葛藤
紗希が神崎とひとときの逢瀬を楽しんでから更に半月が経過した。毎日は相変わらず忙しく、仕事の時間以外に会う事は殆ど叶わない。
ただ神崎への想いは日に日に大きくなり、今では、紗希にとって神崎は生きる意味のような存在となりつつあった。
(神崎さんに嫌われないように、もっとしっかりしなきゃ!)
その思いは紗希の原動力となっており、お陰でミスも減り仕事ぶりは以前に増して冴え渡っていた。
そして、ボランティアにもますます熱が入っていた。最近では毎週通うようになり、休日の半分を費やしていた。
それから数日後、神崎はようやく仕事が一段落し、紗希のボランティアに合わせて孤児院を訪れる事を約束していた。
当日の午後、孤児院の扉が静かにノックされた。院長先生が戸を開けると、そこには久しぶりの来訪者である神崎の姿があった。
「まあ、怜司君!よく来てくれたわね。皆、あなたのが来るのをを心待ちにしてたのよ」
「すみません。最近はすっかりご無沙汰してしまいましたので…」
神崎は少しバツが悪そうに頭を下げた。ここ数ヶ月の多忙ぶりを考えると無理もないことだった。
「みんな居間で待ってるわ。さあ、どうぞ入って」
院長先生に促され廊下を進む神崎の胸には、久しぶりの期待と緊張が入り混じっていた。
(紗希さんはどうしているだろうか……)
居間の扉の前に立った神崎に、院長先生がそっと耳打ちする。
「驚かないでね。今日はサプライズよ」
「サプライズ……?」
疑問符を浮かべながら扉を開けた瞬間、目に飛び込んできた光景に神崎は息を飲んだ。
居間の壁一面に折り紙の輪飾りが華やかに吊るされ、中央のテーブルには色とりどりの風船と果物が所狭しと並べられている。そして部屋の中央には紗希が、その隣にはニコニコ顔の子供たちが勢揃いしていた。
「せーの!」「怜司さん!お誕生日おめでとうございます!!」
子供たちの弾けるような祝福の声が居間中に響き渡った。一瞬呆気に取られた神崎だったが、すぐに状況を理解し顔を綻ばせた。
「これは……皆さん……私のために……?」
「そうですよ!怜司君。子供たちと紗希さんが中心になってずっと準備してくれていたんですよ」
院長先生が優しく補足する。
「怜司お兄ちゃん!僕たち頑張って準備したんだ!」一番年少の文哉が誇らしげに胸を張る。
「お手紙も書いたよ!」「僕は歌も練習したんだよ!」
子供たちが次々に神崎を取り囲み、それぞれの成果を報告してくれる。神崎は一人一人の頭を優しく撫でながら感謝の言葉を述べた。
「みんなありがとう。本当に素敵なパーティーだね」
「はい!お誕生日のお祝いなので!みんなで歌いますね!」
拙いながらも心のこもった「Happy Birthday to You」の合唱が始まると、居間は温かい雰囲気に包まれた。
歌が終わると、今度は代表の子が元気に神崎の前に歩み出て、両手で丁寧にラッピングされた包みを差し出す。
「怜司さん、お誕生日おめでとうございます。僕たちからプレゼントがあります」
「みんな……ありがとう」
神崎が受け取ろうとすると、子供たちの一人が嬉しそうに叫んだ。
「開けてみて!僕たちが作ったんだよ!」
リボンを解き包み紙を剥がすと中から現れたのは……折り紙で作られたカラフルな動物のオブジェだった。ライオンやウサギ、ゾウなどが可愛らしく並んでいる。
「これは……」
「みんなで考えたんです。折り紙の動物を作ってみました。それぞれの子が選んだお気に入りの動物なんです」
紗希が説明すると、子供たちが自分の作品について得意げに語り始めた。
「僕のはライオンなんだ!」「僕はウサギなの!」
「凄い!みんな才能があるね」
「ちなみに、私はヤギです」
紗希が恥ずかしそうに言う。
神崎は感激で胸がいっぱいになった。
(この歳になってこんな温かい祝福を受けるとは……)
紗希が少し恥ずかしそうに俯いた。
「あと……これは私から……」
差し出されたのはもう一つの小さな箱。開けてみると中には質素だが上品な万年筆が入っていた。
紗希の頬は見る見るうちに朱に染まっていく。
「ありがとうございます。素晴らしいプレゼントだよ。大切に使わせてもらいます」
