らしいと。出会ったこの場所を守ってほしいと」
孝一郎は黙って神崎の言葉に耳を傾けた。
「孝一郎様、最後に彼女と話す機会を作って下さり、本当にありがとうございます。何も話せずに別れていたら、いつまでも引きずっていたかもしれません」
「…僕にできるのは、それくらいしか無かったんだ……」
孝一郎は辛そうに目を伏せる。
「辛い現実ですが…僕は少しだけ救われたんです。これからは、全力で執事の仕事に励みます」
神崎の言葉に、孝一郎も少しだけ救われた。
「うん、よろしく頼むよ!」
孝一郎がベッドから立ち上がると、神崎はクローゼットから今日の服を選ぶ。
「お好みのものをいくつかお選び致しました」
「ありがとう……あっ」
孝一郎が袖を通し自らボタンを留めようとして、困惑した表情を浮かべる。シャツのボタンが小さくて留めにくいのだ。
「こういうのって難しいね」
「慣れれば簡単ですが……」
神崎が手を伸ばすと自然な動きでボタンを留めていく。
「首元、きつくないですか?」
「いや……」孝一郎が笑みを浮かべた。
「…昨日、君の服を脱がせてみて、君が普段やってる事の大変さがわかったよ。毎日こんな細かい作業を完璧に……本当にありがとう」
その言葉に神崎は思わず動きを止めた。
「……孝一郎様……」
「正直言って」孝一郎はシャツの襟を整えながら続ける。
「執事の仕事って地味に見えるけど、すごく繊細で尊いものだって改めて気づいたよ。君みたいな人がいるからこそ、僕は自由に振る舞えるんだな」
神崎の目に熱いものが込み上げるのを感じた。昨日の失態で自信を失いかけていた矢先、主人からの最大の賛辞だ。
「恐縮です……」
「これからもよろしく頼むよ」
孝一郎が自然に神崎の肩に手を置いた。
(孝一郎様…貴方の信頼に僕は…あの時……ひどい事を……)
「はい…あの…孝一郎様……お話しなければならない事があります」
孝一郎の言葉に神崎は胸が熱くなりながら、意を決して切り出した。
「実は……」
神崎が言い淀む。朝の清涼な空気の中で告白の言葉が重く響く。
「……昨日、小百合さんに……二人で外国に逃げよう、誰も知らないところで二人で暮らそうと……言ってしまいました」
孝一郎の手がネクタイピンに触れたまま一瞬止まった。
「……そうか」
鋭い痛みが孝一郎の胸を走る。無意識に握った右手の関節が白くなった。
(やはり……君はそう言ったんだね)
ただの友人でいると決めたばかりなのに、深い場所で傷ついている。
「君は本気だったんだね」
言葉は冷静だが、心は大きく揺らいでいる。
「いくら気が動転していたとはいえ、軽率な裏切り行為でした。本当に申し訳ありませんでした」
神崎は深々と頭を下げる。
「でも、実際には起こらなかったことだろう?」
ネクタイを整える手が少し震えた。
「君がどんな行動を選んでも、それは君自身の判断だ」
無理に言葉を探す。喉の奥が焼けるように痛い。
(わざわざ言わなければ、誰にも知られない事なのに…君は本当に誠実で不器用過ぎるよ……)
「実はね」孝一郎の声が少し掠れた。
「僕は正直……少しだけホッとしているんだ」
「え?」神崎が驚いた顔で主人を見つめる。
孝一郎は窓際に歩み寄り、朝日に照らされた庭を見下ろした。
「君が小百合さんとどこかへ行ってしまうんじゃないかと……ずっと怖かった」
振り返った彼の目に真摯な光が宿る。
「でも君はここに残った。執事として僕の側にいてくれる」
孝一郎の口元が微かに緩んだ。しかし次の瞬間、その笑みは苦悩の表情に変わる。
