主従の選択
10年ほど前、神崎が大学四年生になり、念願の教員免許を取得して、採用試験の結果を待っている頃だった。その頃孝一郎は大学院生として、英文学を研究しながら青春を謳歌していた。
従者に専任した神崎を伴い、あらゆる場所へ出向いた。
チェスの催しでは天才コンビとして名をはせた。
夜の街では次期伯爵と長身の従者はとにかく目立ち、いつも女の子に囲まれていた。それでも生真面目な神崎は、孝一郎に悪い虫がつかないよう細心の注意を払っていた。
「…まったく…君は真面目過ぎるよ……」
今日も孝一郎に近づいてきた女性をさり気なく遠ざけた神崎に、孝一郎はため息をついた。
「いいえ。これは大切な事です。旦那様と田所さんからきつく言われております」
既に婚約者のいる孝一郎に、万が一にも気の迷いが生じないよう監視するよう厳命されているのだ。
「女性をご所望でしたら、いつもの娼館に予約を取りましょうか?」
そこは貴族専用の会員制の場所で、秘密裏に安全に遊べる父親公認の場所である。
「…あそこはもういいよ」
孝一郎はつまらなそうにため息をついた。
「僕が求めてるのは、英文学に出て来るみたいな身を焦がすような恋だよ。娼館じゃそれはね…」
孝一郎の意見に神崎は苦笑した。
「そういう事は、婚約者の方とされるのがよろしいかと…」
「…まだ中学生だよ…さすがにそんな気にはなれないよ…それはそうと」
孝一郎は話題を戻した。
「せっかく女の子と仲良くなれそうだったのに追い払うなんて…怜司君を目当てに近づいて来る子も多いのに、もったいないじゃないか」
「僕へのお気遣いは全く不要です」
「どうして?誰か好きな子でもいるのかい?」
「そ、そういうわけでは…」神崎は口ごもる。
「当ててみようか?そうだなあ…メイドの小百合ちゃんとか…」
「…!」
神崎が顔をわずかに赤らめるのを孝一郎は見逃さなかった。
「やっぱり小百合ちゃんか。年上だけど綺麗な子じゃないか」
「君みたいなしっかり者の青年なら、きっと小百合ちゃんも気に入ってくれると思うよ」
孝一郎はニヤニヤしながら言った。しかし神崎は俯いたまま首を横に振る。
「無理ですよ……僕みたいな平凡な人間が……」
「なにを言うか。僕の従者だよ?十分過ぎるくらい魅力的だ。それに使用人同士の交際は禁止されていないだろ?」
孝一郎は鋭く指摘した。
「……ええ……一応……」
確かに規則上は問題ない。しかし神崎はその壁を超える勇気がなかった。
「君はもっと自分に自信を持つべきだよ。メイドたちの間で『理想の恋人』ランキングを作ったら、間違いなくトップ3に入るだろう」
「そんな馬鹿な……」
神崎は信じられないといった表情を浮かべた。
「真面目で誠実。背も高くてスタイルもいい。しかも僕のような将来有望な男に仕える従者。条件は完璧じゃないか」
孝一郎は真剣な表情で続けた。
「それに僕から見て君はとても魅力的だよ。少なくとも9割以上の女性が放っておかないはずだ」
「まさか……」
神崎はまだ疑わしげだった。
「思いきって告白してみればいいのに」
「そ、そんな事…!とにかく…」
神崎はひと呼吸して話題をそらした。
「今日はあまり遅くならないように言われております。もう帰りましょう」
不満げな孝一郎を促し、二人は帰路についた。
帰宅すると、執事の田所が神妙な表情で孝一郎に告げた。
「孝一郎坊ちゃま、旦那様から大切なお話があります。すぐに書斎へ来るように、との事です」
「ええっ!?なんだろう…お説教かな?」
父親の書斎に呼ばれるなんて、嫌な予感しかしない。
「私からは何とも…お急ぎ下さい」
「…わかったよ。すぐに行って来る」
心配そうな神崎を残し、孝一郎は渋々田所執事の言葉に従い、書斎へと向かった。
時間にして30分ほどだろうか、孝一郎は呆然とした様子で書斎を後にした。自室へ戻った孝一郎は、父親からの話に理解が追いつかず、必死で頭の整理を試みた。
(1年後をめどに僕に爵位を継がせる…本気か…!?)