神崎は心からの笑顔で応えた。万年筆を手に取り照明にかざすとシンプルなデザインの中に確かな使いやすさが伺える。
「本当にありがとう。これは大事にします」
神崎は万年筆を胸ポケットに挿すと改めて一同に頭を下げた。
「みんな、こんなに盛大なお祝いをしてもらって、感謝の言葉もありません。本当にありがとうございます」
「えへへ!良かったぁ!」子供たちからも満足そうな声が上がる。
その後は手作りケーキを囲んで楽しいお茶会となった。子供たちは神崎の膝の上でじゃれたり、今日のために練習したというダンスを見せたりして大はしゃぎだ。
紗希も院長先生と共に料理を運びながらも、時折神崎と目が合うと嬉しそうに微笑んでいた。
(神崎さんが喜んでくれてよかった……)
あっという間に1時間ほどが過ぎ、神崎は帰る時間になってしまった。
「今日は本当にありがとうございました。良い思い出になりました」
玄関先で神崎が深々と礼をする。
「こちらこそ来てくれてありがとう。またいつでも遊びに来てね」
院長先生が笑顔で見送る中、神崎は振り返り子供たちに最後の挨拶をした。
「みんな本当にありがとう。また来るよ」
「うん!待ってるね!」「バイバーイ!」
小さな手が次々に振られ、神崎は名残惜しそうに手を振り返しながら帰路についた。
「ほら、紗希ちゃん。怜司君を駐車場までお見送りしてきてね」
あまりにも短い神崎の滞在に寂しげな紗希を、院長先生が促した。
「は、はい!」
紗希は勢いよく扉を開け、神崎の方へ駆け出して行った。
「神崎さん!」
「…紗希さん…!」
驚いて振り返った神崎に、紗希は息を切らせて駆け寄った。
「…車までお見送りを…」
紗希の健気な様子に、神崎の胸に熱いものが込み上げた。
彼女がどれだけこの日のために心を砕いたか想像に難くない。子供たちの折り紙のオブジェも思いやりに満ちていた。
「紗希さん……本当にありがとうございます。貴女が主催してくれたこのお祝い会は……私にとって何よりもかけがえのないものです」
神崎の瞳が潤んでいることに紗希は気づいた。
「そんな……私は少し協力しただけで……」
「いいえ。貴女の優しさと温かい心遣いに私は…」
紗希が言葉に詰まり俯くと、神崎はそっと彼女に歩み寄った。そして次の瞬間――
「……!」
神崎の大きな腕が紗希を包み込んだ。優しく、それでいてしっかりと抱きしめられる感触に、紗希の思考は停止する。
(え……神崎さんが……私を抱きしめて……?)
突然の出来事に全身が硬直する紗希。心臓が激しく鼓動を打つ。
「貴女のような方が側にいてくれること……それがどれほど私の支えになっているか……今日改めて思い知りました」
神崎の声は普段の冷静さの中に深い感情が滲んでいる。
「神崎さん……」
紗希は神崎の胸に顔を埋めることしかできない。鼻腔をくすぐる柔軟剤の香りと微かに汗の匂いが混じり合い、彼が確かにここにいることを実感させる。
(こんなことって……夢みたい……)
喜びと幸福で胸がいっぱいで涙が溢れてくる。
「驚かせてしまい申し訳ありません。でも……どうしても気持ちを伝えたかったのです」
神崎はゆっくりと身体を離し、紗希の顔を覗き込んだ。まだ頬に涙が伝っている。
「いいえ……嬉しいです。とても……」
紗希は涙を拭いながら精一杯の笑顔を浮かべた。その健気な姿に神崎の心はさらに締め付けられる。
「紗希さん……」
再び抱きしめようと伸ばしかけた手を神崎は自制する。今の二人にはこれ以上の接触は許されない。
「……それでは行きましょうか」
名残惜しそうに神崎が促すと、紗希は小さく頷いた。
駐車場までの道すがら二人の間には言葉はほとんどなかった。
ただ手を繋いでゆっくりと歩く。冷たい風が吹き抜けるが繋いだ手からは温もりが伝わってくる。
やがて車の前まで辿り着いた。
「短い時間でしたが楽しかったです。また時間を作りますので」
「はい。お待ちしています」
紗希は助手席に乗り込む神崎を見送った。ドアが閉まる瞬間、彼は最後に彼女に視線を投げかけた。紗希は小さく手を振る。
車が遠ざかるエンジン音を聞きながら紗希はまだ胸の高鳴りを抑えきれずにいた。
(信じられない……神崎さんに抱きしめられたなんて……)