「ごめん……君が失恋したのに嬉しく思ってしまうなんて……友人として最低な裏切りだね」
神崎は言葉を失った。孝一郎がそんな葛藤を抱えていたとは思いもよらなかった。自分の浅はかな行動が主人にこんな重荷を与えていたなんて……
「僕の方が……取り返しのつかない裏切り行為をしてしまいました。謝るのは僕の方です」
孝一郎が神崎の肩に手を置いた。温かい感触が伝わる。
「互いに裏切り者だったってわけだね」
孝一郎の声は優しく諦めに満ちていた。
「だから……この件は無かった事にしよう。お互いに何も言わなかった。何も知らなかった」
窓から差し込む朝陽が孝一郎の横顔を金色に染める。その表情は穏やかでありながら、どこか深い決意を秘めていた。
「君は大切な執事であり親友だよ。それはこれからも変わらない」
彼は自分の言葉に区切りをつけるように断言した。
神崎は深い息を吸い込んだ。彼の胸に込み上げてきたのは畏敬の念だった。
「孝一郎様……」
声が詰まる。主人の潔い態度が神崎の心を打った。
「貴方は本当に……僕なんかのために…」
彼はゆっくりと膝を折り、正式な最敬礼の姿勢を取った。
「孝一郎様、この神崎怜司、生涯を通してお仕えする事を改めて誓います」
その声には揺るぎない決意が籠っていた。
孝一郎は静かに頷いた。朝日が彼の輪郭を黄金色に輝かせている。
「その言葉、決して忘れないよ」
彼が神崎を立たせると、二人は固く握手を交わした。掌から掌へ伝わる温もりが、言葉以上の絆を確かめ合っていた。
窓辺から射し込む光が二人の間に横たわる過去の傷を優しく包み込んでいく。
その夜、神崎は自室の机に向かいながら、田所執事の言葉を思い出していた。
『執事には生涯独身を貫く慣習があります。何よりも主人を優先させるために、執事が自らに課す忠誠の証なのです。まだ若い君にはピンとこないかもしれないが、時期がきたら考えるように—』
田所執事の言葉が神崎の耳に蘇る。
(あの時は単なる訓示だと思っていた)
「僕はもう迷わない」
神崎は誰にともなく呟く。失った恋を嘆くより、今ある忠義を全うする道を歩むべきだ。
孝一郎の優しさが心に染みた。
彼は神崎が去ることを恐れながらも、最後に話す機会を与えてくれた。そして、二人で逃げようとしたのにそれを無かった事にしようと……その恩義に報いる唯一の方法は—
(僕にできることは一つしかない)
神崎は引き出しにしまってあった写真を手に取った。そこに収まる小百合の姿が朧げに浮かぶ。彼女との日々は宝物だが、未来は孝一郎と共にある。
神崎は写真を裏返し、そっと引き出しの奥深くへと入れた。
「執事としての道を全うしよう」
誓いの言葉が虚空に溶けていく。静寂の中で神崎は瞼を閉じた。喪失の痛みも新しい決意も全て含めて、これが己の選んだ道なのだ。
翌朝から神崎の仕事ぶりは更に冴え渡った。
孝一郎の世話を細部まで気遣う姿は周囲の評価を一段と高めた。持てる全てを主人に捧げる献身的な姿勢には揺るぎがない。
季節が変わり葉が紅く色づく頃、孝一郎は神崎に問いかけた。
「君は最近忙しすぎじゃないか?もっと休息も取るべきだと思うけど」
「いいえ」神崎は穏やかに微笑んだ。
「私の居場所はここにあります。それに……」
言葉を区切り深く息を吸う。
「執事としての使命を全うすることが私の生きる目的となりました」
孝一郎は複雑な表情を浮かべつつも、静かに頷いた。
程なくして、候爵と小百合の結婚が発表され、大貴族とメイドの結婚は奇跡のシンデレラストーリーとして世間を多いに賑わせた。だがその影に涙を呑んだ者達がいた事を知る者は少ない。




