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正式な執事へ

そして、またたく間に月日は流れ、孝一郎が爵位を継ぐ日がやってきた。田所執事をはじめ、ほとんどの使用人達が別邸へと移動する。


「ついにこの日がきましたね」

夕暮れ時の執務室で、田所は感慨深げに神崎に話しかけた。


ここ数ヶ月、新規採用の使用人達の手続きで多忙を極めていたが、ようやく期限までに完遂する事ができた。


神崎は副執事としての経験を積み、今では完璧に執事の仕事を身につけていた。


「神崎君、明日から君は孝一郎様の正式な執事です。ここまで、よく頑張りましたね」


神崎の目に涙が溢れそうになっていた。これまでの日々が走馬灯のように脳裏をよぎる。


「田所さん……今まで本当に……ありがとうございました」


深々と頭を下げる神崎に、田所は静かに歩み寄った。彼の厳しい眼差しが和らいでいる。


「立派になりましたね。あの見習いだった君が……今では堂々とした執事です」

老執事の手が神崎の肩に優しく置かれる。


「私は君に多くを託しましたが、その全てを自分のものにしてきましたね」


執務室の窓から差し込む夕陽が二人を赤く染める。


「正直に言えば」

田所が珍しく感情を表に出す。


「君がここまで成長してくれるとは思っていませんでした」


神崎は込み上げる涙を堪えきれず袖で拭った。

「僕にとって田所さんは……最高の師匠です。これからもずっと…」


「これからは」

田所が語気を強めた。


「二人とも別々の道を歩むことになります。孝一郎様も九条家もこれから大きな変化を迎えるでしょう」


神崎は姿勢を正した。副執事として鍛え上げた威厳が漲る。

「はい。僕は全力で孝一郎様をお支えします」


「私も九条家の発展のために力を尽くします」

田所の声には決意が宿る。


「離れていても志は一つです。それぞれの主のもとで、九条家の繁栄のために共に頑張りましょう」


「はい」


「実は……」

田所は少し照れくさそうに言葉を選ぶ。


「子供のいない私にとっては……君は息子のような存在でした。厳しく接する事が多かったけれど……楽しい時間でした」


神崎の涙腺が決壊した。

「…田所さん……」


声が震えている。幼い頃に両親を亡くし、施設で育った記憶が蘇る。院長先生は優しかったが、親の愛情を知らない少年時代。


「…僕こそ……田所さんは……父のような存在でした…」


田所は神崎の髪を優しく撫でた。

「君は確かに孤児だったかもしれない。しかし今や誰もが認める九条家の執事だ」


「はい……」

神崎は声を詰まらせる。


「これからの人生において……今日の日の事は決して忘れません」


二人の間に沈黙が流れる。しかし互いの心が通じ合っているのが分かった。


「では神崎君」

田所が一歩下がる。


「明日から新たな門出です。しっかりと胸を張りなさい」


「田所さんも……どうかお元気で」

神崎は深々と頭を下げた。


夕陽に染まる執務室で、二人は固く握手を交わした。別れの時を惜しむかのように。


田所が静かに退室した後も、神崎は暫く動かなかった。涙を拭い机に向かい、彼は新たに書き始める。執事としての第一歩となる記録帳を。



その夜、神崎は孝一郎の書斎を訪れた。ほとんどの使用人が別邸へと移動し、屋敷内はいつになく静まり返っている。


「僕達、ついにここまできたね」

孝一郎は感慨深げに言いながら、神崎を迎え入れた。


「明日から僕は九条伯爵になる。そして君は、正式な伯爵の執事だ」


「はい」


孝一郎は書棚の奥から小さな木箱を取り出した。丁寧に蓋を開けると、中には磨き上げられた銀の懐中時計が収められている。


「これを君に」

孝一郎が神崎に差し出す。


「執事の証として、君に持っていてほしい」


神崎は恭しく両手で受け取った。ずっしりとした重みが掌に伝わる。


「ありがとうございます……大切にいたします」


時計の表面には九条家の紋章が刻まれている。そして蓋の内側には孝一郎と神崎のイニシャルが刻まれていた。この日のために新調した銀時計は深い輝きを放っていた。


「あれから約一年、本当によく頑張ってくれたね」

孝一郎が静かに言う。


「田所さんが君に厳しく接していたという噂もあったけど……」


「それは誤解です」神崎は即答した。


「田所さんは僕に全てを教えてくれました。厳しさは愛情の裏返しです」


「だろうと思ったよ」孝一郎は微笑む。


「君の仕事ぶりを見ていればわかる。」


月明かりが差し込む窓辺に立ち、二人は新たな時代について話し合った。古き良きものを大切にしながらも、新たな風を吹き込む改革について。


「僕は、君が執事になった事を後悔させないよう、精一杯頑張るよ。明日からは一緒にこの屋敷を、九条家を守っていこう」

孝一郎が言った。


「はい、孝一郎様。全力でお仕えいたします」


若い二人の前途は明るく、どこまでも輝いていた。

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