初めて二人が互いの気持ちを確認し合ったあの日に、一度だけ抱きしめられたが、18才になるまではもう無いと思っていた。
頬を押さえるとまだ熱を持っている。彼の腕の逞しさや体温が鮮明に思い出される。
(これで良いんだ……今はこれだけで充分……)自らを納得させながら孤児院へと戻った。
数分後、屋敷へ向かう車内で神崎はハンドルを握りながら深い溜息をついた。
「思わず抱きしめてしまった……」
彼女への愛おしさが堰を切ったように溢れ出てしまった。責任ある大人としての適切な距離を保つべきだと自戒してきたはずなのに。
「18才になるまで待つ……」
戸惑いながらも幸福そうな紗希の笑顔を思い出す。
「あと半年以上……自制できるだろうか……」
独り言が静かな車内に消えていく。だが彼女の成長を願う気持ちは変わりはない。それが紗希への誠意だと思う。
「我慢だ……きっと乗り越えてみせる……」
そう言い聞かせながら神崎はアクセルを踏み込んだ。
その夜、紗希は自室のベッドで天井を見つめていた。瞼を閉じると神崎の抱擁が鮮明に蘇ってくる。彼の体温、香り、そして愛情に満ちた眼差し……
(私……神崎さんの事が本当に大好き……)
今までになく強く自覚する。出会ってから1年あまり。初めはただの憧れだった感情は確かな恋慕に育っていた。
(でもまだ18歳じゃない……大人になりたい……)
法律的には未成年な自分が歯痒かった。早く一人前の女性として彼の隣に立ちたい。
「神崎さん……」
その名を呟いた瞬間、神崎から贈られた腕時計が目に入る。左腕に着けたままの銀色のそれが今は特別な存在に思えた。
幸せな感慨に浸りながら紗希はゆっくりと眠りに就いた。夢の中でも神崎に会えることを期待して。
翌日から、紗希は今までにもまして、元気に働き出した。神崎の胸ポケットには、紗希からの万年筆が必ず入れられていて、目にする度に紗希は嬉しくなった。
一方の神崎は、思わず紗希を抱きしめてしまった事を悩んでいた。何もしないと約束したのに、唇にキス以前の事は全てしてしまっている。
孤児院での出来事は神崎の心に甘い記憶として刻まれていた。しかし同時に深い懊悩も植え付けていた。
「また触れてしまった……」
自室のソファに座り、神崎は深く頭を抱えた。
唇へのキスは耐えたものの、抱擁という禁断の領域に踏み込んでしまった。一度超えてしまうと歯止めが効かなくなるのではという恐怖が常に付き纏う。
「紗希さんのあの笑顔を前にしたら……もう……」
神崎の自制心は限界を向かえていた。
18才まで耐えると言いながら既に二度目の抱擁。しかも回数が増えれば増えるほど理性の箍が外れやすくなるのは明白だった。
(このままではいけない。何か別の方法を見つけないと)
そう考え始めても妙案は浮かばない。神崎は自分自身との戦いを強いられる状態に陥っていた。
そんなある夜のこと。神崎が邸内の巡回を終え自室に戻ろうとした時、偶然廊下で紗希と鉢合わせた。深夜0時を過ぎた時間帯だったので紗希も少し驚いた様子だった。
「あっ……こんばんは。神崎さん……」
「紗希さん。こんな時間にどうしたんですか?」
「実は……ちょっと眠れなくて散歩を……」
恥ずかしそうに紗希が言う。
神崎は眉をひそめた。屋敷内とはいえ、若い娘が深夜に出歩くのは危険である。何か悩み事があるのだろうか。
「そうですか………」
神崎は何か考え込んでいるように黙り込み、意を決して口を開いた。
「……では私の部屋で温かい飲み物でもいかがですか?」
「えっ?」
咄嗟の提案に紗希は目を丸くする。これまで屋敷の中での個人的接触を極力避けてきたのに、まさか私室に誘われるとは。
「勿論、やましいつもりはありません。ただ話相手になれたらと思っただけです」
「…はい…少しだけ……ご一緒させて下さい」
紗希の同意を得て二人は神崎の私室へと向かった。
初めて神崎の私室に入った紗希は緊張で肩を強張らせた。
男性的でありながら質素で清潔感のある空間。部屋中に神崎の気配が満ちている気がして落ち着かない。
神崎はコーヒーメーカーを操作し始める。
「砂糖とミルクは?」
「はい。どちらもお願いします」
「了解です」
カップにコーヒーを注ぐ彼の横顔を見ていると心臓の鼓動が速まるのを感じた。
