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痛みと想い

それからしばらくの間、神崎は極度の多忙が続き、孤児院を訪れる事ができなくなり、紗希は寂しさを募らせていた。


(もう一ヶ月も、仕事以外でお話できてない…もしかして、もう…)


紗希は深い溜息とともに食堂の片隅に佇んでいた。窓ガラスに映る自分の顔はどこか冴えず、いつもの活気を失っている。


(もう一ヶ月近く……仕事の指示で一言二言交わすだけで……)


左手首に着けた神崎からの腕時計をそっと撫でるが、文字盤の規則正しい秒針の音が今は彼との距離を痛感させるだけだった。


夜、寮のベッドで眠りにつこうとしても、「もう飽きられたのではないか」「仕事ばかりで忘れられてしまったのではないか」という不安が渦巻き、なかなか寝付けない日々が続いていた。


そんな精神的な落ち込みが現実世界でも影響を及ぼし始めたのは必然だった。


ある晩餐会での出来事。いつもならば完璧に把握している給仕順序を混乱させたのだ。

客の目もある中で、紗希は青ざめた顔で頭を下げた。


「申し訳ございません!すぐに……」


手が震える。動揺は次のミスを呼び寄せた。慌てて運ぼうとしたシルバートレイが傾きかけた瞬間、神崎が静かに現れ、寸前でそれを制した。


「危ない。お客様の安全第一です。……こちらをお願いします」


神崎は落ち着いた声音で紗希に指示し、他のメイドに代わりの給仕を命じた。

その冷静な対応は紗希にとって救いであると同時に、己の未熟さを突きつけられるものだった。紗希は深く頭を垂れたまま動けなかった。


終礼。いつものように整列したメイドたちの前に立つ神崎の表情は厳しく、張り詰めた空気が漂っている。


「本日の業務報告は以上です。……次に、今日のお仕置きは……」


一斉に集まる視線。紗希は唇を噛み締めた。


「真奈美さん、紗希さん。本日の晩餐会での不注意により給仕に重大な支障をきたしました」


淡々と読み上げられる宣告に、メイドたちの間で小さく息を呑む音が響く。特に新人メイドたちは恐怖に顔を引き攣らせていた。


「はい……申し訳ございませんでした……」

紗希の声は震えを帯びていたが、何とか返事を絞り出す。


詩織は隣で心配そうに紗希を見つめ、他の同僚たちも同情の眼差しを送っていた。


「では二人とも、前に出て。壁に向かって立ちなさい」


真奈美が壁に向かい、躊躇いがちに制服のスカートを捲り上げた。白いレースのショーツが露わになると、ホールはより一層の静寂に包まれた。神崎は手に持っていた革製の鞭を軽く構える。


「では行きます」


宣言とほぼ同時。風を切る鋭い音が響き、バシッと乾いた打擲音がそれに続いた。真奈美の背中が弓なりに反り、小さな悲鳴が上がる。その場にいた全員が息を殺した。


「次。紗希さん」


名を呼ばれ、紗希はびくりと肩を震わせた。震える足で壁際に進み、スカートの裾に手をかけた。羞恥と恐怖がないまぜになり、涙が滲みそうになるのを必死で堪える。


覚悟を決め、スカートを腰まで引き上げた瞬間、神崎の目が僅かに細められた。一瞬、視線が合ったような気がした。


(怒っている……当然だよね……私があんなミスをしたせいだし……)


神崎が鞭を構える。肌寒い空気が太ももを撫でる。静寂の中で自分の鼓動だけがやけに大きく聞こえる。


――バシィン!


先程と全く同じタイミングで飛んできた鞭が、紗希のお尻に振り下ろされた。


下着の上からとはいえ、鋭い痛みがお尻に走り、紗希の喉からも「くぅっ……!」と詰まったような声が漏れる。神崎の鞭には容赦がなかった。


(痛い……けど……)


しかし紗希が感じたのは単なる物理的な痛みだけではなかった。


鞭を握る神崎の腕の動き、息遣いの気配が至近距離で感じられると、なぜか胸の奥が締め付けられるような感覚に襲われる。

羞恥と苦痛の嵐の中で、奇妙な安堵感と満たされるような感覚が錯綜していた。


(どうして……? 痛いのに……嬉しい……?)