(父上は隠居して別邸に移る、使用人は田所執事をはじめ、ほとんど連れて行く…この屋敷の使用人は新しく雇用しなければならない)
(まずは、新しい執事の採用が先決。執事の仕事は多岐に渡る。つまり、この屋敷の全てを任せる女房役である)
(詳細は田所執事に相談するように)
ここまで考えて、孝一郎は頭を抱えた。
(いきなりそんな事言われても…明日の夜、田所さんに聞いてみよう)
時を同じくして、神崎にも何か問題が起きているようだった。
翌日は休日で、孤児院に行っていたのだが、帰宅後明らかに様子がおかしい。いつものように孝一郎とチェス盤に向かってもどこか上の空で、初歩的なミスで負けてしまった。
驚いた孝一郎が訳を聞いても、問題無いと力なく笑うだけである。そんな神崎に孝一郎は、昨日の父親との事を話せなかった。
そして夜になり、孝一郎は田所執事の執務室を訪れた。
「田所さん、今いいかな?」
孝一郎は田所執事の執務室を訪れ、ノックをしてから部屋に入った。
「お待ちしておりました。旦那様からお話は伺っております」
田所は孝一郎を暖かく迎え入れた。
「父上から急に爵位を継ぐように言われて……正直言って困惑しているんだ」
孝一郎は椅子に座ると両手を組んだ。
「しかも新しい執事が必要だと……いくら考えても神崎君しか思い浮かばないんだけど、彼は教師を目指してるし……それに今日はなんか様子がおかしいし……僕が聞いても何でもないって言われて…」
田所は静かに茶を注ぎながら言った。
「急なお話で驚かれたでしょう。坊ちゃまのご懸念はよく分かります。確かに神崎君は優秀で、後輩達からの信頼も厚く、適任ですが…しかし、今日の神崎君の様子は……」
「何か知ってるの?」
孝一郎が食いついた。
「いえ……直接の情報ではありません。ただ今日、神崎君が孤児院に行った後から様子が違うのは私も感じておりました」
「孤児院……?」
田所は湯呑みを孝一郎の前に置きながら続けた。
「私も聞いてみたのですが、何でもないと言うばかりで…もし坊ちゃまのご希望ならば、調査を入れる事もできますが…ただ本人のプライバシーもありますので……」
「頼むよ!」孝一郎は即答した。「彼のことが心配なんだ」
「承知しました。さっそく調べてみましょう」
田所は柔和な微笑みを浮かべながら約束した。
翌朝、田所執事は孝一郎の部屋を訪れた。
「おはようございます。昨夜のお約束通り、神崎君について調査致しました」
「それで?」孝一郎は緊張した面持ちで尋ねた。
田所は静かに椅子に座り、深く息を吸った。
「単刀直入に申し上げます。神崎君が育った孤児院が経営難に陥っているようです。支援者が去り、運営資金が底をつきかけています」
「なんだって……!」孝一郎は思わず声を上げた。
「しかも複数の債権者から督促状が届いている模様です。このままでは建物や土地が差し押さえられ、最悪の場合、孤児院は閉鎖されます」
「それって……つまり……」
「はい。子供たちは別の施設に移動させられるか、最悪の場合……バラバラになる危険性があります」田所の表情が曇った。
「神崎君が昨日から様子がおかしかったのは、この件を知ったせいだったのでしょう」
孝一郎は拳を握りしめた。
「神崎君にとって……あそこは家みたいなものだったんだろう?」
「まさにその通りです。彼にとって孤児院は故郷であり、家族です」
「それで昨日の様子が……」
孝一郎は神崎の青ざめた顔を思い出した。以前、神崎と共に訪れたあの暖かい場所が無くなるなんて…子供達や院長先生の笑顔の記憶が蘇る。
「僕がなんとか……父上と話して来る!!」
孝一郎は父親の部屋へと向かった。