(神崎さんと二人きり……どうしよう……)
「お待たせしました。カフェインレスのコーヒーです」
マグカップがテーブルに置かれる。湯気が立ち上り香ばしい香りが鼻腔をくすぐる。一口含むと苦みの中に優しい甘さがあり心がほぐれていく。
「美味しいです」
「それは良かった。ところで何故眠れなくなったのですか?何か悩みでも…」
神崎の問いに紗希はカップを抱えたまま小さく答えた。
「…神崎さんの事を考えてしまって……」
「私のことを?」
紗希が頷く。彼女の顔は真っ赤だ。神崎の胸に熱いものが込み上げる。自分も同じ理由で眠れない夜が何度もあった。
「私もよくあります。貴女の事ばかり頭に浮かんで……眠れないのはしょっちゅうです」
正直に告白する神崎に紗希は息を呑んだ。彼女の瞳に星のような光が宿る。
「本当ですか?嬉しい……」
「本当ですよ。いつも貴女の存在が励みになっています」
暫く沈黙が続く。二人とも相手を意識しているのが伝わる。
「神崎さん……」
意を決したように紗希が言った。
「はい」
「また……抱きしめて貰っても……良いですか?」
予想外の申し出に神崎の呼吸が止まる。一瞬目を瞑り深呼吸をした後で彼は静かに答えた。
「駄目です」
「え……?どうしてですか?」
驚きと不安が入り混じった表情で紗希が尋ねる。
「これ以上は自分を抑えられなくなります。貴女への欲望が……止まらなくなってしまうから……」
神崎の言葉に紗希は息を呑んだ。まさか彼からそんなストレートな言葉が出るとは思わなかった。
「ごめんなさい。浅はかでした……」
しょんぼりと項垂れる紗希。しかし彼の真摯な態度には誠意を感じていた。
「いえ……悪いのは私の方です。貴女に欲情している男であることを隠せなくなって……」
「欲情……」
紗希が戸惑うのも当然だろう。純粋な少女に対する言い方は過激すぎるかもしれない。
「つまり……私は貴女を一人の女性として愛しているということです」
神崎が目を逸らすことなく告げた。
「私が……女性として……」
紗希の頬が紅潮する。恋愛感情だけでなく異性として求められているという現実に戸惑いを隠せない。
それは彼女の成熟した身体と若さゆえの無垢な魂とのギャップでもあった。
「すみません。困惑させて……」
「いいえ!…嬉しかったです!」
反射的に紗希が返す。神崎が驚いた表情を見せた。
「嬉しい……?」
「はい。だって……神崎さんに求められているって事ですよね?だったら私も同じ気持ちなんです」
「同じ気持ち……」
「はい。私は16歳の時に神崎さんに出会ってからずっと……好きでした」
「紗希さん……」
「それに最近はもっと強く感じています。神崎さんに触れたくて……仕方がないんです」
紗希は思い切って気持ちを伝えた。それは本心だったが同時に怖くもある。
「それは……危険な発言です……」
神崎の声が震えている。紗希の率直さが逆に彼の理性を試す形となってしまったのだ。
「ごめんなさい……神崎さんを困らせるつもりじゃなかったんですけど……」
紗希が悲しげな表情を見せる。その表情が却って神崎の雄の本能を刺激する。
「すみません……謝るべきは私です。貴女の気持ちを知っておきながら自制できずに……」
神崎は立ち上がると窓際に歩み寄り外の景色に目を移した。その横顔には苦悶の色が見える。紗希は慌てて神崎に駆け寄った。
「神崎さん……」
紗希が恐る恐る神崎の袖口を掴む。
「あの……私のこと嫌いにならないで……欲しいです……」
潤んだ瞳で訴えかける紗希に神崎の胸が締め付けられる。
(いけない……ここで応じてしまえば取り返しのつかないことになる……)
「嫌いになどなりませんよ。むしろ……惹かれすぎて困っているんです」
「惹かれすぎ……?」
紗希が期待するような眼差しで見上げてくる。神崎は唇を噛み締めた。
(ここで拒絶しないと……)
「ですから……これ以上は許容できません」
「……はい」
神崎の固い意志を悟ったのか紗希は小さく返事した。再び沈黙が訪れる。互いの感情が高まるばかりで解決策が見えないまま時間だけが流れる。
「そろそろ寝る時間ですね。もう休みましょう」
神崎が穏便に切り上げようと試みるも紗希の瞳から涙が零れ落ちる。