自問しても答えは出ない。ただ視界の端で、詩織が心配そうな顔で口元を押さえているのが見えた。



「以上です。解散」


神崎の低い声で現実に引き戻された。鞭がケースに収められる硬い音が響き、メイドたちはホッとした様子でざわつき始める。


「はい。申し訳ございませんでした。以後気をつけます」

紗希はまだ痛みの残るお尻を軽く抑えながら頭を下げた。


神崎はそれを一瞥しただけで何も言わず、踵を返してホールを後にしていった。遠ざかる後ろ姿を見送りながら、紗希は複雑な感情に支配されていた。


(神崎さん……)


お尻の鈍い痛みと、胸の奥で燻る名前のつかない感情が混ざり合い、思考はまとまらない。


「紗希ちゃん!」


メイド仲間が近づいてきた。特に詩織は真っ青な顔をしている。


「大丈夫?凄い音したけど……」

「う……うん。大丈夫…」


強がってみせたものの、打たれたお尻がズキズキと熱い熱を持っているのがわかる。


神崎の姿が視界から消えると、突然紗希の目からボロボロと大粒の涙が溢れ出した。


「紗希ちゃん!無理しないで。早く医務室で手当てしよう?」


「…ありがとう…でも…平気…」

紗希は微笑んでみせたが、内心は動揺が収まらなかった。


詩織は強がる紗希を無理に引っ張って、美奈子の医務室を訪れた。

「美奈子先生!紗希ちゃんが…!」


詩織から事情を聞いた美奈子は、未だに涙を止められない紗希を優しく迎え入れた。


「それじゃ、私は先に食堂で席を取って置くからね」

気を利かせた詩織は、紗希を美奈子に預けて医務室を後にした。



「紗希ちゃん…辛かったわね…」


お仕置きはただでさえ痛くて辛いものなのに、それが恋焦がれる相手からだなんてどんなに辛く悲しい事だろうか。


「…いいえ…大丈夫…です…」


「…まずは、お尻を診せて。薬を塗りましょう」


薬、と聞いて紗希は首を横に振った。


「どうして?前にも使った薬よ。少しは痛みが和らぐんだから」


「…痛いままでいいんです……」


紗希は涙を手の甲で拭い、恥ずかしそうに美奈子に告げた。


「え?それはどういう…?」


「……お尻に痛みが残ってるうちは…神崎さんと…繋がってる感じがするから…」


「紗希ちゃん!そんなに神崎さんの事が…」


紗希の健気な想いに美奈子は絶句した。


「泣いてしまってごめんなさい…痛くてじゃなくて…なんか気持ちがぐちゃぐちゃで…」


「紗希ちゃん、良かったら何でも話してみて。少しは気持ちが楽になるわよ」


「…美奈子先生……」


紗希は美奈子に、神崎とずっと話せていない事や、お仕置きとはいえ神崎を近くに感じられて嬉しかった事を打ち明けた。


「それにしても、1ヶ月も彼女を放っておくなんて…神崎さんは忙し過ぎね」

紗希の話に、美奈子はため息をつきながら同情した。


「でも、神崎さんが忙しいのは最初からわかってた事だし…寂しいけど頑張ります。美奈子先生、今日の事、神崎さんには秘密にして下さいね」


話す事によって落ち着きを取り戻した紗希は、恥ずかしそうに美奈子に告げた。


「神崎さんのお仕事の邪魔になりたくないんです。私には何もできないけど、せめて負担にならないようにしたいから…」


「紗希ちゃん…わかったわ。あまり無理をしないでね。またいつでも相談してね」


「はい、ありがとうございました」


美奈子から念の為に渡された薬を手に、紗希は医務室を後にした。


その夜遅く、紗希は自室のベッドで一人横になっていた。痛みはもうだいぶ引いていたが、神崎の鞭の感触と、あの時感じた不可解な高揚感が何度も蘇り、眠れないでいた。


(どうしてこんな気持ちになっちゃうんだろう……)


天井を見つめながら考え続けるが答えは出ない。

枕を抱きしめると、涙が滲んできた。それは痛みからではない。


自分でも理解できない感情と、神崎との距離が遠いままの現状への哀しみが入り混じった涙だった。

紗希は嗚咽を漏らしながら、やがて疲労困憊のあまり眠りに落ちていくのだった。


翌朝。起床した紗希は鏡に映る自分と対峙した。目の下には薄い隈ができていたが、昨晩の痛みはほとんど消えている。


(あれだけ痛かったのに……)


少し寂しく思ったが、考えていても仕方がない。朝礼が始まる頃には職務への集中力を切り替えなければならない。

昨夜感じたあの異様な満たされ感については誰にも打ち明けられなかった。


その日も忙しい一日が始まり、昼過ぎに別棟の廊下で神崎とすれ違った。お互い短い挨拶だけを交わし、視線も合わせない。しかし紗希の胸には確かな鼓動が走った。


(今日も神崎さんは凛としている……)


背筋が伸びる思いと同時に昨晩の鞭の感触がお尻に甦る。


(ダメだ。意識しちゃダメだ!)


