突然の別れ
翌日から、目の回るような忙しい日々が始まった。新規採用の使用人達への教育や指導、各種手続き等、全てが神崎の肩にのしかかる。
屋敷の運営が軌道に乗るまで、神崎は昼夜を問わず休みなく働き続けた。当然、別邸へと移った小百合に会う時間は無く、あっという間に3ヶ月が過ぎ去った。
その夜、神崎の執務室の直通電話に小百合から電話がかかってきた。
「もしもし?小百合さん?」
執務室で帳簿整理をしていた神崎は、久しぶりの彼女の声に驚いた。
「どうしたんですか?こんな時間に」
「ごめんなさい……仕事中に」
小百合の声は少し震えている。
「ちょっと相談したいことがあって……」
「相談?もちろんいいですよ」
神崎はペンを置き、椅子を回して窓の方を向いた。別邸の方角を見ながら彼女の話を聞こうとした矢先—
コンコンコン!
ノック音が響く。
「神崎さん!申し訳ございませんが至急確認いただきたい事が……」
メイドの声だ。
神崎は眉を寄せた。電話の向こうの小百合も気づいたようで、
「あっ、忙しいみたいね。またかけるわ」
「いえ、すぐに終わりますから」
だが扉の向こうで他の使用人たちの話し声が聞こえる。どうやら複数の案件が重なっているようだ。
「大丈夫よ。本当に重要な用事じゃないから」
小百合の声には寂しさが滲んでいた。
「それより……怜司君、あまり無理しないでね」
「小百合さん……落ち着いたらかけ直します」
電話が切れた。神崎はいつにない小百合の様子を気にしながら受話器を置き、急いで部屋を後にした。
「それじゃあ、これで失礼します」
新規の料理人の採用面接が終わり、神崎は疲れた足取りで廊下を歩いていた。この一ヶ月、睡眠時間を削って対応した案件がようやく片付いたところだった。
執務室に戻ると、机の上には未処理の書類が山積みになっている。小百合のことが頭をよぎった。あの電話以来、彼女からの連絡はない。自分から連絡すべきだったのに—。
「怜司君、少しは休息を取れたかい?」
孝一郎が書類を手に入ってきた。新しい領地管理に関する指示書だ。
「なんとか……」
「君の働きぶりには感謝しかないよ」
孝一郎がソファに腰掛ける。
「実は……君に話があってね」
神崎が座り直すと、孝一郎の表情が微妙に変わった。
「最近、別邸の方で気になる噂を聞いたんだ。実は…小百合ちゃんに……貴族との縁談が持ち上がっているらしい…」
孝一郎の言葉が執務室に静かに響いた。神崎の手から万年筆が滑り落ちる。
「……え?」
「相手は北部を統べる侯爵だ。数年前に奥方を亡くされてね。別邸のパーティで小百合ちゃんを見初めたらしい」
神崎の思考が停止した。侯爵—伯爵よりも上の爵位。まさか一介のメイドを本気で…
「『後添い』という形だけど……貴族が一般人を正妻に迎えるのはかなり異例なんだ。それだけ本気なのは想像に難くない……」
確かに、単に気に入っただけなら愛人か妾として囲うのが普通だろう。
孝一郎がカップを持ち上げる。その手が僅かに震えていることに神崎は気づいた。
「先週、正式な申し込みがあったそうだ。つまりこれは、国王陛下の承認を得ている事になる。田所さんが対応しているけど……時間の問題かもしれない」
貴族の結婚には国王の許可が必須であり、それが得られたとなるともう後戻りはできない。
執務室の空気が重い。神崎の喉が渇いていく。
「どうして……そんな…彼女の気持ちは……」
「彼女は自分には好きな相手がいるからと断ろうとしたけど…」孝一郎が静かに言う。
「今現在、結婚や婚約をしていないのだから、構わない、と言われたそうなんだ……」
「そんな……」
小百合が神崎との将来を夢見ている事は、はっきりと言葉にしなくてもわかっていた。
仲良さげな家族連れを羨ましそうに見る時、同年代の友達の結婚の話をする時など…それでも神崎は、若さゆえに、それに気付かないふりをしていた。
もしも逃げずに将来の約束をしていたら、この事態は防げたのかもしれない。
孝一郎は更に言葉を続ける。
「…侯爵は人格者として知られている。小百合ちゃんが幸せになれる可能性は高い…」