一時間ほどだろうか、孝一郎は父親の部屋から退室した。その瞳にははっきりとした決意の色が浮かんでいた。
「ご主人様とはどのようなお話をされましたか?」
田所執事が穏やかに尋ねた。
孝一郎は椅子に腰掛け、疲れた表情でため息をついた。
「父上に直談判したよ。孤児院への恒久的な援助を九条家の名で約束してもらった」
「それは素晴らしい!」田所の顔が明るくなった。
「ただし……」孝一郎は唇を噛みしめる。
「それと引き換えに、父上の要求を全て受け入れたんだ」
「具体的には?」
「まず、1年後を目途に爵位を継ぐ」
「そして大学院を辞める…」
「明日から父上に着いて事業を学び始める」
「婚約者である桜子が16歳になったら、すぐに結婚して跡継ぎを作る」
孝一郎は淡々と条件を並べていった。
田所の表情が厳しくなる。
「それは……かなり厳しい条件ですね」
「ああ……特に大学院を辞めることについては…英文学の研究を諦めたくないけど…」孝一郎は苦渋の表情を浮かべた。
「でも……仕方なかったんだ。今の僕には何の力も無いから」
「坊ちゃま……」
田所の目には涙が浮かんでいた。
「何も泣く事はないよ!いつかは継ぐつもりだったんだから。少し早まっただけさ」
孝一郎は努めて明るく言って見せた。そして真面目な表情で言った。
「神崎君にはこの事は秘密にして欲しいんだ」
「え…しかしそれでは……」
田所の戸惑いに孝一郎は強い決意をあらわにした。
「僕がやりたくてやったんだ。恩に着せて執事を強制するのは絶対に嫌なんだ」
「坊ちゃま…」
「ダメ元で神崎君を勧誘するよ。そういえば、田所さんはどうして父上の執事になったの?参考までに聞かせて欲しいんだけど…」
「私が旦那様の執事になった経緯ですか?」
田所は穏やかに笑みを浮かべた。
「では昔話になりますが……私はもともと九条家の縁戚に当たります。父は執事ではありませんが、当時の九条家に仕えておりまして」
「そういえば……」孝一郎は目を見開いた。「聞いたことがあるよ」
「ええ、私も幼い頃からこの家に出入りしていました。そして同じ年頃の宗一郎様—現伯爵様と遊ぶことが多くなって……」
田所は遠い目をした。
「自然と二人は兄弟のように育ちました。学校も同じで、進路も同じでした」
「つまり……親友だったの?」
「はい。大学卒業後も二人で海外留学に行きました。そして宗一郎様が爵位を継ぐ時に、私は迷うことなく彼の右腕となることを選びました」
「なるほど……」
孝一郎は膝を叩いた。
「だからか。田所さんと父上はいつも息ぴったりだよね。僕と神崎君と少し似てるね」
「はい。そういう関係を築けば……執事という形ではなくても、お互い助け合える関係が続くのではないでしょうか」
田所は優しく助言した。
「神崎君の志を尊重しながらも、彼の気持ちも聞いてみるのが良いと思います」
「そうだね……」孝一郎は考え込む。
「ありがとう、田所さん。明日ゆっくり話をしようと思うよ」
彼は立ち上がりながら言った。
「ところで、孤児院の方はどうすれば?」
「すぐに顧問弁護士と連絡を取ります。明日には正式な契約書が作成され、問題は解決するでしょう」
田所の言葉に孝一郎は安堵した。
「ああ……それだけは急がなきゃね。くれぐれも、よろしく頼むよ」
「承知致しました」
「あとは僕自身がどう乗り越えるか……」
彼は窓の外を見つめながらつぶやいた。
そして翌日、孝一郎は神崎に今後の事を話す事にした。
父親が隠居するので爵位を継ぐ事、父親はほとんどの使用人を連れて別邸に移る事……
神崎は余りに突然の事に、驚きを隠せずに、孝一郎の話に聞き入った。
「旦那様はなぜ突然そのような事を……」