頬を両手で軽く叩く。平常心を取り戻そうとしたが、鼓動は早まるばかりだった。   



その後、神崎は執務室で大量の書類仕事を前に苦悩していた。


メイドの粗相を罰するのは、執事に課せられた重要な仕事である。


しかし、今や特別な存在となった紗希を鞭打つのは神崎にとって身を切るような苦しみを伴う事であった。そもそも紗希がミスをおかしたのは、精神的に不安定になっているせいで、その原因は恐らく自分にあるのだ。


繁忙期であることはわかっていたが、ここまで時間を割かれてしまうとは思わなかった。最近は孝一郎の事業拡大に伴う準備が多く、個人的な時間は著しく減少している。


(紗希さんに会いたい。声を聞きたい。話がしたい)


窓の外の空を見つめる。しかし彼の机上のカレンダーは数々の打合せと仕事の予定で埋め尽くされていた。


(あと1週間……いや3日で何とか……)


己を叱咤激励しペンを走らせる。彼の胸中は紗希への想いと責任感の狭間で揺れ続けていた。


(やはり今夜、話だけでも…紗希さん……待っていて下さい……)



夕暮れ。黄昏に染まる窓辺で、紗希は神崎が贈ってくれた左手首の腕時計に指を這わせた。


「神崎さん……」


同じ屋敷にいるのに、どうしようもなく遠く感じる。誕生日の遠出がまるで夢だったかのような気がしていた。


その夜、終礼を終えた紗希の元へ神崎が近寄ってきた。


「紗希さん……少し良いでしょうか」


紗希の心臓が飛び跳ねた。今まで仕事以外のことで神崎から声をかけられたのはこれが初めてだった。


「は……はい!」


神崎は誰もいないホールの隅の小部屋へ紗希を導いた。ここは、説教や軽いお仕置きによく使われる部屋で、紗希が初めてお仕置きを受けた場所でもある。


二人きりになると途端に静寂が重くなる。


「昨日のお仕置きの件ですが……」


「え……!」


思わず飛び上がりそうな紗希を神崎が慌てて制した。


「いえ、叱責ではありません。謝罪させて下さい」


「え……?」


「…通常よりも厳しく打ってしまったように思います。貴女を打ちたくないのに、特別扱いできないという葛藤から加減がうまくいかず…申し訳ありませんでした」


深々と頭を下げる神崎に紗希は狼狽えた。


「そ……そんな……謝らないで下さい!私がミスしたのがいけないんですから!」


必死に頭を上げるよう懇願する紗希を制し、神崎は静かに続けた。


「最近忙し過ぎて時間が取れず、あなたが精神的に不安定になっているのに気付きながら何もできず…そのこともお詫びします」


神崎の言葉に紗希の目が潤んだ。


「……違うんです。神崎さんは悪くない……」


「いえ……これからは可能な限り時間を作りますので……もう少しだけ……」


神崎の言葉を遮り紗希は叫んだ。


「ごめんなさい!神崎さんは忙しくて大変なのに私の方こそ迷惑かけてばかりで……すみません……」


涙声で謝る紗希に神崎は優しく首を振った。


「迷惑などではありません。貴女は一生懸命に働いていますよ」


「神崎さん……」


「今は業務の谷間なのですが……もし宜しければ今夜……」


言いかけた神崎の言葉に紗希の期待が膨らむ。


「夜更けになりますが……屋敷の裏庭まで来ていただけますか?」


紗希は強く頷いた。

「はい!お待ちしています!」


ほんの数分の会話だったが紗希にとっては天にも昇る心地であった。



深夜0時。月明かりが芝生を優しく照らす庭園。約束の時刻ぴったりに神崎が現れた。執事の制服を脱ぎラフなシャツ姿。それでも十分に魅力的な立ち姿に紗希は息を呑んだ。


「来てくれましたね」


神崎は微笑みながらベンチを勧めた。


「お待たせして申し訳ありません」


「いいえ!私の方こそ……」


言いかけた紗希の手を神崎がそっと握った。久しぶりの温もりに涙がこぼれる。


「……寂しい思いをさせてすみませんでした」


「私こそ……わがまま言ってしまって……」


お互いに謝り合うやりとりが何故か可笑しくて二人で微笑み合う。