(神崎さん…それでも私は……)
「神崎さん……最後にもう一つだけお願いがあります」
紗希が勇気を振り絞って懇願する。
「何でしょう?」
「…手を……握手…してくれませんか?」
せめて手だけでも繋ぎたい、紗希の健気な願いに神崎は胸が熱くなる。
「…はい……」
神崎が右手を差し出すと、紗希も遠慮がちに右手を重ねる。そして、自然に二人とも左手も重ね合わせ、向かい合わせで両手を握り合う。
紗希は目に涙をためて訴えた。
「……私……怖いんです。18才になるまでに神崎さんに忘れられてしまうんじゃないかって……だから確かめたかったんです…」
「紗希さん……」
必死に訴える彼女を前に神崎の葛藤が極限を迎える。
(唇へのキスは……絶対に駄目だ……)
「分かりました……ただし……」
「え?」
紗希が驚いて顔を上げると神崎が身を屈め彼女の頬にそっと口づけた。
「今日は…特別です……」
「神崎さん……」
温かな感触と神崎の呼気が伝わり紗希は安堵の涙を流した。
「ありがとうございます……これで安心できます……」
「おやすみなさい」
紗希を部屋まで送り届けた神崎は自室に戻るとベッドに倒れ込んだ。
高鳴る鼓動が鎮まらない。
頬へのキスだけでも唇が触れ合った箇所からは彼女の体温が伝わり続けている。
(危なかった……あのまま押し倒してしまうところだった……)
理性を総動員して踏み留まった自分を褒めたくなった。同時に彼女への愛情が抑えきれないほど膨れ上がっている事を実感する。
(18才まであと半年……持つのだろうか……)
自問自答の末に浮かんだ結論はひとつしかなかった。
(何か別の方法を考えるしかない……今のままでは耐えられない)
紗希は頬に残る余韻に浸りながら神崎の事を考えていた。
(神崎さん……私のことあんなに強く想ってくれてるなんて……)
嬉しくもあり恥ずかしくもあり複雑な心境だった。
「もう絶対に不安になんかならない……私には神崎さんだけ……」
頬に触れてみるとまだほんのりと温かい気がした。それが錯覚だと分かっていても幸福感に満たされる。
(あと半年……もっと素敵な女の子になってみせる)
そう決意しながら紗希は眠りに落ちていった。
翌朝、二人の行動に微妙な変化があった。
紗希はより一層真面目に仕事をこなし、大人っぽさを目指すようになった。
神崎は公私混同を避けるためか執事としての規律を一段と厳しく遵守するようになった。結果的に以前より仕事の効率が向上したのは皮肉と言うべきか。
しかし内心では紗希の魅力に日々翻弄されている自分をどうにもできない苛立ちがあった。
(一体何をすれば私自身を律することができるのだろう……)
悩みながらも日々の業務に没頭するしかない神崎だった。
一方の紗希は神崎との仲を進展させる術を探しながらも子供らしい無邪気さを失わずにいた。
(神崎さんが認めてくれるような素敵な女性になりたいな……)
二人はそれぞれの想いを秘めながら日常に戻っていった。表面上は何事もなく平穏な日々が続いていたが……彼らの心には新たな波紋が生まれつつあったのである。
特に神崎は18歳になるまでの期間限定の自制をどこまで貫き通せるかに不安を覚える一方で、紗希が求めてくる可能性が高い事態を予感していた。
紗希はこの日もいつも通りに仕事に励んでいた。全てが充実しており神崎の存在があるだけで活力が湧く日々であった。
「神崎さん……今度はいつ会えるのかなぁ……」
夜になり自室に戻った彼女が独り言ちる。先日の密会以来一週間が経過していたが私用で二人きりになる機会は一度もなかった。
勿論仕事上では頻繁に接点はあるもののお互いプロフェッショナルとして振る舞う為、会話は最低限である。
(神崎さん……疲れているみたいだけど大丈夫かなぁ……)
ここ数日神崎が仕事に集中するあまり少し痩せた気がしている。
「心配だなぁ……」
一方の神崎もまた紗希を想いながら仕事を抱えていた。今日も執務室に籠もりっぱなしで深夜遅くまで残業をしている。
「紗希さんの誕生日まであと半年か……」
カレンダーを見ながら呟く。彼女の成人までどうやって自制するか考えただけで頭痛がしてくる。
結局答えは出ないまま神崎は眠りについた。