神崎は自分の爪先を見つめた。あの夜の小百合の表情が脳裏に浮かぶ。電話越しの震える声。
「もしかして……あの時の電話は」
「聞いていたのかい?」
「…いえ……」神崎は掠れた声で答えた。
「一ヶ月前のあの晩です。小百合さんから電話がありました。でも急な仕事が入って……」
言葉が途切れる。執務室の窓ガラスに映る自分の顔が歪んで見えた。
「すぐに終わると思って……でも……」
喉が詰まり、言葉が出てこない。
「それで彼女は何と?」
孝一郎の声には非難の色はなかったが、神崎は自分が責められているように感じた。
「分からないんです」神崎は拳を握りしめる。
「あの時……彼女が何を話そうとしていたのか……」
唇を噛む。後悔の波が押し寄せる。もし一瞬でも仕事よりも彼女を優先していたら……
「あの時電話を切ったことを……激しく後悔しています」
声が震えた。
「おそらく彼女は……」
孝一郎が言いかけて口を閉じた。窓の外では雨が降り始めている。
「おそらく電話の内容はこの縁談についてだったんだろうね」
孝一郎の声には同情が滲んでいた。
沈黙が続いた。神崎は拳を強く握りしめている。
「もう遅いですか?彼女の気持ちを聞くには……」
「間に合わないかもしれない」
孝一郎が残酷な事実を告げる。
「でもね、怜司くん」彼が立ち上がり、友の肩に手を置いた。
「このまま何もしないで後悔するのは違うんじゃないかな」
雷鳴が響き渡った。
「明日、一緒に行こう」孝一郎の決意が声に宿る。
「別邸へ。君と小百合ちゃんでしっかり話し合うんだ」
「ですが……執務が……」
「僕の随行は立派な執務だろう?」
「はい…ありがとうございます……」
雨が上がった翌朝、霧の漂う中を二人の乗った黒塗りの車が別邸へと続く坂道を登っていった。
「怜司くん……準備はいいかい?」
孝一郎の声が神崎の耳に届く。彼は黙って頷いた。
昨夜眠れぬまま考え抜いた答えがあった。どんな結果であろうと、小百合と向き合う—その一点だけを胸に刻んでいた。
「お待ちしておりました」
玄関で田所が深々と頭を下げた。彼の表情には珍しい疲労の色が浮かんでいる。
「こちらへどうぞ」
執務室に通されると、重苦しい空気が二人を迎えた。暖炉の火が弱々しく燃えている。
「お話を伺わせてください」
神崎の声は震えを抑えていた。
「小百合さんのことですが……」
田所はゆっくりと眼鏡を外し、拭った。その仕草一つひとつに時間がかかっている。
「申し訳ありません。事態はもう……手遅れに近い状況になっています」
「どういう意味ですか?」
神崎が前に踏み出す。田所の机の上には開封された書状が並んでいた。
「侯爵様は徹底的に進められています」
田所が溜息をつく。
「昨日、正式な婚姻契約書を持参されました。そこには……」
一枚の書類を広げる。
「小百合さんの両親の署名も入っています」
「家同士の同意のみで成立する貴族の婚姻です」
田所の声は重い。彼の指が契約書の上を滑る。
「この国の法律では、当主の意思さえあれば本人の承諾など不要なのです」
「でも!彼女は……」
「侯爵家からは莫大な結納金が提示されました」田所が言葉を遮る。
「彼女の両親には借金があり……それを即金で完済して余りある額です」
書類を指す指が震えている。
「小百合さんは承諾していません。しかし……彼女一人の意思では覆せない事態になっています」
壁際の窓から差し込む光が床に模様を作る。その影が不吉に揺れる。
「今日の午後、正式な婚約発表がされます」
神崎は立ち尽くした。言葉も行動も見つからない。彼女の涙で濡れた頬が脳裏に浮かぶ。
「怜司くん」
孝一郎が友の肩に手を置いた。その目には怒りと決意が燃えている。
「これは……あまりにも一方的すぎる」
「ですが法律では……」
「法律?そんなものが何だ!」
普段穏やかな孝一郎が声を荒げる。
「彼女の人権はどうなる?」
田所が重い口を開いた。
「侯爵閣下は午後にも到着されます。その前に……」
神崎は突然顔を上げた。
「今から会わせてください。彼女と直接話させてください!」