「…うーん…想像だけど…僕を早く自立させて愛人と暮らしたいんじゃないかな。さすがに今更再婚て事は無いだろうけど」
「そんな…」
「ま、それは別にいいんだ。でもまさか、こんなに早く継がされるとは思ってなかったよ」
神崎はなんと答えて良いかわからず、孝一郎を見つめている。
「それで今後の事なんだけど…田所さんも父上について別邸に移る事になっていて…僕が新しく執事を決めなければならないんだ。それで……あの……」
孝一郎は緊張のあまり、一旦言葉を詰まらせたが、意を決して口を開いた。
「無理を承知で言うんだけど…」
孝一郎は神崎の目をまっすぐに見据えて、真剣な表情で続ける。
「怜司君、僕の執事になってくれないか?」
「!!…執事…僕が…!?」
突然の孝一郎の言葉に、神崎は絶句した。孝一郎は必死に言葉を続ける。
「君がずっと教師を目指していて、その夢がもう少しで叶うのもわかってる。君がどんなに努力してきたかも…でも…」
「僕には…君以外の執事なんて考えられないんだ!」
「……孝一郎様…僕は……」
神崎は明らかに困惑しながらも、なんとか言葉を繋げた。
「…僕なんかにそのようなお言葉…光栄ですが…僕には……」
「待って!今すぐ答えを出さないで」
孝一郎は神崎の言葉を制した。
「突然の事で戸惑うのも無理は無いよ。しばらく考えてみて、それから決めて欲しいんだ」
「…わかりました……」
「それじゃ、僕はこれから父上について本社に行くからビジネススーツを用意してくれないか?」
「本社へ?大学院へは…?」
「大学院は辞めるんだ。今日から本社で修行さ。モラトリアムはもうおしまいなんだ」
孝一郎は努めて明るく言うが、その無念さは想像に難くない。神崎はかける言葉を見つけられないまま、孝一郎のスーツを準備した。
その日から孝一郎は、毎日父親について本社へ行き、事業の勉強を始めた。帰宅後も大量の資料を読み込みんでいる。
神崎は孝一郎の身体を案じながらも、どうする事もできずにいた。
ある日、神崎宛てに封書が届いた。差出人は教育委員会。その内容は──
「小学校教師採用合格通知」
神崎の手が微かに震えた。長い間追い求めてきた夢への第一歩。だが喜びとともに、複雑な感情が胸に押し寄せる。
夕刻、孝一郎の部屋を訪れた神崎は、一通の封筒を差し出した。
「報告がございます。小学校教師採用の内定通知を受け取りました」
孝一郎の表情が凍りついた。書類から視線を上げ、ゆっくりと封筒に目をやる。
「そうか……」
沈黙が流れる。ペンを持つ孝一郎の手が僅かに震えていた。
「……おめでとう」
絞り出すような声だった。
「ついに夢が叶うんだね。長い間頑張ってきた甲斐があった」
神崎は深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。これも全て、支援して下さった九条家のお陰です」
「働きながら頑張った君の努力のたまものだよ。本当におめでとう」
孝一郎は心から嬉しそうな笑顔で神崎を祝福した。
「……それじゃ……」
孝一郎は意を決したように口を開いた。
「執事の件は……やっぱり……」
「……申し訳ありませんが…辞退させて頂きます」
神崎の声は落ち着いていたが、瞳には迷いの色が見え隠れする。
「…そうか……」
孝一郎は机の上で拳を握りしめた。
「君の夢を潰すわけにはいかない……でも……正直言うと……残念だよ」
神崎の胸が痛んだ。主の期待を裏切る罪悪感。友情と夢の板挟みになる苦しさ。
「…申し訳ありません……」
「いや、分かってるんだ」
孝一郎は慌てて神崎の言葉を遮った。
「君を縛ることはできない。でも……寂しくなるな」