「……少し歩きませんか」


神崎に手を引かれ月光の下を二人で歩く。紗希の心は今宵一番の星空のように輝いていた。


「……本当は毎日でも会いたいんです」


「私も……でも……お仕事が……」


「ええ…だからこそ……こうして貴女の手を握れる幸せを感じています」


神崎の言葉に紗希の胸がいっぱいになる。


(神崎さん…やっぱり大好き…神崎の気持ちが知りたい…)


「神崎さん……」


「なんですか」


「…私の事……今も…好き……ですか?」


躊躇いながらも勇気を出して尋ねる紗希に神崎は優しく微笑んだ。


「もちろんです。そうでなければわざわざ夜更けに呼び出したりしませんよ」


「嬉しい……私も…好き…です…」


神崎の大きな手が紗希の頬に触れる。吐息がかかる距離で見つめ合う二人。互いの心臓の音まで聞こえそうだ。


「紗希さん……」


神崎の声がさらに甘くなる。


「ずっとこうしていられたらどんなにか…」


どれだけの時間、そうして見つめ合っていただろうか。ついに神崎が諦めたように告げた。


「……そろそろ休まなければなりませんね」


名残惜しそうに離れる神崎の腕に紗希は縋るように視線を投げかけた。


「明日も頑張りましょうね」


「はい!」



夜風が二人を包む。別れ際、神崎が紗希の額にごく軽く、触れるか触れないかのキスを落とした。


「あっ…」


突然の意外過ぎる行為に、紗希は大きく戸惑うと共に、初めての口づけに胸がいっぱいになった。


当の神崎は、余りに自然に行ってしまった自分の行為に著しく狼狽した。


「す、すみません…つい……」

顔を赤らめて、申し訳無さそうにうつむく。


「いいえ!すごく…嬉しいです…」

紗希は心底嬉しそうに、笑顔を浮かべ神崎を見上げた。


(紗希さん…そんなふうに微笑まれたら…もう自分を抑え切れる気がしません…)



「もう…休みましょう。おやすみなさい」


「おやすみなさい……神崎さん……」

紗希は額に残る余韻に浸りながら自室へ戻っていった。



紗希が部屋へ向かった後、神崎はベンチに戻り天を仰いだ。


(18才になるまで待つと言いながら、額とはいえキスしてしまうなんて……紗希さんを驚かせてしまった……)


唇が触れた感触を思い出し、胸の内は複雑な感情で渦巻いている。


「紗希さん……貴女はどう思ってくださったのでしょうか……」


その問いかけに答える者はいなかった。ただ静かな夜が神崎を包み込んでいた。


紗希は自室のドアを閉めた瞬間、膝から崩れ落ちそうな衝動に駆られた。(さっき額に……)


熱を持った部分をそっと指で辿る。神崎の吐息の温度まで鮮明に蘇ってくる。


(どうしよう……こんなにドキドキするなんて……)


動悸は収まらず全身が火照る。先程までの数分間が信じられないほど現実味を帯びていない。


(これからどうなるんだろう……神崎さん……)


期待と不安が渦を巻く。布団の中に潜り込んでも一向に寝付けない。明日も仕事があるというのに。



一方の神崎もまた眠れぬ夜を過ごしていた。


(紗希さんにあんな大胆なことを……)


額とはいえ、口づけしてしまうとは…何もしないと約束したのに台無しだと自省する。そして止められなかった己の理性の弱さに頭を抱える。


これで距離が縮まったのか離れてしまったのか測りかねていた。


「もう少しだけ時間をください……必ず答えを出します」


暗闇に向かい誓うように呟く。神崎もまた長い夜を過ごす羽目になった。



翌朝。紗希は寝不足の顔で仕事場へ赴いた。瞼は重く足取りは重い。だが胸の中は暖かいもので満たされていた。額の感触を思い出すたび頬が緩むのを止められない。


「紗希ちゃん?なんか嬉しそうだけど何かあったの?」

詩織が鋭く勘ぐる。


「な……何でもないよ!」

慌てて誤魔化す紗希だったが耳まで赤くなっていた。

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