「田所さん、何とかなりませんか?」孝一郎が訊ねる。
「わかりました」
田所は苦渋の表情で頷いた。
「ただし時間は限られています。旦那様の言いつけで彼女は自室に軟禁されている状態です」
「軟禁……ですか?」神崎の声が震える。
「精神安定のためと言っておりますが……」田所が言葉を濁す。
「私が責任を取ります。五分だけお会いできるよう手配しましょう」
三人は沈黙の中で執務室を出た。別邸の奥へと続く廊下は薄暗く、湿った空気が漂っている。
「ここです」
田所が止まったのは華美な装飾が施されたドアの前だった。
「私から合図をします。それまで待機してください」
老執事がノックし、扉が微かに開く。一瞬見えた小百合の姿に神崎の胸が締め付けられた。彼女は寝台に横たわり、憔悴しているように見える。
「怜司……くん?」
か細い声が漏れる。田所が頷き、神崎だけが室内へ導かれた。
部屋に入った瞬間、時間の流れが止まったようだった。
小百合はベッドの上で起き上がろうとしたが、神崎がそれを制止した。
「無理しないで」
神崎は震える手で彼女の頬に触れた。そこには涙の跡が乾いていた。
「怜司くん……ごめんなさい」
小百合の声が震えている。
「……こんな事になってしまって……」
「君のせいじゃない」神崎が首を振る。
「僕が……仕事を優先して……」
言葉が詰まる。窓からの光が二人を淡く照らしている。
「怜司くんの執事姿、とっても素敵だったわ」小百合が無理に笑みを作る。
「孝一郎さまの執事になって……誇らしかったの」
「こんな時に何言ってるんだ」神崎が彼女の手を握りしめる。
「僕はあの時、君と話せなかったことを……」
「あなたが選ばれたのは当然よ」彼女の指が神崎の手を握り返す。
「だってあなたは……誰よりも優秀で……努力家で……」
「そのせいで君を……」
「違う!」小百合が突然強い声を出した。
「あなたのせいじゃない!侯爵さまは私の両親に……」
言葉が途切れる。神崎は察した。侯爵の策略—彼女の家族を人質に取るようなやり方に怒りが湧く。
「もう一度考え直せないのか?」神崎が必死に尋ねる。
「無理なの」小百合の目から再び涙が溢れる。
「侯爵さまは……国王陛下の承認印付きの文書を持ってきて……」
神崎は小百合の手を両手で包み込んだ。
「二人で逃げよう」
声は静かだが、鋼のように強い意志が込められている。
「今からでも遅くない。この国を出て……誰も知らない土地で二人きりで暮らそう」
小百合の目が見開かれた。神崎が本気であることを彼女は悟った。
「怜司君……本気でそんな事…?」
「もちろんだ。どんな貧しい生活でも構わない。君と一緒にいられるなら…君さえいてくれたら……僕はどんな事だって…」
「そんな……」小百合の唇が震える。
「あなたに迷惑はかけられない」
「迷惑じゃない。僕の願いだ」
神崎の目には迷いがない。
「ここを離れれば……自由になれる」
小百合は長い間黙っていた。その瞳に映る揺れる炎は希望なのか絶望なのか—
「ありがとう……その言葉だけで……」
彼女の声が途切れる。
「一緒に生きよう」神崎が再度促す。
だが小百合はゆっくりと首を振った。
「……無理よ」
「なぜ?」
「侯爵さまは追っ手を差し向けるでしょう……それに……」
彼女は天井を見つめる。
「私が逃げれば両親は……」
神崎の顔から血の気が引いた。貴族の権力を完全に理解している神崎には、容易に想像がついた。
「もう時間です」廊下から田所の声が聞こえる。
「最後に言っておきたいことがあるわ」
小百合の声が凛としていた。
「あなたに会えて……本当に良かった」
「…僕だって……」
「あなたと出会ったあのお屋敷を、執事として大切に守ってね」
小百合は微笑みながら愛しげに神崎を見つめている。
「そんな……」
「あなたの人生が幸せでありますように……」
彼女の目から最後の一粒の涙が零れ落ちる。
「ありがとう……さようなら…」
ノックと共に扉が開かれ、神崎は田所に促され小百合の部屋を後にした。
茫然自失の神崎に孝一郎はかける言葉がみつからず、優しく肩を抱く事しかできなかった。