「私も同じ気持ちです」
神崎の目に光るものが浮かぶ。
「あなたに出会えて人生が変わりました。どんなに感謝しても足りません」
「僕だって!」
孝一郎は立ち上がり、机を回り込んで神崎の肩を掴んだ。
「君がこの屋敷に来てくれて、どんなに嬉しかったか!君と過ごす時間がどれだけ楽しかったか…」
「…孝一郎様……!」
孝一郎は神崎の両肩をしっかりと掴んだまま続けた。
「怜司君、君が教師になっても……この屋敷を出て行っても……僕たちは友達でいられないかな?」
彼の目は真剣で、僅かに潤んでいた。
「主人と使用人じゃなく……対等な、普通の友達に」
神崎は大きく目を見開いた。これまでの主従関係ではあり得なかった提案だった。
「もちろんです」
声は震えていたが、確かな意志が込められていた。
「僕にとって孝一郎様は既に……最高の友人です。今も…これからも」
孝一郎の顔がパッと明るくなった。
「よかった……!」
彼は思わず神崎の背中をポンポンと叩いた。
「そうだ!君が教師になるなら、僕の息子の家庭教師になってもらうのも夢じゃないね」
「前にも言いましたが、気が早すぎますよ」
「今回はそうでもないよ。2年後に結婚するんだ」
「え?それは、おめでとうございます」
親の決めた結婚を嫌がり、なるべく先延ばしにしようとしていたので、心境の変化に驚いた。
「めでたくないよ。ただの政略結婚さ。でも、爵位を継ぐからには、子作りの義務は果たすつもりだから」
「そう…なのですか……」
神崎は何か違和感を感じていた。熱心に通っていた大学院を辞め、先延ばしにしたがっていた結婚を承諾して、爵位を継ぐ。父親の命令とはいえ、こんなにも早急に変わるものだろうか。
「あ、もうこんな時間だ…この資料を全部読み込まなきゃならないんだ。今度ゆっくり就職祝いをさせてもらうよ」
「お忙しいのに長居して申し訳ありません。失礼致します」
神崎は孝一郎の部屋を後にした。
次の休日、神崎は久しぶりに孤児院を訪れた。建物は傷みが目立っていたが、子供たちの活気あふれる笑い声が庭中に響いている。院長先生が出迎えてくれた。
「怜司君!いらっしゃい」
「こんにちは。あの……例の件は……」
「ああ!それが奇跡が起きたのよ!」
院長先生の目は涙で潤んでいた。
「九条様から直接援助のお申し出があって……しかも恒久的な援助を約束してくださったの。本当に信じられなくて……」
「九条様が……」
神崎は驚愕のあまり言葉を失った。
「詳しい事情はわからないのだけど、九条様ご自身が積極的に支援してくださるそうなの。おかげで私たちも子供たちも安心して暮らせるようになったのよ」
帰り道、神崎の胸には抑えきれない感情が渦巻いていた。
孤児院を救ったの恐らく孝一郎だ。一体どうやって?自由に動かせる財産も限られているのに……そして何よりも気になるのは、なぜ自分に何も告げなかったのかということだった。
その日の夜、神崎は意を決して孝一郎の書斎を訪れた。
「孝一郎様、少しお時間よろしいでしょうか」
孝一郎は書類から顔を上げた。
「ああ、構わないよ。ちょうど一息つこうと思ってたところだ」
神崎はドアを閉め、真剣な表情で切り出した。
「孤児院の件なのですが……」
孝一郎の表情が一瞬硬くなるのを神崎は見逃さなかった。
「援助してくださったのは……」
「ああ、そのことか」孝一郎はわざとらしく書類に目を戻しながら言った。
「父上からの指示でね。うちとしても定期的な慈善活動の一環だよ」
「慈善活動……」神崎は眉を寄せた。
「でもあんなに即断で……しかも恒久的な援助だなんて」
「まあね」孝一郎は軽く肩をすくめる。
「貴族によくある当然の責務さ。ノブレス・オブリージュだって」
「でも孝一郎様は何か知って……」
「知らないよ」孝一郎は強い口調で遮った。
「すべて父上の采配だ」
彼は机上のペンを取り、書類に何か書き込み始めた。
神崎はその背中に問いかける。
「何故……それを僕に黙っていたのですか?」
「なぜって……」孝一郎の手が止まった。
「別に君に恩を着せるつもりもないし」
神崎の胸が締め付けられた。孝一郎が自分の夢を犠牲にしてまで孤児院を救ってくれたことは明らかなのに……
「それでも……僕は……知りたかった」
神崎の声は震えていた。
「…孤児院への支援のために、孝一郎様は…大学院を…」
孝一郎は振り返らずに言った。
「怜司君」
彼の声は静かだが強い意志が込められていた。
「それは違う。爵位を継ぐのも大学院を辞めるのも、元から決まっていた事だよ。それが少し早まっただけなんだ」
神崎は言葉に詰まった。
「それに……」孝一郎はようやく振り向き、苦笑いを浮かべた。
「本当の理由はまだ内緒だよ。君がもっと成長して……お互い大人になったら話すかもしれないね」
その眼差しには切ない想いが滲んでいた。
「今は……ただ感謝の気持ちだけでいい。それ以上を求めないで」
神崎は唇を噛みしめ、深く頭を下げた。
「……ありがとうございます。心から感謝しています」
部屋を出る神崎の耳に、孝一郎の小さな呟きが聞こえた。
「さようなら……僕の最高の友達……」
夕刻、神崎は田所の執務室を訪ねた。
「お話したいことがあります。少々お時間をいただけないでしょうか」
田所は眼鏡の奥から穏やかな目で神崎を見上げた。
「もちろんです。どうぞお掛けなさい」
神崎は静かに腰掛けた。
「田所さん。孤児院の件でお伺いしたいことがあります」
「はい」
「あれは……本当は……」
田所は優しく微笑んだ。
「あなたは何を知っているのですか?」
「孝一郎様が……私の孤児院のために……」
言葉が詰まる。
田所はそっと頷いた。
「…その事については、坊ちゃまから口止めされています」
神崎の目が見開かれた。それだけで答えは十分だった。
「やはり……」
神崎は全てを理解した。孝一郎は孤児院への支援と引き換えに、父親の命令を呑んだのだ。
「…孝一郎様はどうしてそこまで…僕なんかのために…!」
「あなたが分からないのは無理もありません」
田所は静かに席を立ち、窓際に歩み寄った。
「坊ちゃまが何故そこまでされたのか……それは単純です」
振り返った彼の眼差しは慈愛に満ちていた。
「坊ちゃまはあなたのことを家族同然に思っているからですよ」
神崎は言葉を失った。
「坊ちゃまが爵位を継ぐのは、本来であれば10年以上は先だったはずです」
田所は窓辺に立ったまま続けた。
「それをお父上の命令に従って大幅に早めた。大学院も辞められ、婚約者との結婚も前倒しにされた。全ては……」
「僕のため……ですか?」
神崎の声が震える。
「あなたが大切だからです。あなたの故郷であり、家族である孤児院を守りたかったのです」
田所の目に薄く涙が浮かんだ。
「坊ちゃまがあそこまで誰かのために行動したのは初めて見ました」
神崎は両手で顔を覆った。
「孝一郎様……」
「坊ちゃまは決して恩に着せるつもりはありません」
田所は優しく語りかける。
「あなたに負担をかけたくないのです。ですから秘密にしてほしいと……」
「でも……僕は……」
神崎の声が途切れた。
「そんな大きな借りができてしまって……何も返せない……」
田所はゆっくりと首を振った。
「借りなどと思わないでください。坊ちゃまにとっては単純なことなのです—"怜司君が大事だから" それだけです」
神崎は呆然とした様子で、田所の執務室を後にした。
その夜、自室に戻った神崎はベッドに腰掛け、天井を見つめていた。
「孝一郎様が……そこまで……」
頭の中で様々な思いが渦巻く。自分が執事の誘いを断った時、孝一郎はどれほどの失望を味わっただろう。そして今、自分はこの恩人のために何ができるのか。
窓から差し込む月明かりが部屋を銀色に染める中、神崎は深く息を吐いた。教師になる夢を追いかけるか、それとも恩に報いるために執事の道を選ぶか。
「でも……孤児院を救うために大学院を辞め、将来の夢を諦めた孝一郎様を僕は……」
彼の脳裏に浮かぶのは、書類とにらめっこする孝一郎の姿。かつての遊び仲間が今は事業の勉強に追われている。これからますます孤独になるであろう主の姿が見えるようだった。
「これから孝一郎様は一人でこの屋敷に残されたら……」
田所が去り、古参の使用人たちも減り、新たに集まる顔ぶれの中で慣れない仕事と屋敷の運営に忙殺されるだろう。そう思うと胸が締め付けられた。
「あの人が……今一番必要としているのは誰だろう?」
これ程までに自分を必要としてくれる存在がいるだろうか。
答えは明白だった。
翌朝、神崎は決意を固めて孝一郎の書斎のドアを叩いた。
「どうぞ」
扉を開けると、孝一郎は珍しく新聞ではなく、難しい顔をして法律書を読んでいた。神崎を見て僅かに表情が和らいだ。
「おはよう、怜司君」
「おはようございます」
神崎はドアを閉め、真っ直ぐ孝一郎を見つめた。
「昨夜は考えに考え抜きました」
彼の声には揺るぎない決意が滲んでいた。
「結論が出たのかい?」
孝一郎は本を閉じて顔を上げた。
「はい」
神崎は一歩前に進み、深々と頭を下げた。
「……先日の執事の件、改めて検討させていただきました」
孝一郎の眉が上がった。
「それは……」
「引き受けさせていただきたいと思っています」
神崎の言葉に孝一郎の目が見開かれた。
「…今、なんて……」
「僕を、孝一郎様の執事にして下さい」
神崎は、強い意志を込めてはっきりと答えた。
「怜司君……」
言葉を失った孝一郎は立ち上がり、ゆっくりと神崎に近づいた。
「本当に……?」
「はい」
神崎は顔を上げ、真摯な眼差しで主を見つめた。
「孝一郎様の苦労は分かっています。これから一人で立ち向かうことの辛さも……」
彼の拳が震えていた。
「あの時、『君以外の執事なんて考えられない』と言っていただいた言葉が忘れられませんでした」
孝一郎の目に涙が浮かんだ。
「でも……君の教師の夢は……」
「夢を諦める訳ではありません」
神崎は微笑んだ。
「子供たちに関わることは学校だけではありません。この屋敷でも、他の形で関わることができます。それに…」
ひと呼吸して続けた。
「教員免許は取らせて頂きました。いつかお暇を出されたら、また教師の口を探します」
「そんな事…絶対にあり得ないよ。僕が君を手放すわけ無い!」
孝一郎は堪えきれず神崎の肩に手を置いた。
「怜司君……ありがとう」
声が震えている。
「こんなに嬉しいことはないよ」
「これからは田所さんから執事としての仕事を学びます。ですが……」
神崎は一瞬躊躇した後、勇気を出して言った。
「プライベートでは……たまには今までのように一緒にチェスをしましょう」
孝一郎の目が輝いた。
「もちろん!」
彼は思わず神崎を抱きしめた。
「大歓迎だよ!何より嬉しかったのは……君が選んでくれたこと…本当に……本当にありがとう」
神崎は驚きつつも、そっと孝一郎の背に手を回した。
「こちらこそ……感謝しています」
二人の間に流れる温かな空気に包まれながら、新たな関係が始まろうとしていた




